渋谷駅の南改札。
人通りはまばらになり、静かな構内に、最後の終電を告げるアナウンスが響いた。
「……え、終わっちゃった?」
スマホを見ていた俺――田嶋悠真(たじま・ゆうま)は、横にいた彼女の声に顔を上げた。
佐倉紬(さくら・つむぎ)、同じ会社の同期で、チームも一緒。
気さくで笑顔がかわいくて、でもどこか掴みどころがなくて。……ずっと、気になっていた存在。
「えっ、マジで? ……うわ、本当だ」
「ちょっとー、悠真のせいだからね。二軒目誘うからだよ?」
「ごめんって。でも楽しかったろ?」
「まぁね。お酒も料理も美味しかったし……ま、たまにはこういうのもいいかも」
紬はふふっと笑って、肩をすくめた。
「でも、どうする? タクシーで帰る?」
「うーん……高いよね。朝まで時間潰す?」
「付き合うよ、もちろん」
夜の渋谷。終電を逃したとはいえ、眠らない街はまだまだ灯りを落とさない。
それでも、どこか夜の空気は冷たくて、彼女の横顔が普段よりも少し儚く見えた。
「ねぇ悠真、歩かない? ちょっと寒いし、動いてた方がマシ」
「いいね。じゃあ宮下パークの方、行ってみようか」
二人並んで歩き出す。
何でもない時間のはずなのに、いつもより距離が近い。
時折、肩が触れそうになって、俺はわざと歩幅を合わせた。
「……そういえばさ、さっきから名前、呼び方変わってない?」
「え?」
「さっきまで“佐倉”って呼んでたのに、“紬”って」
彼女はクスッと笑った。
ごまかそうとした俺の視線を、ちゃんと見透かすように。
「……気づいてた?」
「うん。だけど、なんか……うれしかった」
その一言が、心に優しく響いた。
宮下パークに着いたのは、午前1時を回った頃だった。
高架下のライトが淡く光り、夜の都会とは思えないほど穏やかな空気が流れていた。
「こんな時間でもカップルいるんだね」
紬が言いながら指差したのは、ベンチで寄り添う男女の姿だった。
彼らは静かに話しているだけなのに、どこか温かさがあった。
「俺たちも、そう見られてるのかな」
「どうだろうね。でも……見られてもいいかも」
何気ない一言に、また心臓が跳ねた。
冗談っぽく言ったつもりでも、紬は真面目な顔で言っていた。
「こんなにゆっくり話すの、久しぶりだね」
「うん。会社じゃいつもバタバタしてるし、飲み会も誰かしら他にいるし」
「……実はね、私、ずっと思ってた」
紬は小さく笑って、空を見上げた。
「悠真って、誰にでも優しいでしょ。だから、自分のこと後回しにしちゃうタイプだなって。……そういうとこ、ずるいって思ってた」
「ずるい?」
「うん。こっちの気持ちに気づかないふりするって意味で」
俺は、息を飲んだ。
まるで、心の奥にずっと隠していた“答え”を言い当てられたようで。
「……気づいてたの?」
「うん。気づいてたよ。だから、今日の飲みも、終電なくなっても帰らなかったの」
まるで告白のような言葉に、どう返していいかわからなかった。
だけど紬は、そんな俺を見て微笑んだ。
「今さら焦らなくていいよ。私、答えは急がないから。……でも、今夜だけはちょっとわがまま言ってもいい?」
「どんな?」
「……手、つないでほしい」
差し出された小さな手。
俺は、迷うことなくそれを握った。
ひんやりとした指先が、すぐに体温で温まっていくのを感じた。
そして、心の奥の氷も、少しずつ溶けていく気がした。
時刻は2時を回り、さすがに肌寒くなってきた。
宮下パークをあとにした俺たちは、近くの仮眠スペース付きのカフェに入った。
コワーキングスペースも兼ねたそのカフェは、深夜でも人がちらほらいた。
暗めの照明、BGMの控えめなジャズ、ソファー席で、ようやく一息つける。
「寒い……けど、なんか落ち着くね」
紬はホットココアを両手で包み込むように持ち、目を細めた。
俺はブラックコーヒーを啜りながら、眠気と緊張の狭間にいた。
さっきの言葉が、ずっと頭の中で繰り返されていた。
「今日、帰らなかったの。気づいてたよ」
「わがまま言ってもいい?」
