真夏の深夜に、雪がひっそりと降る世界に引き込まれた。
そういうと、ちぐはぐに聞こえるかもしれない。でも、本当の体験だ。
ストリートピアノを前にした私は、気付けば、手の甲に小さな雪をひとつひとつ落として溶かしていくような旋律を奏でている。
ピアノを弾いている今は、夏であろうと雪が降っているのだ。私自身がそう感じているだけで、それは私にとって真実になる。他の人がどうとか関係ない。
戦場のメリークリスマス。今、弾いている曲。
小学5年生の頃から何度も弾き続けて、楽譜もどの鍵盤を押したらいいのかも記憶から忘れても、指が覚えてしまっている雪降る戦場の曲。
クリスマスが近づけば、練習をして、クリスマス当日には満を持して弾くくらいには、私はこの曲を丁重に扱っていた。
だけど。
私は、この曲が嫌いだ。
夜の駅に、ピアノの音が反響する。聴衆は誰もいない。
終電を逃し、一人ぼっちになった私の演奏は、私の心を鎮めるために、あるいは毒を吐き出すために、存在している。
頭が痛い。耳が火照っている。まだ、お酒が回っているんだと、駅の改札前の空間をくぐる夜風の冷たさで、明確になる。
いったい、どうしてこうなってしまったのか。
大学のサークルの飲み会のせいだと言えば、そうなんだけど、もっと言えば、古石くんがサークルの女の子たちに囲まれているから悪いんだ。
古石くんが二次会に来なよと言ってくるから、断るのも気が引けて、ずるずると来てしまった。
そんなの、はっきりと断ればいいのにと思う自分もいるけど、断った翌日に古石くんの取り巻きというか腰巾着というか自分のない何かになり果てた女の子たちが私を悪者のように言ってくる未来が見えたから、どうしようもないじゃない。
私はそれが本当に怖くて、仕方ないんだから。
そこで、背後からピコンと着信音が鳴った。
途端に指が動かなくなり、戦場のメリークリスマスは夜の包み込むような闇の中に消えていく。瓦礫の街も雪も何もない。広い空間に、黒塗りのストリートピアノが孤島のようにあるだけ。私は漂流し、遭難して、ここにいる。
呼吸を整えて、私は振り返った。
そこには、金髪の背の高い男子がいた。五分丈のクリーム色のTシャツと焦げ茶色のワイドパンツというシンプルな恰好が、よく似合っている。
バツの悪そうな表情も様になる。普段、ニヤニヤして、チャラそうな顔つきなのに、イケメンって、卑怯だと思う。特に左目の泣きぼくろが、彼のチャラさを打ち消しているような気がしてならない。
「わりぃ、乙坂。俺のスマホっちが空気読んでくれなくてさ。あとで、電池切れにして、空腹の刑に晒しとくわ」
「何しに来たの? 古石くんは私みたいな派手じゃない女子を気にかけるような人だった?」
「どうやら、乙坂を気にかけるような人だったらしいぜ?」
「……誰かどっかに隠れて、このやり取り見てない?」
「疑うねぇ」と古石くんは楽しそうに笑う。「残念だけど、俺一人。がっかりした?」
「警察って、110番だったよね?」
「それ、マジで言ってんの?」
どうやら、さすがの古石くんも警察はビビるらしい。少しは意趣返しができたから、私は溜飲を下げる。
私はピアノの椅子に座ったまま、この状況について考える。
どうして、古石くんは私を探して、ここまで来たのか。
「もしかして、由美から聞いたの?」
「え、ああ、そうだな。聞いた。終電ないんだろ? さすがに一人はマズいと思ってさ」
「ふーん」
由美が変な気を回してくれたわけね。次の土曜日はケーキバイキングに連れて行ってあげようかな。最近、ダイエット始めたって言っていたし、チートデイをプレゼントしてあげなくちゃ。
「ていうかさ、なんで終電ないのわかっているのに、こんなところにいるんだよ」
「……時間を勘違いしていただけ。まだ、電車あると思ってた」
まあ、噓だけど。終電がないのは知っていて、ここにいる。
「なら、俺たちのところに戻ればいいだろ。それか、誰かの家に泊めてもらうとか」
「心配してるの?」
「当たり前だろ」
真剣な顔で言われる。私は思わず、顔を背けた。そういう顔されると、私の中で変な感情が湧くから、やめてほしい。
「それは、ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
ピアノの鍵盤を眺めて、私はできる限り、冷たい声で言った。
不完全な私をもう見せたくなかったから。
だから。
「へぇ……」と陰険な声が聞こえ、私はなぜかわからないけど、危険を感じた。
「なに、その含みのある反応?」
古石くんの方を半ば睨むように見て、私は尋ねる。
「いやぁ、なんていうか、これなんだけど」
スマホを持ち上げ、彼はひらひらと見せつける。
「充電ゼロにするんでしょ? それとも、ここでバッテリーを外すわけ?」
「そうじゃなくて、さっきの演奏の動画撮ったんだよ」
言葉が出なくなった。
どうして? どうして、そんな酷いことをするの?
