「緊張していますか?」
「いえ、大丈夫です」
嘘をついてしまった。本当は緊張で心臓の鼓動が速い。ゆっくり空気を吸い込み気持ちを落ち着かせる。
ふぅ…大丈夫。大丈夫。
「大丈夫?無理そうだったらいつでも言ってちょうだいね。初めて経験だと思うけど、瑠璃ちゃんなら絶対大丈夫だと思うから」
口だけではなく、これからの治療に当たり手もしっかりと動かしている。
今日は、色を観る治療の初日である。私は、治療するに当たり服装を手術衣に着替え直す。
今後色を観る時赤系統・黄色系統・青系統の3段階に分けられる。初日は赤系統の色を観る事になっている。正直不安である。
治療を行う部屋は正方形の形をしており、部屋の中は白と黒の色合いで構成されている。余計な色は観ないようにするためらしい。
「お気遣いありがとうございます。春川さん」
「うんん。患者さんの気持ちに寄り添うのも、れっきとした看護師の仕事だから!」
私は小さい頃から彼女のことを知っている。だから分かるのだ。彼女の優しさは、看護師という職種から来るものではなく、彼女自身の優しさだと。
じゃあ…次をこっちを。石田先生の声も聞こえてくる。時間は刻一刻と進み、治療の始まる時間が長ければ長いほど無駄な体力が奪われていく。
ちょっとごめんね…と一言入れてからホルターを目尻の脇に貼っていく。
「えーと、あとは…。あっ、瑠璃ちゃんコンタクトレンズは…」
「あっ、これから入れます」
前もって色覚補正レンズは支給されていた。始まる直前に入れる予定だったのでまた入れていなかった。
「じゃあ、入れやすいように手鏡置いておくね。馴染むまで少し時間かかると思うけど、焦らないでね。後、石田先生からこの後説明があると思うからちょっと待ってね!治療が終わったらまた来るから。それでは、検討を祈ります!」
軍隊の人見たく頭の脇に手をやり敬礼のポーズをとる。入れ違いで石田先生が入室し、待ちに待った治療がこれから行われる。
私は、春川さんが手渡してくれた手鏡を使い慎重に目の中に入れた。よし、これで準備は整った。
「では、鈴木さんこれから検査をしていきますね。主に今日見ていただく色は、赤・ピンク・茶の3種類の色合いです。鈴木さんの身近にあった画像を今日はご用意させていただきました。何か質問はありますか?」
別室にいる石田先生の声がスピーカーを通し、部屋の中に響く。併設されている部屋から窓越しにその姿は見える。
「いえ。大丈夫です。始めてください」
はい、分かりました。そして機械をいじり始めた後ろ姿をじっと眺め、その動きがぴたっと止まった。
「じゃあ、鈴木さん目の前のスクリーンを見ていて下さいね。」
はい…。私はこの状況に耐えられず目を閉じてしまう。ドキン…ドキン…。あぁ…煩い。周囲の音が無音なことから自分の鼓動が嫌というほど聞こえる。集中したいんだから治って。私の願いとは裏腹に否応なく速くなるこの鼓動を止めることは出来なかった。
「鈴木さんどうですか?色見えますか?」
えっ…あっ…。いつの間にかスクリーンに映し出されていたみたいだ。私は、ゆっくりと目を開けた。
いつも白黒でしか見た事がなかった私の世界に、初めて違う色が入った瞬間だった。
わぁ…。他の人達からしたら変哲もない画像だろう。きっといつも何気なく見てはそれが当たり前だと思い、その事に感謝することもない。
それでも、私にとったら初めて見ることができた世界だ。感動せずにはいられない。自然と涙が溢れてきそうになるのをグッと我慢する。今は泣くとかではない。次にまた違う画像が映し出された時、涙でよく見えませんなんて絶対に嫌だ。
「良く見えます。これはリンゴですね。いつも食べていた物がこんな色してるなんて想像もしませんでした。これは…赤色ですよね?」
幼い頃に母親からこれは何色。あれは何色。と教えてもらっていたが、実際に色を見てから教えてもらうのとでは訳が違う。
「はい、これはリンゴ赤色ですよ。良く分かりましたね」
