「もうすぐ着くよ。……雨宿りできるって言っても、人がいないカフェだけどね。」
「え、人がいないってどういう事?」
「私が働いているところって事。今日は閉店後の片付けしてて、スタッフルームの鍵持ってるから。」
「こんな時間まで仕事してたのか?」
「まあ、うん。仕込みが長引いちゃって…。でも終わって帰ろうと思ったら終電行っちゃったし、…ここまで来て今更だけど、休憩がてら寄ってかない?お茶くらいなら出せるよ。」
「……良いのか?」
「もちろん。」
明里は迷いなくそう言った。その言い方があまりにも自然で、遥人は考える前に口が動いていた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。」

 少し歩くと、古いビルが見えてきた。そのビルの一階にあるカフェは、白い木枠の大きな窓が印象的だった。昼間はきっと自然の光が柔らかく入るのだろうと思わせるような落ち着いた雰囲気。店の中は既に暗くなっていたが、バックヤード側から明里が合鍵でドアを開け、二人は中に入った。
「本当はもう閉めてるんだけどね、常連さんがよく『雨宿り』で寄ってくるから、そのためにスペースは空けてるの。」
「お洒落なカフェに雨宿りスペースってあるんだな。」
「うち、そう言う緩さが売りだから。」
明里がブレーカーの一部のスイッチを触ると、店の奥のカウンターだけに小さな照明が灯る。明るすぎず、まるで舞台のワンシーンのような空間だった。
「そこ、座ってて。ちょっとだけ待っててね。」
そう言って明里は冷蔵庫を開け、小さなケーキとミルクポットを取り出してきた。
「ココアと…チーズケーキ、あるよ。櫻井君はどうする?」
「じゃあ、それで。」
湯気を立てるカップと、小さなケーキ皿がカウンター越しに運ばれる。二人は静かに、向かい合って腰を下ろした。
「今、何の仕事してるの?」
「編集者だよ。」
明里は遥人の答えを聞いて目をキラキラと輝かせた。
「へー、今日、仕事どうだった?」
「…うん。まあ、いつも通り…かな。でも、作家さんの原稿が遅くて、バタバタしてたらこんな時間になってたけど…。」
「編集って、凄いよね。見えないところで支えてる感じ。櫻井君は凄いよ。」
「ありがとう。…でも最近、時々思うんだよな。俺、本当にこの仕事が好きだったんだっけって。」
「どうして?」
「最初は、面白いものを世の中に出したいって思ってた。でも気付いたら、売り上げとか、部数とか、締め切りとか、そんな数字だけで一日が終わる。たまに、俺ってただの伝言係なのかなって思ったりして…。」
「…分かるよ。編集の事は分からなくても、その辛さは分かるよ。」
その一言が妙に染みた。
「私も、就活のとき色々な所受けたけど、結局何処もピンと来なくて…。無理矢理就職しても、多分、続かないなって思って、カフェでアルバイト始めたの。でも、気付いたら時間経ってて。だから、正直仕事に対しての自信はない。でも、やっと最近ここが『自分の居場所』って思えるようになって来たの。」
「…立派だよ。」
「全然。…でもね、何となく今なら誰かに『おかえり』って言える気がするの。昔は自分が帰る場所すらよく分からなかったから。」
その言葉の意味を、遥人は上手く受け取れなかった。ただ明里の真っ直ぐな目を見つめ返すことしか出来なかった。
「…そうだ、櫻井君は覚えてるかな?」
「何を?」
「大学の卒業式の時、最後に交わした会話。『何処かで、また』って言ったの、櫻井君だったよね?」
「…覚えてるよ。でも、あの時俺、その言葉を言いながら多分もう二度と会えないって思ってた。」
「私も。でも今、こうして再会した。不思議だよね。」
カップから立ち上がる湯気が二人の間の静けさを優しく包み込む。この夜は、偶然なんかじゃない、遥人はそんな気がしていた。店の外ではまだ静かに雨が降っていた。