星はきらきら瞬いている。

 いつもいつも遠くの空の向こうで。

 きれいだなって思う。

 だけど、どんなにきれいな光だって、わたしの心は照らしてはくれない。







 バスを降りた途端、ひんやり凍りついたような空気が肌を覆う。

 久しぶりに降りた御裳川(みもすそがわ)のバス停は相変わらず人通りは少なく、『関門トンネル人道入口』の明かりさえなかったらあたりは真っ暗だっただろう。

(ライトアップくらいされていてもいいのに)

 世間では歴史好きを明言している女の子たちが増えてきていると聞くのに、道路を挟んだ先の歴史的スポットは全くなにも見える様子はない。

 かつて、源氏と平家が最後の戦いを繰り広げたというこの場所は令和の今ではずいぶん静かなものだ。

 いや、ここが賑やかだったことを見たことない。

 じっと視線を向けていると何か見てはいけないものを見てしまいそうで、そっと目を逸らす。

 慣れた場所のはずなのに、怖いものは怖い。

 ふぅと息を吐くと空気が白く色を染めた。

『え~、万美子(まみこ)、もう帰っちゃうの?』

 高校時代からの親友に泣きつかれたのを思い出す。

『まさか万美子が一番に結婚すると思わなかったよ~』

 結婚の報告をしたら四方八方から質問の嵐で、絶対にすぐには帰れそうになかったため、近しい友人たちにだけ挨拶をして駅前の居酒屋からそそくさと退散してきたのだった。

 五年ぶりに戻った懐かしい場所は、あのころとちっとも変らない。

 ちょっとくらい変わってもいいじゃないと思うものの、ほんの少しだけほっとしている自分もいる。

 壇ノ浦の戦いの跡地である『みもすそ川公園』が真っ暗なのに対して、少し先に聳える関門橋やそれよりもっと先に見える海の向こうの街の明かりはこことは比べ物にならないくらいきらきらと輝いて見えた。

 久しぶりに来るのはいいものだ。

 大嫌いだった場所に再び立ち、その景色を眺めて懐かしく思えるのはわたしも大人になったという証拠だろう。

 毎日毎日ここへきてはふてくされて海を眺め、泣いていた不安定な背中が見えるような気がした。

 人なんて、大嫌いだった。

 家族も友達もいらない、どこか誰も知らないところへ逃げてしまいたかった。

『万美子が一番に結婚するなんて思わなかったよ~』

 そんな言葉を思い出して、苦笑する。

 わたしもそう思うからだ。

 かつてここで早く大人になりたいと願っていたわたしは、今のわたしのことを想像することができるのだろうか。自分でもおかしくなる。

 ずっと眩しくて憧れていた。

 向こうに見えるまばゆい景色も、そこに住む人たちのことも。

 明るくて眩しくて、わたしとはまるで別世界に見えた。

 わたしはここに来たかった。

 大切な人と、新しい世界を作っていく前に、過去の自分と決別したかった。

 ここから向こうへ渡ることができなかった自分に、もういいんだよって言ってあげたかったのだ。







 何もかも諦めていて、すべてのことが大嫌いで、世界は常に真っ黒で。

 それでも母の言いつけは破ることができなかったわたしが、唯一自分史上に残る大きな冒険をして警察にお世話になったのは、忘れもしない優しい光に包まれたあの秋の日のことだった。



『マミちゃ~ん、これ、お土産』

 じゃーんと得意げに鞄から紙袋を取り出し、屈託もない笑顔を浮かべる男子の名はセイ。

 多分、近くの高校の生徒だと思うけど、本当の名前さえ知らない男の子。

『なにこれ……』

 わたしが手に取る前に紙袋から取り出されたのは手のひらサイズのぬいぐるみだった。

『スペースワールドのお土産!』

『……はぁ?』

 トロンとした瞳と前歯が出たうさぎのぬいぐるみをドヤッと見せられても反応に困る。

『遠足で行ったから』

『いや、わたしも来週行くんだけど』

 北九州市にあるテーマパークのことを言っているのならわたしだって来週行くと伝えてあったはずだ。それなのにお土産を買ってくるなんて、どうかしている。

『マミちゃんだったら絶対買わないだろうと思って』

(ええ、買わないでしょうよ)