「よかった…ありがとうございます」
嬉しかった。何が嬉しかったのだろう…?色の名前が当たったこと?初めて色を見たこと?それも一理あるかもしれない。だけど、私が本当に嬉しかったのは物体の名前と色を認識することが出来たことだ。
周囲の人からしたらこんなの幼稚園生くらいの会話に聞こえるだろう。それでもよかった。だって…今までの私だったらそんな会話さえもする事ができなかったのだから。
色を見たということに興奮し、その気持ちが勝ったのかいつの間にか胸の鼓動は治まっていた。
次に、風船の画像を観た。これは…何色?さっきのリンゴと違って決まった色がない風船は色を当てるのが難しい。
えっと…今日見る色は確か赤とピンクと茶って言ってたわよね。この風船はその3種類の誰かに当たるはず。考えても分からない。でも、なんとなく赤色に近いイメージは持てた。
「これは…何色ですか?なんとなくさっきのリンゴと近い気がするんですが」
機械を操作している石田先生に声をかける。
「鈴木さんは鋭いですね。これはピンクという色ですよ。赤色に白を足すと薄くなってピンクになります。」
色を薄めるとか濃くするというのは、生きてきた中で何回も聞いてきた言葉だ。赤に白を足してピンク?ん?話に聞いてもあまりピンとこなかった。
「そろそろ次の画像に言ってもいいでしょうか?」
「あっ、はい。よろしくお願いします」
「次は二色一変に見てみましょう。次の画像は先に言っておきます。紅葉の画像をお見せします」
画面に映し出されたのは、立派に咲き誇っている紅葉の画像だった。凄い…綺麗。私は圧倒されていた。さっき観たリンゴの赤とは違いとても赫い。嫌、綺麗すぎて言葉では言い表せない。
「主に赤色は鮮やかな色合いと言われています。鮮やかとは、このような画像のことをいうのですよ」
鮮やか…。口からぽろっと出た言葉だった。もう一度画像に視線を戻し、目に焼き付けるように集中して観た。うん…鮮やか。そう思った。
「これは、赤色と茶色ですか?」
鮮やかに咲き誇っている紅葉達を支えているのは紛れもなくこの木達だ。今まで観てきた画像の中で一番よく見ている。赤色とピンクとは違った色をしている木は茶色だと判断した。
「そうですね。赤色と茶色です。」
少しずつではあるが理解していくのが分かる。この調子だと残り2回の治療も楽しくやっていけそうだ。
この後もたくさんの画像を見て色というもの観て行った。茶色い犬だったり植木鉢。モモやフラミンゴ。トマトやバラなどを観た。
「では最後にこちらの画像を観て本日の治療は終わりにしましょう」
画面に映し出された画像を観て私は大きく目を見開いた。これは…。そこには凛々しく立ち、大輪の花を咲かせている桜の木が映し出されていた。
今日観た画像の中で一番美しいと思った。桜は日本が一番綺麗だというのを聞いたことがある。他の国にはあまり存在しないとても綺麗な桜は、海外から来訪された人々が持ち帰りたくなる程らしい。
日本人が春になると朝からブルーシートを敷いて、場所取りする気持ちが少し分かった気がする。
今までは自分には関係のない話だった。でも、今日桜というものが綺麗だということを知ってしまった。私は…もし可能なら来年お花見というものをしてみたいという気持ちに駆られる。たくさんの桜の木に囲まれ、わいわいするのもきっと楽しいだろう。
桜の木の画像を観ながら感傷的な気持ちになっていると、スクリーンは急に暗くなった。
「鈴木さん、お疲れ様でした。コンタクトレンズはケースにしまって大丈夫ですよ」
あっ…今日は終わりか。今まで観ていたスクリーンが暗いことを再度確認してからケースを取り出す。なんだか名残惜しい気持ちになる。
ガチャ…っとドアが開かれる音がする。
「鈴木さんどうでしたか?初めて色を観た感想は?」
温かい瞳で覗き込み、私の返答を待っている。私はその瞳をみず石田先生のチャームポイントである笑くぼを見ながら答えた。
