今日は、いつもと診察する部屋が違った。いつもは二階だったが今日は一階。今後一階での診察も多くなるかもしれないからしっかり場所を把握しておく必要がある。
お会計で呼ばれるまで椅子に座って待つことにした。入院している人がお見送りで、出入り口付近に立っていたりする。家族が帰るのは早い寂しいのだと思う。
私の目の前を円背のおばあさんが杖をついて横切ってゆく。すると、鞄から何か落ちた。あっ、急いでそれを拾い上げる。それは、蔓の絵柄で彫られている栞だった。随分と使い込まれているようで、所々色が剥げていたりする。
「待ってください!落としましたよ!」
耳が遠いのか私の声は聞こえずゆっくりゆっくり歩いてゆく。
私は椅子から立ち上がり、おばあさんの横に近づき袖を軽く引っ張る。それでやっと気がつきゆっくりと顔を上げる。一つ一つの動作がとてもゆっくりなおばあさんだ。
私に何か用ですか?と言った感じで首を傾げる。
「えっと、おばあさんの鞄からこの栞が落ちましたよ」
栞をすっと差し出すと、あれまぁ…と言い自分の鞄から無くなっていることを確認し始める。
「わざわざどうもありがとう。助かりました」
おばあさんの顔はとても笑顔である。気づけてよかった。そう思った。
あっ、ちょっと待ってね。鞄の中から桜の花びらの形をした和菓子を2つ取り出した。
「よかったらどうぞ。これね、とっても美味しいのよ」
ふふふと笑う。笑った時にできるシワが、よりおばあさんの優しさを引き出している。
「ありがとうございます。美味しくいただきます」
笑顔で返し、その場を後にする。
ちょうどその時、お会計の順番が回ってきた。これで、今日の予定は全部お終いだ。後は帰るだけ。
裏庭…。またあの青年がいるのではないかと思ってしまう。別に会う約束はしていない。ただ…なんとなく会いたくてなってしまう。
ガタガタ…ガタガタ…
ん?前回と同様に強風が吹き窓ガラスが揺れた。よく強風が吹く病院だ。まぁ、この後予定ないことなので行ってみることにする。
再び一階に降りる。前回と同じガラス戸から外へ出ると、青年は木の下で本を読んでいた。きっといるだろうと思っていた。私の勘は当たった。
こんにちは。と声をかけると青年は読んでいた本を閉じた。顔を上げて私を見る。
「あぁ、君か。久しぶり。また会ったね」
青年はいつも簡潔に言葉を返す。人と話すのは好きではない方なのか。それなら私と少し似ている。
「今日もここで本を読んでいるのね。この前読んでた誰がために鐘は鳴るという本かしら?」
「そうだよ。あと少しで読み終わる」
ふーん。本を閉じた所を見ると栞が挟まれている。まだ前半部分を読み進めているみたいだ。私だったらクライマックスまで一気に読み進めたい。早く結果が気になってしまい、集中して読み進めるだろう。私がいることで邪魔になっているのならすぐにこの場を立ち去ろうと思った。
そんな私の気持ちとは裏腹に青年は予想外の言葉を口にする。
「そんな所に立ってないで隣に座りなよ」
「え?いいんですか?」
「変な事を聞くね。嫌だったら隣に座りなとか言わないよ」
それもそうかと思う。ありがとうと返す。それ以降会話は続かず無言の状態が続く。この均衡とした状態を壊したのは意外にも青年の方からだった。
「君はどうして病院に通ってるの?見た感じどこも悪そうには見えないけど」
その言葉に悪気はないことは分かっている。どこも悪そうには見えない。普通に見える。でも、それが違った瞬間は?その瞬間に重たい空気が流れ、何て声をかけたらいいか分からない態度をとられる。最初はそれで終わるが段々出来ないところに目をつけ、ハイエナのように群がる。次いつ間違うか、間違えた瞬間を見逃さないように、その瞬間を思いっきり笑えるように。反吐が出る。
でも、その考えに悩まされ抜け出せない自分が嫌だ。その経験も気持ちも全て過去のもの。今はそんなことする人はいない。その経験の場に出会さないだけかもしれないが。実際目のことを話しても傍に居てくれる由花がいる。それだけで十分だと、いつも最後はそこに辿り着く。だから、他の人の言うことはほとんど気にならなくなった。
「私は生まれつき全色盲なのよ。でも、最新の技術で色が見れるコンタクトレンズが開発されたの。その治療で今は通っています」
一瞬びっくりした顔をした。
「もしかして君の担当医師は石田徹郎先生?」
