連休後半の初日。それが私のアルバイト初日である。自宅近所の個人経営の書店。そこで働くことになっている。以前から客として利用していた書店で、店長は私の顔を覚えてくれていた。無料のスクールバスではなく市バスで登校するにはバス代を工面する必要がある。働く先として初めに思い浮かんだ店が、久万隈書店だった。学校近くや、大きな店には教師たちが見回りに来る可能性が大いにあったので、私好みの規模の店だった。
「ここで働かせてくれませんか?」
「五月からね」
あっさりとした返答。私はできる限り早く働きたかった。高校三年間のバス代が稼ぎ終えたらアルバイトは辞めても良いと思っていたからだ。「なぜ五月なんですか?」と尋ねた。
「四月は学校が始まって大変でしょ。慣れるまでアルバイトは待った方が良いよ」
真摯な対応だった。そんなわけで、私が働き始めるのは五月のゴールデンウィークからとなった。そして、それが今日。
「今日からここからここで働かせていただきます、都築陽菜子です」
「そう言うのは大丈夫だから、もっと気を抜いて。リラックスしてやればいいから」
店に入り、店長に会うと畏まって頭を下げた。店長は少し困った様子で苦笑いを浮かべ、バックヤードに私を案内した。店の奥にある扉を開けると、薄暗い通路があった。辺りには本が入った段ボール箱がいくつも積まれていた。段ボールの壁をすり抜けながら、奥へ進む。
「こっちがスタッフルーム。一人一つロッカーがあるから、そこに荷物は入れて。これ、鍵ね」
自転車の鍵よりも小さく簡素な作りのものを渡された。ロッカーは古く、鍵を使わなくても解錠できてしまいそうで、貴重品は持ってこないようにしようと心に決めた。ロッカーは五つ置かれていて、全て使われているのかは分からなかった。埃っぽい臭いがして、キラキラと塵が蛍光灯の光を反射していた。
「服装はあまり派手だと困るけど、細かく指定はないよ。あー、だけど、家で着替えてから来てね。ここは男女兼用で、更衣室ってわけではないから。荷物置き場だと思って。それから、店のロゴが入ったエプロンを着てもらうけど、いい?」
「はい。分かりました」
ベージュのエプロンの胸元に小さく店名が刺繍されている。エプロン一つ着ただけで店員のように見える。不思議なものだ。
「それから、当面の間は僕が仕事を教えるから。それと」
壁の時計を確認する店長。
「もうすぐ、木崎って子がくるから。木崎さんにも色々教わりながら仕事をしていこうか」
ここで少し待っていて、と言って店長は部屋を出た。木崎という人が来るまで待てということだろうか。私は何もすることが無く、スタッフルーム内にはイスもない。ただ立ち尽くすほかなかった。
然程待たずして扉が開いた。
「あ? あんた誰?」
女性はスタッフルームに入ってくるなり眉間に皺を寄せ、私の頭からつま先までを舐めるように見た。ジーパンにTシャツというラフな格好に、紫がかった髪がよく映える。耳にいくらかピアスをしているけれど、目立つほど大きなものではなかった。
「あの、今日からここで働くことになりました。都築陽菜子です」
「都築……ああ! あんたか! 店長から聞いてるよ。私は木崎千香。よろしく。店長と私が教育係だから、一緒に仕事することも多いと思う。仲良くやろうね」
「よ、よろしくお願いします!」
木崎さんは私に一歩近寄ると、囁いた。
「あんたって、愛崎高校の生徒でしょ? あそこって、バイト禁止じゃないの? 生活や学費に困っていたら許可が出るみたいだけど、あんたは違うでしょ?」
責めているようには聞こえなかった。口元は笑っていた。楽しんでいるのか、興味津々で私のことを尋ねていた。
「お小遣い稼ぎです」
「ふーん。校則無視してまでバイトするような子には見えないけど。まあいいか。私の知ったことじゃない」
そう言うなら初めから話を振らないでよ。
