裏方の仕事に集中していると余計なことを考えなくて済んだ。ある程度仕事を終えると、エプロンを外し、休憩に入る。店前の自販機で缶ジュースを一本買うと、
「あら、陽菜子ちゃんも休憩か」
 と木崎さんが現れた。
「お店の方はいいんですか?」
「大丈夫。客もそんなにいないし、店長がレジに入っているからね。休めるときに休ませてもらうよ」
 そんな大層なことが言えるほど、この書店は賑わっていない。
「木崎さんは間瀬先生とは、どんな関係なんですか?」
「いきなりだね」
「そうですか?」
「そうだよ。いいけど。ちょっと待って。……えっと、どれがいいかな」
 自販機のボタンを押すと、ゴトンという大きく重い音とともに缶コーヒーが落ちてきた。取り出すと、銘柄を私に見せて、
「私、これ好きなんだよね。無糖が好き。大人っぽいでしょ」
 と微笑んで見せた。出会ってからまだ日は浅いが、彼女の笑顔には二つある。無邪気な笑顔と、含みを持たせた笑み。今は後者で、スタッフルームでもそれと同じ顔をしていた。無邪気な振る舞いを見せる人なので、たまに冷たいものを感じると不気味さが際立った。
「このコーヒー、よく間瀬が買ってくれるんだよ。ただ、銘柄が同じでいつも有糖。私を子供だと思っているんだ。いつまでも年を取らないわけもないのに。それに砂糖ばっかり飲ませて、太るっての」
 カン! プシュッ! と甲高い音が続けざまに鳴った。
「間瀬のことは知っているよ。だって、あいつが初めて担任を持ったのは私のいたクラスだったから。今でこそ、のらりくらりと仕事を熟しているようだけど、あの頃はてんやわんやしていたのが生徒の目から見ても分かったよ」
 懐かしむ姿は、単に思い出に耽っているだけではない。他の意味があるようにも感じた。過去の美談では済まない出来事があったのだろうか。間瀬が特別な存在なのだろうか。憶測が頭の中を飛び交い、「どれも無粋だな」と思い、口にはしなかった。
「バイトのことを間瀬に言って、ごめんね。でも、悪くは思わないでよ。だって、悪いのは陽菜子ちゃんだし」
 と反論を許さなかった。
「そうですね。別に責めたいわけではないです。私もいつかはバレると思っていたので。ただ、不自然なくらいに早く見つかってしまったので、気になっていただけなんです」
「そう。それならいいけど。逆恨みされても困るなって」
「そんなに強気な態度は取れませんよ、私は」
「そう?」
 なんて言ったって私は弱気だから、先輩に刃向かうようなことは決してできない。もしも、そんなことができる後輩だと思われているなら心外だ。
 答え合わせができたので、満足だ。
 ただ先輩である木崎さんには、もう一つ聞いてみたいことがあった。
「間瀬は良い先生なんですか?」
「そうだよ」
「どんなところが?」
 私をちらっと見て、手元のコーヒーに目を落とした。
「まあ、いいか。話しても」
 そして、木崎さんは間瀬のことを話し始めた。

「どこから話そうかな。
 そうだね、私が入学した頃のことから話そうか。
 私が一年の時の担任は茶色のスーツの男でさ。入学式に茶色かよって思ったね。今でもはっきりと覚えてる。だって、他の先生は黒か紺だったから。目立っていたね。
 うちのクラスを受け持つのは大変だったと思うよ。問題児ばかりだったから。ほら、私のこの髪も高校の頃からだし。髪を染めるのは校則で禁止されているのに、この髪色って、バカだよね。私のいたクラスは、さぼって学校に来ない奴もいれば、私みたいに髪を染めている奴も何人もいた。警察沙汰になるようなことを起こすようなバカはがいなかったのは幸いかもね。
 あっ、もうコーヒーなくなっちゃった。ごくごく飲んだつもりはないんだけど。えっ、奢ってくれる? いやいや、後輩、しかも高校生に出させるわけにはいかないでしょ。話聞かせてもらっているからって……。そう、じゃあ、甘えさせてもらうね。さっきと同じ無糖コーヒーがいいな。あまり飲みすぎるとお腹が痛くなっちゃうんだけど、美味しくてやめられないんだよね。おっ、ありがとう。