「そうですけど…。よく分かりましたね」
あぁ。その時の表情は今でも忘れない。とても嬉しそうな顔をしていた。その後青年は私が過去に経験したことを黙って聞いてくれた。話の節々で相槌をし、私の話に寄り添ってくれているみたいだ。
「僕は君とは逆だ。僕は、みんなと同じ色が見えない。見えすぎてしまうんだ」
何を言っているのか最初は分からなかった。話を聞いていくうちに徐々に青年の言ってることが理解できた。人間の色覚は3色型で見える。だが青年は4色型の色覚を持ち合わせており他の人より沢山の色を見ることができるらしい。
そんなこと言われても私には理解することが難しい。私とは正反対の場所にいるのだから。なんと声をかけていいかも分からなかった。
「私は今まで色が見えてる人達が羨ましかった。どうして自分は見えないのか何度も何度も考えたけど、最終的には考えるのをやめてその現実を受け入れました」
「僕も何回も考えた。どうして他の人よりも見え過ぎてしまうのかって。でも最終的には君と同じで考えるのをやめてしまうんだ」
その気持ちは深い程よく分かる。私とこの人は似たような境遇にいるのかもしれない。だから
こそ、お互いに寄り添うことはできないかと考える。
「さっき色を観る治療をしてるって言ったじゃないですか。私治療が終わった後にここに来ます。それで、私に色を教えていただけませんか?」
え?色を?青年は目を丸くして聞いている。
「私、今日ほんの一部ですが色を観て凄く感動したんです。周りの人達はこんなにも素敵な世界を観ているんだって。私もその世界に入りたいって思ったんです。ダメですか…?」
君は不思議な人だ。その時の表情はとても柔らかく少しだけかっこよく見えた。
「色を教える前に君に一つ聞きたいことがある」
聞きたいこと?なんだろう?と首を傾げて待っていると、その質問はとても簡単で拍子抜けしてしまった。
質問は、君の名前は?だった。
私達は、この前知り合って今日までお互いに名乗り合うことなく過ごしていた。その事がなんだかおかしく、笑いが込み上げてくる。
するとやっと笑ったね。と声をかけられた。私が笑うのを止めると、出会ってから今まで緊張していたのか全く笑っていなかったことを伝えられた。
「私は普段からあまり笑いません。これが普通なんです」
「じゃあ、これからもっと笑うようにしたらいい。人は笑う人の所に集まりやすいから」
言っていることは当たっているがそれができたら苦労しない。これでも笑うようにはなったのだ。これ以上に笑うとなると、由花や春川さんレベルになるしかないと思う。自分がそんなに笑うのも想像できない。
「まぁ、ひとつまず私の名前は瑠璃です。16歳でN高校に通っています」
ざっと簡潔に自己紹介をすると、青年も続けて自己紹介をしてくれた。
「僕の名前は真二。18歳だ。M高校に入学している」
M高校?この辺の高校かな?聞いたことない高校名だったが、そんな高校たくさんあると思い対して気にも止めなかった。
「私よりも2歳年上だったんですね。どうりで大人っぽいと思ったわ」
「2歳くらいなら大して変わらないよ。それで、君は今日どんな色を観てきたの?」
自己紹介をすればもう少しフレンドリーになるかと思ったがそんな事はなかった。今までと変わらず簡潔に返すのは変わらない。
私は今日観た色のことを真二さんに話した。その色を観てどう思ったか、何を感じたか。私が嬉しそうに話すのを終始聞いてくれる。
こんなに色のことについて話すのは初めてじゃないかと言うくらい話す。きっと今日一日にあった全ての事が私にとってとても嬉しい日なのだ。
私が話終えると真二さんはぽつりと言葉を口にした。
「君の今の雰囲気はまるで緋色だ」
「え?緋色?なんですか?」
聞いたことはあるでしょ?と返されたが全く分からなかった。私が知っている色は15種類くらいしかない。色が見えないから他の色を知ろうとはしなかった。返事をしない私に、真二さんはゆっくりと説明を始める。
「緋色はピンク系統の色合いなんだ。平安時代では思ひの色と呼んで、『ひ』から火が連想されまたそこから緋に繋がって熱き思いを緋色で表すようになった。という諸説があり、君の色へ対する思いが緋色みたいだと思ったんだ」
分かりやすい説明。と言うと目線を逸らされ、こんなの普通だよ。とぶっきらぼうに返される。でも、よく見ると逸らされた顔の表情がさっきまでと変わっていた。もしかして照れてるのかな?と思い違う言葉も投げかけてみる。
