女中に外行き用の着物を着付けてもらった雫音は、与人と千蔭と共に町へ赴いていた。

 与人の住まう、大きな屋敷がある敷地内を出るのは、初めてのことだ。町中の景色が新鮮で、雫音はつい視線をあちこちに彷徨わせてしまう。

「この店です! この店の甘味は、どれも絶品なんですよ」

 まずはお目当てのパフェがある喫茶店に行こうという話になり、三人は『喫茶 夢庵処』と書かれた暖簾の下をくぐった。

 内装はブラウンを基調とした、落ち着いた色合いになっていた。アンティーク調の長机に、葡萄色(えびいろ)のソファが置かれ、小さなシャンデリアが各席の頭上にぶら下がっている。どこか懐かしさを感じる、レトロな雰囲気が漂う喫茶店だ。

「与人様、いらっしゃいませ」

 歳は優に六十を過ぎているであろう、丸眼鏡をかけた御老公が、席まで案内してくれる。笑うと目尻にくっきりと皺ができて、優しそうな印象を受ける。

「あぁ、ひと月振りだな」
「えぇ。新作のパフェのご用意もできておりますよ。して、そちらのお嬢様は? 見かけないお顔ですが……」

 雫音は小さく頭を下げた。

「こちらは雫音殿といって、この風之国に慈雨をもたらしてくれたお方だ」
「おぉ、ではあの噂は真だったのですね」
「噂?」
「えぇ。雨女神様がこの地に舞い降りて、雨を降らせてくれた、というものです」

 黙って話を聞いていた雫音は、それを否定しようとした。自分は雨女神などではない、と。
 嘘を吐いているようで心苦しくなったからだ。

「あの、それは…「ありがとうございます。貴女様のおかげで、大勢の者の命が救われました。今日はお好きなだけ食べて、寛いでいってくださいね」

 雫音の小さな声は、届かなかったらしい。
 御老公は恭しく頭を下げて、朗らかな笑顔で礼を言うと、手にしていたメニュー表を机に置いた。

「とりあえず、今はそういうことにしておいてもいいんじゃない? アンタが雨を降らせたってことは事実だし、店主も喜んでるみたいだしさ」

 隣に座っていた千蔭に小声でそう言われた雫音は、開きかけた口を噤むことにした。御老公は、もう一度深く頭を下げてから、店の奥へと戻っていった。

「ん? あそこにいるのは……すみません、雫音殿。オレは少々席を外しますので、メニューを見て待っていてください。千蔭、雫音殿のことを頼んだぞ」
「了解」

 店内に見知った顔を見つけたらしい与人は、席を立って行ってしまった。その背を見送れば、与人に声を掛けられた男性が慌てて席を立ち、深々と頭を下げている姿が見える。一国の領主である与人が直々に挨拶にきたことに、驚いているらしい。

 ――やはり与人は、領主らしくない領主なのだな、と。

 雫音は思いながら、店主から受け取ったメニュー表を開いた。
 そこには、雫音もよく知る料理の名前がずらりと並んでいた。パフェやプリンといった甘い物だけでなく、サンドウィッチやおにぎり、ナポリタンといった軽食もあるようだ。

「千蔭さんも見ますか?」

 千蔭にも見えるようにと、雫音は開いたメニューを左隣に寄せる。

「いや、俺はいいよ」

 けれど千蔭は、興味なさげに首を振る。再びメニュー表に目を落とした雫音だったが、そこに書かれた食べ物の名前を目にした瞬間、幼い頃の記憶を思い出した。

「……どうかした?」

 どこかぼうっとしている雫音に気づいた千蔭が、不思議そうに尋ねる。

「……あ、いえ。ただ、懐かしいなと思っただけで」
「懐かしいって、何が? ……パンケーキ?」

 雫音が指さす文字を声に出した千蔭は、また不思議そうに小首を傾げた。

「はい。子どもの頃に、母がよく作ってくれたんです」

 綺麗な黄金色に焼かれた、分厚くてふかふかのパンケーキ。真ん中にバターをのせて、メープルシロップを垂らした、パンケーキといえばのオードソックスなあの味。母の作ったパンケーキが、雫音は大好きだった。

