小さな花弁を紙吹雪にして、新学期の始まりを祝福するように咲いていた校門前の桜。例年よりも長い時間、共に登校することができたせいで、いつのまにか心の底で桜はこの先もずっとこの道を彩ってくれそうだった。しかし連日連夜の暴風や暴雨によっていきなり、儚さのカケラもなく散っていった。華やかさを失った風景にどこか物足りなさを感じる中、二年三組の教室に明朗な笑い声が響いた。
 教室の真ん中に男女合わせて十数人の人集りができていて、その中心は一人の青少年だった。髪は黒に近い茶色で、身長はおよそ一八◯センチとそれなりに高い。綺麗な二重幅を持ち、その眼は教室の照明の光を浴びて宝石のように輝いている。それだけでも人を引き寄せるのには充分だったが、追加して彼の性格も他の人にとって魅力的なものだった。

「おい、朝陽!今日辰己(たつみ)たちとボウリング行くんだけどさ、お前も行かない?」

「誘ってくれてありがとう!でも今日は家の用事があるから無理だわ。また次があったら誘ってくれよ。」

「朝陽君、放課後保健委員の打ち合わせがあるんだって!先生に伝えといてって言われたからよろしくね!」

「分かった。伝えてくれてありがとう。」

 この青少年とはまさしく白井朝陽のことだった。
 愛嬌がある見た目と一致して、来る人を拒まない性格と棘のない口調はあっという間に彼をクラスで一番の人気者にさせた。
 四方八方から話しかけられても、うまく対応することができる彼はまるで伝説上の聖徳太子のようだった。
 朝陽を囲む人の輪は毎度なかなか崩れない。朝のホームルームのチャイムが鳴る寸前でやっとのそのそと各自自分の席へ戻って行ったのだった。もっと話していたいが、全員、先生に叱られるのがめんどくさいのだ。

 しばらくして朝のホームルームが終わり、一時間目の歴史の授業が始まった。

「人類は……を使うようになったり、……を発達させたり、住む場所を変えたりしたことで、厳しい……を乗り越えてきた。」

 まだ一時間目だというのに、朝陽はもう眠くなっていた。暗記は苦手でどちらかといえば化学や数学の方が好きな朝陽にとって、歴史の授業はやや苦痛だった。
 睡魔に抗ったが、今にも朝陽は負けてしまいそうだった。

「次は十五ページ、七段落目を白井、読んでくれ。」

 この言葉を聞くなり、朝陽は自然に下がっていた頭を勢いよく上げて、慌てた様子を晒した。話の内容は何も聞き取れていなかったが、自分の名前が呼ばれたことだけは分かったようだ。眠気も一気になくなったようだ。
 明らかに朝陽が先生の話をよく聞いていなかったことが見て取れて、クラスメイトたちは堪えきれず、微かに声を漏らしていた。
 教壇の上に立つ先生からの圧がかかった視線に少しずつ焦り始めた朝陽の右隣から突如、救世主が現れた。

「教科書十五ページ、七段落目を読め、だって。」

 手を口元にもっていき、静佳は囁くように言った。朝陽は同じように小さな声で「ありがとう。」と返した。
 みんな朝陽の醜態を笑ったが、朝陽のことは好意的に見ていた。だから朝陽は廊下側からの凍てつくような冷たい視線に気づくことができなかった。ましてや、朝陽は自分のことが嫌いな人が存在するだなんて思いもしなかったのだ。

 一時間目、二時間目、三時間目と順調に授業が進行し、放課後の打ち合わせも参加し終わった後、朝陽は靴箱で上履きから靴に履き替えていた。
 つま先で靴を整えて一歩踏み出したとき、朝陽は見知った影が自身の目の前を歩いていることに気がついた。
 朝陽は軽快な足取りで駆け寄って声をかけた。その人が後ろを向いた節に香った石鹸の素朴で爽やかな匂いに、朝陽は確信を持った。

