もう少しで、家を出る時間だ。なのに私は呑気に紅茶を啜っている。あぁー…美味しい。
 「瑠璃、もう少しで家を出る時間なのは分かってる?」  
 母が少しトゲのある言い方をしているが、今の私には関係ない。
 「分かってるよ。でも、こうしていた方が気持ちが落ち着くのよ」
 全くといいつつも、私なりの気持ちの落ち着かせ方に納得してくれたみたいだ。私は大事な日になると紅茶を飲む習慣がある。これは、いわゆるルーティーンというものだ。
 ひと段落すると、病院へ行く準備を始めた。まぁ、準備といっても対して持っていくものはない。お財布や診察券、飲み物に携帯電話があれば困ることはないだろう。
 「瑠璃、今月は初診だから保険証忘れちゃだめよ」
 なんというグッドタイミングだ。保険証の存在を思いっきり忘れていた。保険証をお財布の中にしまい準備は整った。
 「お母さーん、準備できたわ。」
 中学生の頃から使っているお出かけ用のバッグを左手で持ち母の側に行く。
 「そろそろいい時間帯だし、行きましょうか」
 玄関のドアを開けると、太陽の光が私達を照らした。いつもと変わらない日常だけど、今日は心臓の鼓動が速い気がする。
 駅までの道を歩いていると、先日セミを見た公園に到着した。耳を澄ませても声は聞こえなかった。
 どうしたの?隣にいる母が声をかけてくる。
 「この前ね、この道を通った時にセミがいたの。あそこの木に止まって鳴いていたんだけど…。今日は居ないみたい」
 今日もいると思っていたのでなんだか残念な気持ちになる。セミに会いたいと思うのも変な話だ。
 「この辺は暑いから…涼しい所に移動したのよ」
 確かにこの辺は例年暑くなる。この前はまだ今日よりも涼しかった。
 「ほら、早く行くわよ。電車が来てしまう。」
 駅に着くと電車はすでに到着していた。
 「お母さん、もう電車到着してるわ。」
 「はいはい、今行くから」
 階段を登るのがきついようで、一段一段が重たそうだ。
 なんとか電車が発車する前に乗ることができた。夕方ということもあり、電車内は空いている。
 空いている席を見つけ、私と母は腰を下ろす。
 「昔はよく二人で病院に行ったわね」
 そうだね…。小学生ごろまでは親と一緒に行っていたが中学生になると一人で行っていた。
 「まぁ、高校も病院に行きやすいようにって思って杉並区内の高校にしたんだけどね」
 同じ区内だと、学校終わりに行けるという利点が私は嬉しかった。別に高校なんてどこでもよかった。きっと一人で過ごすことになると思っていたから。
 「それでも、由花ちゃんっていうお友達ができたみたいでお母さんも嬉しいわ。今度うちに連れてきなさいよ」
 電車の揺れ具合が心地良い。いつかね…。なんとなく恥ずかしくなり窓の外を見ながら答える。
 病院だけではなく、母と一緒に電車を乗ること自体が久しぶりだということに気づく。
 「ねぇ、お母さんと一緒に電車に乗ったのいつぶりかな?」
 そうねぇ…。と言いながら、少し俯いた。
 「あなたの高校説明会の時じゃなかったかしら?」
 あ〜…。そう言えばそうだなと思い返す。今通っているN高校の説明会の時に一緒に行ったのが最後だ。
 「あれから一年か…。時間が経つのが早い。でも、そう考えると案外久しぶりではないわね。去年一緒に電車に乗ってるから」
 それもそうね。私と母は顔を見合わせて笑った。
 阿佐ヶ谷駅に着くと、このまま学校に行きそうになる。N高校へは西口、S病院へは東口から行く。東口に向かいつつも、ちらっと西口方面を確認してしまう。
 病院までは、徒歩で行ける距離にある。景色を楽しみながら歩ければ良いが、建物ばかりで楽しくはない。
 S病院へ到着すると受付を済ませ、診察室の前にある椅子に腰かけた。
 この病院はH状の造りになっており、診察棟と入院・手術室棟になっている。あまり見ない造りだ。