 ええっ、どこまで話したっけ。そうだ、思い出した。
 担任の先生はサボっていたやつを学校に来るように説得をしたり、いじめがあれば主犯格を指導したり。そんなことをよくやっていたよ。でも、その正義感溢れる行動が一人の生徒に肩入れしているんじゃないかって、問題になったんだ。まあ、言い出したのはクラスの問題児だったから、目的は分かっていた。担任に迷惑をかけてやろうってこと。その生徒は普段から声が大きいやつで、クラスメイトへの影響力も大きかった。生徒がそんな苦情を伝えれば、他の教師達も無碍には扱えない。学校側の対応が遅いと言って、親まで出てくる始末だった。親まで? って驚くでしょ? 私も驚いたよ。初めに声を上げた生徒から伝播して、生徒達の親の耳に届いたんだろうね。大勢の親御さん達がクレームを入れたみたい。
 とはいえ、もちろん担任の教師は何をしたわけでもない。贔屓なんてしていないのは目に見えて分かっていたし、学校側も言い掛かりだと知っていたはずだ。だけど、事が大きくなりすぎた。学校側も誠意を見せなければいけなくなったんだ。そう、誠意。クレームを入れる親たちに対して、誠意という名のアピールをする必要があった。
 学校という場は平等であるべきだ。贔屓をする先生がいるのに指導も何もしない学校は何を考えているのか。
 そんなことを言われていたみたい。
 平等って何さ。笑っちゃうよね。学校側も担任に注意をしたみたいだけど、私は生徒のためを思ってやっているって聞かなかったみたい。バカだよね。そこで大人しく引き下がっていればいいのに。
 二年に上がるときに、その担任教師は学校からいなくなっていた。転勤したみたい。そんな追い出されるような仕打ちを受けるなんて理不尽だと思うよ。けど、あの人も不器用だったんだろうね。目を付けられたら大人しくすればいいのに。
 ん? その人が間瀬かって? 違う違う。そうだったら今、陽菜子ちゃんの担任をしているのは誰なのよ。その先生は……なんて言ったっけ。名前は忘れちゃった。間瀬とは違って真面目な人だったよ。
 間瀬の話を聞きに来たって? それは分かってる。ごめんごめん。ちゃんと間瀬も登場するからさ。間瀬は副担任だったんだ。だから、担任教師のやったきたことの一部始終を見ていた。学校にも弁解したみたいだけど、説得は上手くいかなかったんだろうね。間瀬も口が上手い方じゃないから。
 そして、私達が二年に上がったときの担任は間瀬だった。始業式の日に、面倒事は起こすなって私達に話したよ。教師の言葉とは思えなかったね。でも、その言葉が出るのは、あの担任教師の件があったから。間瀬は副担任をしていた頃はもっと熱心で……熱血教師ってわけではないけれど、生徒思いの先生だった。だけど、分かるでしょ? 生徒を思って行動した担任教師が生徒から裏切られているんだ。生徒のために何かをする意味ってあるのか? そう思っても仕方が無いと思う。青春ドラマみたいに現実は上手くいくわけではなくて、生徒から感謝どころか恨まれることもある。それを間瀬は教員生活一年目にして知ってしまったんだ。だから、今の彼は生徒に深く関わりたくない。でも、生徒は守りたいという思いもある。その矛盾が心にあるのだろうね。接触は最小限。問題になる前に対処し、問題を大事にしない。それが矛盾した考えを貫く間瀬のやり方なんだ。
 現に、陽菜子ちゃんだってそうでしょ? バイトすることは禁止されているはずなのに、謂わば間瀬は、見つからなければバイトをしてもいいと言っているようなものだ。禁止すると反発される。だから、明るみに出なければ、問題としないってこと。教師として、どうなんだろうね。校則を破っている生徒を見過ごすってことだから。それが間瀬の良いところでもあって、悪いところでもある。生徒がやりたいことをやらせているって側面もあれば、見過ごしているだけという側面もある。本来の教師なら、ルールを破る生徒を正さなければならないのに。
 そんな間瀬をどう思うかは陽菜子ちゃん次第なんじゃない?