「簡易な言葉かもしれませんがとても感動しました。綺麗で…大袈裟かもしれませんがこんな世界があるのだと驚きました。違う世界に入った感じです。貴重な体験をさせていただきありがとうございました。」
私の言葉に満足したのか、何度か頷いた。
ガチャ…っともう一度音がすると春川さんがドアを少し開いてこちらの様子を窺っている。
「石田先生、少しお時間よろしいですか?」
「分かりました。ちょっと失礼しますね」
そういい残して、春川さんが待っているドアの向こうに消えていった。
んー…。1人になったことに気が抜けて伸びをした。はぁ…凄かった。今日一日だけで自分自身でとても成長できたような気がする。気がするだけで、成長していないかもしれないがそんな細かいことは気にしない。
今、何時なのか時計で確認しようとしたがこの部屋にはどうやら時計がないみたいだ。腕時計もしていない私は時間を知る術がなかった。鞄も併設してる隣の部屋に置きっぱなしだ。先生方が戻ってくるまでぼーっと過ごす。
少しするとお待たせいたしましたね。という声と共に石田先生と春川さんが部屋の中に戻ってきた。
「鈴木さんこの後は春川さんの指示に従ってください。私はこの後違う方の診察があるので失礼しますね。では、春川さんよろしくお願いします」
「はい、任せて下さい!」
2人でアイコンタクトを交わした後、石田先生は部屋から出て行かれた。
「よし!瑠璃ちゃんこの後予定あるかな?」
気を取り直した春川さんが私に元気よく質問をする。
「えぇ…。特に予定はありませんが」
今日の予定は、スクリーンに映し出された赤系統の色を観るだけで終わりのはずだった。この後に何が始まるのか全く想像がつかない。
にやっと笑った春川さんは、ちょっと待ってねと言い、折りたたみ式の机と丸い椅子を部屋の中に持ってきた。
よっ!はっ!という掛け声と共に机が完成し、その机の上にバラバラっと何かを広げた。これは…絵の具セット?一体これから何を始めようというのか。
訳が分からないといった風に、春川さんを見つめる。
「あの…これから何を始めるんですか?」
その質問を待ってたかのように、ふふんっ!と鼻を鳴らす。
「これから、一緒に色を作りましょう!」
「えっ!?あっ、いっ色!?」
びっくりし過ぎて何を言っているか分からなくてなってしまった。私の驚きぶりにあはははは!と春川さんは笑っている。
「うん!とってもいい反応だよ!今日観た色を使ってもう1段階上の色をこれから一緒に見ようと思ったの!」
もう1段階上?私のことを気遣ってのことだとは思うが、どうして私の周りではこう…物事を突然始める人が多いのか…。
「お気持ちはありがたいのですが、私コンタクトレンズ外してしまったんです。だから…」
色覚補正コンタクトレンズは、一度外してしまうと繊維が落ちて同じ色は見れなくなってしまう。そしたら、一番綺麗に見える時に1段階上の色は見たい。
「それなら大丈夫だよ!えーとね、あっ、あったあった!」
ナース服のポケットの中から取り出したのは、丁度今話していた色覚補正レンズだった。
「それどうしたんですか?一つ使うのにもお金かかりますよね?」
私はこの治療にあたり、コンタクトレンズがいくらするか前もって石田先生から聞いていた。その値段は決して安くはなく1週間に一度使えればいいくらいだ。
「これはね、サンプル品なの。治療とは別の目的で必要になった時に使えるように保管されてるのよ!だから、これを付けてもう1段階上の色を見ましょう」
スッと私の前に差し出す。ありがとうございます。と言い受け取ると、手鏡で目の中に装着した。
「見えるまで時間がかかると思うから、その間に準備してくるわね」
「春川さん…。私の為にお時間取って頂きありがとうございます」
クスッと笑うとそんなの気にしなくていいのよ。と返してくれた。
コンタクトレンズを付けるのが2回目ということもあり、1回目よりも馴染むのが早かったような気がする。何回か瞬きをし周りの状況を確認する。