 あの頃の雫音は、自身の体質のこともあり、学校を休みがちだった。イベント事がある日などは、特にだ。
 けれど母は、そんな雫音を責めることも、学校に行きなさいと諭すこともしなかった。雫音の大好きなパンケーキを作って「一緒に食べよう」と、いつだって優しく笑いかけてくれた。

「お待たせしました。雫音殿は何にするか、決められましたか?」

 知人への挨拶を済ませた与人が戻ってきた。目の前のソファ席に腰を下ろして、雫音の手元にあるメニュー表に視線を向ける。

 母のことを考えてぼうっとしていた雫音は、何を注文するか、まだ決めていなかった。けれどここは、誘ってくれた与人を立てる意味でも、与人おすすめのパフェを頼むのがいいだろう。そう思ったのだが……。

「この子はパンケーキにするってさ」
「パンケーキですね! 承知しました」
「え? いや、その……」

 千蔭の言葉に頷いた与人は、店員を呼ぶと、そのまま注文を進めてしまった。

「あの……私、パンケーキにするだなんて一言も言ってませんよ?」
「でも、食べたいんでしょ? 言わなくても、顔に書いてあったよ」

 千蔭は雫音の顔を見ることなくそう言うと「俺は冷たい玄米茶で」と店員に注文する。

 それから十数分ほどして運ばれてきたのは、千蔭が頼んだ玄米茶と、与人が頼んだチョコレートパフェ。そして、二段重ねになったパンケーキだった。
 銀のトレーには、パンケーキと一緒に、レモンの輪切りが浮いたアイスティーも載っていた。アイスティーは、この地に雨を降らせてくれたことへの心ばかりの感謝の気持ちらしい。

「さっ、雫音殿。食べてみてください」
「……それじゃあ、いただきます」

 与人から期待に満ちたまなざしを受けながらも、雫音はナイフを使ってパンケーキを一口大に切った。そして、パクリと頬張る。ふわふわの生地に、バターと甘いシロップが合わさって、口の中で蕩けていく。

「……美味しい」

 呟けば、雫音の隣に座っていた千蔭が、フッと息を漏らす音が聞こえる。

「そういう顔もできるんだ」

 鼓膜を揺らした優しい声。顔を上げた雫音は、左を向く。
 そこにあったのは――初めて目にする、千蔭の笑顔だった。

 いつもの貼り付けたような笑い方ではない。眉を下げて、口角をほんの僅かに持ち上げただけの、微かな笑みだ。とても分かりにくいけれど、でもそこにあるのは、千蔭の素の部分を感じられるような、そんな表情だった。

 雫音が思わず見惚れていれば、千蔭は自身の手元にあるグラスを手に取った。よく冷えた玄米茶を一口。喉仏が小さく上下する。
 そしてグラスを口許から離した千蔭の顔は、いつもの作り笑顔に戻ってしまっていた。

「雫音殿に気にいっていただけて、よかったです」

 雫音のほころんだ顔を見て満足そうに笑った与人は、自身が頼んだチョコレートパフェに手を付け始める。

「ほら、アンタも早く食べなよ」
「……あ、はい」

 呆けていた雫音は、千蔭にうながされて、パンケーキをまた一口頬張った。口内が優しい甘さで満たされて、頬が勝手に緩んでいくのが分かる。

「アンタって、ずっと人形みたいに感情のない顔してるけどさ……今みたいに笑ったり、それこそ、もっと怒ったり悲しんだりしてもいいんじゃないの?」

 グラスを置いた千蔭は、机に頬杖をつきながら、右隣に座る雫音を見つめる。ジッと見られていたことに気恥ずかしさを覚えた雫音は、口の中にあるパンケーキを飲み込んでから、口許をぎゅっと引き結んだ。

「……千蔭さんには、言われたくないです」
「あはは、まぁそれもそうか」

 雫音の返しに、千蔭は可笑しそうな声音で同意を示した。そこにあるのは、やはりいつもの、綺麗な作り笑顔で。

(さっきの笑顔の方が、ずっと素敵だったのに)

 雫音は、ただ純粋に、そう思った。
 けれど何故だか、それを口にすることはできなくて。

「……」

 パンケーキをまた一口、パクリと頬張る。

 母が作ってくれた味とは、どこか違う。
 けれど、何だか懐かしくて、優しい味がする。そんなパンケーキだった。