 結構高かったんだ、と手渡されても困惑するしかない。

『美人で近づきがたいけど、これつけてたら本当のマミちゃんは優しくて親しみやすい人なんだってわかるだろうから』

『余計なお世話なんですけど。第一、わかってもらえなくていい』

『またそんなこと言う』

 などと言いつつも笑顔を絶やさないセイには何も言い返すことができなくて、小さくありがとうと呟くと彼は満足そうに頷く。

 木曜日の夕方にだけこの地に現れるセイはつかめない存在だった。

 ひとりでいいのだとずっと思っていたのに、この人のいる空間だけは不思議といつものわたしでいられた。



 わたしがこの街、山口県下関市(やまぐちけんしものせきし)に引っ越してきたのは、高校生になってすぐの夏の終わりのことだった。

 もともと仲の悪かった両親が父の浮気が発覚したことをきっかけについに離婚を決めたため、母の実家のあるこの地に引っ越してきたのだった。

 今でこそ上辺の付き合いだったと思うけど、当時はそれなりに仲の良い友達もいて、見栄を張って頑張って受験した偏差値の高い可愛い制服の高校も夏休みまでしか通うことは許されなかった。

 突然、山口県に引っ越すと言われ、すぐに編入試験を受けさせられ、この右も左も言葉さえもまったくわからない土地にやってきたのだ。

 何のために今まで必死に受験勉強を頑張ったのだろうかと絶望した。

 なにより、どうせ父が外で遊んでいることなんてわかっていたことだし、わたしが高校を卒業するまで見て見ぬふりをしてくれればよかったのにと母に対して苛立ちさえ感じていた。

 だけど、わたしはヒステリック気味の母に怒鳴られると萎縮してしまってなにも言い返せず、ただただ言われたままにこの地に引っ越してきたのだ。

 『下関(しものせき)

 条約が結ばれた場所だったと小学校の歴史で習ったことがある。

 でもまさか……こんな夜になるとすべてがオフ状態で静まり返り、真っ暗になる街に自分自身が住むことになるなんて思ってもみなかった。

 転校した先の新しい学校は、初日から本当に最悪だった。

 まだ新しい制服が完成していなかったため、かつての高校の制服を身に着けた季節外れの転校生が珍しかったのだろう。

 一斉にいろんなクラスの人間がわたしを見にやって来たし、こそこそ何かを言っているのだってわかっていた。いきなり話しかけられ、聞き慣れないイントネーションや語尾に驚き、フリーズしているうちに『お高くとまっている』とか『嫌な感じ』とみんな遠目にはもの珍しそうに眺めるくせに、話しかけてはこなくなった。