「真二さんって色のことについて本当お詳しいんですね。どこで色を覚えたんですか?」
にこにこしながら質問すると、私の意図に気づいたのか表情は元に戻っていた。
「君が考えそうな事はすぐ分かる。色は独学で勉強した。色は507種類もあるって知っていたかい?僕は色の名前全部と意味も理解している」
真二さんの方が何枚も上手だったみたいだ。507種類も色があるなんて驚いた。自分が今日観た色なんてそれに比べたらほんの一部で、もし手術をすれば私も507種類もある色が見られると思うと期待で胸が膨らむ。
「もし、私も目の手術をすれば507種類の色が見られるかしら…」
その言葉には期待の意味とやはり自分には無理ではないかという意味が込められている。そこまではさすがに相手には気付かれていないみたいだ。
「君の雰囲気は本当コロコロ変わる。面白い。今度は黄櫨染色に染まったよ」
また私の知らない色を…。きっとその色にも意味があり今の私に似合っているのだろう。黙っていてもきっと教えてくれるそう思っていた。
「教えて欲しい?」
「え!?教えてくれないんですか!?」
予想していた展開と違ったもので、つい大きな声を出してしまった。クスッと笑われ、君の反応は面白いと言われる。面白くないです。と返す。
なんなのよ…と思っていると、私が聞き取れるかくらいの小さな声であの子に似ている。と聞こえた。え、あの子?と聞き返そうとすると、真二さんの口が開いた。
「黄櫨染色はね、その色が作られるまでにとても複雑な工程があるんだ。だから出来上がった時に同じ色に見える色はほとんどない。人間も同じで、光の加減などにより人によって見える色は違う。手術したからと言って507種類も見えるかどうかは分からないよ」
その言葉に少し傷ついた。手術しても同じ色は見えないかもしれないと言う事。それでも、またしてもこの人の優しい一面を垣間見た。手術したら色を観る事ができるという希望だけを与えるのではなく、しっかりと見えない時のことも教えてくれる。私はそれだけで嬉しかった。
「嬉しいです。ありがとうございます」
私の言葉にまた目を逸らし、なんでお礼いうの?変な性格してるね。照れ隠しなのはもう分かり切っている。真二さんも本当素直ではない。
「君は嫌がるかも知れないけど、僕は君の見えている世界を少し羨ましいと思っている」
その言葉は生まれて初めて言われた。私の見えている世界が羨ましい…?それは白黒の世界のことを言っているのはすぐに分かった。
「君にとったら僕達周りの人達はカラフルな世界を持っていると思ってるだろう。でも、君は持っていない。君にしか見えない世界を持っていると思ったら羨ましくなったんだ」
「じゃあ、羨ましくなったついでに今あなたはどんな雰囲気なんですか?教えて下さい」
君の理論は意味がわからない。と言った風に顎に手を当て今の雰囲気を考えている。
「今の僕の雰囲気を表すのなら鴇色になるかな薄いピンク色」
鴇色…。鴇っていうのは動物の鴇よね?ピンク色の鴇がいるのかしら。私も真二さんと同じように顎に手を当て考えてみた。
「鴇色は、鴇が空を飛ぶ時に必要な羽の色のことを言うんだ。その羽のことを風切羽と言って、鴇はその羽が抜けてしまうと空を飛ぶ事ができない」
「鴇色の意味は分かったけど、今の真二さんとどう関係がしているのか分からなかったわ」
真二さんはもう一度頭の中で、言葉を整理し私に分かりやすいように説明してくれた。
「つまり、鴇にとったらその羽はとても大切でその羽じゃないとダメなんだ。だから君の見ている世界を羨ましいと思うが、僕は僕が見ている世界が一番良くて今見えている世界じゃないとだめなんだよ。それに、僕はさん付けで呼ばれるのは好きじゃない。真二って呼び捨てでいいよ」
この短時間の間に幾つの色を聞いたか。私が知らない色を一日でこんなに聞いた事はない。真二が色に対してこんなにも真剣に向き合っているなんて思わなかった。でも、最後の説明には自然と笑顔になる。
どうして笑ってるの?僕の話聞いてた?と少し不機嫌に返される。
「ごめんなさい、そうじゃなくて。最後の説明中二病臭いなと思って。あと、あなたのこと真二ってこれから呼びますね」
もう一度思い出しても笑顔になってしまう。だが、青年の表情は浮かなかった。