 「お母さん、お手洗い行ってくるわね。」
 「わかった。ここで待ってるわね。」
 病院から発せられる消毒液の匂い、機械音全部が懐かしく聴こえる。最近来てなかったからな…。そんなことを思っていると頭上から声が聞こえた。
 「あら?瑠璃ちゃん?」
 ん?誰だろうと思い顔を上げると、そこには看護師の春川さんの姿が見えた。20代後半の幼い顔つきの看護師さんで、昔からお世話になっている方だ。
 「春川さん。お久しぶりです」
 「お久しぶりです。少し見ない間に随分大人っぽくなったわね。もう高校生だっけ?」
 私との会話が楽しいみたいで、声がいつもよりも弾んで聞こえる。私との会話ではなく、久しぶりに会えたからかな?まぁ、どちらでもいい。
 「はい、今年の4月から高校生になりました。」
 そっか、そっかと何かを噛みしめながら首を上下に振っている。
 「高校生活はどう?楽しい?」
 「毎日楽しいです。」
 無難な答えを言うと、柔和な顔つきでよかったと言った。
 「じゃあ、仕事に戻るわね。私のことも見かけたら声かけてね!」
 そういうと、早足で行ってしまった。本当は忙しいのに、患者さんとの会話を大切にする春川さんは素敵な人だと感じた。
 「次、鈴木瑠璃さんお入り下さーい」
 あっ、私の順番が回ってきた。どうしよう…母はまだトイレから戻ってこない。先に入ろうかと思っていると、もう呼ばれたの?っと言って戻ってくる母の姿が見えた。
 「戻ってこないからヒヤヒヤしちゃったよ。呼ばれたから行こう」
 お手洗い込んでてね〜。と説明されながら私達は病室の中へと入った。
 「こんにちは。本日は急なお呼び出しをしてしまい申し訳ありませんでした。ささっ、どうぞお掛けください。」
 私と母は、椅子に腰かけた。妙に緊張してくる。いつもなら緊張なんてしないのに…。変だなと思いつつ、石田先生の話を待った。
 「瑠璃さんの目のことなんですがね、単刀直入にいいます。医学が進みまして、色が見えるようになるかも知れません。」
 え!?いきなり何を言い出すんだと思った。色が…見える…?確かに石田先生はハッキリとそう言った。
でも、急にそんなことを言われても思考回路が追いつかない。
 「それは…えっと、瑠璃が色を見ることができるんですか…?」
 声の形からしても母の動揺は私にも伝わってくる。私達の動揺している姿を申し訳なさそうに石田先生は見ている。
 「驚かせてしまい申し訳ありません。一つずつご説明していきたいと思います。」
 石田先生の話をまとめるとこうだった。
 色覚補正コンタクトレンズというものを、目に入れる。そうすると色を見ることができるらしい。その時同時に脳の中にある海馬に電磁波を流し込むことによって色を覚えることができるらしい。
 ここまで聞いても、本当にそんなことが可能なのだろうかと思う。
 「そして、色を一通り見ていただいたら、レーシック技法を利用して角膜を切開し直接可視光線を当てます」
 ぴくっと体が震えた。切開?きっと痛いわよね。体に緊張が走った。何から質問をすればいいのかわからない。
 あの…。口を開いたのは隣に座っている母だった。
 「ごめんなさい。いきなりのことでまだ頭が追いつかないのですが、コンタクトレンズを一回一回外して使っていくのはダメなんでしょうか?」
 その点には関しては私も知っておきたい点だったので、母が聞いてくれたことに感謝する。
 「確かに、お母様の仰られる通りです。しかし、一回一回取り外して、専用の液体に付けておくとこちらのコンタクトレンズは繊維が落ちてしまいます。しかし、レーシック技法を使えばそんなことはありません。一度の手術でずっと色のついた世界を見ることができます。」
