古石(ふるいし)くん……」

祥介(しょうすけ)って言って」

「古石祥介」

「なんでフルネーム? 笑いそうになったじゃん」

「古石さん」

「いや、逆に距離置かれてるし。だめだからな? ちゃんと、言って」

 いったい、私はどうしてこんなくだらないやり取りをしているのだろう。

 逃げてしまいたい。でも、逃げられない。

 私のピアノ演奏を撮影した動画を握られている限り、古石くんから離れることも無視することもできない。

 かと言って、古石くんのお願いを叶えたくもない。

 せめてもの抵抗として、私は会話に応じるけど、素直に従わないムーブをかましていた。

 ストリートピアノの椅子に横座りして、床を見つめながら、私は言う。

「楽しそうだね。諦めたら?」

「楽しいぜ? 諦めないけど」

「人の嫌がることをして、どうして楽しめるのか、その神経を疑っちゃう」

「健康の心配をしてくれるなんて、優しいじゃん。今度、病院で検査してもらいたくなったぜ」

「そのまま、入院してほしいな」

「俺、リンゴがほしい。ちゃんと、ウサ耳にしてくれると、俺的にポイントが高いから、よろ」

「いや、勝手に私がお見舞いに行く前提で話さないでよ。寒気がしたから」

「風邪か? じゃあ、俺がウサ耳のリンゴ作ってやるから、安心しろよな」

「想像するだけで、気持ち悪い」

「マジか、そんなにウサギにトラウマが……耳でもかじられたか?」

「どこかの青狸みたいなエピソードはないから、期待した空気を醸し出さないで。不愉快」

「なら、タコさんウインナー作ってやるよ」

「いらないから、やめて」

「タコにもトラウマか。あのくねくねした触手を耳の穴に突っ込まれた?」

「なんで、また耳? バリエーションないの?」

「耳、ちっちゃくて可愛いからさ」

「……脳に異常があるみたいだから、脳神経外科に行った方がいいよ」

「おう、なんか、ありがとな」

「今のやり取りのどこに感謝する要素があったの?」

「俺的にはあったけど、知りたい?」

「聞きたくない」

 なんで、嬉しそうにしているのか、理解できない。私、何か変なこと言った?

 いや、確かに耳可愛いなんて急に言われて、ちょっと反応しづらかったけど、ちゃんと拒絶したよね? 彼の国語力が国家転覆するくらい酷いの?

「そっか。じゃあ、教えない。その代わり、教えてよ」

 さっきとは違って、少し真剣な声に、私は固まる。

「なんで、ピアノ弾いてたんだ?」

 なんでって、そんなの……。

 ずっと、床を見つめていたのに、ふと鍵盤を見てしまう。

「自分でもよくわからない」

「深夜でも弾けるストリートピアノってさ、珍しいけど、普通なら深夜に弾こうと思わないじゃん。もしかして、誰もいないときとかに弾いてみたかったとか?」

 鋭い。確かに誰もいないときなら最後まで弾けるから、深夜のストリートピアノはちょうどよかった。

 けど、それは理由じゃない。

 黙っていると、古石くんは勝手に推理を始める。

「さっきのピアノ演奏の動画を消してほしいってすごい必死だったし、誰にも演奏を見られたくないんだろ? でも、誰かに見られる可能性のあるストリートピアノで演奏していたのは、何かに期待していた?」

 いったい私が何に期待していたと言うのだろうか。

 まるで、誰かに見られることを期待していたような言い草にも聞こえる。

 身勝手な推理なんて、やめてほしい。でも、それを言うのは、火に油を注ぐようなものだ。

 そんな私の心境なんて、古石くんは気付いてくれない。それどころか、さらに自分勝手な憶測をぶつけてきた。

「まさか、俺に見つけられたかったとか?」

「聞いてて、こっちが恥ずかしくなるから、やめて。というか、自意識過剰って言われない?」

 あまりにも酷いから、私は思わず、言ってしまう。それが嬉しかったのか、古石くんは「ほほぅ?」と絶対間違った解釈をしている声を出す。

「だから、そういうの、自意識過剰だって言ってるの。わかる?」

「俺さ、結構鋭いって言われるんだよね」

「この流れで、よくそれ言う勇気あるよね。心臓に生えた毛、引っこ抜いてやりたい」

「だから、美詩の反応を見て、ここに俺が来ることを期待してたんだなと思った」

「勝手に決めつけないでよ!」

 私は古石くんの目を見て、睨む。そこには、古石くんの真剣な眼差しがあった。

「自分でもよくわかっていないならさ、俺を理由にしていいって言ってんの」

 さっきまでのふざけた調子じゃない真面目な声。私を思ってくれているんだと錯覚してしまえるほどの説得力があった。

 そんなの、卑怯だ。

「でも……それはだめだよ。私は完璧じゃないから、古石くんを理由にするには……」

「じゃあ、祥介って言うだけでいいから。そしたら、美詩の願いを叶えるよ」

「ほんとに?」

「噓だったら、俺の心臓の毛を抜いていいよ」

 信じていいかわからない返答だったけど、悔しいかな、ちょっと笑ってしまった。

 なら、名前くらい呼んだっていいか。それで、さっきの動画を消してもらえるわけだし。

「わかった。祥介。これでいいんだよね?」

「もう一回」

 私は湿った視線を祥介に向けた。それに対し、申し訳なさそうに変な顔をして、両手を合わせて拝んでくる。

「はぁ……まあ、いいけど。えっと、祥介」

「うん、いいじゃん。美詩の可愛い声で、名前呼ばれると、キュンと来るわ」

「ほら、言ったから、さっき撮った動画を消して」

 約束を守ってくれると思って、私は祥介に要望を伝える。

 それなのに、祥介はキョトンとした顔で、私を見た。

「いや、俺は美詩のその『お願い』じゃなく、本当の『願い』を叶えるって言ったんだけど?」

「……何言ってるの? 詭弁?」

「わりぃな、言葉足らずだっただけさ」

 それは、酷過ぎる。どう考えても、あの流れは動画を消してくれる約束だって思うのは、わかっているはず。いや、そう言えば、祥介の国語力、国家転覆罪並みに酷かったんだった。

「そういうの、いらないから。動画消してよ」

「いや、これは俺の宝物だから、だめだって」

「なら、名前呼びもうやめるから」

「それもだめ」

「なにそれ。そんな自分勝手な言い分が通るわけないでしょ」

「それが、通るんだよ」

 ニヤリと祥介が不敵に笑う。嫌な予感がした。

「何するつもり?」

「簡単な話、この動画を他のみんなにも共有するだけ」

 私はとっさに声が出なかった。

 一番恐れていた状況が目の前で繰り広げられようとしている。

「や、め……」

 振り絞って、声を出した。

「嫌だったら、美詩の本当の『願い』を教えて」

 本当の『願い』って、何?

 私はただ動画を消してほしいだけなのに、それ以外に何があるって言うの?

 わからない。本当にわからない。

 でも、このままだと、みんなに笑われる。

 不完全な私なんて、見ないでほしい。

 一人にさせて……。