「やっぱり!夕だ!」

 突然の声に夕は驚きもせず、落ち着き払った様子で振り返った。彼の口角は微かに上がっていた。

「久しぶり!もしかして夕も委員会だった?」

「うん、美化委員会。」

 美化委員会、花に水をやる仕事とか夕にとても似合いそうだ、と思いながら朝陽は話を続けた。

「ふぅん、美化委員になったのってなにか理由あんの?」

「美化委員を選んだのは、他の委員会に比べて放課後の集まりが少なそうだっただけ。そんな大層な理由はないよ。」

 てっきり夕のことだから、花が好きだったから、という理由で選んだのかと勝手に思い込んでいた朝陽は、その回答に不意打ちを喰らった気分になった。
 朝陽と夕は最寄り駅までは同じだったから、そこまでは一緒に帰ることになった。
 新しいクラスには慣れたのかとか、新しく友達はできたかどうかとか、会話の内容はよくよく考えてみたら至極つまらないものばかりだった。他の話題へ展開のしようもない、より多く似たことを話せたもん勝ちの数勝負だった。しかし朝陽はこの時間の経過がものすごく速く感じられた。瞬間移動移動でもしたような感覚だった。
 改札を通ったら、一人で電車の中で時間を潰さなければならなくなる。朝陽は振り返らなかった。一度でも別れを惜しむ気持ちを出せば止まらなくなってしまうことが、自分でもよく分かっていたからだ。
 一方で夕は釘を打ち込まれたかのように、朝陽の後ろ姿を見つめ続けていた。最終的に朝陽が角を曲がって完全に見えなくなったところで、一生の別れを告げた後のような顔をして朝陽とは真逆の方向へ歩みを進めた。
 翌日、天候は荒れに荒れまくっていた。それでもいつも通りの学校生活が始まる、はずだった。
 予鈴が鳴る十分前に学校に到着した朝陽は、靴を上履きに履き替えようと靴箱を開け、上履きを取り出した。すると上履きが発する筈がない、金属が擦れ合う小さな音が聞こえた。
 空耳かな、と朝陽は半分自分を疑いつつ、視線を下の方に向けるとそこには信じ難い光景が広がっていた。なんと、朝陽の上履きの中には画鋲がびっしりと詰まっていたのだ。
 画鋲はどれも針の部分が上向きになるように並べられていた。もし、気づかずにそのまま上履きを履いてしまったら、今頃針山の上に立っている気分を味わうことになっていたと思うと体が震えて仕方ない。
 
 キーンコーンカーンコーン。
 画鋲の処分方法について悩んでいたら、チャイムが鳴った。ホームルームが始まる五分前を知らせるものだった。

「まずい、遅刻してしまう……!」

 朝陽は本鈴が鳴るまでに、自分の席に座っていなければならなかった上に、二年生の教室は一番上の階にあった。とりあえず画鋲はカバンの中に入れ、高速で上履きに履き替えた。
 本格的に暑くなってはないといえ、湿気が重く、あまり走る気にはなれなかった。ただ、小学校、中学校と遅刻してこなかった朝陽のプライドが朝陽を奮励させたことによって、なんとか朝陽は本鈴が鳴る前に席に座ることができた。

 クラスメイトは朝陽が教室の扉を強く開けた音を聞いて、餌を見つけたピラニア並みの勢いでドア前に群がった。

「白井、こんな時間ギリギリに来るなんて珍しいな。どうした?」

「大丈夫?登校の半ばで何かあったりしたの?」

 絶えることなく周りからかけられる心配の声に、朝陽は苦笑いをしていた。自分を案じてくれるのは嬉しいが、こうも数が多いと、その声がどうも耳障りに感じてくる。
 不快感は積み重なって怒りに変わる。後もう少しでその感情が芽生えそうになったとき、根本から断ち切るようにチャイムがなった。
 慢長に感じられたホームルーム前の時間は終わったが、朝陽は解放感を感じることは少しもなかった。
 前で話す先生に話を聞いていないとバレないように顔を上げながら朝陽は考え事をしていた。

(今朝の件……溝口先生に相談したほうがいいか……?)

