高校の入学式で新入生代表として挨拶をするように依頼があったのは三月の半ばのこと。
 中学を卒業し、春休みを満喫している中……具体的には、部屋でベッドに寝転びながら本を読んでいたときに、電話がかかってきた。
「由衣、電話」
「はーい」
 リビングでは、お母さんが眉間にシワを寄せて立っていた。
「なんか、変な男からなんだけど。あんた男友達いる?」
「いるわけ無いでしょ」
 女友達だっていないのに。お母さんもそれを知っていて言っている。
「なら、やっぱり変よね。気をつけなさい。住所とか言っちゃダメだからね。変だと思ったら電話切りなさいよ」
 お母さんは、何か汚らわしいものを持つように、親指と人差し指の二本で受話器を摘まんで、私にそれを渡した。すると、さっさとソファーに座って、テレビで昼のワイドショーを見始めた。
 男からって、そもそも名前は? 聞きそびれたが、電話の向こうの相手に直接聞いた方が早い。受話器を耳に当てると、聞き覚えのない男の声が聞こえた。
『ええ、間瀬と言います』
 ヤバい電話かと思った。知らない男が名乗り始めたら怪しむでしょ? 良識のある大人なら、まず自分の素性を明かすものだ。電話を切ろうかとも思ったが、一言だけ断っておこう。
「誰ですか、あなたは? 切りますよ」
『名乗ったのに、誰ですかはないだろ。……高瀬由衣だな? 担任の間瀬健次郎だ』
「担任の先生はそんな名前じゃありません。それに女性です」
『すまない。言葉足らずだった。来年度、愛崎高校一年A組の担任を務める、間瀬健次郎だ。高瀬はA組。俺の受け持つ生徒の一人だ』
 A組は初耳だが、愛崎高校は私が四月から通う予定の高校。どうやら本物の教師のようだ。
「分かりました。信じます。間瀬先生、何の用でしょうか?」
『高瀬に頼みたいことがあるんだが、断らないでくれよ』
「それは内容次第です」
『入学式で、新入生代表として挨拶をしてほしい。もちろん、台本は用意されていて、当日も読み上げればいい。何も難しいことじゃないんだ』
 新入生代表の挨拶と言えば、体育館の壇上に上がり、校長の前でお決まりの言葉を読み上げるアレだ。面倒だな。
「なんで私なんですか?」
『入学試験の成績が優秀だったから。高瀬が断れば、他の生徒に頼むことになる。だが、どこからか高瀬が断ったらしいという噂が流れても俺は知らない』
 は? この教師、脅しているのか。そんな噂が流れれば、私が嫌みな奴みたいじゃないか。
「分かりました。引き受けますよ。安心してください」
『それは助かる。他の生徒に頼むのも面倒だからな。それじゃあ、入学式の前日に学校に来てくれ。練習くらいはしておきたいだろ?』
 日時の詳細、当日の持ち物も教わり、電話を切った。
 練習なんていらない。間瀬も台本を読み上げるだけだと言ったではないか。わざわざ春休みを消費してまでやることか?
 煩わしい仕事を引き受けてしまった。
 脅されたことは絶対に忘れない。
 変な教師に当たってしまった。

 入学式前日に高校に行くことは憂鬱だった。春休みが一日減るからだ。それに加えて、あの胡散臭い担任教師、間瀬健次郎に会うことになる。
 天気予報では今晩から雨が降るという。今朝は雲が少しあるものの青空が広がっていた。
 私は同級生よりも一足先に制服に袖を通して登校する。鏡の前に立つ。見慣れない姿を見て、似合っていないと感じるが、そんなものだろう。中学の入学時も同じことを思った。
 自転車を漕いで学校へ向かう。籠の中には通学バッグが一つ。校内で使用するスリッパや体育館シューズ、筆記用具が入っている。練習は午前中に終わると聞いているので、雨の心配も無いだろう。通学ルートを確認しながら、学校へ向かう。幹線道路に沿って走れば学校の近くまで辿り着くので、難しい道ではない。入学試験のときにも通った道なので、迷わずに到着した。学校の駐輪場には数台の自転車が置かれている。先輩方が部活動のために登校しているのだろう。立派なことだ。
 昇降口にはクラス分けの表がすでに貼り出されていた。その表から自分の名前を見つけ出すのは簡単だった。間瀬からA組だと教わっていたから。A組の教室に行き、自分の席を確認する。明日からここで過ごすことになる。教室の真ん中の席だった。
「変なやつがいないといいけど」
 私からは関わることはしないから、私に関わろうとしないでくれ。
 それだけが願いだった。
「高瀬由衣か?」
「はい」
 席に座って待っていると、茶色のスーツ、無精ひげの男が現れた。シャツも撚れているし、だらしなさが目立つ。彼が間瀬健次郎だろうか?
「担任の間瀬だ。よろしく」
 電話越しに感じたイメージにぴったりの容姿だった。
「高瀬由衣です。よろしくお願いします」
「おう。春休みだっていうのに、来てもらって悪いな。これ、台本ね」
 渡されたのはペラペラな紙一枚。台本と言うから身構えていたが、新入生代表の挨拶を思い浮かべれば、このボリュームであることは明白だった。
 三つ折りされた紙を開く。プリントされた文字を目で追う。難しい漢字もなければ、長くもない文章。この内容なら苦労せずに読み上げられるだろう。
 体育館へ移動すると、教師と生徒数名が生徒や保護者の座るパイプ椅子を並べ始めているところだった。駐輪場にあった自転車はこの人達のものかもしれない。
 舞台中央に最も近い席の前で、間瀬は説明を始めた。
「高瀬は、この席に座ってもらう。クラス毎、学籍番号順に並んで新入生は入場するが、高瀬はクラスの一番後ろに並んでくれ。そうすれば、この席に座ることになる。教頭が司会進行を担当しているから、名前を呼ばれたら返事をして立ち上がる」
 その後、各方面へ礼をして、壇上に上がり……と一連の動きを教えられた。礼をすることを忘れなければ問題はないなと感じ、「分かりました。問題ありません」と間瀬に言うと、練習をした。一度だけ。
「良いんじゃないか。終わるか」
「えっ、終わりですか?」
「ああ、今の通りに明日もやってくれれば問題は無い。よくできていたぞ」
「……もっとこうしろとか無いんですか?」
「代表の挨拶なんて、出来が悪くなければそれでいい。上手くできたところで誰も何も言わんが、出来が悪いとお偉いさん達が五月蠅い。そんなものだ。単なる通例の儀式みたいなものだからな。そう気を張るな」
 と言ってリハーサルは終わった。たった一度読み上げただけで味気なかった。
 代表の挨拶に対して、張り切っているわけでも、不安なわけでもなかった。ただ、この先一年、彼の指導の下にいると思うと不安ではあった。このいい加減な教師で大丈夫だろうか。