目が覚めたら、楽しく飲んでいた友達はみんないなくなっていた。あんなに賑やかだったのに、嘘みたいに静かだ。
照明の眩しさに顔をしかめながら、あたしは自分にかかっていたタオルケットに目を落とした。
今日は宅飲みのはずだけど……ここ、誰の家だっけ?
まだ少しだけぼんやりする頭を押さえながら、あたりを手で探る。横から「はい」とあたしのバッグが差し出されて、視線を上げた。
「よかったー、朝まで起きないかと思った。おはよう、花村さん」
安堵したように微笑むその人に、一瞬フリーズしてしまった。もうすっかり見知った顔だった。
「えーっと……おはよう?」
みるちゃんの彼氏の友達、黒川くん。
今回の飲み会の場を提供してくれた人。何度か大勢で一緒に飲んだし、最近は2人でも飲むようになった。黒川くんといると時間があっという間で、いつも楽しい。
今日、黒川くんから「寝てもいいよ」って言われたのも思い出した。
黒川くんめ、なんて八つ当たりの言葉が喉元まで出かかってやめた。どちらかといえば、こんな時間まで寝かせておいてくれたいい人だ。そんな人に八つ当たりはお門違いも甚だしい。
理性が働く頭が残っていてよかったと、ほっとした。
「動けそう? 水、よかったら飲んで」
渡されたペットボトルの水をありがたく飲む。
「ありがとう、これも。寝ちゃってごめんね。みんなはもう帰っちゃった?」
タオルケットを黒川くんへ返す。さっきまでは狭く感じた部屋が急に広く感じた。
ここで6人で飲んでいたはずだ。先に帰るとしても、みるちゃんだけは起こしてくれると思ったのに。
「みんな待ってたんだけど、花村さん全然起きなくてさ。明日1限からの人らが先帰って、ミルちゃんたちは終電だからってさっき帰ったよ」
「え、待って。今何時?」
「11時38分。花村さんは終電間に合いそう? タクシーにする? 家この辺ではなかったよね」
近くに置いてあったテーブルを歩きやすいようにずらしてくれた。あたしが寝ている間にすっかりテーブルが綺麗になっている。あたしはただ眠っていた。
「たぶん、電車間に合うよ」
片付けもしないで長居して申し訳なかったな……と、はたと気づく。今ここにいる時点で間に合わなくない!? 無理じゃない!?
「やっぱ帰れない」と、パニクる頭とは裏腹に落ち着いた口調になった。黒川くんのほうが「え!?」と声を張り上げた。
「線によってはまだ電車あったと思うよ。とりあえず調べてみようか」
黒川くんはスマホを取って「これならまだ間に合いそうだよ」と親切に教えてくれた。
表示された時刻を一緒に見てから、黒川くんと顔を見合わせる。
「駅まで何分かかるっけ。5分で行けるかな」
行きを思い返して、あたしは訊ねた。案内されつつ来たから、ここから駅までの正確な時間はわからない。
けれど、そんなに早くはなかった気がする。
「走って7分、でいけたらいいほう。けど、花村さんスニーカーじゃないから無理そう」
玄関で足元に目をやった黒川くんが苦笑する。
ほんとだ、これは無理な気がする。
「……走れないね」
ヒールの高いサンダルにしたことをすっかり忘れていた。とても走れそうにない。
「そうだね。走らないほうがいいよ」
黒川くんがちょっと困ったように唸る。申し訳のなさが募った。
「タクシーのがいっか。駅前ならいると思うんだよね。俺コンビニ行くし、駅まで送るよ」
送ってもらうの、ちょっと気まずいな。2人で話せるのは嬉しいのに。ためらいつつ、そうだねと答えた。
できればタクシーには乗りたくない。黒川くんは優しいから、あたしがタクシーに乗るまで気にしてくれそうだ。どうしようかな。
絶対に高くつく。自業自得なんだけど、かなり痛手だ。
近くを探せばビジネスホテルとかネットカフェとか、何かあるだろうか。タクシー代よりはマシのはず。
「花村さんを駅まで送ることになったよ。うん、タクシーにして……あ、そうなの?」
黒川くんに促されて先にサンダルを履いていると、黒川くんが誰かと話すのが聞こえて振り返る。誰かに電話をしているらしく、ちょっと身構えてしまった。何であたしの話?