「あっ、もしかして、一年生? 間瀬って知ってる?」
「間瀬先生を知っているんですか?」
「こらこら、こっちが質問しているんだけど。もしかして、担任?」
「はい」
「そうか。担任が。良かったね、間瀬が担任で」
それはどういう意味だろうと聞きたかったが、店長がやってくると私だけが呼ばれて、レジ打ちについて説明を受けた。初めて触るレジは興味よりも緊張が勝っていた。
翌日のことだった。今日は開店前の九時から十三時までのシフトだ。木崎さんに品出しについて仕事を教わり、開店後はレジに立った。木崎さんも隣にいてくれる。独り立ちするのはまだ先だ。客が来る度に緊張する。しばらくレジ対応をしていると、木崎さんは「もう慣れたでしょ。私はちょっと離れるから一人で頑張ってみて。困りごとがあたら、そこのボタン押してくれれば、飛んでくるから」といってどこかへ行ってしまった。十二時半。もうすぐ今日のバイトも終わりだ。少しだけ気が抜けたところに、客がやってきた。「いらっしゃいませ」と言おうとした口が、そのまま開いて固まった。
茶色のスーツに無精ひげの男がこちらに近づいてきた。
「お前、都築だよな?」
「え?」
うわぁ、マジか。
「ま、間瀬、先生!」
一瞬にして冷や汗で背中がびっしょりと濡れるのが分かった。なんで、なんでこんなところに間瀬先生がいるのか。学校からは離れた個人商店ならば教師の目も届かないだろうと思って選んだというのに。それなのに、僅か二日目にして教師に見つかるなんて。よりにもよって担任の間瀬だ。言い逃れはできないと悟り、
「間瀬先生、こんなところでどうしたんですか?」
と平常心を保って、悪びれることもなく対応した。どうやら、マジかと思ったのは私だけではなく、間瀬も同じだったようだ。目をつり上げて怒るではなく、肩を落として落胆していた。
「都築、ここで何をしている」
見て分からないですか?
「バイトです」
正直に答えると、それに対して大きな溜息が間瀬から漏れた。
「あのな、都築。うちの学校はバイトが禁止って知っているだろ? 特別な理由がある生徒に限って許可しているが、うちのクラスからはそんな申請はなかった。ということは」
「無断でバイトしていることになりますね」
「なりますね、じゃねぇよ!」
怒られた。
「俺は入学式のときにも“面倒を起こすな”って言ったよな? それなのに、都築は面倒を起こそうとしているわけだ」
「いや、そんなつもりは」
ない。
結果として、教師に見つかり、面倒事へと発展しただけで、意図していたわけではない。
「お前……、まあいい。俺から言っておくことは、バイトを辞めろ。それとも人目に付かないように上手くやれ。それだけだ。分かったな。俺は注意したぞ。注意したからな」
とだけ言って店を出た。
何も買わなかったな。そんな呑気なことを私は考えていた。
残りのバイト時間に客は一人も来なかったので、呆然としながらレジに立ち尽くしていた。頭の中は真っ白で、少し落ち着いてきた頃には「校則を破るとどうなるんだっけ」「これから、私はどうなるんだろう」という心配が頭の中をぐるぐると巡っていた。
明日もバイトだ。また間瀬は来るだろうか。同じように見つかれば、そのときこそ注意では済まされないだろう。店長に相談しよう。
結局、翌日は休ませてもらった。連休明けに間瀬と顔を合わせたくない、何を言われるか分からないという不安に押し潰されそうになりながら、残りの休みを過ごした。
「あれから二週間経つけど、間瀬も何も言ってこないんだよね」
おかげで、今も週末は久万隈書店でアルバイトを続けられている。この調子でいけば、三年間のバス代を稼ぎきるのも時間の問題だろう。
「間瀬って、良いやつなのかな」
「は? 何言ってんの?」
何気なく呟いた言葉に対して、大きく反応が返ってくるとは思わなかった。他に乗客はいないものの、運転手に聞こえるのではないかと思うほどに大きな声だった。