不完全な私を撮って、いったい何をするつもりなの?
そのスマホの中には、戦場のメリークリスマスを最後まで弾いていない私しかいないよね?
そんな私を見て、古石くんはニタリと嫌な笑みを浮かべた。
「お~、めっちゃ、動揺してるじゃん。何? そんなに撮影してほしくなかったの?」
「……して」
「ん? なんて?」
「消してって言ってるの!」
私は椅子から立ち上がり、古石くんのスマホに手を伸ばした。
でも、古石くんは背が高くて、簡単に私の手の届かない高さまでスマホを持ち上げた。
「だーめ。これは、俺の宝物だもん」
「いいから、消してよ! そんな私を残すなんて、許さないから!」
「じゃあ、俺のお願い聞いてよ」
「最低っ! 人を脅すの!?」
「俺のことは、祥介って呼んでよ」
「話が聞けないの!? 耳が腐ってるわけ!?」
「そんで、美詩って呼ばせて?」
本当に、高身長は卑怯だと思う。私がスマホに手を伸ばして無防備なところに、耳打ちで名前を呼ぶなんて。背筋が痺れる。
そんな感情は持ちたくない。
だって、私は古石くんの隣には相応しくないと思っているから。
完成された人間の隣に、不完全な人間はいられないと思うから。
だから、これ以上、私を惑わせないでほしい。
一人の世界が私には似合っているのだから。
そういうと、ちぐはぐに聞こえるかもしれない。でも、本当の体験だ。
ストリートピアノを前にした私は、気付けば、手の甲に小さな雪をひとつひとつ落として溶かしていくような旋律を奏でている。
ピアノを弾いている今は、夏であろうと雪が降っているのだ。私自身がそう感じているだけで、それは私にとって真実になる。他の人がどうとか関係ない。
戦場のメリークリスマス。今、弾いている曲。
小学5年生の頃から何度も弾き続けて、楽譜もどの鍵盤を押したらいいのかも記憶から忘れても、指が覚えてしまっている雪降る戦場の曲。
クリスマスが近づけば、練習をして、クリスマス当日には満を持して弾くくらいには、私はこの曲を丁重に扱っていた。
だけど。
私は、この曲が嫌いだ。
夜の駅に、ピアノの音が反響する。聴衆は誰もいない。
終電を逃し、一人ぼっちになった私の演奏は、私の心を鎮めるために、あるいは毒を吐き出すために、存在している。
頭が痛い。耳が火照っている。まだ、お酒が回っているんだと、駅の改札前の空間をくぐる夜風の冷たさで、明確になる。
いったい、どうしてこうなってしまったのか。
大学のサークルの飲み会のせいだと言えば、そうなんだけど、もっと言えば、古石くんがサークルの女の子たちに囲まれているから悪いんだ。
古石くんが二次会に来なよと言ってくるから、断るのも気が引けて、ずるずると来てしまった。
そんなの、はっきりと断ればいいのにと思う自分もいるけど、断った翌日に古石くんの取り巻きというか腰巾着というか自分のない何かになり果てた女の子たちが私を悪者のように言ってくる未来が見えたから、どうしようもないじゃない。
私はそれが本当に怖くて、仕方ないんだから。
そこで、背後からピコンと着信音が鳴った。
途端に指が動かなくなり、戦場のメリークリスマスは夜の包み込むような闇の中に消えていく。瓦礫の街も雪も何もない。広い空間に、黒塗りのストリートピアノが孤島のようにあるだけ。私は漂流し、遭難して、ここにいる。
呼吸を整えて、私は振り返った。
そこには、金髪の背の高い男子がいた。五分丈のクリーム色のTシャツと焦げ茶色のワイドパンツというシンプルな恰好が、よく似合っている。
バツの悪そうな表情も様になる。普段、ニヤニヤして、チャラそうな顔つきなのに、イケメンって、卑怯だと思う。特に左目の泣きぼくろが、彼のチャラさを打ち消しているような気がしてならない。