気づいた黒川くんが、すかさず「ミルちゃんだよ」と教えてくれた。
「帰るとき花村さんのこと心配してたから、電話繋げてあったんだ。話す?」
「うん、みるちゃんと話したい。ありがとう」
黒川くんはあたしと目線を合わせるためにしゃがみ込んで、スピーカーフォンにしてくれた。あたしがもしもし、と言い終えないうちにみるちゃんから「起きるの遅いよー!」と返ってきた。
「ごめんね。久々にやらかしたよね」
「度数高いやつ何杯も飲むからだよ。だから言ったでしょー」
「飲みやすくて、意外といけるとか思っちゃったんだよね」
みるちゃんが買ってきていたお酒をうっかり開けてしまった。飲み始めたときに止めてくれたみるちゃんに、全然大丈夫だとそのまま飲み続けたあれは、かなり調子に乗っていた。
飲み会に参加するのは好きだし、飲むのも好きだけど、普段のあたしはそんなに量を飲まない。
黒川くんの家に上がったの、自分で思ってるより緊張してたかな。なんて、お酒の失敗はかわいくない。
「タクシーだと七海の家遠いし、近くのホテルとか探すつもりでいるしょ? 黒川くんがよければ家泊めてもらえばと思うけど、七海が眠れなさそうだもんねぇ」
黒川くんも聞いている手前、みるちゃんの問いにうんと即答できなかった。まして、その家であたしはさっきまですやすや寝てたんだから。穴があったら入りたい。
ちらっと黒川くんを見やれば、腕を組んで何かを思案している様子だった。
「適当に探すよ」と曖昧な返事をすると「危ないでしょ!」とみるちゃんの大声。みるちゃんの彼氏の「声が大きいよ」と穏やかな声が続く。
うちに呼べばと言ってくれているのが聞こえて、慌てて「それはいいよ」と断りを入れた。せっかく2人で過ごしている夜を邪魔しに行きたいとは思ってない。
「じゃあ、このまま泊まる? 花村さんが不安なら、俺が朝まで外出てもいいし。部屋は好きに使ってくれていいよ」
黒川くんはそれを考えてくれてたんだ。いやいや、とあたしは首を横に振った。
この家に泊まることが不安なのではなく、意識がはっきりしてきたこの状況では、みるちゃんの言うとおり眠れそうにない。
心臓の鼓動がいつもより速いのは、アルコールのせいじゃない。
「いや、それも悪いよ。みんな色々考えてくれてありがとう。とりあえず……考えます」
今すぐ考えて結論を出すべきなのはわかっているけど、行き先はまだ決められなかった。
みるちゃん家はただの邪魔者になってしまう。黒川くん家も考えただけでどきどきする。他の場所は探してみないとわからない。
何かあったらすぐに電話してねと言うみるちゃんカップルにお礼を伝えて、黒川くんのコンビニへついていくことにした。駅前まで行って、どうするか決めようと思った。
もう少し黒川くんと一緒にいて、話をしたい気持ちが心の大部分を占めている。
外は、昨日の大雨が残していった涼しさが夜もまだ続いている。風が心地よく肌を滑っていった。
車道側を歩く黒川くんが時折あたしを気にして顔をこちらにむけてくれるものだから、その度に頬が緩んでしまった。
あたしはまだ酔いが醒めていないのかもしれない。
「花村さんは何かほしいものある?」
コンビニへ入るなり、黒川くんから訊ねられた。
「あたしは、お茶買っておこうかな。黒川くんは何買うの?」
「んー、何にしよっかな」
「え?」
ほしいものあって来たんじゃないの。ふっと笑った黒川くんを見て、気づいた。あたしのためか。
じんわり熱くなった首筋に手を当てて息を吐く。お茶はあっちだね、と先を歩く黒川くんはただ優しいだけなのかどうか。判断するには、どうすればいいだろう。
お茶を取って、レジの近くへ行くと黒川くんが「おっ」と声を出した。
「花火あるじゃん。始発までやっとく? 線香花火なら静かだし、いけるんじゃないかな」
「水も必要だし、夜中に火が見えたら通報されそうだよ。あ、こっちはどう?」
全然違うけど、と付け加えてあたしは目についたそれを手に取った。
「へぇ、コンビニでシャボン玉って売ってんだ」
「ね、あたしも思った。やる?」
駅まで行って終わるには、惜しい夜だ。普段ならこんな提案はしなかっただろう。
黒川くんから始発までと言ってくれた。それをなかったことにはしたくなかった。寝てしまった昨日を取り戻したい気持ちもあった。
「いいねー、やってみよ」
黒川くんはシャボン玉と、あたしが手に持っていたお茶をひょいと取ってレジへ出した。あたしが財布を出す間もなく支払いを終えられてしまって、仕方なくスマホを出して送金する。
「受け取んないから、取り消していいよ。次は花村さんが払ってくれれば」
コンビニを出て、スマホを確認しながら黒川くんが言った。次があるという言葉に浮かれてしまうけど、ここは譲れない。
「そういうのいいいから受け取っちゃって。この前2人で飲んだときも、そう言って受け取ってくれなかったじゃん」