「間瀬は入学式でも言っていたでしょ。面倒を起こすなって。それだけよ。間瀬はいい加減な、ダメ教師なんだから」
「随分な言いようだね。何かあったの?」
深い溜息をつく。嫌なことを思い出しているようだ。聞いたことが申し訳なく感じる。
「私、新入生代表で挨拶をしたでしょ」
「うん」
「もちろん練習をするわけ。入学式前日にも登校したし、当日も朝早く来て体育館で練習したの」
あの時、由衣と同じバスにいたけれど、教室にはいなかった理由はそれか。今頃になって、あの日の疑問が解消された。
「普通担任なら付き添って、練習でアドバイスの一つでもするものでしょ? でも、間瀬は何も言わなかったわ。一度練習しただけで、“良いんじゃないか”って。あいつは面倒くさがりなだけよ。きっと陽菜子のことも、上司に報告するのも面倒なだけ。担任する生徒の面倒を見る気が無いのよ」
「……そうか。ちょっと残念」
「生徒の面倒を見ない教師って言うのは、世間一般に良い教師とはいわない。だから、間瀬は良い教師ではない」
力説する由衣を見ていると面白くなって、くすっと笑ってしまった。
「笑いごとじゃないんだけど」
由衣は怒っていた。間瀬のことが嫌いなんだな。
『次は――』
アナウンスが聞こえた。私はすぐにボタンを押す。今朝の由衣との時間はこれで終わる。数秒の間、私達はお互いの手を握って、今日も一日無事に過ごそうと誓いを立てる。どちらが先に手を差し出したかは今ではもう覚えていない。互いに取り決めをしたわけではない。何も言わずとも、相手の体温を感じようと、私達は手を伸ばした。細い指は冷たいが、その先に確かな熱を感じる。高瀬由衣を確かにそこに感じた。
バスのスピードが徐々に遅くなる。それは別れの時間が近づいている証拠。バスが停車すると、手は解かれ、初めに由衣が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。
「それじゃあ、また帰りに」
「うん。またね」
由衣が先に降りて、歩いていく。その数メートル後を私が歩く。教室では前後の席だけれど、そこでの関係は未だに入学した日から変わっていない。今も、教室でも、私はただ由衣の背中を見つめることしかできない。バスの中の時間と、学校の中の時間の温度差が私には寂しく思えた。彼女は何を思っているのだろう。尋ねることもできないまま、私達はただ前後に座るだけの口を利かないクラスメイトに戻っていった。
「ここで働かせてくれませんか?」
「五月からね」
あっさりとした返答。私はできる限り早く働きたかった。高校三年間のバス代が稼ぎ終えたらアルバイトは辞めても良いと思っていたからだ。「なぜ五月なんですか?」と尋ねた。
「四月は学校が始まって大変でしょ。慣れるまでアルバイトは待った方が良いよ」
真摯な対応だった。そんなわけで、私が働き始めるのは五月のゴールデンウィークからとなった。そして、それが今日。
「今日からここからここで働かせていただきます、都築陽菜子です」
「そう言うのは大丈夫だから、もっと気を抜いて。リラックスしてやればいいから」
店に入り、店長に会うと畏まって頭を下げた。店長は少し困った様子で苦笑いを浮かべ、バックヤードに私を案内した。店の奥にある扉を開けると、薄暗い通路があった。辺りには本が入った段ボール箱がいくつも積まれていた。段ボールの壁をすり抜けながら、奥へ進む。
「こっちがスタッフルーム。一人一つロッカーがあるから、そこに荷物は入れて。これ、鍵ね」
自転車の鍵よりも小さく簡素な作りのものを渡された。ロッカーは古く、鍵を使わなくても解錠できてしまいそうで、貴重品は持ってこないようにしようと心に決めた。ロッカーは五つ置かれていて、全て使われているのかは分からなかった。埃っぽい臭いがして、キラキラと塵が蛍光灯の光を反射していた。
