真理奈は自分の手で朝陽をそのような悲惨な状態にしたことを実感したようだ。スカートの端を強く握りしめることでやっと気持ちを制御できている。彼女のスカートの生地は
 朝陽は目が見えなくなってしまったが、その代わりに視力以外の四感がより敏感になっていた。

(なんか……口調が柔らかくなっていないか?俺のことが嫌いならもっと、こう、平地から高地に持っていって爆発したポテトチップスみたいになるはずだ。飼い主から構ってもらえないために、手頃のクッションに八つ当たりをするペットみたいにはならないに決まっている。)

 今から言うことが自分にとっては余計な一言になることはわかっていた。けれども朝陽は言わなければならない気がした。
 朝陽は冷や汗が肌に滴り落ちた感覚に背中を押され、滲み出る手汗をズボンで拭った。

「俺はさ、自分で言うのもあれなんだけど、結構人の気持ちを読み取るのが得意なんだ。」

 突拍子のないことを言い始めた朝陽に、真理奈は後ろに下がる足を止めた。

「だから、気のせいかもしれないけど、お前が俺に説明した理由は本当は嘘なんじゃないかって思ったんだ。」

 あたりから一切の物音が消えてなくなった。あったとしてもそれは人間の耳には聞き取ることができないだろう。先刻まで暖かかった空気の温度が急降下するのを感じ、真理奈を除いたこの場にいる誰もが、何かしらの音を発することはなかった。
 無知な風が一番にこの気が狂いそうなまでの無音を破った。その後すぐに真理奈の足下の砂利が風の跡を追いかけた。
 舞い上がった砂埃は朝陽の鼻腔をくすぐった。くしゃみが出そうになったものの、それは発射せずに引いていった。
 鼻の粘膜にすっきりしない感覚を感じていると、真理奈のわなわなとした声が朝陽の元に降ってきた。

「……何も知らないくせに、自分は全てわかっているような口ぶりをするな!」

 これこそ、平地から高地に持っていって爆発したポテトチップスのような声色だ。
 真理奈の手下らしき人たちは揃って身を固くした。いつでも主人から下される命令を遂行する準備をしているのだろう。
 張り詰めた空気の中、一滴の滴が朝陽の前に落ちた。朝陽は雨かな、と思ったが一向に二滴目が降ってくる気配はない。

(頭を打ったせいだろう。あの水滴が地面に当たって広がる音は、きっと空耳だ。)

 朝陽は自分で自分を納得させた。
 しばらく経っても、真理奈は喋らなかった。ずるずると鼻を啜るような音がした後、真理奈は今まで打って変わって、吐き捨てるような口調で言った。

「あらかじめ打ち合わせた通りのことをして。絶対にそれ以上のことをして、証拠を残すような真似はしないでちょうだい。」

 驚くほど早口で、すぐさまこの場から立ち去りたいという思いが感じられる。この言葉は言うまでもなく、真理奈がその手下らしき人たちに向けたものだった.
 朝陽は頭が真っ白になった。なんとなくこの先自分が何をされるか勘づいてしまったからだ。
 四方八方から人が砂利を踏みしめながら、近寄ってくる音がした。朝陽の左手側に立っていた男は朝陽の耳元に口を寄せて言った。

「悪いなぁ、坊主。俺らはお前に微塵も仇はないが、生憎仕事でね。痛い思いをさせちまうが、怒らないでくれよ?」

 個性的な喋り方のせいなのか、ヌチャヌチャとした気色の悪い音が朝陽の耳元で響く。加えて、この男は普段から歯磨きの習慣がないのか、口から悪臭が漂っている。
 千年経っても晴れない恨みを抱えた強大な怨霊でさえ、追い払えてしまえそうなほどの気持ち悪さに朝陽は強烈な目眩を感じた。
 何も言わない朝陽に、後ろから男は調子に乗ったような様子を見せた、

「風の噂で聞いたぞぉ。お前人当たりが良いってクラスで有名なんだって?毎朝教室に入るたびにたくさんの友達に囲まれているらしいな。」

 下衆れた笑みは人を不快にするばかりだ。状況の行末を離れたところで見守ってた理人は、男を白眼で見てからどこかへ行ってしまった。
 この男に続けて、朝陽の右手側に立っていた男が口を開いた。

「よかったな!俺らにボコボコにされてもお前のお友達が慰めてくれるぞ!」

 朝陽の頭に一人一人のクラスメイトの顔が横切った。今日、自分が仲間だと、友達だと思ってきた人達はその大多数が嘘で塗り固められた偽物だった。
 これには、流石に込み上げるものがあり、朝陽は二人の男の手を振り解いて、言い放った。