 いろんな情報を一気に聞いたことによって頭の中がパンクしそうだ。小さい頃からの夢だった…。周りの人達と同じ景色を見てみたい。どれだけ輝いて見えるのだろうかとずっと思っていたが、そこまでに辿り着くにも容易ではない。
 「まぁ、今すぐに決めくださいと言うわけではありません。ゆっくり考えて頂いて構いません。」
 シーン…とした空気の中に時計の針の音と機械のピッ…ピッ…とした音だけが響き渡る。
 ——瑠璃がしたいと思ったことをしてみなさい。昔おばあちゃんが私に言ってくれた言葉を思い出した。私がしたいこと…。それを考えたら、すっと頭の中に浮かんだ。
 「私は、手術とかはまだ考えられないです。でも、色は見たい…です」
 自分の気持ちをいいきり、石田先生の顔を見ると笑顔が広がっていた。昔から笑うと右頬に笑くぼができていたが、今見ると左頬にも笑くぼができている。笑くぼって、歳取ると増えるのかな…。そんな疑問も残った。
 その後、私と石田先生と母で今後の方針を決めていった。色覚補正コンタクトレンズを付けて、海馬に電磁波を送る段階まで今は進めてみることにした。
 自分のことなので、自分でしっかり決めないとと思いつつもどこか上の空になってしまう。
 一通り話が終わり、次回の病院の予約をした。石田先生に挨拶をし、病室をでようとした時だった。
 「先生…いくつかお話ししたいことがあります。瑠璃、悪いけど先に外に出ててくれる?」
 いつもよりも声のトーンが低い。どんな話をするのか大体の予想はつくけど…。
 「うん。石田先生は本日はありがとうございました。」
 そう言って私は、病室を後にした。
 緊張した…。私はそっと胸を撫で下ろす。
 ガタガタっと音が鳴り、何事かと思い瞬時に音のなった方向を見た。外で大きな風が吹いたようだ。風か…と思いびっくりさせないでよと思った。
 ——お母さん見てみて!すっごい風だよ!
 ——本当ね。暗くなる前に早く帰りましょうね。
 無邪気な子供の声と母親の声が聴こえる。その光景はとても微笑ましく見える。
 それにしても凄い風ね。近くの窓ガラスから外の景色を眺めてみる。わぁ…私が今いる階は3階である。周りの建物が夕陽に照らされ反射して見える。
 下を見てみると裏庭が広がっていた。二つのベンチに花壇が数面広がっている。裏庭の中心には木が立っている。
 あれ…?あの木…。裏庭に立っている木と学校で見た木。どちらもオークの木であることに気がついた。
 私は何回もこの建物を訪れているが、裏庭を見るのは初めてだった。いつもは、診察をしに来て終わったらお会計をして帰るだけ。だから、こうして裏庭を見るのは初めてなのである。
 学校の木と病院の木どっちが大きいのかな…。そんなことを考えていると、あることに気がつく。
 ん?さっきまでは気がつかなかったが、オークの木の下に一人青年が座っている。始めからいたかな…?目を離した時に来たのかしら…。
 なぜか分からないがその青年と話したいという衝動に駆られ、私は急いで階下に下りた。
 裏庭へと続くガラス戸を開け、裏庭へ足を一本踏み入れた。その瞬間先程と変わらない大きな風が私の身体を纏った。
 んー!!風強いよ…!!風の風圧で目を開けることもできない。風の音と草花の重なり合う音だけが耳に入る。
 風が過ぎ去るのを待ってからゆっくりと目を開けた。最近強い風がよく吹くと思う。
 ——大丈夫?
 え…?その声はオークの木の下で本を読んでいる青年だった。上から見ていた時に居た青年である。
 「大丈夫です…。ありがとうございます。」
 青年はにこりと笑い、本へ視線を戻した。あっ…もっとお話がしたかった。きっと、この青年ではなく誰でもよかったのだろうと思う。ただ話し相手が欲しかったのだ。
 「何の本読んでるんですか…?」
 青年は話しかけられると思っていなかったのだろう。私が声をかけたら肩がぴくっと動いた。
 ——あなた!ここ、もう少ししたら締めるから早く戻ってね!
