終電のドアが閉まる音は意外なほど静かだった。まるで最初から乗せるつもりなんてなかったみたいに冷ややかに閉まるドアを、櫻井遥人はただ立ち尽くして見送った。駅のホームには遥人以外の人の姿はない。週末の夜にしては静かで、何処かよそよそしさを感じた。車両が滑るように発進していくのを目で追いながら、遥人はゆっくり視線を落とした。
「…やられたな。」
ポケットの中のスマートフォンを取り出すと、バッテリーの残量は赤く点滅していた。六%。チャットアプリを開くことすら躊躇う残量に、ため息が漏れる。残業が長引いた。クライアントからの修正依頼が思いのほか多く、会社を出た時にはすでに二十三時半を過ぎていた。それでも、間に合うはずだった。いや、間に合わせるつもりで、あの交差点を走ったはずだった。なのに、この結末。
「タクシー、拾えるかな……?」
そう呟きながら改札を出ると、さらに追い打ちをかけるように、空からぽつ、ぽつ、と雨が降り始めた。ホームの屋根の下に戻ろうとするも、もう戻る理由は見当たらない。足元のアスファルトが、じわじわ黒く染まっていく。駅前のロータリーには、既にタクシーを求めて待つ人の列ができていた。スマホのアプリで配車しようにも、この充電では数分も保たない。八方塞がりだ。その時だった。
「……ねえ、もしかして、櫻井君?」
不意にかけられた声に、遥人は少しだけ息を呑んだ。振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある女性だった。傘の下、優しい目をして覗き込んでくる彼女は、少しだけ髪が短くなっていた。でも、その声と笑った時の表情は、遥人の記憶にしっかりと焼きついていた。
「……水野?」
「やっぱり。久しぶり。こんなところで何してるの?」
「ああ…終電、逃してさ。」
「奇遇だね。私も。」
彼女、水野明里は、笑いながら傘の柄を少し持ち直すと、半分、遥人の頭上へと差し出した。雨音が急に遠くなる。
「びしょ濡れになると風邪ひくよ。少しだけでも、どう?」
「……ありがとう。助かる。」
傘の下、二人の距離が僅かに縮まる。再会は、五年ぶりだった。大学の卒業式以来、連絡も取らなくなっていた。どちらかが、と言うよりは、自然と時間に押し流された結果だった。別に、喧嘩したわけでもない。けれど、まさかこんな深夜の雨の駅前で再会するとは思っていなかった。
「今、どこに住んでるの?」
「中野。今日はたまたま仕事で都心に出てて……でも、このまま帰れない感じ。」
「…泊めるとかじゃなくて、雨宿りできる場所くらいは案内できるよ。」
「はは、ありがたい。」
そう言って、二人は肩を並べて歩き出した。雨は次第に強くなっていく。
 交差点を一つ越え、コンビニの明かりがぼんやりと浮かび上がる。店の軒下に並ぶ傘の列を眺めながら、遥人は何気なく明里に聞いた。
「大学の時、よく雨の夜って外歩いてたよな。覚えてる?」
「うん。櫻井君がレインブーツ履いてきた日、何故か凄く笑ったの、まだ覚えてる。」
「それ、俺じゃないだろ。」
「櫻井君だよ。ちゃんと覚えてるよ。…ちょっと似合ってた。」
「……それはそれで嫌だな。」
二人で笑う。街灯の下、雨粒が光を反射してキラキラと浮かんでいる。何処か現実味のない夜だった。あまりに偶然で、あまりに懐かしくて。こんな時間に会って、少し歩いて、少し笑って。まるで、昔に戻ったようだった。スマホがついに電源を落とす。遥人はそれをポケットにしまい、空を仰いだ。その横顔を明里が見つめていたことに、彼はまだ気付いていなかった。