 問題ない。

 友達なんてほしいとも思わない。

 こんな街、すぐに出て行ってやるんだから。

 そう思っていた。

 母の借りた小さなアパートはとても窮屈だったけど、海に近い場所にあってそこだけは唯一嫌いではなかった。

 学校が終わるとすぐにバスに乗り込んで帰ってくる十数分の道のりは、きらきらしていて目を奪われた。

 見慣れない景色だったからこそ、小さく胸が揺れたのだと思う。

 好きだったのは、夕暮れに海の向こうに見える門司港の景色だ。

 オレンジ色のライトがチカチカと光っている。

 夜は絶対に外へでちゃダメよ、と耳にタコができるほど言う母は自分が外へ出て、東京の男()と出会ったからだろう。

 言うわりに母は夜まで家に帰ってくることはなかったため、誰に注意をされることもなく、ふらりとその光景を見に外へ出るのが日課になった。

 ちょうど秋になったばかりで気候にも恵まれていた。

 公園というけど遊具ひとつない海沿いに小さく佇むみもすそ川公園のベンチに腰掛け、暗くなるまで過ごすことが増えた。

 自分の部屋さえない小さなアパートにいても気が滅入るだけだ。

 その日も帰るなり、長い髪をひとつにまとめ、ジーンズに履き替え、パーカーを羽織って外へ出た。

 新しい生活はどう?と連絡をくれていたとかつての友達からの連絡もひとり、またひとりと途絶えていった。

 入学して早々に連絡先を聞いてきた清水先輩も今は可愛い彼女ができたらしい。

 どうでもいいのに、周りからそんな連絡だけは入ってくる。

 人間関係なんて、どうせ終わりがくる。

 ここで敗れてほろんだ平家の人間には申し訳なく思うけど、わたしはもうこれからの人生に希望なんてなかった。

 ただ、こんな狭くて過ごしにくいところにだけはいたくないから大学は東京に行こうという目標はあった。遊び相手もいないし、勉強に励めばいい。

 どうせ、離れたら終わるのだから。

 ゆったり船が通り過ぎる様子をぼんやり眺め、何も感じられないわたしは、心がどんどんすり減っていくのを感じる。

 バカだなぁと思う。

 東京から来たという男にほいほいついて行ったくせにこんな風にまた戻ってくることになった母も、そうは思いつつ反抗できない自分も。

 母は、自分が自由になれなかった分、わたしに執着するようになった。

 あれはダメ、これはダメ。

 言われたとおりに生き、母がヒステリックを起こさないようにとばかり先回りをして考えるようになった。すでにわたしは母の操り人形だった。

 何をしても希望を見いだせない。

 きっとわたしはろくな大人にはなれないし、一生このままなのだろう。

「ああ、もうっ!」

 大きな声で叫んで、顔を覆った。

 どうしたらいいのかわからない。

 もやもや、もやもやもやもや。

 心がどんどん黒い影に覆われていく。

 息をするのも苦しくて苦しくて、仕方ないのだ。

『大丈夫?』

 そんなときに声をかけてきたのが、セイだったのだ。

 誰このひと?と思って視線を上げると見たこともないきれいな顔をした男子生徒が立っていて、不意に止めていた呼吸を再開したら、思わず涙が出た。

 声をかけるなら、空気を読みなさいよ……そう思ったのが、第一印象だった。





『いっつも思うんだけど、それだけで足りる?』

 いつものように彼の自転車に乗せてもらい、近くのコンビニで買ったおにぎりを頬張る。

『足りる。むしろ食べなくても平気なくらい』

『いやいや、マミちゃんは細すぎるからしっかり食べて』

 セイはもともと下関出身らしいけど、両親の転勤に伴ってひとりでこっちに残ったのだという。海を挟んで見える先の門司港レトロ地区に祖父母の家があって、そこに滞在しているらしい。

 普段は電車で通っているセイの所属する陸上部は木曜日がお休みということもあって、トレーニングがてら木曜日は自転車で通っているのだとか。

 その際は門司港からみもすそ川公園前(下関市)までつながる海底トンネルを通って高校に向かっている。

 感情をぶちまけた初対面のあの日を境に少しずつ話すようになり、だいたい木曜日の夕方になるとセイが姿を見せるため、今では木曜日になるとふらっと外へ出て、彼がやってくるのを待ち、他愛もない話をし、夜になって解散する……それが新しい生活のひとつになった。

 自分でも不思議だったけど、彼の隣にいると、ゆっくり息が吸える気がした。

 セイはあまり自分の話をしない……というよりも、会うたびに一週間分ため込んだわたしの言いたいことをばかりが溢れてしまって彼の話を聞き損ねてしまったとあとから反省する日ばかりだった。

 あれが言いたいこれが言いたいと、普段人と接することがない分、小さな発見から何から何までセイに話したくて仕方がなくなっていた。

 彼は本当に聞き上手だった。

 本名も知らなければ、高校名だってあいまいだ。

 着ている制服から、あそこかな?とは予測をしているものの、改めて聞いたことはない。それに、わたしだっていつも私服で彼と会っているわけだから、彼もわたしの高校を知らない。