 ぴくっ!私は後ろから声をかけられると思っていなかったので肩が震えた。
 病院の中から看護師さんがこちらに向かって言っている。分かりました。と一声かける。
 私の肩の震えが面白かったのか、青年の方へ振り向くとふふっと笑っている。
 「あぁ…ごめん。この本かい?これは『誰がために鐘は鳴る』という本だよ」
 んっ…知らない。由花なら知ってるかしら。由花の顔を思い浮かべると急に会いたくなる。どうしよう会話が続かないわ。次の言葉をと思うが何を話せば良いのか…。
 「よかったらもう少しこっちにおいで。距離が遠くないかい?」
 まっすぐにこちらを見る視線に後退りしてしまう。人と目を合わせる行為をしてこなかったから、慣れないのである。
 せっかくなので一歩一歩青年のいる側へ近づく。青年が着ている服は私服だと思っていたがそうではなかった。どこか学校の制服を着ている。
 「あの…さっきの本はどなたが書いている本なんですか?」
 本のタイトルと著者の名前を聞いて、週明けに由花に聞いてみようと思った。青年は、著者の名前を見ることなく、アーネスト・ヘミングウェイと答える。
 日本人の著者じゃないのね…。後でメモしておかないと忘れてしまうわ…。
 「君は本を読むのかい?」
 急な質問に対応力のない私はドギマギしてしまう。
 「え!?あっ、えっと、そんなには読まないです。読んでも一年に2冊くらい…。」
 「そう。この作者はとても有名だから機会があれば読んでみるといいよ」
 と言ってまたにこりと笑う。私と対して歳は変わらないと思うが、どこか落ち着いた雰囲気があり私の周りには居ないタイプの人だと思った。
 「僕はずっとここで本を読んでいるんだ。ここにいると落ち着く」
 ずっと…?その言葉にどこか違和感を感じたがあえて聞き返さないことにする。
 この大木の下で本を読むのはとても気持ちが良いと思う。私ももし読む機会があったら読んでみようと決めた。
 「もう日が暮れる。暗くなると危ないから早く君は帰りな。」
 確かに西の空では日が沈もうとしていた。
 「あっ、瑠璃ちゃん!こんな所にいたのね!」
 振り返るとそこには春川さんの姿があった。どうやら私のことを探していたらしい。
 「瑠璃ちゃんのお母さーん!瑠璃ちゃん裏庭にいらっしゃいましたよ!」
 あっ…。お母さんの存在をすっかり忘れていた。控え室で待っててと言われたのに、裏庭にいるのだから後で叱られると感じた。
 「こんな所にいたのね瑠璃。早く帰るわよ」
 顔の表情からしても少し怒って見える。今行くわ。と答えてから、もう一度青年の方へ目を向けた。
 「早く帰りな。またこの病院へ来る機会があればここに寄ればいい。僕はずっとここにいるから。」
 まただ…またずっとという言葉を使った。なぜかその言葉を聞くと悲しくなる。
 じゃあ…。と言ってその場を後にした。
 裏庭と病院を繋ぐガラス戸へ着くと第一声は母のお怒りの言葉だった。
 「ずっと探してたんだからね!いきなりいなくならないでよね」
 母が怒るのもごもっともだと思う。でも、と思い私も反撃する。
 「私がいないと思ったら携帯鳴らしてくれたらいいのに。何のための携帯電話よ。」
 そう言って私は母に携帯電話を見せつけた。母は黙っていたが、はい、ここまで!という風に春川さんの声が間に割って入った。
 「瑠璃ちゃんが裏庭にいるなんて思わなかった!裏庭に入ったの初めてじゃない?」
 場を明るくしようとする春川さんの気遣いに心がほっこりする。
 「さてと、日も暮れてきたしここも閉めますか!」
 裏庭と病院を繋ぐガラス戸をロックしようとしている春川さんを慌てて止める。
 「だめです!外にまだ人が居ます」
 さっきまでお話ししていた青年がまだ外に居るので、ロックしてはだめだと告げる。
 春川さんと母は顔を見合わせ首を傾げる。ん?と思い青年と話していたオークの木の下を見るとそこに青年の姿はなかった。
 「変ね…。確かにさっきまでそこに居てお話ししてたんだけど…。」
 少し間を開けてから春川さんは思いついたように言った。
 「その人は外部の人なんじゃないかしら?きっと他の道から帰ったのよ。」