「はは、バレたか。じゃあ、これはありがたくもらっとく」
受け取りましたの通知をしっかり見てから、スマホをカバンにしまう。
さっきとは違う道に入ると、セミの鳴き声が響いていた。
小さな夜の公園の手前。風でかすかに木々が揺れている。いつもなら怖いって思ってしまいそうな場所も、隣にいる人のおかげで悪くないかもって思えた。
と、足元に蠢く何かに悲鳴をあげそうになって、思わず黒川くんに駆け寄る。
「今そこ絶対なんかいた!」
「あー、いるね。セミとか」
「えー、でも今はセミじゃない何かいたよ。次来たら黒川くんが助けて」
明かりの少ない公園では辺りが見づらかった。前言撤回。やっぱり夜の公園は怖い。
「いいよ。ちゃんと守るから任して。腕つかまっとく? あ、でも汗かいてるから――」
言葉の途中で、あたしは黒川くんの腕をつかむ。つかんだ自分の指先が、溶けそうなほど熱を持っている気がして「暑がりなの」と意味不明な言い訳が口から飛び出してしまった。
暑がりならつかむなよって思われたかな!?
「ほんとだ、花村さんの手熱いね」
「そうなの。熱こもってるのかもね」
隣の黒川くんを見上げても表情が読めない。あたしのおかしな発言は気にしてはいなさそうで、ほっと胸をなでおろした。
明かりの近くまでやってきて、ビニール袋をがさがささせた黒川くんは小さく笑った。笑っている理由がわからないまま、あたしは片手でシャボン玉を受け取る。
「これ開けてもらっていい?」と言われて、腕をつかむ手を離した。あたしが腕をつかんだままだった。
あたしはシャボン玉の入ったパッケージをびりびり破っていく。その様子を微笑んで見られていることに気がついて、頬も熱を持った。
「花村さん、この後って、どうするか決まった?」
「あ、全然決められてなかった」
黒川くんといることを優先して、この後を考えることすら放棄してしまっていた。シャボン玉をやったとしても、始発までの時間はさすがに潰せないだろう。
「ここで話しててもいいかとも思ったけど、長くいるとさすがに暑いだろうし」
「うん。公園で夜を明かすのはちょっと」と、辺りを気にしてしまうあたし。
開けたシャボン玉液と吹き棒を黒川くんへ渡してから、自分も吹いてみる。ふわふわと優しい風に乗ったかと思えば、弾けて暗闇へ消えていった。
適当に朝まで乗り切れる場所を探そう。
「やっぱ、俺ん家泊まってけば?」
「ううん。みるちゃんも言ってたけど、あたしもう黒川くんの家で寝れそうにないから」
「……まだ、いてほしい」
「そんなの悪いよ――え?」
早とちりをして食い気味に言ったあたしの口が半開きのまま止まる。
ふぅと息を吹いた黒川くんのシャボン玉が、きらきら舞い上がった。
「家で話さない? 花村さんと話すときは飲んでて酔ってることも多かったし、たまにはゆっくり話そうよ」
正直なところ、今も素面とは言い難いけど確かにその通りだ。黒川くんと飲むことメインになってしまって、他のことで誘う機会も勇気もなかった。
「映画見るとか、ドラマ見倒すってのもありじゃないかな」と、黒川くん。
あたしが家に泊まるのに寝れないって言ったこと、気にしてくれてたのかな。
本当に、緊張で心臓がどうにかなりそうなだけだ。でもここで断ったら、きっとチャンスを逃す。
「いいね、楽しそう。あたしも黒川くんとたくさん話してみたいと思ってたんだ」
シャボン玉をもう一度吹く前に、口を開く。ちゃんと伝えておかないと。誤解されたままではいたくない。
「ちなみに、緊張するから眠れないって意味で……その、さっき寝てたくせにって感じなんだけど、黒川くんの家に泊まるの、緊張……します」
口調が迷子になってしまった。
ごまかすようにシャボン玉を膨らませる。長く吹くと、小さいシャボン玉がたくさんできた。みんな風にさらわれていく。
暗いから、顔が見られなくて済む。黒川くんの顔だって見れない。
「そっか、緊張で寝れないってことだったんだね」
「復唱されると恥ずかしさ増し増しなんだけど。そういうことだから」
ちゃんと伝わってるのかな。
「はは、かわいーね、花村さん。ちなみに俺のこれは、酔ってないんで」
「嘘、酔ってるでしょ」
「酔ってない、と思う。さすがにもう俺は醒めたよ」
風向きで黒川くんが吹いたシャボン玉があたしの視界を遮る。消えた頃には、好きな人が微笑んでいるのが見えた。
「酔っててくれないと困るよ。あたしがこの後どうしていいか、わかんない」
「何で? せっかくの夜じゃん。俺は花村さんと話すの楽しみだよ」
わざとらしくきょとんとする黒川くんに、あたしは唇を尖らせる。
「あたしも楽しみではあるよ。だけど何か、黒川くんてたまに意地が悪いよね」
「寝顔も見てかわいーなと思ったところとか?」
うわ、それ怖くて聞けてなかったのに!