 気にはなったけど、途中からこれ以上踏み込むのが怖くなってしまった。

 今の関係がちょうどいい。

 お互いのことをすべて知っているわけではないからこそ本音を言いやすいし、普段にはないありのままの自分でいられた。

 だからこそ、あえて彼について追及することはしなくなった。

『おいしい?』

 いつも飽きることなくドライカレーのおにぎりを食べるわたしにセイは聞いてくる。

『……ぶ、ぶちうまい』

『おお! それいね~』

『え? それ、どういうこと?』

 セイは下関(ここ)で使われる言葉を使わない。

 母親が関東出身と我が家と逆のパターンだったらしく、標準語のアクセントでも話すことができるらしい。

 初対面の日にこの街が嫌いだの、言っている言葉がわからないだの散々失礼なことを言ってしまったからだろう。セイはわたしの前で自分の言葉は使わない。

 生まれ育った街で培った大切な言葉だ。

 今ではとっても反省をしていて、撤回したいくらいだった。

 それでもあの日の弱音をもう一度口にする勇気もなくて、そのかわりに時々学校で耳にした言葉を口にするようになった。

 同じ日本語なのに、何を言っているのか一瞬考えることはあっても、毎日聞いていたらだんだんわかってくるものだ。

 わたしがこっそり教室で聞いた言葉を使うたび、セイは嬉しそうに笑った。

 きっとセイも普段はこの言葉を使っているんだろうなと思うと申し訳なくなった。

『本当にここは星がきれいに見えるね』

『真っ暗だからね』

 苦笑しながらセイも空を見上げる。

 みもすそ川公園は、夜になると何も見えないくらい真っ暗になってしまう。

『七夕とか、きれいに見えそうだね』

『今年は雨予報らしいけど』

『え、そうなの?』

 こっちで初めて過ごす夏で唯一楽しみにしていたというのに。

『でも雲の上は雨降らないから大丈夫。織姫も彦星も会えるよ』

『いやいや、それはさすがに夢がなさすぎるでしょ』

 大丈夫が口癖のセイの大丈夫もこればかりは笑えない。

 一年間も会っていなくて突然再会するなんて価値観とか変わっていないのかなと思ってしまう自分も嫌だけど。

『晴れるといいのに。あ、明るいといえば門司港も明るいでしょ?』

 オフィスビルがたくさんあるわけではなさそうだけど、いつも暖色の優しい明かりが遠目ながらに見えている。

『来たことなかったっけ?』

『ない』

『そっか』

 本当に目の先にあるのに、県外には出てはいけないと言われ続けていて、特に行く意味もないため海の向こうの景色を見に行ったことがない。

 東京では中学生になったころから電車に乗って好き勝手移動していたというのに、あの日々がまるで嘘のようだ。

 今では学校と家の往復しかしていない。

『日付が変わる頃に消えるし、こっちから見えるほど明るいってわけでもないよ……って、わっ! やべっ!』

 話し終わる間もなく、慌ててセイが立ち上がる。

 スマホを見ると、時間が二十一時四十分になっていた。

『ごめん。行かないと』

『いそいで!』

 下関市と北九州市をつなぐ海底トンネル『関門トンネル』は二十二時までである。

 しかも、トンネル内は自転車に乗ってはいけないため、手で押していく必要がある。

 七百八十メートルと想像以上に近い距離は徒歩だとだいたい十五分ほどで渡りきれるのだという。

 閉所恐怖症のわたしはトンネルに入ると鼓動が大きくなるため、一度見に行ったきり入ったことはないのだけど、今からセイはそこを自転車を押した状態で通ることになる。

『マミちゃん、暗いから気を付けて』

『うん、セイもね』

 早く行って、と手を振ると彼も同じように左手を上げ、トンネルに続く地下へのエレベーターに乗り込んでいく。

 扉が閉まるまでじっとその姿を見守り、わたしは海の向こう側に続く街を見つめる。

 彼は今から、あの街に帰っていく。

 わたしが知らない、あたたかな色をした街に、だ。

 知らないことが多い。

 でも、それを望んだのは自分だ。

 近づきすぎるのが怖い。

 近づきすぎて、この関係がなくなってしまうのが怖い。

 あの海の向こうは、天の川よりもずっと遠い。 

 柄にもなくそんなことを思い、ぐっとセイからもらった人形を握りしめる。

 なんだかんだで、嬉しかった。

 鞄につけていく勇気はないけど、こっそり忍ばせていくことくらいはできるだろう。

 そこではっとして、慌てて駆け出す。

 母の仕事が終わるまで、あと十五分。

 終わり次第、車の中から電話がかかってくるだろう。

 それまでにわたしも家に戻らなくてはならない。

 こうしていつものように全力で家に向かって足を進めることとなった。




 みもすそ川公園のベンチに座って他愛もない会話をしたり、それぞれの課題をしたり。

 セイは頭がよさそうだったから、絶対クラスで噂されているあの学校だろうなと思った頃には、季節が巡っていた。

 いつも会うのは木曜日のこの場所だったけど、彼に会えるのが楽しみだった。

 母がヒステリックを起こしても、わたしに対してああしろこうしろと言って口やかましくひどい言葉で罵っても、クラスでひそひそと陰口をたたかれても、遠足で回ってくれる人がいなくて、ひとりで隠れてご飯を食べたことがあっても。

 セイに会えることを楽しみにできるなら、わたしはなんだって乗り越えられた。

 この気持ちはなんなのだろうかと考えるのが怖かった。

 好きとか憧れとか、今までには感じたことのない気持ちだった。

 だけど、恋にはしたくなかった。

 恋をしたら、いつかは終わりが来る。

 それは両親を見ていたら嫌でもわかること。

 恋は片道切符しかないのだ。

 気軽に乗り込むことはできても、簡単に戻ってくることはできない。

 友達はどんな人?
 好きな子はいるの?
 彼女は……いるの?