春川さんも準備が整ったようで、私の準備が整うのを待っている。
準備できました。と声をかけると、はいはい!と言ってこれから行うことの説明をしてくれた。
今回使うのは、筆・パレット・筆洗・水彩絵の具の赤色と白色・雑巾の6点である。これらを使うのは中学生以来だ。
私の通っているN高校は、美術は必須科目ではない。音楽・書道・美術の中から一つを選択するシステムだ。私は、書道を選択した。1人で黙々と出来るという点から自分に合っていると感じたからだ。ちなみに由花は音楽を選択したらしい。理由と聞くと歌うのが好きみたいだ。
「んー。使い方は分かるよね?」
「はい。中学生の頃までは使っていたので」
それなら問題なし!と言った感じで私に赤色と白色を握らせてくる。
「じゃあ、色を作っちゃおう!」
白いパレットの上に、赤色を垂らす。パレットの白が赤色を際立たせる。そのままでも十分綺麗だがこの後、白を混ぜるとなると申し訳ない気持ちになった。
次にパレットとに白色を垂らす。あれ?白いパレットと白色は同じ色じゃない…?この微妙な違和感はさっきの治療の時に感じたものと似ている。リンゴと紅葉はどっちも赤だけど何か違う。それは今起こっていることと似ているのだろうか…。
「んー?どうした?瑠璃ちゃん大丈夫?」
心配そうに春川さんが声をかけてくる。せっかく時間をとってくれているのに、その時間を無駄にしてはい。考えるのは後にしよう。そのまま春川さんに今思っている疑問をぶつけてもよかったが、もう少し自分で考えたいと思った。
「赤色と白色を出したのですが、もう混ぜてしまって大丈夫ですか?」
筆を濡らし後は混ぜるだけとなる。隣でグッドサインが出る。
赤色と白色を混ぜるとペタペタした感触が伝わる。この感触は別に嫌いではない。無になるこの時間に美術の授業を思い出す。懐かしいけれど、その時間に戻りたいとは思わない。
だんだんと赤色と白色が混ざり合い、綺麗なピンク色へと変色していく。画像で見たフラミンゴの色とよく似ている。この色合いも嫌いではないが私はもう少し薄い色を作りたいと思った。
「あの、もう少し白を足してみてもいいですか?」
この道具一式は私の所有物ではない。きっと春川さんの私物である。私が勝手に使用してはいけないと思った。
でも、春川さんの答えはいつもと同じあっけらかんとした答えだった。
「いいよいいよ!じゃんじゃん使っちゃって!」
「あぁ…ありがとうございます」
彼女の人柄だというのは分かってはいるが、人に優しくされるのは慣れない。
白を投入し、出来上がっているピンク色に混ぜ合わせる。するとまた、白がピンク色に吸収され薄い色になってゆく。
少しずつではあるが、桜の色に近づいていく感がする。
「私さっきの画像で桜の木を観たんです。今日観た画像の中で一番綺麗でとても感動しました。だから、それに似た淡い色合いを作りたいと思って…。どうでしょうか?淡い色合いになってますか?」
恐る恐る聞いてみる。今まで進んで自分から色調を聞くことはなかった。違うと言われるのが恥ずかしくて。それでも人に色調を聞いてみたのは、自分の手で色合いを作り出したいと思ったからだ。
「うん。とってもいいわ。でも私は、瑠璃ちゃんが色に興味を持ってくれたことが嬉しい。ありがとう」
えっ…?春川さんの目は涙目になっていた。
「えっ!?どっどうしたんですか!?」
「いや…なんだか嬉しくって。瑠璃ちゃんが病院で生き生きしてる姿なんて見たことなかったし。でも、今こうして笑ってる。その姿を見たら嬉しくて」
春川さんはにっこりした顔を見せてはくれたが、その頬には涙が伝っていた。
「ごめんね瑠璃ちゃん、今日はここまで!私この後予定があるのよ!片付けは看護師である私が責任を持ってやっておくから!気をつけて帰ってね!」
最後は畳み掛ける感じだったが、私は言われた通りその場を後にすることにした。今日感じたこと思ったことはずっと大切にしていこうと決めた。
