「陽菜子、顔色悪いけど、大丈夫?」
月曜日の朝、お母さんに心配されてしまった。
「大丈夫だよ」
それ以外に返す言葉はなく、私は傘を持って家を出た。
今日も雨だ。午後からは晴れるという予報だけれど、それを疑いたくなるほどに土砂降りだった。今日はいつもよりも一時間早く家を出る。「そんな気分なの」とお母さんには言った。心配そうな顔をしていたけれど、こうして送り出してくれる。六時に家を出れば七時前には学校に到着する。校門が開いているのか怪しい。しかし、由衣と同じバスで登校するわけにはいかなかった。この時間ならば、彼女と鉢合わせすることはないだろう。
駅には、まだバスは到着しておらず、構内で待った。早朝の冷たい空気に混ざって、雨の湿気が私を包む。いつもとは違う空気が、罪悪感と寂しさを運んでくる。
人の数はいつもより少ない。足音や話し声が聞こえなかった。雨音と、遠くで聞こえる電車のアナウンス。いつもはこんなにも聞こえないのに。
ピチャッ、ピチャッと足音が聞こえた。水が跳ねる音。私はこの音が好きだった。晴れの日のコツコツという乾いた音も悪くは無いが、高い音を鳴らず水の存在が、私は好きだった。
その足音は近づいてきて、私がその主に気が付いたときには、腕を捕まれていた。
「こんなに朝早くから、どうしたの? 今、学校に行っても開いてないでしょ」
「……なんで」
えっ、何で? 何で由衣がいるの? いつもは私よりも遅くに駅に到着し、バスに乗車する由衣が、この時間にいるはずがなかった。
「私の質問に答えてもらっていないんだけど」
「ごめん」
「金曜から様子がおかしい。帰りだって私を避けるようにしていた」
「避けてないよ」
「嘘。何も言わずに一時間も私を待たせたくせに、何を言っているの」
「ごめん」
「……ごめん、違うの。そんなことを怒っているわけではなくて。今思えば金曜の午後から陽菜子の様子はおかしかった。挙動不審というか。もしかして、体育の授業で早川さんに何か言われたの?」
「違う。千尋は悪くない。私が悪かったの」
私が千尋に上手く話ができなかったから、怒らせるような結果になってしまったのだ。千尋は悪くは無かった。
「じゃあ、何? 何で私を避けているの?」
それは言えない。
早朝の学外。今ここでは城ヶ崎の目も届いていないだろう。だが、ここで話し、由衣が城ヶ崎に事実を問いただしたら、その後はどうなる? 城ヶ崎は私達と違って手駒が多い。本気になれば私達なんてすぐに潰されてしまう。
最悪の状況ばかり頭に思い浮かんだ。
言えなかった。私は喉まで出かかった言葉を飲み込むほか無かった。
「避けてない。いつも通りだよ。今日だって、ちょっと早く学校に行きたい気分だっただけで。ごめんね、何も連絡していなかったのは謝る。ほら、バスも来たし行こう」
同じバスに乗って、いつもと同じように座った。由衣と談笑することもなければ、手を繋ぐこともなかった。ただ静かな時間を過ごすだけだった。
バスを降りて、傘を開く由衣。私はその後に続くわけにはいかなく、降りた瞬間に学校とは逆方向へ走った。傘で視界は遮られ、雨音で足音も消える。由衣に気付かれることは無いだろう。私はただひたすらに逃げた。万が一にも由衣と一緒にいるところを見られるわけにはいかなかった。心が押し潰されていく感触に耐えられず、一人になりたかった。由衣と一緒にいれば楽になると考えたが、二人でいると今まで以上に辛くなった。
どんどん……どんどん、心が潰されていく。
傘を片手に走り続けた。息が苦しく、足も痛い。学校から随分と離れた場所までやってきていた。足を止めて振り返ると、当然由衣の姿はなく、雨は激しさを増していた。
雨で濡れた靴下は重く、スカートが触れる度に氷のような冷たさが腿に伝わった。
私は始業のチャイムが鳴るギリギリの時間に教室に入った。いつもならば誰よりも早く私は登校しているのに、今日は誰よりも遅い時間だった。「今日はどうしたの?」と声を掛ける生徒はいない。隣の席の千尋は一度もこちらに目を向けず、普段関わりの少ないクラスメイトと楽しげに話していた。由衣も私のことは気に留める様子はなく、いつも通り一人で本を読んでいた。
予想していた通りの教室の風景。私はまんまと城ヶ崎の手口に填まり、一人になっていたのだ。由衣はこんな世界を見続けていたの?