 聞きたいことは山ほどある。

 知りたい。でも、知りたくない。

 近づきたい。でも、近づきたくない。

 きれいな顔をしていて背も高くて優しい。

 文句の付け所がないのに、同級生の男子たちのように彼がどんな風に学校生活を送っているのか、想像さえもつかなかった。

 一度だけ、雨の日に行き違いがあって、セイに会えないことがあったため、何かあったら連絡すると連絡先を教えてくれた時、目に見えて嫌な顔をしてしまった。

 本当はとっても嬉しかったのに、ひとつまた彼と離れてしまう恐怖が頭をよぎった。

 近づけば近づくほど、彼は離れていってしまうのだ。

 その表情を見られてしまったからだろう。セイからスマホに連絡が入ったことは一度もない。

 どうでもいいメッセージはたくさん届くのに、本当に欲しい連絡は来ることはなかった。

 海の向こうを眺めて思う。

 ここは、天の川よりももっと遠い。


 そこで瞬いている星はもっともっと遠い。




 いつかの終わりを考えながらも、それでもこの生活を心の支えにしていた。

 だけどかけがえのない日々は、わたしが思っていたよりも早く終わりを迎えた。



 母に、夜の外出がバレたのだ。

 あれは、暑くて暑くてたまらなかった夏が終わった頃のことだった。

 告げ口をしたのは近所のおばさんで、わたしが西高の男の子とコンビニにいる姿をよく見かけると言われてしまった。

 背が高くて美男美女のふたりだったと言ったあたり、悪気はなかったのだと思うけど、何でもかんでも見たままを考えずに他者に口にする。

 相手の立場さえ考えないのだ。本当に嫌だ。

 東京だったら、高校生が夜に遊び歩いているのをよく見かけることなのに。

 だけど、そんなのはうちの母には通用しない。

 ヒステリックなんて言葉じゃ足りないほど、その日の彼女は怒り狂っていた。

 何を言われたか、何をされたか、覚えていない。

 泣き叫びながらいろんなものを投げてきたように思う。

 気付いたらわたしは無我夢中で薄暗いトンネルの中を走っていた。

 初めて見た母の形相が怖かったのもあるけど、想像よりも狭くて誰もいない関門トンネルの中は圧迫感があって、この世の中に自分しかいないような気がして、自分でも驚くほど大きな鼓動でいっぱいになった。

 運動不足のくせに走ったからだろうか、息がどんどん荒くなる。

 いつもセイが通っている道だと思っても動悸が早くなっていく。

 線がひかれた足元に『山口県 福岡県』と書かれているのを見た時、ついに県境に来たのだとわかった。

 息が、苦しい。

 でも、もう戻りたくなかった。

 わたしは操り人形だ。

 永遠に、永遠に母の言うとおりに生きていかないといけない。

 そう思うと、消えてしまいたくなった。



 関門トンネルを渡り切り、道の先に門司という文字が目に入った時、ようやくたどり着いたのだと息をついたら涙が溢れた。

 必死に呼吸を整え、母が追ってこないかだけを確認して、エレベーターを上がる。

 この先にきっとあの優しい光に包まれるのだと信じていた。

 セイのいるあの世界に。

『……あっ』

 でも、そうではなかった。

 確かに、わたしがいつも見つめていた先は、もう少し右側に位置していた。

 一キロ弱でたどり着けそうな距離ではない。

 考えたらわかったことなのに。

 みもすそ川公園よりも真っ暗な場所に立ち、途方にくれた。

(……ど、どうしよう)

 わからない。わからない。

 どうしたらいいか、わからない。

 今、何時なのかどこへ向かえばいいのか、スマホを見ればすべては解決したのに、怖くて切った電源を付けることができなかったのは、鬼のような着信履歴で溢れているだろうことはわかり切っていたからだ。