「服装はあまり派手だと困るけど、細かく指定はないよ。あー、だけど、家で着替えてから来てね。ここは男女兼用で、更衣室ってわけではないから。荷物置き場だと思って。それから、店のロゴが入ったエプロンを着てもらうけど、いい?」
「はい。分かりました」
ベージュのエプロンの胸元に小さく店名が刺繍されている。エプロン一つ着ただけで店員のように見える。不思議なものだ。
「それから、当面の間は僕が仕事を教えるから。それと」
壁の時計を確認する店長。
「もうすぐ、木崎って子がくるから。木崎さんにも色々教わりながら仕事をしていこうか」
ここで少し待っていて、と言って店長は部屋を出た。木崎という人が来るまで待てということだろうか。私は何もすることが無く、スタッフルーム内にはイスもない。ただ立ち尽くすほかなかった。
然程待たずして扉が開いた。
「あ? あんた誰?」
女性はスタッフルームに入ってくるなり眉間に皺を寄せ、私の頭からつま先までを舐めるように見た。ジーパンにTシャツというラフな格好に、紫がかった髪がよく映える。耳にいくらかピアスをしているけれど、目立つほど大きなものではなかった。
「あの、今日からここで働くことになりました。都築陽菜子です」
「都築……ああ! あんたか! 店長から聞いてるよ。私は木崎千香。よろしく。店長と私が教育係だから、一緒に仕事することも多いと思う。仲良くやろうね」
「よ、よろしくお願いします!」
木崎さんは私に一歩近寄ると、囁いた。
「あんたって、愛崎高校の生徒でしょ? あそこって、バイト禁止じゃないの? 生活や学費に困っていたら許可が出るみたいだけど、あんたは違うでしょ?」
責めているようには聞こえなかった。口元は笑っていた。楽しんでいるのか、興味津々で私のことを尋ねていた。
「お小遣い稼ぎです」
「ふーん。校則無視してまでバイトするような子には見えないけど。まあいいか。私の知ったことじゃない」
そう言うなら初めから話を振らないでよ。
「あっ、もしかして、一年生? 間瀬って知ってる?」
「間瀬先生を知っているんですか?」
「こらこら、こっちが質問しているんだけど。もしかして、担任?」
「はい」
「そうか。担任が。良かったね、間瀬が担任で」
それはどういう意味だろうと聞きたかったが、店長がやってくると私だけが呼ばれて、レジ打ちについて説明を受けた。初めて触るレジは興味よりも緊張が勝っていた。
翌日のことだった。今日は開店前の九時から十三時までのシフトだ。木崎さんに品出しについて仕事を教わり、開店後はレジに立った。木崎さんも隣にいてくれる。独り立ちするのはまだ先だ。客が来る度に緊張する。しばらくレジ対応をしていると、木崎さんは「もう慣れたでしょ。私はちょっと離れるから一人で頑張ってみて。困りごとがあたら、そこのボタン押してくれれば、飛んでくるから」といってどこかへ行ってしまった。十二時半。もうすぐ今日のバイトも終わりだ。少しだけ気が抜けたところに、客がやってきた。「いらっしゃいませ」と言おうとした口が、そのまま開いて固まった。
茶色のスーツに無精ひげの男がこちらに近づいてきた。
「お前、都築だよな?」
「え?」
うわぁ、マジか。
「ま、間瀬、先生!」
一瞬にして冷や汗で背中がびっしょりと濡れるのが分かった。なんで、なんでこんなところに間瀬先生がいるのか。学校からは離れた個人商店ならば教師の目も届かないだろうと思って選んだというのに。それなのに、僅か二日目にして教師に見つかるなんて。よりにもよって担任の間瀬だ。言い逃れはできないと悟り、
「間瀬先生、こんなところでどうしたんですか?」
と平常心を保って、悪びれることもなく対応した。どうやら、マジかと思ったのは私だけではなく、間瀬も同じだったようだ。目をつり上げて怒るではなく、肩を落として落胆していた。
「都築、ここで何をしている」
見て分からないですか?