「いえ、大丈夫です」
嘘をついてしまった。本当は緊張で心臓の鼓動が速い。ゆっくり空気を吸い込み気持ちを落ち着かせる。
ふぅ…大丈夫。大丈夫。
「大丈夫?無理そうだったらいつでも言ってちょうだいね。初めて経験だと思うけど、瑠璃ちゃんなら絶対大丈夫だと思うから」
口だけではなく、これからの治療に当たり手もしっかりと動かしている。
今日は、色を観る治療の初日である。私は、治療するに当たり服装を手術衣に着替え直す。
今後色を観る時赤系統・黄色系統・青系統の3段階に分けられる。初日は赤系統の色を観る事になっている。正直不安である。
治療を行う部屋は正方形の形をしており、部屋の中は白と黒の色合いで構成されている。余計な色は観ないようにするためらしい。
「お気遣いありがとうございます。春川さん」
「うんん。患者さんの気持ちに寄り添うのも、れっきとした看護師の仕事だから!」
私は小さい頃から彼女のことを知っている。だから分かるのだ。彼女の優しさは、看護師という職種から来るものではなく、彼女自身の優しさだと。
じゃあ…次をこっちを。石田先生の声も聞こえてくる。時間は刻一刻と進み、治療の始まる時間が長ければ長いほど無駄な体力が奪われていく。
ちょっとごめんね…と一言入れてからホルターを目尻の脇に貼っていく。
「えーと、あとは…。あっ、瑠璃ちゃんコンタクトレンズは…」
「あっ、これから入れます」
前もって色覚補正レンズは支給されていた。始まる直前に入れる予定だったのでまた入れていなかった。
「じゃあ、入れやすいように手鏡置いておくね。馴染むまで少し時間かかると思うけど、焦らないでね。後、石田先生からこの後説明があると思うからちょっと待ってね!治療が終わったらまた来るから。それでは、検討を祈ります!」
軍隊の人見たく頭の脇に手をやり敬礼のポーズをとる。入れ違いで石田先生が入室し、待ちに待った治療がこれから行われる。
私は、春川さんが手渡してくれた手鏡を使い慎重に目の中に入れた。よし、これで準備は整った。
「では、鈴木さんこれから検査をしていきますね。主に今日見ていただく色は、赤・ピンク・茶の3種類の色合いです。鈴木さんの身近にあった画像を今日はご用意させていただきました。何か質問はありますか?」
別室にいる石田先生の声がスピーカーを通し、部屋の中に響く。併設されている部屋から窓越しにその姿は見える。
「いえ。大丈夫です。始めてください」
はい、分かりました。そして機械をいじり始めた後ろ姿をじっと眺め、その動きがぴたっと止まった。
「じゃあ、鈴木さん目の前のスクリーンを見ていて下さいね。」
はい…。私はこの状況に耐えられず目を閉じてしまう。ドキン…ドキン…。あぁ…煩い。周囲の音が無音なことから自分の鼓動が嫌というほど聞こえる。集中したいんだから治って。私の願いとは裏腹に否応なく速くなるこの鼓動を止めることは出来なかった。
「鈴木さんどうですか?色見えますか?」
えっ…あっ…。いつの間にかスクリーンに映し出されていたみたいだ。私は、ゆっくりと目を開けた。
いつも白黒でしか見た事がなかった私の世界に、初めて違う色が入った瞬間だった。
わぁ…。他の人達からしたら変哲もない画像だろう。きっといつも何気なく見てはそれが当たり前だと思い、その事に感謝することもない。
それでも、私にとったら初めて見ることができた世界だ。感動せずにはいられない。自然と涙が溢れてきそうになるのをグッと我慢する。今は泣くとかではない。次にまた違う画像が映し出された時、涙でよく見えませんなんて絶対に嫌だ。
「良く見えます。これはリンゴですね。いつも食べていた物がこんな色してるなんて想像もしませんでした。これは…赤色ですよね?」
幼い頃に母親からこれは何色。あれは何色。と教えてもらっていたが、実際に色を見てから教えてもらうのとでは訳が違う。
「はい、これはリンゴ赤色ですよ。良く分かりましたね」
