焼きたてのパンの香ばしい香りと焼き菓子の甘い香りが建物に充満している。朝陽は帰宅する途中で寄り道をしていた。今日、理人から割引券を貰ったというあのひよこベーカリーだった。

(どれも美味しそー!どれにしようかな。)

 迷った結果、朝陽はひよこの形をしたケーキとピザパン、そしてパウンドケーキを一つずつ買うことにした。

(どうせならできたての状態で食べたいな……)

 朝陽は店内のイートインスペースを見渡すと、ちょうど一人席が空いていたのでそこに座った。平日だというのに、店内はお客さんで賑わっていた。
 席に座るなり、朝陽はひよこ形のケーキを頭からかぶりついた。愛らしかったひよこは一瞬にして無様な姿になってしまった。
 無意識に朝陽は笑顔をこぼした。それほど幸せを感じられる味だったのだろう。
 瞬きをする間に朝陽は二つ目のパンに入った。この調子で三つ目のケーキにも手をつけ始め、あっという間に完食してしまった。
 さて、いざ会計しようとしたとき、とんでもないことに気づいてしまった。

(まずい……先輩から頂いたあの割引券がない……)

 いくらポケットの中を弄っても、あの小さな紙らしき手触りがないのだ。金銭面に関しては余裕をもっておけばよかった、と今更後悔してももう遅い。朝陽は息苦しさを感じ、彼の心臓は早鐘を打つ。

(一か八か、電子マネーは足りているに賭けよう。)

 朝陽の足取りは一歩一歩がとてつもなく遅かった。

「残高が不足しています。」

 機械は無情に現実を突きつける。その声は朝陽にとって鉄のように冷たく感じられた。
 もはや平常心を取り戻し始めた朝陽は、近くに立っていた店員を捕まえると、事情を伝え、名前や住所、電話番号などの個人情報を紙に記録させた。
 朝陽は何度も何度も店員に頭を下げ、必ず戻ってくるのでお金を取りに家に帰らせて欲しいと頼み込んだ。それは充分誠意が伝わるものだったようで、すぐに朝陽に許可が降りた。
 これを聞いた朝陽は旋風の如く、乗ってきた自転車も置いて走っていった。

 旋風が去った後、多くの声が飛び交う中で、団体客のうちの一組がひそひそとした声で話し出した。

「ねぇねぇ、さっき急いで店から出ていったあの人、朝陽みたいじゃなかった?」

「あの人でしょ、私も見た……!朝陽みたいどころか、あれは絶対朝陽だったと思う!」

 窓側に顔を向けて食事をしていた彼女たちは、店の外に出た朝陽の姿が見えていた。

「えっ、嘘!?本当にいた?」

 窓側に背を向けていたうちの一人が、テーブルに手をついて立ち上がり、またゆるゆると座り直した。

「いつも遊びに誘うと用事がある、って言って断るのに……」

 手前に座る少女は肘をついて、彼の言葉対して食い気味に言った。

「朝陽がそんな酷いことするわけないでしょ。たまたま翔間(しょうま)のタイミングが合わなかっただけなんじゃない?」

「そうかもしれないけどさぁ……あいつ、今日の歓迎会もせっかく理人先輩に誘ってもらったのに断ってさ、結局自分一人で来てるじゃないか。」

「それは……確かに……」

 この点には流石に璃子(りこ)も朝陽を擁護できなかった。失望したようにため息をつく後輩二人の背中を、今まで黙りこくっていた理人が優しくさすった。

「まあまあ、そんな朝陽君に対して落胆しないで。それよりみんなもう食べ終わったね?あんまり長居したらお店の人にも迷惑がかかるから、そろそろお暇するよ。」

 理人の言葉は乾いたスポンジに水が染み込むように翔間と璃子の沈んだ心を癒した。
 三つのトレーの上には食べカスとしわくちゃになった包装紙だけが残っていた。

幡野(はたの)先輩、今日はありがとうございました!』

 前々から図っていたわけでもないのに、三人のお礼を告げる言葉は寸分の違いもなく揃った。それに理人は口元を抑え、笑っている事実を隠そうとしたが、彼の肩が全てを物語ってしまっていた。

「可愛い後輩の為だからね。これぐらいのお金なんて少しも惜しくないよ。」
 
 まだ笑いが収まらない理人に三人は、各々頬を膨らませるなり、口をへの字に曲げたりして、多少の不満を表に出したが、高い食事代を奢ってもらった手前、生意気そうな言葉を言い出せずにいた。
 理人が笑いを収めた頃には、顔全体が赤くなって、涙が少し滲み出ていた。

「笑ったりしちゃってごめんね。じゃあこの後俺用事あるから、もう解散にしちゃおう。また次の部活でね。」

『さようなら!』

 翔間、璃子、亜耶音(あやね)の三人は店から出て左側へ、理人は右側へ分かれていった。
 璃子たちが自分の背中の方で楽しそうに今日の感想を簡単に言い合っているのを聞きながら、理人はほくそ笑んだ。
 三人の声が聞こえなくなったところで、彼は人目があまりつかないような狭い通り路に入り、携帯電話を取り出して電話アプリを開いた。
 プルルル、プルルル。三週目に入ったとき、途中でコール音がなくなった。通話が始まった合図だった。