 あと二週間足らずで中間試験なのだ。そして同時に先生が問題の制作に取り掛かり始めて、忙しくなる時期でもあるのだ。そんなときにこのことを報告したら、先生だけでなく同じ学年のみんな、それどころか全校生徒にも迷惑を少なからずかけてしまうかもしれない。わざわざ二つの事象を天秤にかけずとも、どちらに傾くか見るまでもなかった。結局、朝陽は中間試験が終わるまでこのことは自分の中に秘めておくことにしたのだった。

 若葉の黄緑から黄色味が抜け、葉っぱ自体の数もだいぶ増えた。大きくて黒い影をつくれるようになった木の下では栗鼠(りす)や小鳥が休んでいる。
 朝陽は差し込む日光で四角の連なりができている廊下を歩いていた。ふんふんとどこかで聴こえたことがある曲を鼻で歌いながらオレンジ色の光に当たっている姿はステージ上のアイドルのようだ。

(ラッキー!理人(りひと)先輩からひよこベーカリーの割引券をいただいちゃった!あそこの店、味は美味しいんだけど高いんだよなぁ……だからちょうどよかった!)

 朝陽の気分はみるみる高揚していき、ついには踊り出しそうなところで、奥の曲がり角の方から人影が現れた。それは近づいてくるたびに輪郭を始めとして、鼻や目などの細かなパーツが鮮明になってくる。

(あの人は……倉本さん?……うん、倉本さんで間違いない。)

 決め手となったのはスクールバックにつけられてる鹿と羊のぬいぐるみキーホルダーだった。どちらも笑顔ではなく、なんとも言えない独特な表情を浮かべているように見える。
 あれは朝陽が初めて静佳のキーホルダーに気がついたときだった。このキーホルダーと静佳に対する第一印象とはあまりにもかけ離れていたため、危うくえっ意外と、言葉に出してしまいそうになったことがある。
 進級してから早一ヶ月経とうとしている今でも、朝陽が考える倉本静佳はあまり変わっていない。おとなしそうで勉強はきっちり計画立ててそう、のままである。二人はプライベートの話や趣味の話をしたことがないため、本性に近しい部分を知ることもなく、相互に性格に関する理解は浅いところで止まっている。
 ただ理解が浅いからといっても、全てを誤認しているわけではない。廊下の暗いところから歩いてくる静佳は彼女の胴体を隠せるほどの大きなダンボールを運んでいた。その中には歴史の問題集が入っていた。

(大方、倉本さんはたまたま通りかかったところに青木先生から頼まれて、快く応じたか断れなかったかのどっちかだな……)

 実際、朝陽の予想はほぼほぼ当たっていた。しかしどんな理由であれ、朝陽は重そうな荷物を運んでいる人の横を無視して通り過ぎることなどできなかった。

「それ、重くない?運ぶの変わろうか?」

 前方からこちらに朝陽が一直線で歩いてきたことから、静佳はなんとなく何を言おうとしていることを察したようだ。

「うーん、変わって欲しいっていうほどではないかな。」

 淡々と答えた静佳だったが朝陽は食い下がった。ここで諦めて立ち去るのはなんとなくかっこ悪い気がしたのだ。

「そうかもしれないけど……スクバがあると邪魔になって持ちにくくない?ん、遠慮しなくていいから!ほら!」

「そんなに言うなら……はい。」

 腕を広げてダンボールを受け取る準備をする朝陽の熱意に負け、静佳が渋々渡した。
 そのときだった。
 ゴトン。朝陽の手からダンボールが滑り落ち、落下時に大きな音を立てた。それは目には見えない二人を隔てる溝にもなった。

(しまった……これじゃあ、さっきあのまま立ち去るよりもダサいじゃないか……)

「ごめん……足、下敷きになったりしなかった?」

「ううん、なってない。大丈夫だったよ。」

 恥ずかしさと動転が同じタイミングでやってきて、朝陽は一体暑いのか寒いのかわからなくなった。
 今のことをなかったことにするかのように、朝陽は凄まじい速さでなかなか重さがあるダンボールを持ち上げた。

「じ、じゃあ後は俺が運ぶね。教卓の隣に置いとけばいい?」

「そう、ありがとう。」

 静佳が話を終えるてまもなく来た道をなぞるように教室に向かって走っていった。
 転びそうな勢いで朝陽が教室に通じる階段を一段飛ばしで登るところを見て、静佳は肩をすぼめた。
 数分前まで綺麗な茜色だった空を青色や紫色などの寒色が蝕んでいく。地上では蟻が大きな列をなして引っ越しを始めていた。そして静佳が帰り、誰もいなくなったはずの廊下に、小さく足音が響いた。