 このままどうなってしまうんだろうか。

 そんな風に思いながら、しゃがみこんだら立てなくなってしまった。

 あれから、どのくらい時間がたったのだろうか。

 すごく、すごく静かだった。

 たまに観光客らしい人たちがエレベーターで上がってきて、端のほうで座りこんだわたしの姿を見て、うわ!と驚くことはあったけど、気にする余裕がなかった。

 この場所以外は外灯がほとんどなくて、道を右に進むか左に進むか。

 どちらに行けばセイに会えるのか。

 いや、会える確信なんてなかったし、こんな自分を見せるのが嫌だった。

 来てはいけないところに来てしまった。

 わかってはいたのに、わたしはここへ来てしまっていた。

 虫の音が聞こえ始める。

 過ごしやすい季節のため、熱中症になる心配も凍死する心配もなさそうだ。

 ここで朝を待って、それから考えようか。

 変な人さえこなければいいけど、と人間泣くに泣いたら妙に冷静になって、普段だったら絶対に考え付かないことを考えて目を閉じた……そんなとき。

『ま……み……ちゃん?』

 聞きたかった声が聞こえたが気がした。

『マミちゃん! なんで、こんなところに!』

 自転車が倒れる大きな音にびくっとして顔をあげると、セイが勢いよくこっちに向かって走ってくるのが見えた。

『セイ……』

『マミちゃん、なんで』

『セイこそ……どうして……』

 都合のいい夢かと思った。

『今日は部員たちと寄り道して……って、時間!』

 慌てて振り返ったセイの姿からして、二十二時ギリギリの時間なのだろう。

『頼めば渡りきるまで待っててくれるはず……』

『……や、こわい』

 セイに会えた安堵感か、先ほどまで感じていた恐怖なのかわからなかったけど、首を振ったらまた呼吸が乱れだし、自分でも何を言っているのかわからなくなった。

『出てきたのか?』

 静かなセイの言葉に、何も答えられなかった。

 沈黙は肯定だった。

『……大丈夫』

 いつもと変わらない、優しい声だった。

 取り乱して泣いてしまったわたしの背をさすりながら、セイはわたしの手を引く。

『よかったら、俺の街を見てってよ』

 それは、あたたかな声だった。



 落ち着いたところでセイの自転車に乗って、彼の住んでいる街を走り抜ける。

『あれが観光列車の線路』『ここからが浜町アート通り』などと一定の場所でセイの声がして、街を説明してくれているようだったけど、彼の背にしっかり捕まってぐっと目を閉じていた。