「手、つないでほしい」
あんなの、ただの冗談じゃない。
でも……怖かった。俺の勘違いだったらどうしようって。
「……なに考えてるの?」
紬がソファの背にもたれながらこちらを見る。
距離は近い。すぐ隣に、彼女の温度がある。
「いや……なんでもない。ちょっと眠気が」
「うそ。なんでもないって言うとき、絶対なんか考えてる顔してるもん」
「……ずっとそうやって見てた?」
「うん。ずっと見てたよ、悠真のこと」
一拍の沈黙。
その言葉の重みが、静かな夜にじんわり染み渡っていく。
「紬……俺、怖いんだ」
「何が?」
「もし告白して、断られたらって。今の関係も壊れるんじゃないかって。……でも、今日の紬は、ずるいくらい優しいから」
「ずるいのは悠真の方でしょ。いつも“普通の同期”って顔して、こっちの気持ち無視してさ。今日だって、私が言わなきゃ何も言わなかったくせに」
いつもの紬からは想像できない、少しだけ怒ったような声だった。
だけどその目は、泣きそうなほど真剣だった。
「……ごめん」
そう言うと、紬はふっと力を抜いたように息を吐いた。
「でも、言ってくれてよかった。そうやって、ちゃんと弱いとこ見せてくれるの、初めてな気がする」
カップの中のココアは冷めかけていたけど、その笑顔は、誰よりも温かかった。
「ねえ、少し仮眠しようか。まだ夜は長いよ」
そう言って、紬はカバンから小さなブランケットを取り出し、俺の膝に半分かけてくれた。
「半分こね」
「うん」
ふたり、肩を寄せ合いながら静かに目を閉じる。
夜のカフェに、小さな安心が灯った。
気がつくと、窓の外がわずかに明るくなっていた。
夜の底が、少しずつ白み始める――それは夜明けの兆しだった。
仮眠カフェの中は、静寂に包まれている。
時折、キーボードを叩く音と、コーヒーメーカーの低い駆動音だけが聞こえた。
俺の肩に、重みがある。
見ると、紬が眠っていた。
浅く、でも穏やかな呼吸。小さな寝息。
……なんで今まで、こんなにも大事な気持ちを、ずっと押し殺してたんだろう。
思い返せば、彼女のことを意識し始めたのは、2年目のプロジェクトで大きなトラブルが起きた時だった。
怒号が飛び交い、ピリピリとした空気の中で、彼女だけが変わらず笑っていた。
「大丈夫。私、信じてるから」
あの言葉に、どれだけ救われたか。
それからずっと、隣にいた。
でも“同期”という言葉に縛られて、それ以上を望むことを恐れていた。
「……起きてるの?」
突然、紬の声がした。
目を閉じたまま、まるで夢の中で話しているようだった。
「うん。紬は?」
「なんか、寝たり起きたりしてた。でも……夢の中でも、悠真がいた」
「俺?」
「うん。なんかね、ずっと遠くにいるの。声も届かないくらい。でも私、走って追いかけてた」
彼女の指先が、俺の手を探すように触れた。
俺はその手を、静かに握りしめた。
「……夢じゃなくても、届いてるよ。ここにいる。ずっと」
言葉にして、ようやく胸が軽くなるのを感じた。
「紬、俺……好きだよ。ずっと前から」
彼女は目を開け、ゆっくりとこちらを見た。
少し潤んだ瞳で、優しく微笑んで言った。
「知ってた。でも、やっと聞けてうれしい」
「怖かったんだ。紬に嫌われるのが。今のままが楽で……でも、本当はずっと不安だった」
「私も同じ。だから、こうして一緒にいられることが、うれしいのに、ずっと怖かった」
二人の手が、強く結び直された。
窓の外が明るくなっていく。
夜は、終わりを告げようとしていた。
「ねぇ悠真。朝になったらさ、どこ行きたい?」
「どこでもいい。紬と一緒なら」
「……じゃあ、最初に手をつないで歩いたあの道、もう一度歩かない?」
「うん」
静かな朝。
新しい一日が始まる音が、少しずつ街に満ちていく。
だけど今、世界に存在するのは――
たった二人の鼓動だけだった。
朝5時半。
仮眠カフェを出た頃、空はすっかり薄い水色に染まっていた。
昨日までの湿気を忘れさせるような、澄んだ朝の風が頬を撫でていく。
