喪失感を歌った曲が、祥介の指使いでゆっくりと奏でられる。

 ひとつひとつの音が悲しそうに響く。

 この曲は、難しくないし、たくさんの音があるわけでもない。

 でも、誤魔化しが効かない。

 動画越しに、祥介の指が震えているのがわかる。

 ミスタッチで指が止まってしまうし、自信のないところはどの鍵盤を押すのか探して、微妙な間が生まれる。

 見ていて、私は悲痛な気持ちになってくる。

 もし、これが私なら、もう嫌になっているはずだ。

 ビートルズのイエスタデイ。

 こんなにも、拙くて、苦しくて、悲しい音は今まで聞いたことがない。

 完璧な祥介からこれが奏でられていると思うと、胸が詰まる。

 がんばれ……がんばれ。諦めないで、最後まで弾いて。

 心の中で、私は祥介のイエスタデイを応援していた。

 そして、最後の音が響く。夜の静寂と溶け合うように、ずっと遠くまで。

 祥介が鍵盤から手を離すと、こちらを向いて、バツの悪そうにはにかむ。

「下手だなぁ、俺」

「でも、すごくよかった」

 撮影を終わらせて、私は素直な感想を言った。

「ほんとに?」

「うん。がんばれって、心の中で応援してたよ」

「おっ、じゃあ、わかったんじゃね? 下手でも人の心を動かせるってさ」

「期待するような目をしているところ悪いけど、調子に乗らない。こんなの、私くらいしか応援しないから」

「じゃあ、十分じゃん。俺は美詩のためだけに弾いたんだしさ」

 そう言われて、私は祥介から顔を背けた。恥ずかしいこと言わないでほしい。

「気が済んだ? なら、私は由美に連絡して、泊めてもらうから」

「待って」

 スマホをポケットに入れて、ここから離れようとしたら、祥介が私の手をつかんできた。

「なに?」

「俺は、遊びでここに来たんじゃないんだけど、それくらい伝わっているよな?」

「……動画撮って脅してくる人の気持ちなんて、知るつもりないけど」

「もう一度、弾いてよ。俺が最後まで、聞くからさ。受け止めたい」

「最後まで弾けないって」

「いや、弾けるよ」

 また、この声。真剣で真っ直ぐで、私の耳に残る芯のある声。

 そんな声で、そんな眼差しで、私を見て、信じている。

「バカなんじゃないの?」

「バカでも俺は本気だぜ? それに心臓に毛が生えているから、諦めないんだ。わりぃな」

 本当に、私は信じていいんだろうか。

 最後まで聞いてくれる。笑わないでいてくれる。

 そんな都合のいい承認欲求をぶつけてしまってもいいのだろうか。

 完璧の隣に不完全な私はいていいのだろうか。

「そこまで言うなら、弾く……弾けばいいんでしょ?」

「よしきた。さ、お嬢さん、椅子を温めておいたぜ?」

「いらない配慮というか、ちょっとキモい」

「冬ならよかったな」

「……なら今から冬になるから、安心だね」

「そっか。それなら、温めた甲斐があるな」

 私の言ったことを否定せず、ノリに合わせてくれる。

 それはたぶん、さっき私が弾いていた戦場のメリークリスマスを知っているからだ。

 そして、祥介は私の演奏で冬を感じていたのかもしれない。

 まあ、都合のいい解釈でしかないけど。

 でも、十分。私は、祥介だけのために戦場のメリークリスマスを弾こうと思った。

 椅子に座り、鍵盤に指を添える。

 空気は夏の熱帯夜のようにぬるい。静かな空間とは言え、それが空気を冷やすようなことはない。

 集中。怖くない。大丈夫。祥介がいるだけ。一人だけ。失敗しても、祥介だって一緒だ。

 深呼吸して、指を見る。震えている。緊張している。動け。動け。動いて、お願い。

 その願いは届いた。

 指が鍵盤を押して……。

 最初の音が奏でられる。雪が降る。

 戦場のメリークリスマス。私はこの曲を弾いているとき、雪降る戦場を空想する。