 ずっと暗い道が続いていたように思ったけど、うっすら目を開くと少しずつ光が目に飛び込んできて、遠くから見ていた暖色の明かりが見え始めた。

 まるで異国のような光景だった。

『ここが門司港レトロ地区。マミちゃん、おいでませ!』

 ゆっくり自転車を止めたセイがこっちを見て笑顔を作ったのがわかった。

 ずっと見てみたかった世界が、そこにあった。

 ちょっと回ろうか、とセイが言って、少しずつ、少しずつあたたかい光に包まれていく。

 きらきらと星が瞬くように。

 わたしもこんな優しい気持ちで過ごせたらいいのに。

『あー、この時間だとほとんど閉まってるか』

 あちらこちらへと自転車を走らせ、ぽつりとつぶやくセイに小さく首を振った。

 今まで感じたこともないくらい、幸せだと思えたからだ。

『ここが門司港駅。普段使っている駅で、あっちは船。マミちゃんの通学路にある唐戸市場まで続いてる。だいたい五分くらいかな』

 なんでわたしの通学路を……と言いかけて、わたしの制服がその場所を通った先にあることを物語っていることを悟る。

 別に、隠していたわけではない。

 でも、少しずつ何かがはがれていく。

『マミちゃん、何があったか、電車で聞いてもいい?』

『え……』

 セイの言葉にびくっとした。

『十一時半くらいが下関駅に着く最終だと思う。俺も一緒について行って、一緒に謝るから』

 言葉の意味をゆっくり噛み砕く。

 ここから電車に乗って、帰れというのか。

 あの苦痛な日々に。

『か、帰れない……』

 思わず首を振る。

『わ、わたしは悪いことなんてしてない。わた、わたし……』

 帰りたくない。

 セイに迷惑をかけてはいけないとわかっていたのに必死に首を振っていた。

『セイ、ごめん……、でも、わたし……』

『マミちゃん』

 言うなりセイの大きな手に抱き寄せられた。

『落ち着いて、大丈夫だから』

 どっくんどっくんと大きな音に耳を澄ませて、同じように呼吸を合わせる。

『大丈夫』

『だ、大丈夫なの? すっごい大きな音がしているけど』

 少し落ち着いたところで顔を上げると『今それ言う?』と外灯の明かりと同じ顔色になったセイが困ったように口元を覆ったところだった。

『ま、いっか。今帰っても朝帰ってもどうせ怒られるだろうし』

 乗って、とまた自転車にまたがったセイの後部に腰を下ろし、彼の背に手を回す。

 この自転車はまるで羽が生えているようだ。

 どこにだってつれて行ってくれる。

 本当に本当に、自由なのだ。

 オレンジ色の街を心地よい風の中、少しずつまた進んでいく。

 星々がどんどん過去に流れていく。

 住宅街を少しずつ進んですぐの角に小さな喫茶店が見えた。

 看板には『STAR LIGHT』と書かれている。

 まるでセイのようだな、と思ったところで自転車が止められる。

『しょぼいけど、野宿よりはいいだろ』

 ここがセイの家であることがわかったのはこのときだ。

 お店に隣接している建物の表札には『星名(ほしな)』と書いてあった。

『ああ、だからセイ?』

 と思わず呟いてしまうと『ううん、下の名前』と彼はまた口角を上げた。

『こっち』

 言われるがままに裏に回り、ついて行くと小さな庭があって、その奥に離れが見えた。

『こっちはじいちゃんたちが住んでいて、俺はこっち』

 あんまりきれいじゃないけど、と案内された先でセイの領域があった。

『お、お邪魔します』と、扉の前で靴を脱ぐ。

 先に上がったセイは一生懸命床に散らばったものをまとめていて、適当に座るよう促してくる。

 壁中に貼られた海外のアスリートのポスターに、ところどころに散らばった筋トレグッズの数々。

 机の上は本がいっぱい積まれていて、どこで勉強するのだろうかと思えるほどで。

 そこは、小さな世界だった。

 だけど、未知の空間に感じられた。

『あ、変な本が置いてあっても平気だよ』

『いや、ないし』

 見すぎてあんまりじろじろ見ないでくれ、と気まずそうにするセイにありったけの気遣いをするものの、困った声を出されてしまってますます妙な空気が流れた。

 壁に吊るされた時計が、二十三時半を指そうとしていた。

 セイが言っていた、下関行きの最終電車が出てしまう。

 わたしは、これで自由になったんだ……そう思ったらまた涙が出た。

 セイは何も聞かず、ただ黙って手を握っていてくれた。

 泣いて泣いて泣いた後は勝手なもので、だんだん眠くなってきた。

『ここ、自由に使って。俺は向こうに行ってるから』

 言うなり立ち上がろうとするセイの腕をつかむ。

『大丈夫、俺はじいちゃんちで休むから』

『セイもいて』

『いや、でも……』

『セイ、ごめん。でも……』

 勝手に押しかけてきて、ひどくめんどくさいことを言っているのはわかっている。

 でも今、ひとりになるのは耐えられそうになかった。

『マミちゃん』

『ん?』

『えっと……俺も一応健全な男子高生なわけで、マミちゃんに嫌われることをしたくない』

 わたしの瞳を見る目は真剣そのものだった。

 言っている意味が分からないほど子供ではない。

 だけど、自分の感情を押さえられるほど大人でもない。

『セ、セイがすることだったら、嫌いにならない』

 だから、精一杯の勇気を出してそう言ったのに、つかんだセイの腕は力いっぱい振り払われた後だった。

『明日の朝、迎えに来るから』

 声は向けられた背中から聞こえた。



 翌日、結局寝つけなかったわたしは、同じくらいひどい顔をしたセイが迎えに来たと同時に、再び彼の自転車に乗った。

