アサクラさんの駄文

「温泉行ってきます」


彼…篠山、

…進くんは私を起こさないように小さくつぶやき、部屋を出た
私は寝たふりをしていた
部屋に入ったときには疲労と安堵で布団に倒れ込みこそしたが
ふとこの部屋には彼と二人だという事実に鼓動が早くなった

「はぁあぁあああああ…」
枕に顔を押し付けて、叫ぶともため息とも言えない中途半端な声を出す
今日一日、彼と遊んだ。デートです。
顔見知りに見られて「デートじゃん」と冷やかされたら、「はい」というしかない
酔った年下を会ったその日に一日連れ回す
…事件にはならないだろうか
いやいや、彼も成人だしお縄にはなるまい
だがまあすべて私の独りよがりで、彼は不快に思っていたらどうだろうか
何度もそんなことを考える
ふと、カフェでの彼の笑顔がよぎった
あれはなんだったか、コーヒーゼリーだかがおいしいと言っていたときのことか
「楽しんでくれたかな…」

温泉に入ろうと思った
ひとまず体を洗って、温めて、そうすれば嫌なことも多少は頭から消えるだろうと

暖色のライトが照らす石造りの露天風呂
足を伸ばして頭上の暗闇を見上げる
おいてあったシャンプーかリンスが髪に合わなかったのが少しマイナスだが
それ以外のすべてが良いと思えた
冷たい夜風も、誰かのため息も、おばちゃん二人の話も
なぜだかそれらに、自分が生きてる実感をもった

彼を見ていると昔の自分を思い出した
医者になって誰かを救いたい
音楽で誰かの心を救いたい
根底には「誰かのため」というのがあった
だからこそ、それは変わらないからこそ、どちらも選べず
それまでやってきた勉強を捨てる勇気がないから、医者の職についた

きっと彼もそうなる
今までのものを捨てられないから職につく
片手間で漫画を続ける
そしてどこかで体力かなにかを理由に描かなくなる
今の私みたいにつまらない人間になる


飲まないと眠れなさそうだった
風呂の帰りに酒を頼んだ
「冷酒で?」
「ええ、猪口は2つで」
部屋に届けると言われたが、自分で持っていくからと断り、少し待ってから受け取った
彼はまだ部屋にはいなかった
電灯を消したくなった
満月ではないからそこまで明るくない
しばらく目が慣れず手元の酒に手がつけられなかった

ようやく輪郭が見えてきて、冷えた徳利から注いで飲む
味は悪くないとだけは言える。正しく評価するには脳のリソースが足りなかった

彼に誓った
私も音楽を続けると
医者だけやってる人間がつまらないわけじゃない
音楽を諦めた人間がつまらないという話だ

売れない音楽は辛い
日々店のBGM、車中のラジオ、売れてる音楽から逃れられない
自分の音楽が醜く思える、そんな日々になる

それでも、その中で足掻くから、面白いのだと思う
片手間上等、やりきってみせる
彼を裏切らないために、最後まで

ふとあることを思いつく
いやいやいやいや
流石におかしい女だと思われる

悪いことは忘れようと二杯目を注いだ



「戻りました」

「随分長かったね」

「温泉好きなんで」

やっと返ってきた彼といくつかやり取りをする

すきだなぁ

「あのさ」

…いけない、酔っているのかもしれない
さきの考えが浮かんで口に出してしまいそうになる

「なんですか」

スルーして、するーしてくれ!
と心のなかで願うがもう遅いらしい
言わなければならない空気だった
濁す気も、別のことを言う気も起きなかった
言えといったのはきみだ、私は言わないようにしたんだよ?
と一人で責任を押し付けてみる


「付き合わない?」