「ごめん、僕は中二病?なんて言葉の意味がわからない。初めて聞いた。どういう意味?」
え!?こんなに有名な言葉を知らない人に私は初めて出会った。日本人の若い男性で知らない人なんてこの世にいるのかしら…。
ちらっと見ると、私の説明を待っているみたいで私の瞳から目を離そうとしない。
「そうですね…。言葉どうり中学2年生で思春期にありがちな行動を取ることですよ。空想や嗜好などを揶揄した物ですね」
「なるほど。でも僕は違う。中二病ではない」
大体の人はバレるのが恥ずかしいから自分は違うって否定しちゃうんだよね。まぁ、本当に真二は違うとは思うけど。
「私中二病知らない人に初めて会いました。真二はハーフ?それなら知らなくても仕方ないですね」
端正な顔立ちから最初は外人を疑ったが、日本語がペラペラな事からハーフではないかと推測した。だが違ったみたいだ。
「僕はれっきとした日本人だ。外国の血も混じっていない」
ハーフの友達は今までいた事なかったから少し期待してしまった。日本人でこんな綺麗な顔をしていたら芸能人デビューしてもいいのにと思ってしまう。
真二との話が楽しくつい忘れそうになってしまうが、ここは病院の裏庭で彼は入院患者だ。前にずっとここにいる。と言っていたが彼はどこが悪いのか。聞きたくても聴けない状態が続く。
「まぁ、瑠璃が間違えるのも仕方ない。僕の髪は亜麻色だから良く他の人にも間違えられてたよ。色的には茶色を薄くしたような色をしている」
やっぱり私以外にも間違える人はいるのだと思い嬉しかった。外人に間違えられるのは嫌かと聞いたが真二はゆっくり首を振った。
「前は嫌いだった。でも、この髪もこの顔も好きだと言ってくれた人がいたんだ。そしたら自然と好きになった」
人から自分のコンプレックスなどを、好きや魅力だと言われると自分に自信がつく。私も自分の見えている世界をそれも私の魅力だと言ってくれた由花の話をすると、素敵な友達を持ったねと言ってくれた。
その言葉が嬉しく顔が綻ぶ。自分が大切にしている人を肯定的に見てくれると嬉しくなるが、逆に何も知らないのに否定的な事ばかり並べられると悔しくなる。もし由花に酷いことをする人がいれば、何度も私の事を救ってくれた由花を守ろうとこの時誓った。
「また君の雰囲気は変わった。今度は薔薇色だ」
薔薇って確か赤色よね。今日見た色だから連想はしやすかったが、雰囲気が赤なのは想像つかなかった。真二に言わせれば赤ではなく薔薇色というに違いない。
「日本では薔薇色というと少女の頬の色のことを指すんだ。瑠璃の頬が徐々に赤くなったから薔薇色が今の雰囲気に合っていると思ったんだよ」
急に恥ずかしくなり、顔を両手で覆った。もうとっくに赤くなっている姿は見られているが、それ以上見られたくはないという細やかな抵抗である。
あっ、夕飯までには戻ると母に連絡しなくてはと思い鞄から携帯を取り出す。ちょっとごめんなさい。と一言かけ母にメールを送る。
携帯を鞄の中に入れた時、何かが手にぶつかる。それは、裏庭に来る前におばあさんから頂いた桜の花びらの形をした和菓子だった。あっ、頂いていたことをすっかり忘れていた。
「真二、よかったらこれ一つどうかしら?さっきおばあさんから貰ったのよ」
「ありがとう。後でいただくよ」
夕飯が近いからお互いに、すぐには食べずポケットやら鞄にそっとしまう。
西の空では日が傾き始めている。
「あっ、夕陽も赤だけでなく他の色で表現できるんですか?」
あぁ…。と少し間を置いてから夕陽について説明をしてくれた。
「夕陽を表現するのは難しい。茜色や雀色として表現する事はよくあるよ。」
2つもあるのね。どちらの色が正解かは特にないのだろう。でも、どう違うのかは気になる。
「茜色は暗い赤を表している。雀色は夕暮れ時イメージを表していて、黄昏時を雀色時と言ったりもするよ」
それぞれの色に個性があり混ぜ合わせたらもっと素敵になると感じた。
「どっちも混ぜたらもっと素敵になるのかしら?混ぜたらどんな色になりますか?」
「僕は自分で色を作り出した事はないよ。作る気もない。507種類が丁度いいと思ってる」
そうですか…。少し残念な気持ちになったが仕方ない。そう思っていると意外な事をかけてくる。
「もし君が色を観る事ができたら、自分の目で夕焼けを見な。自分自身で考えて感じることも大切だ」