「よかった…ありがとうございます」
嬉しかった。何が嬉しかったのだろう…?色の名前が当たったこと?初めて色を見たこと?それも一理あるかもしれない。だけど、私が本当に嬉しかったのは物体の名前と色を認識することが出来たことだ。
周囲の人からしたらこんなの幼稚園生くらいの会話に聞こえるだろう。それでもよかった。だって…今までの私だったらそんな会話さえもする事ができなかったのだから。
色を見たということに興奮し、その気持ちが勝ったのかいつの間にか胸の鼓動は治まっていた。
次に、風船の画像を観た。これは…何色?さっきのリンゴと違って決まった色がない風船は色を当てるのが難しい。
えっと…今日見る色は確か赤とピンクと茶って言ってたわよね。この風船はその3種類の誰かに当たるはず。考えても分からない。でも、なんとなく赤色に近いイメージは持てた。
「これは…何色ですか?なんとなくさっきのリンゴと近い気がするんですが」
機械を操作している石田先生に声をかける。
「鈴木さんは鋭いですね。これはピンクという色ですよ。赤色に白を足すと薄くなってピンクになります。」
色を薄めるとか濃くするというのは、生きてきた中で何回も聞いてきた言葉だ。赤に白を足してピンク?ん?話に聞いてもあまりピンとこなかった。
「そろそろ次の画像に言ってもいいでしょうか?」
「あっ、はい。よろしくお願いします」
「次は二色一変に見てみましょう。次の画像は先に言っておきます。紅葉の画像をお見せします」
画面に映し出されたのは、立派に咲き誇っている紅葉の画像だった。凄い…綺麗。私は圧倒されていた。さっき観たリンゴの赤とは違いとても赫い。嫌、綺麗すぎて言葉では言い表せない。
「主に赤色は鮮やかな色合いと言われています。鮮やかとは、このような画像のことをいうのですよ」
鮮やか…。口からぽろっと出た言葉だった。もう一度画像に視線を戻し、目に焼き付けるように集中して観た。うん…鮮やか。そう思った。
「これは、赤色と茶色ですか?」
鮮やかに咲き誇っている紅葉達を支えているのは紛れもなくこの木達だ。今まで観てきた画像の中で一番よく見ている。赤色とピンクとは違った色をしている木は茶色だと判断した。
「そうですね。赤色と茶色です。」
少しずつではあるが理解していくのが分かる。この調子だと残り2回の治療も楽しくやっていけそうだ。
この後もたくさんの画像を見て色というもの観て行った。茶色い犬だったり植木鉢。モモやフラミンゴ。トマトやバラなどを観た。
「では最後にこちらの画像を観て本日の治療は終わりにしましょう」
画面に映し出された画像を観て私は大きく目を見開いた。これは…。そこには凛々しく立ち、大輪の花を咲かせている桜の木が映し出されていた。
今日観た画像の中で一番美しいと思った。桜は日本が一番綺麗だというのを聞いたことがある。他の国にはあまり存在しないとても綺麗な桜は、海外から来訪された人々が持ち帰りたくなる程らしい。
日本人が春になると朝からブルーシートを敷いて、場所取りする気持ちが少し分かった気がする。
今までは自分には関係のない話だった。でも、今日桜というものが綺麗だということを知ってしまった。私は…もし可能なら来年お花見というものをしてみたいという気持ちに駆られる。たくさんの桜の木に囲まれ、わいわいするのもきっと楽しいだろう。
桜の木の画像を観ながら感傷的な気持ちになっていると、スクリーンは急に暗くなった。
「鈴木さん、お疲れ様でした。コンタクトレンズはケースにしまって大丈夫ですよ」
あっ…今日は終わりか。今まで観ていたスクリーンが暗いことを再度確認してからケースを取り出す。なんだか名残惜しい気持ちになる。
ガチャ…っとドアが開かれる音がする。
「鈴木さんどうでしたか?初めて色を観た感想は?」
温かい瞳で覗き込み、私の返答を待っている。私はその瞳をみず石田先生のチャームポイントである笑くぼを見ながら答えた。