 そうなのかしら…。でも、青年のずっと…。という言葉が忘れられなかった。あの言葉は、ずっとここに入院しているという意味だったのではないかと思った。
 私の表情を見た春川さんは申し訳なさそうに、ガラス戸のロックを始める。
 「ごめんなさいね。ロックする時間が決まってるのよ。」
 私のせいで謝らせてしまった春川さんにつかさず謝罪の言葉をいう。
 「春川さんは、何も悪くないです。変なことを言ってしまい申し訳ありません…。」
 「日が暮れるから気をつけて帰ってね」
 そこにはいつもと変わらない春川さんの笑顔があった。
 「あっ、はい。ありがとうございます。春川さんは何時上がりですか?」
 春川さんも若く、同じ歳くらいの方達に比べたら華奢な体付きなので夜遅いと心配になる。
 「私は今日夜勤なのよー。心配してくれたの?ありがとうね!」
 「あっ…いえ。夜勤無理しないで下さいね。」
 ありがとうの代わりに笑顔で答える。
 「じゃあ、この後会議があるから」
 私と母に頭を下げてからその場を立ち去った。私達も病院を後にすることにした。
 「あっ、お会計してない」
 病室を出た後、すぐに青年とお話ししていたためお会計がまだだったことに気づく。
 「お会計なら終わってるわよ。あなたを探しに行く前に済ませておいたから」
 さすが母だと思った。頭が上がらない。
 「今日は一緒に来てくれてありがとう」
 素直に感謝の気持ちを述べると母は笑い始め、変な子という。母の愛情がこもってる笑い方が私は好きだ。
 病院を後にし、駅へと向かう。来る時よりも気温は下がり過ごしやすくなっている。駅に近づくにつれ、人通りも多い。
 駅に着き電車が到着する時刻を確認する。
 「後10分か…。行きの時がタイミング良かったのね」
 「まぁ、10分なんてすぐよ」
 近くに空いてる椅子がないか探す。少し離れた所にちょうど2席空いているのを発見した。
 「お母さん、あそこ2席空いてるから座ろう」
 なんだかんだで、今日一日はとても疲れた。早く家に帰ってゆっくりしたい。まずは、お風呂かな…シャワーも浴びて…。
 「今日は夕飯何がいいかしらね、帰りにスーパーにでも寄ってお惣菜でもみましょう」
 「えっ?あっ、うん」
 母は、私たちのために夕飯のことまで考えていたのに、私は自分のことばかり…反省する。
 「何か食べたいものでもある?」
 母の声がいつもよりも優しく聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。
 「そうねぇ…エビチリでも食べたいかな」
 「じゃあ、帰りに見てみましょう」
 うん、今日一日だけで何歳も老けた感じがする。でも、今日みたいな日もいつの日か思い出になり、自分の糧になっていくのではないかと思う。
 そんなことを思い、駅のホームから見上げた空に一番星が輝いている。
 「あっ、お母さん見て。あそこに一番星が出てる」
 一番星が輝いてる所を指す。その方角を母も見て一番星の存在に気づく。
 「あら、本当ね。子どもの頃はよく見ていたけど、大人になると見る機会も減ったわ」
 どこか懐かしそうに見つめている母を初めて見た。
 「どうしたの…?何かあった?」
 私の声で我に帰ったのか、いつもと変わらない表情で私の方に向き直る。
 「なんでもないわよ。ちょっと昔のことを思い出しての」
 私は、母の昔話はそんなに聞いたことがなかった。いつか聞いてみようと思う。
 私は、一番星を見つけられたらいい事が起こる気がする。逆に母は、一番星を見つけると懐かしい感じになる。同じものを見つめているのに、感じ方は人それぞれで、それが当たり前なのだと再確認させられた。
 10分という時間はあっという間で、私達が乗る電車がホームに着いた。ドアが開き、中に乗っていた方々がぞろぞろとホームに出てくる。
 人が全員出てから私と母は席を立つ。
 電車内は、行きと同じで人数は少なかったので母と座席に座ることにした。
 そして、電車の揺れと空調の具合が絶妙で、私は一気に眠りの世界へ旅立った。