『…、……?』

「安心して、全部真理奈(まりな)の立てた計画通りに進んだよ。見事に勘違いをしてくれたよ。」

『……、……』

「裏切りなんてするわけないじゃないか。それにしてもあの三人は本当に面白いね。ちょっと高いお店に連れていって奢ってあげれば、すぐに心を開いて、俺を信用してしまうんだ。お礼を言われたときなんて、つい吹き出してしまったよ。」

 振り返ったら、自分で自分の笑いのツボを押してしまったようで、今度は口元を手で覆うことなどせず、無遠慮に声に出して笑い始めた。

『……!』

「ごめんよ、真理奈。次回はちゃんと気をつけるからさ。」

 反応を聞くなり、どうやら理人は電話の相手、真理奈に怒られてしまったらしい。しかし真理奈も本気で理人に怒っているわけではなかったようで、彼女の声は直ちに落ちついた。

『……』

「大丈夫、可愛い妹からの頼み事だからね。必ず全面的に協力するよ。また家でね。」

 理人の言葉を最後にこの電話は終了した。このとき、理人が携帯電話を仕舞うために下を見ると、地面の一部の色が変わっていることに気がついた。いつのまにか雨が降り始めていたのだ。雨はだんだんと強くなっていき、すぐに止みそうなものではなかった。
 理人は試しに屋根から手を伸ばして、わざと雨に当たらせた。すると、手の神経から伝わってきたのは痒い、という軽々しいものではなかった。痛い、のほうがよっぽど表現するのに相応しい。

「はぁ、この上着、最近買ったばかりのやつなんだけどなぁ……」

 雨具を購入するまでの間、傘がわりにするために、上着を脱いだ途端、理人は身震いをした。上着で感知出来なかった風は思っていたより冷たかったようだ。

 朝陽がお金を取りに帰った日から二日後、あの大雨によってできた水溜まりは綺麗さっぱり無くなっていた。
 自転車で水溜まりの中に突っ込んで、お気に入りの運動靴を泥で汚さないように留意する必要も無くなった朝陽は、向かい風が与えてくれる爽快感を味わいながら登校していた。
 いつものように学校が定めた駐輪場に自転車を停め、いつものように教室の後ろの方の扉から入り、いつものように自分の周りにたくさんの人が集まってくると思っていた。
 しかし、今日はそういかなかった。いや、教室に入るところまでは何も変わったところはなかった。変わったのは教室に入った後のところだった。朝陽を囲う人の輪はできていたが、それは中点である朝陽と距離を保ったものだった。
 朝陽を除いたクラスメイト全員は、大体二、三人のグループに分かれていた。最も多いグループで五人だった。どのグループにも共通して言えることが一つあり、それは、なるべく朝陽と目を合わせないようにしていることだった。

(何かがおかしいぞ……)

 朝陽が一歩歩み寄って、挨拶でも交わそうとすると、近づかれた人は朝陽が進んだ分だけ後ろに下がる。掃除ロッカーの近くに立っている人に関しては、下がりすぎて、壁に埋まってしまいそうだった。
 合わせようとしても会わない目、自分には聞こえない程度の小さな声で話しながら、鋭い視線に刺される感覚、どちらも朝陽は生まれてから一度たりとも体験したことのないことだった。
 少しずつ、朝陽の中で困惑の色が濃くなっていった。そんな様子を目にして、五人組のうちの一人の少女は、信じられないとでも言わんばかりに拳を握りしめ、声を荒げた。

「なにも分かってないような表情をしないで!真理奈の机に大量の画鋲を仕込んだのは朝陽でしょ?」

 声の主は璃子だった。彼女の言葉は表面だけ凍ったバケツの水のように、朝陽の身体を一瞬にして芯から冷やし、表皮に傷を残した。しかしその反面、朝陽を冷静にさせる効果もあった。
 瞬時に誰かに濡れ衣を被せられたことを知った朝陽が弁解をしようと口を開いたときだった。璃子に支えられていた少女が、故意に朝陽とタイミングを合わせて啜り泣き出した。

「私、恨みを、買うような、こと、したことないのに、なんで、こんな、酷いことを、するの……?」

 途切れ途切れになって口から出る言葉は、なんとか嗚咽を我慢し、見苦しい姿は見せまいとする彼女の気高さを引き立てた。
 当事者ではない人たちは皆、真理奈の方に心を傾けた。朝陽にはそれがまことしやかな嘘にしか聞こえない。
 理不尽に責め立てられている現状に朝陽は怒り心頭
になって、真理奈に正面から向き合った。

「『なんでこんな酷いことをするの……?』だって?それはこっちの台詞だ!俺がやってもいない悪事を勝手に俺に被せるな!」

 ほとんどの前触れもなく、怒りを露わにした朝陽に対して目を見開く者もいれば、体が跳ねた者もいた。
 言葉遣いが荒くなってしまった朝陽を見て、真理奈は璃子の肩口に顔をさらに埋めて、気味の悪い笑みを浮かべた。けれどもその瞬間を目に捉えた人はクラスに誰一人としていなかった。我、関せず、とでも言うかのような態度を見せる傍観者たちは当然のこと、はらわたが煮えたぎる感覚で、周りがよく見えなくなったなんてもってのほかだ。