 えっ、私が間瀬をどう思うか? 何度聞かれても答えは変わらない。間瀬は良い先生だ。生徒のことは考えているし。ほら、私が陽菜子ちゃんのこと、間瀬に連絡を入れたらすぐにここに来たでしょ。大事になると面倒だって間瀬は言うだろうけれど、他の先生に見つかる前に間瀬が対処してくれる。陽菜子ちゃん自身も処罰を受けることもない」

 アルバイトを終えて店を出ると、木崎さんの姿があった。自販機の前で誰かと話していた。相手は間瀬だった。何もやましいことはないのに、私は一歩戻って店の中に入った。ただ出ていくことが気まずかったのだ。木崎さんの話からすれば、ここで間瀬にあったところでアルバイトをしていることを言及されることもない。ただ、木崎さんが楽しそうに話していたので、邪魔してはいけないと思った。私が出ていくことで、話に水を差したり、割り込んだりしてはいけないと思ったのだ。
 私自身の名誉のために言っておくと、決して話を盗み聞きするつもりはなかった。不可抗力である。二人の会話を聞くことは私にメリットはない。このまま店内へ戻っても良いのだが、店長に事情を説明するのも憚られた。従って、この場に留まるほか無いのだ。二人に見つかっては言い訳のしようもないので、私は息を殺し、物音を立てないよう意識した。
 間瀬の声が聞こえてきた。
「都築は、まだバイトをしているのか?」
「うん、してる。週末の二日間ね。店長に言って、バックヤードの仕事をメインにしてもらっているよ」
「そうか。それならいい。他の教師や生徒に見つかると面倒だからな。問題になれば都築の保護者を学校に呼び出さないといけなくなる。停学、退学という話になると仕事も増える。入学早々やってくれるよな。……何か飲むか?」
「えっ、いいの?」
「情報提供料だ」
 ガタンと大きな音がした。
「ほら、木崎はコーヒーが好きだっただろ」
「……これ、めっちゃ甘いやつ」
「嫌いだったか?」
「いや、いいけど。でも、次は無糖にして。女の子に甘い物を与えておけば喜ぶと思ったら、大間違いだからね。甘い物は太る原因なんだから」
「分かった。気をつける」
 なんだか甘いやりとりだった。木崎さんは私と話していた時とは違い、相手に甘えるような、甘く撫でるような声色で、私は少しドキッとした。
 元担任と元生徒は、心の距離感がこんなにも近いものなのだろうか。
 一方で、間瀬の声は学校で聞く声と何も変わらず、安心した。男と女の関係ではないことは私にも分かった。ただ、木崎さんの態度は、私や店長、他の店員へ向けたものとは違った。線引きをされている私達とは違い、間瀬に対してはその線がない。信頼しているのだ。間瀬のどこに信頼を置いているのか。それはさっぱり、これっぽっちも分からない。
 元担任に対して情報提供をし続ける木崎さんの考えが最後まで理解できなかった。彼女は一途に人を思う、純粋無垢な少女なのだ。間瀬を見る目は輝いていたように見えた。
 スマートフォンの時計を見ると、二十二時を過ぎていた。
「早く行ってくれないかな」
 二人の関係がどうなろうが私の知ったことではない。ただ、早くその場からいなくなって欲しい。でなければ、今度は補導という理由で間瀬に一手間掛けさせることになってしまう。