紬と並んで歩く帰り道。
さっきまでの深夜の静けさとは違って、少しずつ車の音や人の声が戻り始めていた。
「なんか、不思議な感じだよね」
「何が?」
「こうしてるの。昨日までと変わらない道なのに、全然違って見える」
それは、たぶん俺も同じだった。
ただの同僚と歩いていたはずの道が、こんなにも温かく感じられるなんて。
「ねぇ、悠真」
「うん?」
「……ちゃんと、好きって言ってくれてありがとう」
紬は、少しだけうつむいて、でもしっかり俺の手を握った。
「ずっと、言ってほしかった。でも、自分から言うのも怖くて。関係が壊れるの、私も嫌だったから」
「俺も。たぶん、ずっと逃げてたんだと思う。今のままが楽だって、思い込んでた」
立ち止まった信号の前。
俺たちは顔を見合わせて、ふと同時に笑った。
「これから、どうなるんだろうね」
「……きっと、色々あると思う。仕事だって忙しいし、すれ違うこともあるかもしれない」
「うん。でも、ちゃんと話せるなら大丈夫。そう思う」
「俺も。ようやく、スタートラインに立てた気がする」
青信号が灯り、手をつないだまま歩き出す。
その手には、もう迷いはなかった。
•
渋谷駅前の喧騒が、ゆっくりと活気を取り戻していく。
いつもの朝、いつもの通勤ラッシュ。
だけどその中に、確かに変わったものがひとつだけあった。
「じゃあ、いってきます」
「……うん、いってらっしゃい」
会社のロビー前、俺たちは少しだけ距離を取り、周囲に気づかれないように別れた。
だけど、その指先には、ほんの一瞬だけ、ぬくもりが残っていた。
“特別”が生まれる瞬間って、派手なドラマみたいな出来事じゃない。
こんなふうに、終電を逃した夜とか、眠れぬ時間のなかに、そっと訪れるものなのかもしれない。
そしてまた、明日も同じ道を歩く。
昨日よりも、ほんの少しだけ勇気を持って。
紬と、俺と。
この一歩を、何度でも踏みしめながら。
――深夜、終電を逃した夜に始まった恋は、
静かに、でも確かに、朝とともに歩き始めた。
人通りはまばらになり、静かな構内に、最後の終電を告げるアナウンスが響いた。
「……え、終わっちゃった?」
スマホを見ていた俺――田嶋悠真(たじま・ゆうま)は、横にいた彼女の声に顔を上げた。
佐倉紬(さくら・つむぎ)、同じ会社の同期で、チームも一緒。
気さくで笑顔がかわいくて、でもどこか掴みどころがなくて。……ずっと、気になっていた存在。
「えっ、マジで? ……うわ、本当だ」
「ちょっとー、悠真のせいだからね。二軒目誘うからだよ?」
「ごめんって。でも楽しかったろ?」
「まぁね。お酒も料理も美味しかったし……ま、たまにはこういうのもいいかも」
紬はふふっと笑って、肩をすくめた。
「でも、どうする? タクシーで帰る?」
「うーん……高いよね。朝まで時間潰す?」
「付き合うよ、もちろん」
夜の渋谷。終電を逃したとはいえ、眠らない街はまだまだ灯りを落とさない。
それでも、どこか夜の空気は冷たくて、彼女の横顔が普段よりも少し儚く見えた。
「ねぇ悠真、歩かない? ちょっと寒いし、動いてた方がマシ」
「いいね。じゃあ宮下パークの方、行ってみようか」
二人並んで歩き出す。
何でもない時間のはずなのに、いつもより距離が近い。
時折、肩が触れそうになって、俺はわざと歩幅を合わせた。
「……そういえばさ、さっきから名前、呼び方変わってない?」
「え?」
「さっきまで“佐倉”って呼んでたのに、“紬”って」
彼女はクスッと笑った。
ごまかそうとした俺の視線を、ちゃんと見透かすように。
「……気づいてた?」
「うん。だけど、なんか……うれしかった」
その一言が、心に優しく響いた。
宮下パークに着いたのは、午前1時を回った頃だった。
高架下のライトが淡く光り、夜の都会とは思えないほど穏やかな空気が流れていた。
「こんな時間でもカップルいるんだね」
紬が言いながら指差したのは、ベンチで寄り添う男女の姿だった。
彼らは静かに話しているだけなのに、どこか温かさがあった。