「わりぃ、乙坂。俺のスマホっちが空気読んでくれなくてさ。あとで、電池切れにして、空腹の刑に晒しとくわ」
「何しに来たの? 古石くんは私みたいな派手じゃない女子を気にかけるような人だった?」
「どうやら、乙坂を気にかけるような人だったらしいぜ?」
「……誰かどっかに隠れて、このやり取り見てない?」
「疑うねぇ」と古石くんは楽しそうに笑う。「残念だけど、俺一人。がっかりした?」
「警察って、110番だったよね?」
「それ、マジで言ってんの?」
どうやら、さすがの古石くんも警察はビビるらしい。少しは意趣返しができたから、私は溜飲を下げる。
私はピアノの椅子に座ったまま、この状況について考える。
どうして、古石くんは私を探して、ここまで来たのか。
「もしかして、由美から聞いたの?」
「え、ああ、そうだな。聞いた。終電ないんだろ? さすがに一人はマズいと思ってさ」
「ふーん」
由美が変な気を回してくれたわけね。次の土曜日はケーキバイキングに連れて行ってあげようかな。最近、ダイエット始めたって言っていたし、チートデイをプレゼントしてあげなくちゃ。
「ていうかさ、なんで終電ないのわかっているのに、こんなところにいるんだよ」
「……時間を勘違いしていただけ。まだ、電車あると思ってた」
まあ、噓だけど。終電がないのは知っていて、ここにいる。
「なら、俺たちのところに戻ればいいだろ。それか、誰かの家に泊めてもらうとか」
「心配してるの?」
「当たり前だろ」
真剣な顔で言われる。私は思わず、顔を背けた。そういう顔されると、私の中で変な感情が湧くから、やめてほしい。
「それは、ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
ピアノの鍵盤を眺めて、私はできる限り、冷たい声で言った。
不完全な私をもう見せたくなかったから。
だから。
「へぇ……」と陰険な声が聞こえ、私はなぜかわからないけど、危険を感じた。
「なに、その含みのある反応?」
古石くんの方を半ば睨むように見て、私は尋ねる。
「いやぁ、なんていうか、これなんだけど」
スマホを持ち上げ、彼はひらひらと見せつける。
「充電ゼロにするんでしょ? それとも、ここでバッテリーを外すわけ?」
「そうじゃなくて、さっきの演奏の動画撮ったんだよ」
言葉が出なくなった。
どうして? どうして、そんな酷いことをするの?
不完全な私を撮って、いったい何をするつもりなの?
そのスマホの中には、戦場のメリークリスマスを最後まで弾いていない私しかいないよね?
そんな私を見て、古石くんはニタリと嫌な笑みを浮かべた。
「お~、めっちゃ、動揺してるじゃん。何? そんなに撮影してほしくなかったの?」
「……して」
「ん? なんて?」
「消してって言ってるの!」
私は椅子から立ち上がり、古石くんのスマホに手を伸ばした。
でも、古石くんは背が高くて、簡単に私の手の届かない高さまでスマホを持ち上げた。
「だーめ。これは、俺の宝物だもん」
「いいから、消してよ! そんな私を残すなんて、許さないから!」
「じゃあ、俺のお願い聞いてよ」
「最低っ! 人を脅すの!?」
「俺のことは、祥介って呼んでよ」
「話が聞けないの!? 耳が腐ってるわけ!?」
「そんで、美詩って呼ばせて?」
本当に、高身長は卑怯だと思う。私がスマホに手を伸ばして無防備なところに、耳打ちで名前を呼ぶなんて。背筋が痺れる。
そんな感情は持ちたくない。
だって、私は古石くんの隣には相応しくないと思っているから。
完成された人間の隣に、不完全な人間はいられないと思うから。
だから、これ以上、私を惑わせないでほしい。
一人の世界が私には似合っているのだから。