はい、そうしてみます。こうして、私達の色の勉強一日目は終了した。
お会計で呼ばれるまで椅子に座って待つことにした。入院している人がお見送りで、出入り口付近に立っていたりする。家族が帰るのは早い寂しいのだと思う。
私の目の前を円背のおばあさんが杖をついて横切ってゆく。すると、鞄から何か落ちた。あっ、急いでそれを拾い上げる。それは、蔓の絵柄で彫られている栞だった。随分と使い込まれているようで、所々色が剥げていたりする。
「待ってください!落としましたよ!」
耳が遠いのか私の声は聞こえずゆっくりゆっくり歩いてゆく。
私は椅子から立ち上がり、おばあさんの横に近づき袖を軽く引っ張る。それでやっと気がつきゆっくりと顔を上げる。一つ一つの動作がとてもゆっくりなおばあさんだ。
私に何か用ですか?と言った感じで首を傾げる。
「えっと、おばあさんの鞄からこの栞が落ちましたよ」
栞をすっと差し出すと、あれまぁ…と言い自分の鞄から無くなっていることを確認し始める。
「わざわざどうもありがとう。助かりました」
おばあさんの顔はとても笑顔である。気づけてよかった。そう思った。
あっ、ちょっと待ってね。鞄の中から桜の花びらの形をした和菓子を2つ取り出した。
「よかったらどうぞ。これね、とっても美味しいのよ」
ふふふと笑う。笑った時にできるシワが、よりおばあさんの優しさを引き出している。
「ありがとうございます。美味しくいただきます」
笑顔で返し、その場を後にする。
ちょうどその時、お会計の順番が回ってきた。これで、今日の予定は全部お終いだ。後は帰るだけ。
裏庭…。またあの青年がいるのではないかと思ってしまう。別に会う約束はしていない。ただ…なんとなく会いたくてなってしまう。
ガタガタ…ガタガタ…
ん?前回と同様に強風が吹き窓ガラスが揺れた。よく強風が吹く病院だ。まぁ、この後予定ないことなので行ってみることにする。
再び一階に降りる。前回と同じガラス戸から外へ出ると、青年は木の下で本を読んでいた。きっといるだろうと思っていた。私の勘は当たった。
こんにちは。と声をかけると青年は読んでいた本を閉じた。顔を上げて私を見る。
「あぁ、君か。久しぶり。また会ったね」
青年はいつも簡潔に言葉を返す。人と話すのは好きではない方なのか。それなら私と少し似ている。
「今日もここで本を読んでいるのね。この前読んでた誰がために鐘は鳴るという本かしら?」
「そうだよ。あと少しで読み終わる」
ふーん。本を閉じた所を見ると栞が挟まれている。まだ前半部分を読み進めているみたいだ。私だったらクライマックスまで一気に読み進めたい。早く結果が気になってしまい、集中して読み進めるだろう。私がいることで邪魔になっているのならすぐにこの場を立ち去ろうと思った。
そんな私の気持ちとは裏腹に青年は予想外の言葉を口にする。
「そんな所に立ってないで隣に座りなよ」
「え?いいんですか?」
「変な事を聞くね。嫌だったら隣に座りなとか言わないよ」
それもそうかと思う。ありがとうと返す。それ以降会話は続かず無言の状態が続く。この均衡とした状態を壊したのは意外にも青年の方からだった。
「君はどうして病院に通ってるの?見た感じどこも悪そうには見えないけど」
その言葉に悪気はないことは分かっている。どこも悪そうには見えない。普通に見える。でも、それが違った瞬間は?その瞬間に重たい空気が流れ、何て声をかけたらいいか分からない態度をとられる。最初はそれで終わるが段々出来ないところに目をつけ、ハイエナのように群がる。次いつ間違うか、間違えた瞬間を見逃さないように、その瞬間を思いっきり笑えるように。反吐が出る。
でも、その考えに悩まされ抜け出せない自分が嫌だ。その経験も気持ちも全て過去のもの。今はそんなことする人はいない。その経験の場に出会さないだけかもしれないが。実際目のことを話しても傍に居てくれる由花がいる。それだけで十分だと、いつも最後はそこに辿り着く。だから、他の人の言うことはほとんど気にならなくなった。
「私は生まれつき全色盲なのよ。でも、最新の技術で色が見れるコンタクトレンズが開発されたの。その治療で今は通っています」
一瞬びっくりした顔をした。
「もしかして君の担当医師は石田徹郎先生?」
「そうですけど…。よく分かりましたね」