「バイトです」
正直に答えると、それに対して大きな溜息が間瀬から漏れた。
「あのな、都築。うちの学校はバイトが禁止って知っているだろ? 特別な理由がある生徒に限って許可しているが、うちのクラスからはそんな申請はなかった。ということは」
「無断でバイトしていることになりますね」
「なりますね、じゃねぇよ!」
怒られた。
「俺は入学式のときにも“面倒を起こすな”って言ったよな? それなのに、都築は面倒を起こそうとしているわけだ」
「いや、そんなつもりは」
ない。
結果として、教師に見つかり、面倒事へと発展しただけで、意図していたわけではない。
「お前……、まあいい。俺から言っておくことは、バイトを辞めろ。それとも人目に付かないように上手くやれ。それだけだ。分かったな。俺は注意したぞ。注意したからな」
とだけ言って店を出た。
何も買わなかったな。そんな呑気なことを私は考えていた。
残りのバイト時間に客は一人も来なかったので、呆然としながらレジに立ち尽くしていた。頭の中は真っ白で、少し落ち着いてきた頃には「校則を破るとどうなるんだっけ」「これから、私はどうなるんだろう」という心配が頭の中をぐるぐると巡っていた。
明日もバイトだ。また間瀬は来るだろうか。同じように見つかれば、そのときこそ注意では済まされないだろう。店長に相談しよう。
結局、翌日は休ませてもらった。連休明けに間瀬と顔を合わせたくない、何を言われるか分からないという不安に押し潰されそうになりながら、残りの休みを過ごした。
「あれから二週間経つけど、間瀬も何も言ってこないんだよね」
おかげで、今も週末は久万隈書店でアルバイトを続けられている。この調子でいけば、三年間のバス代を稼ぎきるのも時間の問題だろう。
「間瀬って、良いやつなのかな」
「は? 何言ってんの?」
何気なく呟いた言葉に対して、大きく反応が返ってくるとは思わなかった。他に乗客はいないものの、運転手に聞こえるのではないかと思うほどに大きな声だった。
「間瀬は入学式でも言っていたでしょ。面倒を起こすなって。それだけよ。間瀬はいい加減な、ダメ教師なんだから」
「随分な言いようだね。何かあったの?」
深い溜息をつく。嫌なことを思い出しているようだ。聞いたことが申し訳なく感じる。
「私、新入生代表で挨拶をしたでしょ」
「うん」
「もちろん練習をするわけ。入学式前日にも登校したし、当日も朝早く来て体育館で練習したの」
あの時、由衣と同じバスにいたけれど、教室にはいなかった理由はそれか。今頃になって、あの日の疑問が解消された。
「普通担任なら付き添って、練習でアドバイスの一つでもするものでしょ? でも、間瀬は何も言わなかったわ。一度練習しただけで、“良いんじゃないか”って。あいつは面倒くさがりなだけよ。きっと陽菜子のことも、上司に報告するのも面倒なだけ。担任する生徒の面倒を見る気が無いのよ」
「……そうか。ちょっと残念」
「生徒の面倒を見ない教師って言うのは、世間一般に良い教師とはいわない。だから、間瀬は良い教師ではない」
力説する由衣を見ていると面白くなって、くすっと笑ってしまった。
「笑いごとじゃないんだけど」
由衣は怒っていた。間瀬のことが嫌いなんだな。
『次は――』
アナウンスが聞こえた。私はすぐにボタンを押す。今朝の由衣との時間はこれで終わる。数秒の間、私達はお互いの手を握って、今日も一日無事に過ごそうと誓いを立てる。どちらが先に手を差し出したかは今ではもう覚えていない。互いに取り決めをしたわけではない。何も言わずとも、相手の体温を感じようと、私達は手を伸ばした。細い指は冷たいが、その先に確かな熱を感じる。高瀬由衣を確かにそこに感じた。
バスのスピードが徐々に遅くなる。それは別れの時間が近づいている証拠。バスが停車すると、手は解かれ、初めに由衣が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。
「それじゃあ、また帰りに」
「うん。またね」
由衣が先に降りて、歩いていく。その数メートル後を私が歩く。教室では前後の席だけれど、そこでの関係は未だに入学した日から変わっていない。今も、教室でも、私はただ由衣の背中を見つめることしかできない。バスの中の時間と、学校の中の時間の温度差が私には寂しく思えた。彼女は何を思っているのだろう。尋ねることもできないまま、私達はただ前後に座るだけの口を利かないクラスメイトに戻っていった。