「俺たちも、そう見られてるのかな」
「どうだろうね。でも……見られてもいいかも」
何気ない一言に、また心臓が跳ねた。
冗談っぽく言ったつもりでも、紬は真面目な顔で言っていた。
「こんなにゆっくり話すの、久しぶりだね」
「うん。会社じゃいつもバタバタしてるし、飲み会も誰かしら他にいるし」
「……実はね、私、ずっと思ってた」
紬は小さく笑って、空を見上げた。
「悠真って、誰にでも優しいでしょ。だから、自分のこと後回しにしちゃうタイプだなって。……そういうとこ、ずるいって思ってた」
「ずるい?」
「うん。こっちの気持ちに気づかないふりするって意味で」
俺は、息を飲んだ。
まるで、心の奥にずっと隠していた“答え”を言い当てられたようで。
「……気づいてたの?」
「うん。気づいてたよ。だから、今日の飲みも、終電なくなっても帰らなかったの」
まるで告白のような言葉に、どう返していいかわからなかった。
だけど紬は、そんな俺を見て微笑んだ。
「今さら焦らなくていいよ。私、答えは急がないから。……でも、今夜だけはちょっとわがまま言ってもいい?」
「どんな?」
「……手、つないでほしい」
差し出された小さな手。
俺は、迷うことなくそれを握った。
ひんやりとした指先が、すぐに体温で温まっていくのを感じた。
そして、心の奥の氷も、少しずつ溶けていく気がした。
時刻は2時を回り、さすがに肌寒くなってきた。
宮下パークをあとにした俺たちは、近くの仮眠スペース付きのカフェに入った。
コワーキングスペースも兼ねたそのカフェは、深夜でも人がちらほらいた。
暗めの照明、BGMの控えめなジャズ、ソファー席で、ようやく一息つける。
「寒い……けど、なんか落ち着くね」
紬はホットココアを両手で包み込むように持ち、目を細めた。
俺はブラックコーヒーを啜りながら、眠気と緊張の狭間にいた。
さっきの言葉が、ずっと頭の中で繰り返されていた。
「今日、帰らなかったの。気づいてたよ」
「わがまま言ってもいい?」
「手、つないでほしい」
あんなの、ただの冗談じゃない。
でも……怖かった。俺の勘違いだったらどうしようって。
「……なに考えてるの?」
紬がソファの背にもたれながらこちらを見る。
距離は近い。すぐ隣に、彼女の温度がある。
「いや……なんでもない。ちょっと眠気が」
「うそ。なんでもないって言うとき、絶対なんか考えてる顔してるもん」
「……ずっとそうやって見てた?」
「うん。ずっと見てたよ、悠真のこと」
一拍の沈黙。
その言葉の重みが、静かな夜にじんわり染み渡っていく。
「紬……俺、怖いんだ」
「何が?」
「もし告白して、断られたらって。今の関係も壊れるんじゃないかって。……でも、今日の紬は、ずるいくらい優しいから」
「ずるいのは悠真の方でしょ。いつも“普通の同期”って顔して、こっちの気持ち無視してさ。今日だって、私が言わなきゃ何も言わなかったくせに」
いつもの紬からは想像できない、少しだけ怒ったような声だった。
だけどその目は、泣きそうなほど真剣だった。
「……ごめん」
そう言うと、紬はふっと力を抜いたように息を吐いた。
「でも、言ってくれてよかった。そうやって、ちゃんと弱いとこ見せてくれるの、初めてな気がする」
カップの中のココアは冷めかけていたけど、その笑顔は、誰よりも温かかった。
「ねえ、少し仮眠しようか。まだ夜は長いよ」
そう言って、紬はカバンから小さなブランケットを取り出し、俺の膝に半分かけてくれた。
「半分こね」
「うん」
ふたり、肩を寄せ合いながら静かに目を閉じる。
夜のカフェに、小さな安心が灯った。
気がつくと、窓の外がわずかに明るくなっていた。
夜の底が、少しずつ白み始める――それは夜明けの兆しだった。
仮眠カフェの中は、静寂に包まれている。
時折、キーボードを叩く音と、コーヒーメーカーの低い駆動音だけが聞こえた。
俺の肩に、重みがある。
見ると、紬が眠っていた。
浅く、でも穏やかな呼吸。小さな寝息。
……なんで今まで、こんなにも大事な気持ちを、ずっと押し殺してたんだろう。