あぁ。その時の表情は今でも忘れない。とても嬉しそうな顔をしていた。その後青年は私が過去に経験したことを黙って聞いてくれた。話の節々で相槌をし、私の話に寄り添ってくれているみたいだ。
「僕は君とは逆だ。僕は、みんなと同じ色が見えない。見えすぎてしまうんだ」
何を言っているのか最初は分からなかった。話を聞いていくうちに徐々に青年の言ってることが理解できた。人間の色覚は3色型で見える。だが青年は4色型の色覚を持ち合わせており他の人より沢山の色を見ることができるらしい。
そんなこと言われても私には理解することが難しい。私とは正反対の場所にいるのだから。なんと声をかけていいかも分からなかった。
「私は今まで色が見えてる人達が羨ましかった。どうして自分は見えないのか何度も何度も考えたけど、最終的には考えるのをやめてその現実を受け入れました」
「僕も何回も考えた。どうして他の人よりも見え過ぎてしまうのかって。でも最終的には君と同じで考えるのをやめてしまうんだ」
その気持ちは深い程よく分かる。私とこの人は似たような境遇にいるのかもしれない。だから
こそ、お互いに寄り添うことはできないかと考える。
「さっき色を観る治療をしてるって言ったじゃないですか。私治療が終わった後にここに来ます。それで、私に色を教えていただけませんか?」
え?色を?青年は目を丸くして聞いている。
「私、今日ほんの一部ですが色を観て凄く感動したんです。周りの人達はこんなにも素敵な世界を観ているんだって。私もその世界に入りたいって思ったんです。ダメですか…?」
君は不思議な人だ。その時の表情はとても柔らかく少しだけかっこよく見えた。
「色を教える前に君に一つ聞きたいことがある」
聞きたいこと?なんだろう?と首を傾げて待っていると、その質問はとても簡単で拍子抜けしてしまった。
質問は、君の名前は?だった。
私達は、この前知り合って今日までお互いに名乗り合うことなく過ごしていた。その事がなんだかおかしく、笑いが込み上げてくる。
するとやっと笑ったね。と声をかけられた。私が笑うのを止めると、出会ってから今まで緊張していたのか全く笑っていなかったことを伝えられた。
「私は普段からあまり笑いません。これが普通なんです」
「じゃあ、これからもっと笑うようにしたらいい。人は笑う人の所に集まりやすいから」
言っていることは当たっているがそれができたら苦労しない。これでも笑うようにはなったのだ。これ以上に笑うとなると、由花や春川さんレベルになるしかないと思う。自分がそんなに笑うのも想像できない。
「まぁ、ひとつまず私の名前は瑠璃です。16歳でN高校に通っています」
ざっと簡潔に自己紹介をすると、青年も続けて自己紹介をしてくれた。
「僕の名前は真二。18歳だ。M高校に入学している」
M高校?この辺の高校かな?聞いたことない高校名だったが、そんな高校たくさんあると思い対して気にも止めなかった。
「私よりも2歳年上だったんですね。どうりで大人っぽいと思ったわ」
「2歳くらいなら大して変わらないよ。それで、君は今日どんな色を観てきたの?」
自己紹介をすればもう少しフレンドリーになるかと思ったがそんな事はなかった。今までと変わらず簡潔に返すのは変わらない。
私は今日観た色のことを真二さんに話した。その色を観てどう思ったか、何を感じたか。私が嬉しそうに話すのを終始聞いてくれる。
こんなに色のことについて話すのは初めてじゃないかと言うくらい話す。きっと今日一日にあった全ての事が私にとってとても嬉しい日なのだ。
私が話終えると真二さんはぽつりと言葉を口にした。
「君の今の雰囲気はまるで緋色だ」
「え?緋色?なんですか?」
聞いたことはあるでしょ?と返されたが全く分からなかった。私が知っている色は15種類くらいしかない。色が見えないから他の色を知ろうとはしなかった。返事をしない私に、真二さんはゆっくりと説明を始める。
「緋色はピンク系統の色合いなんだ。平安時代では思ひの色と呼んで、『ひ』から火が連想されまたそこから緋に繋がって熱き思いを緋色で表すようになった。という諸説があり、君の色へ対する思いが緋色みたいだと思ったんだ」
分かりやすい説明。と言うと目線を逸らされ、こんなの普通だよ。とぶっきらぼうに返される。でも、よく見ると逸らされた顔の表情がさっきまでと変わっていた。もしかして照れてるのかな?と思い違う言葉も投げかけてみる。