まだ頬が火照っている。どうしてくれるんだ。
「そう、そういうとこ!」
「おかしいな。よく優しいって言われるのに」
「それは黒川くんのことよくわかってない人だね」
「花村さんはわかってくれてるんだ」
からかっているだろうに、嬉しいなんて言われたものだから否定できなくなってしまった。
「……そうかもね」
静かに息を吐いて、あたしはシャボン玉液にフタをする。黒川くんは、まだ大きめのシャボン玉を作って飛ばしていた。
飛んでなくなるまで見つめてから、黒川くんがあたしの分もまとめてシャボン玉を片付けてくれた。それから、あたしを振り返って「そろそろ行こっか」と言った。
「付き合ってくれてありがとう。けっこー楽しかった」
シャボン玉ってきれいだったんだな、としみじみする黒川くん。あたしもそうだねとうなずいた。
「帰りも腕つかまっとく?」
さっきまでからかっていたくせに、優しいからずるい。
ん、とあたしがつかみやすいよう、腕を曲げてくれる。つかまるのもいいけど、今夜はもう少し調子に乗ってもいいかな。もう十分、乗ってるかもしれないけど。
「手を繋いでも、いい?」
「もちろん」
差し出された手のひらに重ね合わせると、大事なものを扱うようにきゅっと優しく握ってくれた。ゆっくり歩き出して、公園を後にする。
黒川くんはずっとあたしの歩幅に合わせて、進んでくれた。
ああ、あたしこの人のこと好きだな。シンプルに落ちてきた感情が嬉しくなって、口の端が自然と上がる。
「あれ? 黒川くんもちょっと熱いね」
「俺のこと何だと思ってんの。好きな子と手ぇ繋いでんだから、どきどきして体温も上がるよ。心拍数、今けっこーやばい」
「……好きな子いたんだ?」
自分の口から出てくる言葉は素直じゃない。心臓はもう飛び出しそうなほど脈打ってるのに。
「いるよ、隣に」
「奇遇だね、あたしも隣にいる」
何だこれ。たまらず笑ってしまうと、一瞬だけ目をそらした黒川くんもこちらを見てはにかんだ。
自動販売機の明かりに照らされて、笑顔の黒川くんが見えた。顔色まではわからないけど、きっとお互いに真っ赤なんだろう。
「朝まで、何話そっか」
沈黙が続いて、気まずくなったのか黒川くんから話題を変えてきた。
「そうだなー。黒川くんて、朝はパンとごはんどっち派?」
これから迎える朝を想像して、何てことない質問から始めてみる。
「朝あんま食べないけど、強いて言うとごはんかな」
「じゃあ、目玉焼きは醤油? 塩?」
「目玉焼きより、卵焼き派かな」
そっちかーと納得していると「作ろっか?」と黒川くんが提案してくれた。
「うん。朝ごはん一緒に食べようよ」
「いいね。卵くらいしかないから、他にもコンビニ戻って買う?」
うん、とうなずいて、踵を返す。少し汗ばむ手を引っ込めようとすると、握る手に力を込められた。
「あともう少しだけ、このままがいい」
「えー、始発まで?」
あたしがおどけて訊ね返すと「始発過ぎてもいてよ」と、黒川くんから笑い返された。
くすぐったいような感情を抱えて、胸が苦しいほどだった。
「いるよ。朝ごはん食べるもんね」
「朝ごはん目当てか」
黒川くんがふふっと笑う。
指を絡めて手の繋ぎ方をそっと自分から変えた。本当は朝が来るまで手を繋いだままだっていい。
重なる手が、同じ温度に溶けていくような気がした。
END
照明の眩しさに顔をしかめながら、あたしは自分にかかっていたタオルケットに目を落とした。
今日は宅飲みのはずだけど……ここ、誰の家だっけ?