「ほら、都築、席に着け。ホームルーム始めるぞ」
間瀬の言葉ではっとなり、肩からバッグを下ろして、席に着く。急いで用具をバッグから机の中へ移し替えた。間瀬が連絡事項を話していたが、何一つとして頭に入ってこなかった。
「――」
何か間瀬が話している。ダメだ、全然集中できない。雑談が雑音として耳に届く。ホームルームが終わったのか。
「おい、都築」
えっ? 呼ばれてる?
「は、はい」
「ボーとしてるんじゃないぞ」
「すみません」
「このあと、ちょっと来い」
「はい」
私は廊下に呼び出された。もうすぐ一時間目の授業が始まるというのに、何だろう。教師に呼びだされるなんて。他人の注目を集めることは嫌だった。
「お前、何かあったのか?」
開口一番に間瀬が口にした言葉はそれだった。間瀬が私のことを心配することはあり得ない。木崎さんの話からも間瀬は特定の生徒に肩入れすることを嫌っているはずだ。鳥肌が立った。ああ、あの人は、木崎さんは早速間瀬に連絡したのだ。予想していた通り、「何かあったみたい」とでも言ったのだろう。余計なお世話だ。
「木崎さんですか? 告げ口をしたのは」
「は? 何のことだ」
本当か? ただ彼女を庇っているだけに見えた。
「何も困っていないならいいが、困ったことがあれば早く言えよ」
「面倒事は嫌だったんじゃないですか?」
「だから、困ったら言えと言っている。大人だって、何だってできるわけじゃない。限界はある。手を差し伸べることはできるが、掴むかはお前次第だ。取り返しの付くうちにSOSを出しておけよ」
後ろから視線を感じた。全て話してしまいたいけれど、誰かがこちらをじっと見つめている。城ヶ崎は思っていた以上に用意が周到で、粘着質だった。一体、教室にはいくつの目と耳が存在しているのか。それを計り知ることはできない。だからこそ、大人しくしているしかないのだ。
月曜日の朝、お母さんに心配されてしまった。
「大丈夫だよ」
それ以外に返す言葉はなく、私は傘を持って家を出た。
今日も雨だ。午後からは晴れるという予報だけれど、それを疑いたくなるほどに土砂降りだった。今日はいつもよりも一時間早く家を出る。「そんな気分なの」とお母さんには言った。心配そうな顔をしていたけれど、こうして送り出してくれる。六時に家を出れば七時前には学校に到着する。校門が開いているのか怪しい。しかし、由衣と同じバスで登校するわけにはいかなかった。この時間ならば、彼女と鉢合わせすることはないだろう。
駅には、まだバスは到着しておらず、構内で待った。早朝の冷たい空気に混ざって、雨の湿気が私を包む。いつもとは違う空気が、罪悪感と寂しさを運んでくる。
人の数はいつもより少ない。足音や話し声が聞こえなかった。雨音と、遠くで聞こえる電車のアナウンス。いつもはこんなにも聞こえないのに。
ピチャッ、ピチャッと足音が聞こえた。水が跳ねる音。私はこの音が好きだった。晴れの日のコツコツという乾いた音も悪くは無いが、高い音を鳴らず水の存在が、私は好きだった。
その足音は近づいてきて、私がその主に気が付いたときには、腕を捕まれていた。
「こんなに朝早くから、どうしたの? 今、学校に行っても開いてないでしょ」
「……なんで」
えっ、何で? 何で由衣がいるの? いつもは私よりも遅くに駅に到着し、バスに乗車する由衣が、この時間にいるはずがなかった。
「私の質問に答えてもらっていないんだけど」
「ごめん」
「金曜から様子がおかしい。帰りだって私を避けるようにしていた」
「避けてないよ」
「嘘。何も言わずに一時間も私を待たせたくせに、何を言っているの」
「ごめん」
「……ごめん、違うの。そんなことを怒っているわけではなくて。今思えば金曜の午後から陽菜子の様子はおかしかった。挙動不審というか。もしかして、体育の授業で早川さんに何か言われたの?」
「違う。千尋は悪くない。私が悪かったの」
私が千尋に上手く話ができなかったから、怒らせるような結果になってしまったのだ。千尋は悪くは無かった。