「あいつらは……もう、友達でもなんでもない、赤の他人だ……」

 渾身の挑発をあっさりと朝陽に無視されてしまったことに男達は顔を曇らせた。
 朝陽は絶望していた。真理奈のこともそうだったが、何よりも仲が良いと思っていた翔間達からの信用を獲得できていなかったことが心を粉々に砕いた。
 今朝のことを思い出すたびに、体の内側にある脆い部分がきつく絞められているような痛みが走る。

「おい、もう無駄話はやめるぞ。俺らは一応不法侵入者に当たるんだ。時間をかけて教師とかに見つかれば面倒だ。」

 朝陽は自分の甲羅に戻る亀のように身体を縮こめて、来たる打撃に身構えた。彼の身体は未知の恐怖に怯え、小刻みに震えていた。
 一人の男が朝陽に叫ばれないように、ガーゼで口元を覆った。
 いくら報酬があっても、人を殴るような非人道的な行為をするのは初めてなら気が引けるものだ。しかし朝陽の猶予は長くなかった。今、朝陽を囲っているものは皆、まともではなかったからだ。
 一本の蹴りが、朝陽の背中に入った。先ほど無駄話をやめろ、と言った男だった。続いてもう一本蹴りが入った。今度は朝陽に前腕で、背中にやられたものよりも強かった。
 膝、肋骨、肩甲骨と男達はまるでボールを回し蹴りように順番に朝陽を痛ぶった。
 朝陽からは少しも動く勇気が湧かなかった。大人数で、しかも自分より体格が良い男達から逃げられるはずがないし、下手に身体の向きを変えれば、急所を当てられる可能性だってあるのだ。けれども痛いものは痛い。朝陽は人知れずぽろぽろと涙を流していた。
 暴行が激化するのを恐れ、血が滲むほど唇を噛み締めて、声が漏れないようにしていた。
 翔間や璃子達のことをもう友達なんかじゃない、ときっぱり言った朝陽だったが、この時ばかりは縋りつきたい思いでいっぱいだった。

(誰でもいい……誰でもいいからどうか俺をこの地獄から救ってください。俺を信じてください。)

 不意に、朝陽の脳内に夕が現れた。朝陽は自分に呆れたように心の中で首を振った。

(本当にバカな考えだ。夕に関しては片手で数えられるか数えられないかぐらいの交流しかないんだ。よくてあっさり俺から離れていくか、悪くて罵詈雑言を浴びせられるかだな……)

 思い浮かぶ人全てと思っていたよりも関わりが少なかったことに気がつき、朝陽は心が泥に沈んだようなような心地を味わった。一切の希望をなくした朝陽は項垂れて、いつかくる終わりを待ち望むことにした。
 こうして何週も回されている間に、空は紺色になっていた。
 朝陽の体はもう痛みを感じないところがないぐらいに足蹴にされた。何回も打たれた箇所だってあった。
 放心状態になった朝陽はやけに鮮明な記憶を辿り、自分のリュックを背負ってポツリと呟いた。

「……早く家に帰らなきゃ。今日部活がないって叔母さんには伝えてあるんだ。」

 校門を出る前に、朝陽は一目校舎裏の方を眺めた。校舎の壁に沿うように長方形の花壇が並んでいる。花壇にはゼラニウムが植っていたが、開花時期の真っ最中のはずなのに惜しくも既に枯れてしまっていた。
 スマートフォンの液晶に触れると、ブルーライトが目を刺激した。時刻は十九時二十一分でとっくに完全下校時刻を過ぎている。

(帰ったらどう説明しよう……心配、させちゃうよな。)

 なんとか家に帰るまでに叔母を騙せるような言い訳を考えたかったが、朝陽の身体の節々が音を上げて、早く休みたがっていた。
 朝陽を優しく照らすことができたのは月だけだった。朝陽達が通う学校の付近には住宅街があった。カーテンの隙間から潜り抜けて来た光は暖かいが、それは朝陽を優しく包み込んではくれない。遠くに見える街の照明なんてもってのほかだ。黄や緑、熾烈なところだったら紫もあって陽気すぎる。
 自分の足を酷使しながら歩く朝陽に前を、一匹の鴉が横切った。その鴉は学校の敷地に何食わぬ顔顔をして入っていった。そして駐輪場の屋根に止まり、一声鳴くとすぐに世闇に溶け出した。
 照明がなく、真っ暗な駐輪場には自転車が一輪だけ倒れて置かれていた。