 それは、戦場のメリークリスマスの映画とは関係のない想像だ。

 戦場にいる主人公が空を見上げて、雪が降っているのを眺めているという場面から始まる。

 それが、前奏。儚い雪が振ってきて、落ちては溶け、落ちては溶けと繰り返していく。

 そして、サビの旋律がゆっくり奏でられる。まだ、戦場で戦闘が起こっていない静かな時間だ。

 次の戦闘を忘れたいという願いや、家族の顔を見たいという願いなどが、切なく奏でられていく。

 私はその空想を何度も何度も奏でてきて、思う。

 戦場には願いがある。

 私にも願いがある。

 その願いを突きつけられるようで、ずっと私は苦しんできた。

 この曲は最後まで完璧に弾けた唯一のもので、一度完璧を知ってから、もう二度と完璧に弾けなくなった呪いの曲だ。

 だから、嫌いだった。

 何度も向きあって、それでもやっぱり嫌いだった。

 そして、また好きになれそうで、今こうして、指を動かしている。

 もう、楽譜は覚えていない。どの鍵盤を押せばいいのか考えた瞬間に、指が迷子になる。

 ただ、指が自然と動くのを信じるだけ。何度も弾いてきて、馴染んだ指使いで、奏でていく。

 戦場から帰ったら、君に会いたい。

 私の願いがあるとすれば、そう。君と一緒にいる資格がほしい。

 生きて帰ることができたら。この曲を最後まで完璧に弾けたら。

 祥介に言おう。好きだって。

 それなのに……。

 ジャーン。音がおかしくなった。

 どうして、私は完璧になれないんだろう。

 たった一回のミスタッチだった。気付いたら、指がとまっていて、次に押す鍵盤がどれかわからない。

 戦場から帰れなかった。私の願いは叶えられない。やっぱり私は不完全で、最後まで曲を弾くことができない。

 わかっているはずなのに。もう手遅れだって目に見えているのに。

 ぐちゃぐちゃに、鍵盤を触った。

 こんなに、みっともない演奏はしたことがないし、聞いたこともない。

 探す。探る。探し出す。正しい音はどこ? 次に繋がる音はどこ? これでもない、これでもない、これでもない!

 最後まで聞くって言ってもらえたの。絶対に最後まで弾きたいの!

 そして、音を手繰り寄せる。少し何か違う気がする音だったけど、それを弾いた瞬間に、その次の音を指が勝手に弾き始めた。

 戦場から帰るための命が再び宿る。

 そこから、戦争が牙を剥く。この曲の最後のサビに向かって、心臓がドッドッドッと胸を打つ。演奏が命の鼓動を表現し、雪降る戦場の渦中を私は走る。

 届け。届け。最後まで。もうとまらないで、最後まで。

 最後の場面。戦争の銃撃や爆撃で瓦礫の街が蹂躙されていく。生きて帰ってこれるのか。その顚末はわからない。

 ただ、最後の音を弾いたとき、私は生き残ったんだと実感する。

 兵器の暴力による轟音が、時間とともに残響になって、静寂に溶けていく。

 私は音が遠くまで去っていくのを待ってから、鍵盤を押していた指を持ち上げる。

 椅子の背もたれに寄りかかり、そっと息を吐く。

「最後まで……弾けた」

 人前だったのに、ちゃんと最後まで弾けた。

 途中、とまってしまったけど、それでも諦めずに弾けたことに、私は達成感のようなものを感じていた。

 拍手が鳴る。

 静かな真夜中だと、その拍手はすごい反響して、少しくすぐったい。

「最後まで弾けたじゃん」

「うん。でも、途中でとまっちゃった」

「すごくよかった。なんていうか、心臓を突き動かされるような迫力があった」

「ねぇ、祥介」

 私は見上げて、名前を呼ぶ。

「どした?」

「結局、完璧に弾けなかったけど、祥介の隣にいていい?」

「完璧とかそうじゃないとか、んなもん関係なく、俺の隣にいろよ」

 今になって、わかった。

 私の本当の『願い』は、そう。

 完璧じゃない私だけど、祥介の隣にいたい。それだけなんだって。