まだ少しだけぼんやりする頭を押さえながら、あたりを手で探る。横から「はい」とあたしのバッグが差し出されて、視線を上げた。
「よかったー、朝まで起きないかと思った。おはよう、花村さん」
安堵したように微笑むその人に、一瞬フリーズしてしまった。もうすっかり見知った顔だった。
「えーっと……おはよう?」
みるちゃんの彼氏の友達、黒川くん。
今回の飲み会の場を提供してくれた人。何度か大勢で一緒に飲んだし、最近は2人でも飲むようになった。黒川くんといると時間があっという間で、いつも楽しい。
今日、黒川くんから「寝てもいいよ」って言われたのも思い出した。
黒川くんめ、なんて八つ当たりの言葉が喉元まで出かかってやめた。どちらかといえば、こんな時間まで寝かせておいてくれたいい人だ。そんな人に八つ当たりはお門違いも甚だしい。
理性が働く頭が残っていてよかったと、ほっとした。
「動けそう? 水、よかったら飲んで」
渡されたペットボトルの水をありがたく飲む。
「ありがとう、これも。寝ちゃってごめんね。みんなはもう帰っちゃった?」
タオルケットを黒川くんへ返す。さっきまでは狭く感じた部屋が急に広く感じた。
ここで6人で飲んでいたはずだ。先に帰るとしても、みるちゃんだけは起こしてくれると思ったのに。
「みんな待ってたんだけど、花村さん全然起きなくてさ。明日1限からの人らが先帰って、ミルちゃんたちは終電だからってさっき帰ったよ」
「え、待って。今何時?」
「11時38分。花村さんは終電間に合いそう? タクシーにする? 家この辺ではなかったよね」
近くに置いてあったテーブルを歩きやすいようにずらしてくれた。あたしが寝ている間にすっかりテーブルが綺麗になっている。あたしはただ眠っていた。
「たぶん、電車間に合うよ」
片付けもしないで長居して申し訳なかったな……と、はたと気づく。今ここにいる時点で間に合わなくない!? 無理じゃない!?
「やっぱ帰れない」と、パニクる頭とは裏腹に落ち着いた口調になった。黒川くんのほうが「え!?」と声を張り上げた。
「線によってはまだ電車あったと思うよ。とりあえず調べてみようか」
黒川くんはスマホを取って「これならまだ間に合いそうだよ」と親切に教えてくれた。
表示された時刻を一緒に見てから、黒川くんと顔を見合わせる。
「駅まで何分かかるっけ。5分で行けるかな」
行きを思い返して、あたしは訊ねた。案内されつつ来たから、ここから駅までの正確な時間はわからない。
けれど、そんなに早くはなかった気がする。
「走って7分、でいけたらいいほう。けど、花村さんスニーカーじゃないから無理そう」
玄関で足元に目をやった黒川くんが苦笑する。
ほんとだ、これは無理な気がする。
「……走れないね」
ヒールの高いサンダルにしたことをすっかり忘れていた。とても走れそうにない。
「そうだね。走らないほうがいいよ」
黒川くんがちょっと困ったように唸る。申し訳のなさが募った。
「タクシーのがいっか。駅前ならいると思うんだよね。俺コンビニ行くし、駅まで送るよ」
送ってもらうの、ちょっと気まずいな。2人で話せるのは嬉しいのに。ためらいつつ、そうだねと答えた。
できればタクシーには乗りたくない。黒川くんは優しいから、あたしがタクシーに乗るまで気にしてくれそうだ。どうしようかな。
絶対に高くつく。自業自得なんだけど、かなり痛手だ。
近くを探せばビジネスホテルとかネットカフェとか、何かあるだろうか。タクシー代よりはマシのはず。
「花村さんを駅まで送ることになったよ。うん、タクシーにして……あ、そうなの?」
黒川くんに促されて先にサンダルを履いていると、黒川くんが誰かと話すのが聞こえて振り返る。誰かに電話をしているらしく、ちょっと身構えてしまった。何であたしの話?