「簡易な言葉かもしれませんがとても感動しました。綺麗で…大袈裟かもしれませんがこんな世界があるのだと驚きました。違う世界に入った感じです。貴重な体験をさせていただきありがとうございました。」
私の言葉に満足したのか、何度か頷いた。
ガチャ…っともう一度音がすると春川さんがドアを少し開いてこちらの様子を窺っている。
「石田先生、少しお時間よろしいですか?」
「分かりました。ちょっと失礼しますね」
そういい残して、春川さんが待っているドアの向こうに消えていった。
んー…。1人になったことに気が抜けて伸びをした。はぁ…凄かった。今日一日だけで自分自身でとても成長できたような気がする。気がするだけで、成長していないかもしれないがそんな細かいことは気にしない。
今、何時なのか時計で確認しようとしたがこの部屋にはどうやら時計がないみたいだ。腕時計もしていない私は時間を知る術がなかった。鞄も併設してる隣の部屋に置きっぱなしだ。先生方が戻ってくるまでぼーっと過ごす。
少しするとお待たせいたしましたね。という声と共に石田先生と春川さんが部屋の中に戻ってきた。
「鈴木さんこの後は春川さんの指示に従ってください。私はこの後違う方の診察があるので失礼しますね。では、春川さんよろしくお願いします」
「はい、任せて下さい!」
2人でアイコンタクトを交わした後、石田先生は部屋から出て行かれた。
「よし!瑠璃ちゃんこの後予定あるかな?」
気を取り直した春川さんが私に元気よく質問をする。
「えぇ…。特に予定はありませんが」
今日の予定は、スクリーンに映し出された赤系統の色を観るだけで終わりのはずだった。この後に何が始まるのか全く想像がつかない。
にやっと笑った春川さんは、ちょっと待ってねと言い、折りたたみ式の机と丸い椅子を部屋の中に持ってきた。
よっ!はっ!という掛け声と共に机が完成し、その机の上にバラバラっと何かを広げた。これは…絵の具セット?一体これから何を始めようというのか。
訳が分からないといった風に、春川さんを見つめる。
「あの…これから何を始めるんですか?」
その質問を待ってたかのように、ふふんっ!と鼻を鳴らす。
「これから、一緒に色を作りましょう!」
「えっ!?あっ、いっ色!?」
びっくりし過ぎて何を言っているか分からなくてなってしまった。私の驚きぶりにあはははは!と春川さんは笑っている。
「うん!とってもいい反応だよ!今日観た色を使ってもう1段階上の色をこれから一緒に見ようと思ったの!」
もう1段階上?私のことを気遣ってのことだとは思うが、どうして私の周りではこう…物事を突然始める人が多いのか…。
「お気持ちはありがたいのですが、私コンタクトレンズ外してしまったんです。だから…」
色覚補正コンタクトレンズは、一度外してしまうと繊維が落ちて同じ色は見れなくなってしまう。そしたら、一番綺麗に見える時に1段階上の色は見たい。
「それなら大丈夫だよ!えーとね、あっ、あったあった!」
ナース服のポケットの中から取り出したのは、丁度今話していた色覚補正レンズだった。
「それどうしたんですか?一つ使うのにもお金かかりますよね?」
私はこの治療にあたり、コンタクトレンズがいくらするか前もって石田先生から聞いていた。その値段は決して安くはなく1週間に一度使えればいいくらいだ。
「これはね、サンプル品なの。治療とは別の目的で必要になった時に使えるように保管されてるのよ!だから、これを付けてもう1段階上の色を見ましょう」
スッと私の前に差し出す。ありがとうございます。と言い受け取ると、手鏡で目の中に装着した。
「見えるまで時間がかかると思うから、その間に準備してくるわね」
「春川さん…。私の為にお時間取って頂きありがとうございます」
クスッと笑うとそんなの気にしなくていいのよ。と返してくれた。
コンタクトレンズを付けるのが2回目ということもあり、1回目よりも馴染むのが早かったような気がする。何回か瞬きをし周りの状況を確認する。
