一週間という時間が、こんなにも長く感じたのは久しぶりだった。あの日、明里と別れた後、遥人は電車の中で、スマホに登録された水野明里という文字列を、何度も指先でなぞっては閉じた。連絡先を交換したのに、一言も送れないまま日々は過ぎていく。どうして、こんなにも臆病になるのだろうか。学生の頃よりずっと大人になったはずなのに、言葉一つがこんなにも重く感じられる。日曜日の午後、ようやく送ったメッセージは驚くほど素っ気ないものだった。
「この前のココア、美味しかった。また飲みに行ってもいい?」
返信は数時間後に届いた。
「うん、今日もいるよ。午後三時、待ってるね。」
まるでずっと待っていたかのような、柔らかく温かい文章だった。

 カフェの前に立った時、ガラス越しに明里の姿が見えた。カウンターに背を向け、ミルクポットの蓋をそっと閉じる姿。あの夜と変わらないようで、またほんの少しだけ違って見えた。扉を開けると、風鈴のような音が響き、明里が振り返った。
「いらっしゃい。…櫻井君。」
「ただいまって言ったら変かな?」
「ううん、いいと思う。」
笑い合って、窓際の席の向かう。明里が運んでくれたのはココアではなく、深煎りのブレンドコーヒーだった。湯気とともに、少しだけ苦みのある香りが立ち上がる。
「前に会った時、ほら櫻井君が言ったじゃない?『このままでいいのかな』って。」
「うん。」
「私もね、実は同じこと、ずっと考えてた。…だけど、あの夜の帰り道でふと『やってみてもいいのかも』って思った。」
「やってみる、って?」
「…描くこと。私、絵が好きなの。昔みたいに。まだ店長には言えてないけど、小さな展示スペースを作ってくれるって話もあって。…ちょっとだけ、踏み出そうかなって。」
「…それは、凄いな。」
「まだ、凄いには程遠いよ。けど、きっかけをくれたのは君だよ。君が夢を追いかけてる姿をみたから。あの夜、君がいてくれたからだよ。」
遥人は言葉に詰まった。
「俺は、何も出来てないよ。」
「ううん、そんな事ない。私、ずっと思ってた。櫻井君は誰かの静けさに寄り添うのが上手な人なんだって。」
「…寄り添うだけじゃ、届かないこともあるけどね。」
それは自分自身に向けた言葉だった。遥人はコーヒーを一口飲んだ。苦みが喉を通り、胸の奥にじんと広がる。
「明里。」
「何?」
「…また、会ってくれる?」
明里は驚いたように瞬きをした後、微笑みながら頷いた。
「もちろん。」
「そっか。じゃあ今度は、俺がコーヒーご馳走するよ。あの夜のお礼に。」
「え、それはハードルが高いかもよ。私、結構舌肥えてるよ?」
「覚悟はしてる。」
二人の笑い声がカフェの静けさの中、ほのかに響いた。外の空は春の日差しが見え始めたような柔らかい光を帯びていた。ガラス越しに風が吹き、カーテンがふわりと揺れる。思い出にするには、まだ早すぎる。未来と呼ぶには、もう少しだけ時間がいる。それでも、二人の間には確かに「もう一度」と言う気持ちが、そっと芽吹いていた。