思い返せば、彼女のことを意識し始めたのは、2年目のプロジェクトで大きなトラブルが起きた時だった。
怒号が飛び交い、ピリピリとした空気の中で、彼女だけが変わらず笑っていた。
「大丈夫。私、信じてるから」
あの言葉に、どれだけ救われたか。
それからずっと、隣にいた。
でも“同期”という言葉に縛られて、それ以上を望むことを恐れていた。
「……起きてるの?」
突然、紬の声がした。
目を閉じたまま、まるで夢の中で話しているようだった。
「うん。紬は?」
「なんか、寝たり起きたりしてた。でも……夢の中でも、悠真がいた」
「俺?」
「うん。なんかね、ずっと遠くにいるの。声も届かないくらい。でも私、走って追いかけてた」
彼女の指先が、俺の手を探すように触れた。
俺はその手を、静かに握りしめた。
「……夢じゃなくても、届いてるよ。ここにいる。ずっと」
言葉にして、ようやく胸が軽くなるのを感じた。
「紬、俺……好きだよ。ずっと前から」
彼女は目を開け、ゆっくりとこちらを見た。
少し潤んだ瞳で、優しく微笑んで言った。
「知ってた。でも、やっと聞けてうれしい」
「怖かったんだ。紬に嫌われるのが。今のままが楽で……でも、本当はずっと不安だった」
「私も同じ。だから、こうして一緒にいられることが、うれしいのに、ずっと怖かった」
二人の手が、強く結び直された。
窓の外が明るくなっていく。
夜は、終わりを告げようとしていた。
「ねぇ悠真。朝になったらさ、どこ行きたい?」
「どこでもいい。紬と一緒なら」
「……じゃあ、最初に手をつないで歩いたあの道、もう一度歩かない?」
「うん」
静かな朝。
新しい一日が始まる音が、少しずつ街に満ちていく。
だけど今、世界に存在するのは――
たった二人の鼓動だけだった。
朝5時半。
仮眠カフェを出た頃、空はすっかり薄い水色に染まっていた。
昨日までの湿気を忘れさせるような、澄んだ朝の風が頬を撫でていく。
紬と並んで歩く帰り道。
さっきまでの深夜の静けさとは違って、少しずつ車の音や人の声が戻り始めていた。
「なんか、不思議な感じだよね」
「何が?」
「こうしてるの。昨日までと変わらない道なのに、全然違って見える」
それは、たぶん俺も同じだった。
ただの同僚と歩いていたはずの道が、こんなにも温かく感じられるなんて。
「ねぇ、悠真」
「うん?」
「……ちゃんと、好きって言ってくれてありがとう」
紬は、少しだけうつむいて、でもしっかり俺の手を握った。
「ずっと、言ってほしかった。でも、自分から言うのも怖くて。関係が壊れるの、私も嫌だったから」
「俺も。たぶん、ずっと逃げてたんだと思う。今のままが楽だって、思い込んでた」
立ち止まった信号の前。
俺たちは顔を見合わせて、ふと同時に笑った。
「これから、どうなるんだろうね」
「……きっと、色々あると思う。仕事だって忙しいし、すれ違うこともあるかもしれない」
「うん。でも、ちゃんと話せるなら大丈夫。そう思う」
「俺も。ようやく、スタートラインに立てた気がする」
青信号が灯り、手をつないだまま歩き出す。
その手には、もう迷いはなかった。
•
渋谷駅前の喧騒が、ゆっくりと活気を取り戻していく。
いつもの朝、いつもの通勤ラッシュ。
だけどその中に、確かに変わったものがひとつだけあった。
「じゃあ、いってきます」
「……うん、いってらっしゃい」
会社のロビー前、俺たちは少しだけ距離を取り、周囲に気づかれないように別れた。
だけど、その指先には、ほんの一瞬だけ、ぬくもりが残っていた。
“特別”が生まれる瞬間って、派手なドラマみたいな出来事じゃない。
こんなふうに、終電を逃した夜とか、眠れぬ時間のなかに、そっと訪れるものなのかもしれない。
そしてまた、明日も同じ道を歩く。
昨日よりも、ほんの少しだけ勇気を持って。
紬と、俺と。
この一歩を、何度でも踏みしめながら。
――深夜、終電を逃した夜に始まった恋は、
静かに、でも確かに、朝とともに歩き始めた。