気づいた黒川くんが、すかさず「ミルちゃんだよ」と教えてくれた。
「帰るとき花村さんのこと心配してたから、電話繋げてあったんだ。話す?」
「うん、みるちゃんと話したい。ありがとう」
黒川くんはあたしと目線を合わせるためにしゃがみ込んで、スピーカーフォンにしてくれた。あたしがもしもし、と言い終えないうちにみるちゃんから「起きるの遅いよー!」と返ってきた。
「ごめんね。久々にやらかしたよね」
「度数高いやつ何杯も飲むからだよ。だから言ったでしょー」
「飲みやすくて、意外といけるとか思っちゃったんだよね」
みるちゃんが買ってきていたお酒をうっかり開けてしまった。飲み始めたときに止めてくれたみるちゃんに、全然大丈夫だとそのまま飲み続けたあれは、かなり調子に乗っていた。
飲み会に参加するのは好きだし、飲むのも好きだけど、普段のあたしはそんなに量を飲まない。
黒川くんの家に上がったの、自分で思ってるより緊張してたかな。なんて、お酒の失敗はかわいくない。
「タクシーだと七海の家遠いし、近くのホテルとか探すつもりでいるしょ? 黒川くんがよければ家泊めてもらえばと思うけど、七海が眠れなさそうだもんねぇ」
黒川くんも聞いている手前、みるちゃんの問いにうんと即答できなかった。まして、その家であたしはさっきまですやすや寝てたんだから。穴があったら入りたい。
ちらっと黒川くんを見やれば、腕を組んで何かを思案している様子だった。
「適当に探すよ」と曖昧な返事をすると「危ないでしょ!」とみるちゃんの大声。みるちゃんの彼氏の「声が大きいよ」と穏やかな声が続く。
うちに呼べばと言ってくれているのが聞こえて、慌てて「それはいいよ」と断りを入れた。せっかく2人で過ごしている夜を邪魔しに行きたいとは思ってない。
「じゃあ、このまま泊まる? 花村さんが不安なら、俺が朝まで外出てもいいし。部屋は好きに使ってくれていいよ」
黒川くんはそれを考えてくれてたんだ。いやいや、とあたしは首を横に振った。
この家に泊まることが不安なのではなく、意識がはっきりしてきたこの状況では、みるちゃんの言うとおり眠れそうにない。
心臓の鼓動がいつもより速いのは、アルコールのせいじゃない。
「いや、それも悪いよ。みんな色々考えてくれてありがとう。とりあえず……考えます」
今すぐ考えて結論を出すべきなのはわかっているけど、行き先はまだ決められなかった。
みるちゃん家はただの邪魔者になってしまう。黒川くん家も考えただけでどきどきする。他の場所は探してみないとわからない。
何かあったらすぐに電話してねと言うみるちゃんカップルにお礼を伝えて、黒川くんのコンビニへついていくことにした。駅前まで行って、どうするか決めようと思った。
もう少し黒川くんと一緒にいて、話をしたい気持ちが心の大部分を占めている。
外は、昨日の大雨が残していった涼しさが夜もまだ続いている。風が心地よく肌を滑っていった。
車道側を歩く黒川くんが時折あたしを気にして顔をこちらにむけてくれるものだから、その度に頬が緩んでしまった。
あたしはまだ酔いが醒めていないのかもしれない。
「花村さんは何かほしいものある?」
コンビニへ入るなり、黒川くんから訊ねられた。
「あたしは、お茶買っておこうかな。黒川くんは何買うの?」
「んー、何にしよっかな」
「え?」
ほしいものあって来たんじゃないの。ふっと笑った黒川くんを見て、気づいた。あたしのためか。
じんわり熱くなった首筋に手を当てて息を吐く。お茶はあっちだね、と先を歩く黒川くんはただ優しいだけなのかどうか。判断するには、どうすればいいだろう。
お茶を取って、レジの近くへ行くと黒川くんが「おっ」と声を出した。
「花火あるじゃん。始発までやっとく? 線香花火なら静かだし、いけるんじゃないかな」
「水も必要だし、夜中に火が見えたら通報されそうだよ。あ、こっちはどう?」
全然違うけど、と付け加えてあたしは目についたそれを手に取った。
「へぇ、コンビニでシャボン玉って売ってんだ」
「ね、あたしも思った。やる?」
駅まで行って終わるには、惜しい夜だ。普段ならこんな提案はしなかっただろう。
黒川くんから始発までと言ってくれた。それをなかったことにはしたくなかった。寝てしまった昨日を取り戻したい気持ちもあった。
「いいねー、やってみよ」
黒川くんはシャボン玉と、あたしが手に持っていたお茶をひょいと取ってレジへ出した。あたしが財布を出す間もなく支払いを終えられてしまって、仕方なくスマホを出して送金する。
「受け取んないから、取り消していいよ。次は花村さんが払ってくれれば」
コンビニを出て、スマホを確認しながら黒川くんが言った。次があるという言葉に浮かれてしまうけど、ここは譲れない。
「そういうのいいいから受け取っちゃって。この前2人で飲んだときも、そう言って受け取ってくれなかったじゃん」