「真二さんって色のことについて本当お詳しいんですね。どこで色を覚えたんですか?」
にこにこしながら質問すると、私の意図に気づいたのか表情は元に戻っていた。
「君が考えそうな事はすぐ分かる。色は独学で勉強した。色は507種類もあるって知っていたかい?僕は色の名前全部と意味も理解している」
真二さんの方が何枚も上手だったみたいだ。507種類も色があるなんて驚いた。自分が今日観た色なんてそれに比べたらほんの一部で、もし手術をすれば私も507種類もある色が見られると思うと期待で胸が膨らむ。
「もし、私も目の手術をすれば507種類の色が見られるかしら…」
その言葉には期待の意味とやはり自分には無理ではないかという意味が込められている。そこまではさすがに相手には気付かれていないみたいだ。
「君の雰囲気は本当コロコロ変わる。面白い。今度は黄櫨染色に染まったよ」
また私の知らない色を…。きっとその色にも意味があり今の私に似合っているのだろう。黙っていてもきっと教えてくれるそう思っていた。
「教えて欲しい?」
「え!?教えてくれないんですか!?」
予想していた展開と違ったもので、つい大きな声を出してしまった。クスッと笑われ、君の反応は面白いと言われる。面白くないです。と返す。
なんなのよ…と思っていると、私が聞き取れるかくらいの小さな声であの子に似ている。と聞こえた。え、あの子?と聞き返そうとすると、真二さんの口が開いた。
「黄櫨染色はね、その色が作られるまでにとても複雑な工程があるんだ。だから出来上がった時に同じ色に見える色はほとんどない。人間も同じで、光の加減などにより人によって見える色は違う。手術したからと言って507種類も見えるかどうかは分からないよ」
その言葉に少し傷ついた。手術しても同じ色は見えないかもしれないと言う事。それでも、またしてもこの人の優しい一面を垣間見た。手術したら色を観る事ができるという希望だけを与えるのではなく、しっかりと見えない時のことも教えてくれる。私はそれだけで嬉しかった。
「嬉しいです。ありがとうございます」
私の言葉にまた目を逸らし、なんでお礼いうの?変な性格してるね。照れ隠しなのはもう分かり切っている。真二さんも本当素直ではない。
「君は嫌がるかも知れないけど、僕は君の見えている世界を少し羨ましいと思っている」
その言葉は生まれて初めて言われた。私の見えている世界が羨ましい…?それは白黒の世界のことを言っているのはすぐに分かった。
「君にとったら僕達周りの人達はカラフルな世界を持っていると思ってるだろう。でも、君は持っていない。君にしか見えない世界を持っていると思ったら羨ましくなったんだ」
「じゃあ、羨ましくなったついでに今あなたはどんな雰囲気なんですか?教えて下さい」
君の理論は意味がわからない。と言った風に顎に手を当て今の雰囲気を考えている。
「今の僕の雰囲気を表すのなら鴇色になるかな薄いピンク色」
鴇色…。鴇っていうのは動物の鴇よね?ピンク色の鴇がいるのかしら。私も真二さんと同じように顎に手を当て考えてみた。
「鴇色は、鴇が空を飛ぶ時に必要な羽の色のことを言うんだ。その羽のことを風切羽と言って、鴇はその羽が抜けてしまうと空を飛ぶ事ができない」
「鴇色の意味は分かったけど、今の真二さんとどう関係がしているのか分からなかったわ」
真二さんはもう一度頭の中で、言葉を整理し私に分かりやすいように説明してくれた。
「つまり、鴇にとったらその羽はとても大切でその羽じゃないとダメなんだ。だから君の見ている世界を羨ましいと思うが、僕は僕が見ている世界が一番良くて今見えている世界じゃないとだめなんだよ。それに、僕はさん付けで呼ばれるのは好きじゃない。真二って呼び捨てでいいよ」
この短時間の間に幾つの色を聞いたか。私が知らない色を一日でこんなに聞いた事はない。真二が色に対してこんなにも真剣に向き合っているなんて思わなかった。でも、最後の説明には自然と笑顔になる。
どうして笑ってるの?僕の話聞いてた?と少し不機嫌に返される。
「ごめんなさい、そうじゃなくて。最後の説明中二病臭いなと思って。あと、あなたのこと真二ってこれから呼びますね」
もう一度思い出しても笑顔になってしまう。だが、青年の表情は浮かなかった。
「ごめん、僕は中二病?なんて言葉の意味がわからない。初めて聞いた。どういう意味?」
