春がゆっくり街を歩き始めている。東京の空気が和らぎ、木々の蕾が綻び始める頃、櫻井遥人はノートの一ページを破り、そこに文章を綴っていた。編集部のデスク。朝の打ち合わせ前、まだ誰も来ていない静かな時間。コーヒーの湯気の向こうで彼のペンが走る。
「あの夜、もし終電に間に合っていたら、きっと僕らはすれ違ったままだった。雨に濡れたホームと、傘を半分出してくれた君の手。あの静かな踏切と、君が言葉にした『ずっと』という時間。あの夜があったから、僕は今、誰かの気持ちに向き合いたいと思える。ありがとう。また会おう。コーヒーの約束を果たすから。だから、」
ふと書きかけのそれを折りたたみノートの間に挟み込む。それは誰かに出すわけでもない手紙だった。だがその言葉を綴ることで、遥人自身の中の何かがようやく前に進み始めた気がした。

 日曜日の午後。明里のカフェに再び遥人が訪れた。ガラスの向こうに彼女が見える。手にはスケッチブックを持ち、白い紙に鉛筆を滑らせていた。
「来たよ。」
「うん、待ってた。」
明里が顔を上げる。何処か迷いに消えた瞳だった。
「…描いてみたの。前に言ったでしょ?」
そう言って差し出されたページには、柔らかな線で描かれた男の横顔。窓の光に照らされて、少しだけ目を伏せている。
「……俺だ。」
「うん。あの夜、踏切で風に吹かれている横顔。その顔がどうしても忘れられなくて…。」
遥人はその絵を見つめながら言葉を探す。
「…俺も、描けたら良かったのに。明里との思い出、こんな風に残せたら…。」
「じゃあ代わりに言葉で書いてよ。」
「…いつか、短編にしていい?」
「うん。それで、デビューしてよ。でも、登場人物の名前は変えてね。」

 その日、二人は並んで歩いた。あの夜、最初に会った駅のホームまで。今日は終電に追われるわけでもなく、誰かとすれ違うこともなく、ただあの日の続きを踏みしめるように。近くの花屋に並んだ小さなミモザを明里がふいに差した。
「春の花だね。」
「春、似合うよ。明里は。」
「櫻井くんも。…今年はいい春になりそう。」
信号が青に変わり二人は同時に歩き出す。線路の先、もう見失わないように。新しい季節が二人を包んでいく。そして、その先の未来へとそっと届くように。