「はは、バレたか。じゃあ、これはありがたくもらっとく」
受け取りましたの通知をしっかり見てから、スマホをカバンにしまう。
さっきとは違う道に入ると、セミの鳴き声が響いていた。
小さな夜の公園の手前。風でかすかに木々が揺れている。いつもなら怖いって思ってしまいそうな場所も、隣にいる人のおかげで悪くないかもって思えた。
と、足元に蠢く何かに悲鳴をあげそうになって、思わず黒川くんに駆け寄る。
「今そこ絶対なんかいた!」
「あー、いるね。セミとか」
「えー、でも今はセミじゃない何かいたよ。次来たら黒川くんが助けて」
明かりの少ない公園では辺りが見づらかった。前言撤回。やっぱり夜の公園は怖い。
「いいよ。ちゃんと守るから任して。腕つかまっとく? あ、でも汗かいてるから――」
言葉の途中で、あたしは黒川くんの腕をつかむ。つかんだ自分の指先が、溶けそうなほど熱を持っている気がして「暑がりなの」と意味不明な言い訳が口から飛び出してしまった。
暑がりならつかむなよって思われたかな!?
「ほんとだ、花村さんの手熱いね」
「そうなの。熱こもってるのかもね」
隣の黒川くんを見上げても表情が読めない。あたしのおかしな発言は気にしてはいなさそうで、ほっと胸をなでおろした。
明かりの近くまでやってきて、ビニール袋をがさがささせた黒川くんは小さく笑った。笑っている理由がわからないまま、あたしは片手でシャボン玉を受け取る。
「これ開けてもらっていい?」と言われて、腕をつかむ手を離した。あたしが腕をつかんだままだった。
あたしはシャボン玉の入ったパッケージをびりびり破っていく。その様子を微笑んで見られていることに気がついて、頬も熱を持った。
「花村さん、この後って、どうするか決まった?」
「あ、全然決められてなかった」
黒川くんといることを優先して、この後を考えることすら放棄してしまっていた。シャボン玉をやったとしても、始発までの時間はさすがに潰せないだろう。
「ここで話しててもいいかとも思ったけど、長くいるとさすがに暑いだろうし」
「うん。公園で夜を明かすのはちょっと」と、辺りを気にしてしまうあたし。
開けたシャボン玉液と吹き棒を黒川くんへ渡してから、自分も吹いてみる。ふわふわと優しい風に乗ったかと思えば、弾けて暗闇へ消えていった。
適当に朝まで乗り切れる場所を探そう。
「やっぱ、俺ん家泊まってけば?」
「ううん。みるちゃんも言ってたけど、あたしもう黒川くんの家で寝れそうにないから」
「……まだ、いてほしい」
「そんなの悪いよ――え?」
早とちりをして食い気味に言ったあたしの口が半開きのまま止まる。
ふぅと息を吹いた黒川くんのシャボン玉が、きらきら舞い上がった。
「家で話さない? 花村さんと話すときは飲んでて酔ってることも多かったし、たまにはゆっくり話そうよ」
正直なところ、今も素面とは言い難いけど確かにその通りだ。黒川くんと飲むことメインになってしまって、他のことで誘う機会も勇気もなかった。
「映画見るとか、ドラマ見倒すってのもありじゃないかな」と、黒川くん。
あたしが家に泊まるのに寝れないって言ったこと、気にしてくれてたのかな。
本当に、緊張で心臓がどうにかなりそうなだけだ。でもここで断ったら、きっとチャンスを逃す。
「いいね、楽しそう。あたしも黒川くんとたくさん話してみたいと思ってたんだ」
シャボン玉をもう一度吹く前に、口を開く。ちゃんと伝えておかないと。誤解されたままではいたくない。
「ちなみに、緊張するから眠れないって意味で……その、さっき寝てたくせにって感じなんだけど、黒川くんの家に泊まるの、緊張……します」
口調が迷子になってしまった。
ごまかすようにシャボン玉を膨らませる。長く吹くと、小さいシャボン玉がたくさんできた。みんな風にさらわれていく。
暗いから、顔が見られなくて済む。黒川くんの顔だって見れない。
「そっか、緊張で寝れないってことだったんだね」
「復唱されると恥ずかしさ増し増しなんだけど。そういうことだから」
ちゃんと伝わってるのかな。
「はは、かわいーね、花村さん。ちなみに俺のこれは、酔ってないんで」
「嘘、酔ってるでしょ」
「酔ってない、と思う。さすがにもう俺は醒めたよ」
風向きで黒川くんが吹いたシャボン玉があたしの視界を遮る。消えた頃には、好きな人が微笑んでいるのが見えた。
「酔っててくれないと困るよ。あたしがこの後どうしていいか、わかんない」
「何で? せっかくの夜じゃん。俺は花村さんと話すの楽しみだよ」
わざとらしくきょとんとする黒川くんに、あたしは唇を尖らせる。
「あたしも楽しみではあるよ。だけど何か、黒川くんてたまに意地が悪いよね」
「寝顔も見てかわいーなと思ったところとか?」
うわ、それ怖くて聞けてなかったのに!