え!?こんなに有名な言葉を知らない人に私は初めて出会った。日本人の若い男性で知らない人なんてこの世にいるのかしら…。
ちらっと見ると、私の説明を待っているみたいで私の瞳から目を離そうとしない。
「そうですね…。言葉どうり中学2年生で思春期にありがちな行動を取ることですよ。空想や嗜好などを揶揄した物ですね」
「なるほど。でも僕は違う。中二病ではない」
大体の人はバレるのが恥ずかしいから自分は違うって否定しちゃうんだよね。まぁ、本当に真二は違うとは思うけど。
「私中二病知らない人に初めて会いました。真二はハーフ?それなら知らなくても仕方ないですね」
端正な顔立ちから最初は外人を疑ったが、日本語がペラペラな事からハーフではないかと推測した。だが違ったみたいだ。
「僕はれっきとした日本人だ。外国の血も混じっていない」
ハーフの友達は今までいた事なかったから少し期待してしまった。日本人でこんな綺麗な顔をしていたら芸能人デビューしてもいいのにと思ってしまう。
真二との話が楽しくつい忘れそうになってしまうが、ここは病院の裏庭で彼は入院患者だ。前にずっとここにいる。と言っていたが彼はどこが悪いのか。聞きたくても聴けない状態が続く。
「まぁ、瑠璃が間違えるのも仕方ない。僕の髪は亜麻色だから良く他の人にも間違えられてたよ。色的には茶色を薄くしたような色をしている」
やっぱり私以外にも間違える人はいるのだと思い嬉しかった。外人に間違えられるのは嫌かと聞いたが真二はゆっくり首を振った。
「前は嫌いだった。でも、この髪もこの顔も好きだと言ってくれた人がいたんだ。そしたら自然と好きになった」
人から自分のコンプレックスなどを、好きや魅力だと言われると自分に自信がつく。私も自分の見えている世界をそれも私の魅力だと言ってくれた由花の話をすると、素敵な友達を持ったねと言ってくれた。
その言葉が嬉しく顔が綻ぶ。自分が大切にしている人を肯定的に見てくれると嬉しくなるが、逆に何も知らないのに否定的な事ばかり並べられると悔しくなる。もし由花に酷いことをする人がいれば、何度も私の事を救ってくれた由花を守ろうとこの時誓った。
「また君の雰囲気は変わった。今度は薔薇色だ」
薔薇って確か赤色よね。今日見た色だから連想はしやすかったが、雰囲気が赤なのは想像つかなかった。真二に言わせれば赤ではなく薔薇色というに違いない。
「日本では薔薇色というと少女の頬の色のことを指すんだ。瑠璃の頬が徐々に赤くなったから薔薇色が今の雰囲気に合っていると思ったんだよ」
急に恥ずかしくなり、顔を両手で覆った。もうとっくに赤くなっている姿は見られているが、それ以上見られたくはないという細やかな抵抗である。
あっ、夕飯までには戻ると母に連絡しなくてはと思い鞄から携帯を取り出す。ちょっとごめんなさい。と一言かけ母にメールを送る。
携帯を鞄の中に入れた時、何かが手にぶつかる。それは、裏庭に来る前におばあさんから頂いた桜の花びらの形をした和菓子だった。あっ、頂いていたことをすっかり忘れていた。
「真二、よかったらこれ一つどうかしら?さっきおばあさんから貰ったのよ」
「ありがとう。後でいただくよ」
夕飯が近いからお互いに、すぐには食べずポケットやら鞄にそっとしまう。
西の空では日が傾き始めている。
「あっ、夕陽も赤だけでなく他の色で表現できるんですか?」
あぁ…。と少し間を置いてから夕陽について説明をしてくれた。
「夕陽を表現するのは難しい。茜色や雀色として表現する事はよくあるよ。」
2つもあるのね。どちらの色が正解かは特にないのだろう。でも、どう違うのかは気になる。
「茜色は暗い赤を表している。雀色は夕暮れ時イメージを表していて、黄昏時を雀色時と言ったりもするよ」
それぞれの色に個性があり混ぜ合わせたらもっと素敵になると感じた。
「どっちも混ぜたらもっと素敵になるのかしら?混ぜたらどんな色になりますか?」
「僕は自分で色を作り出した事はないよ。作る気もない。507種類が丁度いいと思ってる」
そうですか…。少し残念な気持ちになったが仕方ない。そう思っていると意外な事をかけてくる。
「もし君が色を観る事ができたら、自分の目で夕焼けを見な。自分自身で考えて感じることも大切だ」
はい、そうしてみます。こうして、私達の色の勉強一日目は終了した。

