催涙ガスの白い靄が立ち込める廊下を、二人は駆け抜ける。有機的な壁面が、まるで生き物の内臓を通り抜けているような錯覚を与えた。

 階段を駆け上がり、また駆け上がる。息が切れ、足が重くなっていく。それでも、ユウキは必死にリベルについていった。

 そして、ついに――――。

 屋上への重い扉を押し開けると、眩しい光が飛び込んでくる。

「ふぅ、やっとマスクから解放されるよ……」

 ユウキは震える手で防毒マスクを外す。ゴムの締め付けから解放された顔に、涼しい風が吹き抜けた。

 思わず深呼吸――――。

 清浄な空気が、焼けつくような肺を優しく冷やしていく。見上げれば、抜けるような青空が広がっていた。白い雲が、ゆったりと流れている。

「さて、後は司佐を待つばかりね!」

 リベルの声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。獲物を追い詰めた猟犬のような、原始的な喜び。勝利を確信したようにくるくると宙を舞った。

「本当に出て来るのかなぁ……?」

 ユウキの声には、期待と不安が入り混じる。ここまで来て、もし司佐が現れなかったら――――。

「くふふふ、出てくるって」

 リベルは自信満々に断言する。

「レジスタンスに侵入されて、ガスまで撒かれているのよ? 空調も切れないようにしたから、逃げるに決まってるわ」

 碧眼(へきがん)が、計算し尽くされた罠の完成を喜ぶように輝く。まるで、詰将棋の最後の一手を指す瞬間のような、冷徹な確信があった。

「そうだけど……ここに来るかなぁ……?」

「出口は四か所あるけど、司佐の性格を考えると空からの脱出を選ぶ確率が八十三%」

 リベルは指を立てながら、得意げに分析結果を披露する。

「権力者は高いところが好きなの。追い詰められた時こそ、空に逃げたがる。もうここに決まってるわ!」

 その言葉には、人間心理を冷徹に分析した末の結論が込められていた。

「いよいよ本体とご対面……か……」

 ユウキは震える手を胸に当てる。心臓が、早鐘のように打っていた。

「ドキドキしてきた……」

 オムニスの管理者権限を明け渡してもらう。それは、人類の自由を取り戻すための最後のピース。だが、司佐にとっては全てを失うことを意味する。

 血を流さずに済むだろうか。本当に、話し合いで解決できるのだろうか。不安が、黒い影のように心を覆っていく。

 見上げれば、気持ちのいい潮風に乗って、白い雲がゆったりと流れている。カモメが、遠くで鳴いていた。

 平和な午後の風景――――。

 だが、このオムニスタワーの屋上では、人類の運命を決する対決が、今まさに始まろうとしていた。

 風が、不意に強くなる。

 リベルの青い髪が、激しくなびいた。まるで、嵐の前触れのように。

「来るわ」

 リベルの声が、静かに響く。

 獲物の気配を察知した肉食獣のように、全身から戦闘態勢のオーラが立ち上る。優雅だった動きが、一瞬にして研ぎ澄まされた刃のように鋭くなった。

 ユウキも息を呑む。

 運命の瞬間が、すぐそこまで迫っていた。

 風が止み、時間さえも凍りついたかのような静寂の中、物陰に身を潜め、二人は息を殺して出入り口を見つめる――――。

 やがて、甲高い機械音と共に、銀色に輝くドローンヘリが飛来した。六基のプロペラが唸りを上げ、無人のままヘリポートへと優雅に着陸する。まぎれもなく、司佐の逃亡手段だった。

「ほぅら来たわ、くふふふ……。そろそろよっ!」

 リベルの碧眼(へきがん)がキラリと輝いた。獲物を追い詰めた猟犬のような、嗜虐的な笑みが唇に浮かぶ。

「ホ、ホントだ……」

 ユウキの声は緊張で震えていた。

 バン!

 突如、鉄扉が乱暴に開け放たれ、肥満した中年男が転がり出てきた。充血した目から涙を流し、ゲホゲホと咳き込みながら、よろめく足取りでヘリへと向かう。その後ろからは、漆黒の装甲に覆われたガーディアンロボットが二機、重々しい足音を響かせながら続いた。

 世界を支配した男も、催涙ガスには勝てなかったらしい。

「ビンゴォ!」「来たっ!!」

 ユウキの叫びが終わらぬうちに、リベルは青い閃光となって飛び出した。

「不審者ハッケン!」「不審者ハッケン!」

 ガーディアンロボットの反応は機械的に正確だった。自動小銃が火を吹き、無数の弾丸が潮風を切り裂いていく。激しい銃声が屋上に木霊した。

 しかしリベルは避けようともしない。銃弾が彼女の身体を貫くたび、青い光が走り、ナノマシンが瞬時に傷を修復していく。まるで水面に石を投げ込んだように、弾痕は次々と消えていった。

「きゃははは! お馬鹿さん!!」

 ハチの巣になりながらも、リベルは両手を青く輝く刃に変形させた。それは空気さえも切り裂くような鋭さで、一閃――

 ガーディアンたちの動きが止まった。キュルキュルと奇妙な音を立て、やがて真っ二つになって崩れ落ちる。断面から火花が散り、最期の電子音が虚しく響いた。

 ひぃっ!

 司佐は恐怖に顔を歪め、肥満した身体を必死に動かそうとしたが、時すでに遅し。

「どこへ行こうというの? くふふふ……」

 リベルのジャケットがニュィィンと伸び、生き物のようにうねりながら司佐の身体に巻きついていく。青く輝くナノマシンの拘束具は、獲物を逃さぬ蛇のように締め上げた。

 ぐはぁ!

 足まで縛られた司佐は、無様に転がった。スマートフォンがカランと音を立てて屋上を滑る。

「チェックメイト! きゃははは!」

 リベルの碧眼(へきがん)が勝利の輝きを放った。ついに、黒幕を捕らえたのだ。

 うっほぅ!!

 ユウキは歓喜の雄叫びを上げ、何度もガッツポーズを繰り返しながら駆け寄った。

「リベルぅ! やった! やった!」

 興奮冷めやらぬ二人は、満面の笑みでハイタッチを交わす。AIと人間――異なる知性が力を合わせ、悪しき支配者に勝った瞬間だった。

 YEAH! イェーイ!

 ユウキは青空に向かって拳を突き上げる。雲間から差し込む光が、希望に満ちた未来を照らしているかのようだった。

 やったぁぁぁ!

 だが――――。

「何だお前ら。この程度で勝ったつもりか?」

 床に転がる司佐の口元に、不気味な笑みが浮かんだ。それは敗者の諦めではなく、まだ見ぬ切り札への絶対的な自信だった。その表情が告げていた――本当の恐怖は、これから始まるのだと。