私は完璧に曲を弾くことができない。

 どれだけ練習しても、最後までミスタッチしないで演奏するのが、難しすぎるのだ。

 さらに、ミスタッチしてしまうと指が止まってしまい、すぐに再開できなくなるのも、つらい。

 そんな状態だから、他人に聞かれたくないと思うようになるのは、自然な流れだった。

 家族には演奏を聞かれても気にならないので、家で練習するのが苦ではなかったのは、不幸中の幸いだと思った。

 いや、それも見る人によっては、ただ諦めの悪いだけの希望のない延命措置なのかもしれないけど、私は完全に弾けないわけではないことに、どこか救いのようなものを感じていた。

 指が死んでいないなら、弾き続けたい。

 そう思って、練習を重ねてきた私は、大学生になっても人前でピアノを弾くことができないまま。

 もし、本当の『願い』があるとすれば……そう。

「みんなの前で、ピアノを弾けるようになりたいとか?」

 ピアノの椅子に座り俯く私の顔を覗くようにして、祥介(しょうすけ)は真剣な顔で私の本当の『願い』を推測してきた。

「絶対にミスするから、弾きたくない」

「あー、なんかわかる。ミスって怖いよな」

「知った風なこと言わないでよ。どうせ、祥介はミスを怖がるとかないんでしょ?」

 俯いたまま、私は冷たく突き放すことを言うしかなかった。

 実際、完璧な祥介に不完全な私の気持ちなんて、わかるわけない。

 それなのに、妙な無言が続いて、私は何か間違ったような気持ちになった。

 いっそのこと、ここから逃げようかな。

 このままなら、私の演奏動画はみんなに共有される。笑われて、もうピアノは弾けなくなるだろう。

 諦める時期なんだ、今が。もう何もかも投げ出してしまいたい。

 そう思っていると、祥介が口を開く。

「……だいぶ前にさ、俺、努力するのがダサいと思っていたんだよね」

 少ししょぼくれているような、反省の色の見える声だった。

 それに対して、何か言うこともできたけど、なんとなく私は無言で続きを促すことにした。

「でもさ、それを言ったときに、『失敗が怖いんだね。でも、私は頑張る人に対して、絶対に幻滅なんてしないよ』って返した人がいるんだ」

「へぇ、誰か知らないけど、いいこと言うね」

「美詩が言ったんだよ」

 そう切り返されて、私は言葉に詰まる。

 私、そんなこと言った? 記憶がないんだけど……。

「忘れてるみたいだけどさ、俺はそう言われて、できないことをすぐ諦める方がダサいなって思うようになったんだ。結構、感謝してるんだぜ? こうして、終電を逃して、一人でピアノを弾く美詩を探しに来るくらいにはな」

「別に探してほしいなんて……」

「ほっとけないんだよ」

 椅子に横座りする私の前でしゃがんで、祥介は私の手を取って握る。

 振り払おうと思えば、できる。でも、私は振り払えなかった。

 祥介を否定したいわけじゃない。ここまで、私のことを思ってくれていることに嬉しいと思う感情がないわけじゃない。

 できることなら、完璧になりたい。

「いいの、私で?」

「当たり前だろ」

 迷いのない言葉に、私は祥介を見つめた。

 祥介は私の目を見て、笑顔を見せる。今までにないくらい優しい笑顔に心がびっくりした。普段のヘラヘラした顔が噓みたいで、本当に、イケメンは卑怯だ。

「正直に言うと、祥介の指摘であってる」

 そう私は、間を置いてから話し始めた。

「人前でピアノが弾けないの。ミスをするのが怖くて、指が動かなくなる。だから、動画に撮られるのは嫌だし、それをいろんな人に見られるのは死にたくなる。だって、どれだけ練習しても、ミスは必ずあるから」

「そのミスが怖いっていうのさ、思うんだけど、過去になんかあった?」

 その疑問に、私は降参するように力なく微笑む。

「鋭いね。うん、過去にあった。中学生のときに合唱コンクールで、伴奏をミスったの。ミスタッチして、頭が真っ白になって、指が動かなくて、楽譜もどこを見ればいいかわからなくなって、それはもう悲惨だった」

 今、思い出しても、手が震える。たぶん、私の手を握っている祥介の手にも伝わっているかも。

 でも、祥介は茶化すことなく、真剣に私の言葉を待ってくれていた。

「その後、私はみんなから失望されているんだって、思考がぐるぐるして、一人の女子から、あなたのせいで台無しだったねって言われて、だめになったの。人前でピアノが弾けなくて、ずっとつらくて、今もつらくて……」

「まだ、弾いているのは、また人前で弾けるようになりたいからだよな?」

「そう、だね。でも、弾けない。ミスタッチがなくならないの。ミスタッチすると、ほとんど指が止まるし、完璧になれない。人前で弾けば、またあのときのように、台無しにしてしまう気がして、怖いの」

 みんなの前で、ミスして、指が動かなくなった。それを想像するだけで、しんどくなる。

「でも、乗り越えなきゃいけない。それは、わかってるだろ?」

「わかってるけど……もう、限界だよ」

 なんで乗り越えろなんて言うの? ずっと無理って言っているのに。

 無責任なことを言うのなら、さよならしようかな。

 そんな私の心を見透かしているのか、祥介は私の手を少し強く握った。

「ならさ、俺が弾く」

「え?」

 予想外の発言に、私は祥介の目を見た。

 冗談を言っている目じゃない。本当に弾く気だ。

「実はさ、美詩がピアノを弾いているのを前に由美から聞いてて、こっそり練習していたんだよ。まだ、完璧じゃないけど、今弾く。そんで、演奏する俺の動画を撮ってよ」

「ちょっと、待って……どういうつもり?」

「いや、美詩が一人でどうにもならないなら、俺と二人で頑張れば、少しは前向きになれるかなって思って。それに、下手な俺の演奏動画を撮れば、美詩が笑われることはないだろ?」

「それは……そうかもしれないけど」

「びっくりしてるじゃん。でも別に、俺が何弾こうが、美詩には不都合ないよな?」

「確かに、そうだけど……動画は、いいの?」

「いいに決まってるだろ。俺は美詩の演奏撮っておいて、だめなんて言わねぇから」

「……わかった。撮るから、弾いてよ」

 もう、ここまで来たら、撮ってやろう。

 そうすれば、少しは安心できる。

「よし、じゃあ、俺たちは共犯者だな」

「私、何も悪いことしてないけど」

「深夜にストリートピアノを弾くなんて、ギルティじゃね? だから、共犯者」

「ふふ、なにそれ。でも、わかった。共犯者でいいよ」

 よくわからない祥介の言い分に、思わず笑ってしまったけど、悪い気分ではなかった。

 夜はしんしんと空気を冷やしていた。

 私と祥介以外に誰もいない駅前の空間。

 ストリートピアノの椅子を祥介に譲り、私はスマホを構えた。

 共演ならぬ、共犯の時間が始まる。