春川さんも準備が整ったようで、私の準備が整うのを待っている。
準備できました。と声をかけると、はいはい!と言ってこれから行うことの説明をしてくれた。
今回使うのは、筆・パレット・筆洗・水彩絵の具の赤色と白色・雑巾の6点である。これらを使うのは中学生以来だ。
私の通っているN高校は、美術は必須科目ではない。音楽・書道・美術の中から一つを選択するシステムだ。私は、書道を選択した。1人で黙々と出来るという点から自分に合っていると感じたからだ。ちなみに由花は音楽を選択したらしい。理由と聞くと歌うのが好きみたいだ。
「んー。使い方は分かるよね?」
「はい。中学生の頃までは使っていたので」
それなら問題なし!と言った感じで私に赤色と白色を握らせてくる。
「じゃあ、色を作っちゃおう!」
白いパレットの上に、赤色を垂らす。パレットの白が赤色を際立たせる。そのままでも十分綺麗だがこの後、白を混ぜるとなると申し訳ない気持ちになった。
次にパレットとに白色を垂らす。あれ?白いパレットと白色は同じ色じゃない…?この微妙な違和感はさっきの治療の時に感じたものと似ている。リンゴと紅葉はどっちも赤だけど何か違う。それは今起こっていることと似ているのだろうか…。
「んー?どうした?瑠璃ちゃん大丈夫?」
心配そうに春川さんが声をかけてくる。せっかく時間をとってくれているのに、その時間を無駄にしてはい。考えるのは後にしよう。そのまま春川さんに今思っている疑問をぶつけてもよかったが、もう少し自分で考えたいと思った。
「赤色と白色を出したのですが、もう混ぜてしまって大丈夫ですか?」
筆を濡らし後は混ぜるだけとなる。隣でグッドサインが出る。
赤色と白色を混ぜるとペタペタした感触が伝わる。この感触は別に嫌いではない。無になるこの時間に美術の授業を思い出す。懐かしいけれど、その時間に戻りたいとは思わない。
だんだんと赤色と白色が混ざり合い、綺麗なピンク色へと変色していく。画像で見たフラミンゴの色とよく似ている。この色合いも嫌いではないが私はもう少し薄い色を作りたいと思った。
「あの、もう少し白を足してみてもいいですか?」
この道具一式は私の所有物ではない。きっと春川さんの私物である。私が勝手に使用してはいけないと思った。
でも、春川さんの答えはいつもと同じあっけらかんとした答えだった。
「いいよいいよ!じゃんじゃん使っちゃって!」
「あぁ…ありがとうございます」
彼女の人柄だというのは分かってはいるが、人に優しくされるのは慣れない。
白を投入し、出来上がっているピンク色に混ぜ合わせる。するとまた、白がピンク色に吸収され薄い色になってゆく。
少しずつではあるが、桜の色に近づいていく感がする。
「私さっきの画像で桜の木を観たんです。今日観た画像の中で一番綺麗でとても感動しました。だから、それに似た淡い色合いを作りたいと思って…。どうでしょうか?淡い色合いになってますか?」
恐る恐る聞いてみる。今まで進んで自分から色調を聞くことはなかった。違うと言われるのが恥ずかしくて。それでも人に色調を聞いてみたのは、自分の手で色合いを作り出したいと思ったからだ。
「うん。とってもいいわ。でも私は、瑠璃ちゃんが色に興味を持ってくれたことが嬉しい。ありがとう」
えっ…?春川さんの目は涙目になっていた。
「えっ!?どっどうしたんですか!?」
「いや…なんだか嬉しくって。瑠璃ちゃんが病院で生き生きしてる姿なんて見たことなかったし。でも、今こうして笑ってる。その姿を見たら嬉しくて」
春川さんはにっこりした顔を見せてはくれたが、その頬には涙が伝っていた。
「ごめんね瑠璃ちゃん、今日はここまで!私この後予定があるのよ!片付けは看護師である私が責任を持ってやっておくから!気をつけて帰ってね!」
最後は畳み掛ける感じだったが、私は言われた通りその場を後にすることにした。今日感じたこと思ったことはずっと大切にしていこうと決めた。