「じゃあ、何? 何で私を避けているの?」
それは言えない。
早朝の学外。今ここでは城ヶ崎の目も届いていないだろう。だが、ここで話し、由衣が城ヶ崎に事実を問いただしたら、その後はどうなる? 城ヶ崎は私達と違って手駒が多い。本気になれば私達なんてすぐに潰されてしまう。
最悪の状況ばかり頭に思い浮かんだ。
言えなかった。私は喉まで出かかった言葉を飲み込むほか無かった。
「避けてない。いつも通りだよ。今日だって、ちょっと早く学校に行きたい気分だっただけで。ごめんね、何も連絡していなかったのは謝る。ほら、バスも来たし行こう」
同じバスに乗って、いつもと同じように座った。由衣と談笑することもなければ、手を繋ぐこともなかった。ただ静かな時間を過ごすだけだった。
バスを降りて、傘を開く由衣。私はその後に続くわけにはいかなく、降りた瞬間に学校とは逆方向へ走った。傘で視界は遮られ、雨音で足音も消える。由衣に気付かれることは無いだろう。私はただひたすらに逃げた。万が一にも由衣と一緒にいるところを見られるわけにはいかなかった。心が押し潰されていく感触に耐えられず、一人になりたかった。由衣と一緒にいれば楽になると考えたが、二人でいると今まで以上に辛くなった。
どんどん……どんどん、心が潰されていく。
傘を片手に走り続けた。息が苦しく、足も痛い。学校から随分と離れた場所までやってきていた。足を止めて振り返ると、当然由衣の姿はなく、雨は激しさを増していた。
雨で濡れた靴下は重く、スカートが触れる度に氷のような冷たさが腿に伝わった。
私は始業のチャイムが鳴るギリギリの時間に教室に入った。いつもならば誰よりも早く私は登校しているのに、今日は誰よりも遅い時間だった。「今日はどうしたの?」と声を掛ける生徒はいない。隣の席の千尋は一度もこちらに目を向けず、普段関わりの少ないクラスメイトと楽しげに話していた。由衣も私のことは気に留める様子はなく、いつも通り一人で本を読んでいた。
予想していた通りの教室の風景。私はまんまと城ヶ崎の手口に填まり、一人になっていたのだ。由衣はこんな世界を見続けていたの?
「ほら、都築、席に着け。ホームルーム始めるぞ」
間瀬の言葉ではっとなり、肩からバッグを下ろして、席に着く。急いで用具をバッグから机の中へ移し替えた。間瀬が連絡事項を話していたが、何一つとして頭に入ってこなかった。
「――」
何か間瀬が話している。ダメだ、全然集中できない。雑談が雑音として耳に届く。ホームルームが終わったのか。
「おい、都築」
えっ? 呼ばれてる?
「は、はい」
「ボーとしてるんじゃないぞ」
「すみません」
「このあと、ちょっと来い」
「はい」
私は廊下に呼び出された。もうすぐ一時間目の授業が始まるというのに、何だろう。教師に呼びだされるなんて。他人の注目を集めることは嫌だった。
「お前、何かあったのか?」
開口一番に間瀬が口にした言葉はそれだった。間瀬が私のことを心配することはあり得ない。木崎さんの話からも間瀬は特定の生徒に肩入れすることを嫌っているはずだ。鳥肌が立った。ああ、あの人は、木崎さんは早速間瀬に連絡したのだ。予想していた通り、「何かあったみたい」とでも言ったのだろう。余計なお世話だ。
「木崎さんですか? 告げ口をしたのは」
「は? 何のことだ」
本当か? ただ彼女を庇っているだけに見えた。
「何も困っていないならいいが、困ったことがあれば早く言えよ」
「面倒事は嫌だったんじゃないですか?」
「だから、困ったら言えと言っている。大人だって、何だってできるわけじゃない。限界はある。手を差し伸べることはできるが、掴むかはお前次第だ。取り返しの付くうちにSOSを出しておけよ」
後ろから視線を感じた。全て話してしまいたいけれど、誰かがこちらをじっと見つめている。城ヶ崎は思っていた以上に用意が周到で、粘着質だった。一体、教室にはいくつの目と耳が存在しているのか。それを計り知ることはできない。だからこそ、大人しくしているしかないのだ。