まだ頬が火照っている。どうしてくれるんだ。
「そう、そういうとこ!」
「おかしいな。よく優しいって言われるのに」
「それは黒川くんのことよくわかってない人だね」
「花村さんはわかってくれてるんだ」
からかっているだろうに、嬉しいなんて言われたものだから否定できなくなってしまった。
「……そうかもね」
静かに息を吐いて、あたしはシャボン玉液にフタをする。黒川くんは、まだ大きめのシャボン玉を作って飛ばしていた。
飛んでなくなるまで見つめてから、黒川くんがあたしの分もまとめてシャボン玉を片付けてくれた。それから、あたしを振り返って「そろそろ行こっか」と言った。
「付き合ってくれてありがとう。けっこー楽しかった」
シャボン玉ってきれいだったんだな、としみじみする黒川くん。あたしもそうだねとうなずいた。
「帰りも腕つかまっとく?」
さっきまでからかっていたくせに、優しいからずるい。
ん、とあたしがつかみやすいよう、腕を曲げてくれる。つかまるのもいいけど、今夜はもう少し調子に乗ってもいいかな。もう十分、乗ってるかもしれないけど。
「手を繋いでも、いい?」
「もちろん」
差し出された手のひらに重ね合わせると、大事なものを扱うようにきゅっと優しく握ってくれた。ゆっくり歩き出して、公園を後にする。
黒川くんはずっとあたしの歩幅に合わせて、進んでくれた。
ああ、あたしこの人のこと好きだな。シンプルに落ちてきた感情が嬉しくなって、口の端が自然と上がる。
「あれ? 黒川くんもちょっと熱いね」
「俺のこと何だと思ってんの。好きな子と手ぇ繋いでんだから、どきどきして体温も上がるよ。心拍数、今けっこーやばい」
「……好きな子いたんだ?」
自分の口から出てくる言葉は素直じゃない。心臓はもう飛び出しそうなほど脈打ってるのに。
「いるよ、隣に」
「奇遇だね、あたしも隣にいる」
何だこれ。たまらず笑ってしまうと、一瞬だけ目をそらした黒川くんもこちらを見てはにかんだ。
自動販売機の明かりに照らされて、笑顔の黒川くんが見えた。顔色まではわからないけど、きっとお互いに真っ赤なんだろう。
「朝まで、何話そっか」
沈黙が続いて、気まずくなったのか黒川くんから話題を変えてきた。
「そうだなー。黒川くんて、朝はパンとごはんどっち派?」
これから迎える朝を想像して、何てことない質問から始めてみる。
「朝あんま食べないけど、強いて言うとごはんかな」
「じゃあ、目玉焼きは醤油? 塩?」
「目玉焼きより、卵焼き派かな」
そっちかーと納得していると「作ろっか?」と黒川くんが提案してくれた。
「うん。朝ごはん一緒に食べようよ」
「いいね。卵くらいしかないから、他にもコンビニ戻って買う?」
うん、とうなずいて、踵を返す。少し汗ばむ手を引っ込めようとすると、握る手に力を込められた。
「あともう少しだけ、このままがいい」
「えー、始発まで?」
あたしがおどけて訊ね返すと「始発過ぎてもいてよ」と、黒川くんから笑い返された。
くすぐったいような感情を抱えて、胸が苦しいほどだった。
「いるよ。朝ごはん食べるもんね」
「朝ごはん目当てか」
黒川くんがふふっと笑う。
指を絡めて手の繋ぎ方をそっと自分から変えた。本当は朝が来るまで手を繋いだままだっていい。
重なる手が、同じ温度に溶けていくような気がした。
END