 行先はわかっていた。

 セイは何も言わなくて、わたしも何も言えなくて、やってしまった……と、母とのことよりも目の前が真っ暗になった気がした。

 セイに嫌われてしまった。

 大切な大切な居場所だったのに。

 大きく間違えてしまった。

 朝日が昇り、鳥の鳴き声が聞こえ始めた頃、わたしたちはまた門司港駅の前に立っていた。

 異国のようで素敵だと思えたけど、言えなかった。

 ここで大丈夫、と自分でもびっくりするほど力のない声が出たけど、セイは手を離してくれなくて、まだほとんど人のいない電車に乗り込むこととなった。

『またここへ、来てもいい?』

 そう言いたかったけど、言えなかった。

 きっと、わたしはもうここへ来ることはないだろう。

 父について家を出た母も、こんな気持ちだったのだろうか。

 いや、ここまで悲壮感が漂っていたら最初から結果なんて見えているはずだ。

 景色が少しずつ、曇っていく。

 あたたかかったオレンジ色の光は、もうどこにもない。

 灰色の空が広がっているだけだった。



 それからのことは、よく覚えていない。

 電車からバスに乗り換え、家の前にはパトカーが止まっていて、母が捜索願を出そうとしていたことがわかった。

 わたしの代わりに頭を下げてくれたセイが、母の金切り声に攻撃されていて、ただ茫然と他人事のようにその様子を見ていた。

 謝るべきはわたしだったのに。

 その日を境に、わたしはみもすそ川公園から少し離れた祖母の家で暮らすことが決まった。

 それから数ヶ月は、すべてがぼんやりしていて、気付くと一日が経っていた。

 学校にはちゃんと通っていた。

 言われたとおりの時間に起きて、朝食を取って、バスに乗って。

 規則正しい生活はちゃんとできていたと思う。

 泣きじゃくった母に、ごめんねって思いながら、わたしは少しずつ意思を持たない人形に戻っていった。

 尖った雰囲気がなくなったためか、人が寄ってきてくれるようになった。不思議なものだ。

 あんなにもみんなが遠くにいた気がしたのに。

 でも、一言言葉を交わせば、セイと話した時と同じように心でなにかが小さく弾けたように感じられた。

 そのかわりに、セイに会うことはもうなかった。

 ううん。一度だけ、一度だけ下関駅で見かけた。

 背が高いから、よくわかる。

 何度も何度も謝りたいと思っていた。

 だからこそ、戸惑いながらも声をかけようとしたとき、『ホッシ~』と彼を呼ぶ愛らしい声が後ろから聞こえた。

『なにしちょるん?』

 思わず背を向けて隠れてしまったその背後で、セイと全く同じ声で、それでも聞いたことのないイントネーションで話す彼の言葉に、また動けなくなってしまった。

 記憶の彼を目にしたのは、それが最後だった。





「万美子」

 顔を上げると前方に愛おしい婚約者様の姿が見えた。

「迎えに来てくれたの?」

「万美子が当時の好きな人を思い出してたら嫉妬しそうだから」

「……よく言う」

 ずいぶん機嫌が良さそうだ。

「ごめん、寒かったよね」

 待っていてくれたのだろう。

 ほんのり赤く染まった頬に手を添えるとひんやりとした感触が伝わってくる。

「大丈夫。同窓会は楽しかった?」

「うん。高校時代を思い出しちゃった」

 あれから、わたしは大人になった。

 大学は岡山にある国立大学に通うため、一人暮らしを始め、そのまま岡山で就職した。

 ずっと一生ひとりで生きていくんだと思っていたし、結婚なんてもってのほかだと思っていたけど、高校三年生のときから全力投球で向かってきてくれた人ともうすぐ家族になることを決めた。

 ずっと離れて暮らしていた母とも結婚を決めてから、少しずつ話せる機会が増えた。

 わたしは、少しずつ少しずつ経験を重ね、大人になった。

 ずっとずっと世界が狭かったのだって、今ならわかる。

 小さな箱の中でもがいていた。

 だけどあの頃のわたしはあれが精一杯でその世界の狭さに気付くことができなかったんだ。

「もう一回ここへ来たかったんだよね」

 今は、海の向こうだけがきらきらして見えることもない。

 きっと、向こうから見たこちら側も同じくらい輝いて見えるんじゃないかって今なら思える。

「あの頃のわたしに、大丈夫だからねって言ってあげたかった。これ、セイの口癖」

 何度も言ってくれていたけど、わたしは一度だって信じたことはなかった。

「……あーあ、高校時代の門司港男を超えるのはまだまだ難しそうだな」

 ふっと笑って抱き寄せてくる彼からは大人の香りがした。

「大丈夫。同窓会では門司港男より、文化祭のときに大声で告白してきてくれた男の話で盛り上がっていたから」

「……さ、最悪」

「高校時代の恋愛を思い出すと、そのインパクトが一番強いかも」

 えー、と声をあげるものの、まんざらでもなさそうだ。

「ふふ、ここに来たらまた自転車の後ろに乗せてほしくなっちゃった」

「いやいや、今そんなことしたら捕まるから」

 笑いながら手を差しのべてくる彼の腕にそっとしがみつく。

「……マミちゃん」

「え?」

「あ、いや……自転車じゃないけど、我が愛車へご案内いたします」

 おどけて見せる彼はもうわたしの腕を振り払ったりしない。その様子に思わず頬が緩む。

 大丈夫。

 ここで泣いていた女の子はもういない。

 みもすそ川公園に背を向けて、新しい一歩を踏み出す。

 わたしが天の川が渡れなくたって、迎えに来てくれる人がいる。

 だから、わたしは片恋切符を改めて握りしめる。

 まだ見ぬ未来に向かって。