鳥の鳴き声が聞こえて、朝陽はまだ明るさに慣れない目を無理やりこじ開けて窓の外を見た。シェルターの周りに折れずに済んだ樹木は何本かあったが、そこには一匹の鳥の姿も見当たらなかった。まるで朝の到来を告げにきただけのようだった。
 未だ脳がよく働かない朝陽は、無意識に隣のスペースに手を伸ばした。指先が触れた布団は少しひんやりとしていた。
 その感覚に違和感を覚えた朝陽はシェルター内をざっくりと見渡した。すると昨日の昼間と同じように、石像の近くに立ち、鑿を持って彫り進めている夕の姿があった。どうやら夕はそれほどまで作業に没入していなかったようだ。すぐに朝陽からの視線に気がついて、鑿を傍にある机の上に置いた。

「おはよう、白井くん。」

「潮見、おはよ。」

 昨夜、朝陽は夕が自分よりも早い段階で眠った記憶がある。しかし石像の彫りは昨日と比べてだいぶ深くなっていた。もしこの石像にモデルがいたとしたら、
きっとその人は若い男子で純粋無垢な性格をもつ人だろう。そんなことが石像のポーズや指、頬などの細部から推測できた。
 石像から視線を外した朝陽は、布団から出た。今日もシェルターを探す旅に出なければならないと思うと少し憂鬱に感じられたが、なんとかそれを抑え込んだ。

「昨日はお世話になった。ありがとうな、潮見。」

「お礼なんていいよ。僕も白井くんに感謝しているんだ。ずっとここに一人でいれば、流石に寂しくてね。」

 このときの夕は目をほんのり赤らめ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。夕の言葉からして人恋しさが原因だと考えるのが妥当だが、朝陽にはそれが理由ではないように思えた。もっと別のことが理由である気がした。
 朝陽は分かっていた。一度このシェルターの敷地から足を踏み出せば、二度と戻ることなどはないと。だからこそ、夕をどうするべきか悩んだ。ここに置いて行けば、外に出る気のなさそうな夕はあと数日もしたら、栄養不足で倒れてしまう。かといって夕を強制的に連れていくのも(はばか)れた。しかしこのように朝陽がじっくり考えているところを夕は断ち切って言った。

「...白井くん。もうすぐでここを発つんだよね。そのことなんだけどさ、僕も連れて行ってよ。」

 まさか夕がついて行きたいと自ら乞うてくるとは思わなかった朝陽だったが、夕に無理をさせることはなさそうだと言うことが判明してほっと一息ついて笑った。

「もちろん。断るわけないだろう?」

 空気が瞬時に和やかになった。何が可笑しかったのか二人の青年は目を細めて、ニヤリと笑った。この画面だけはやけに平和で眩しく、荒れ尽くした都市から切り離されて独立しているようだった。

 相変わらず太陽は肌を強く照りつけたが、湿気を含まない風が吹いたおかげで、紫外線が皮膚に与える痛みは緩和された。
 朝陽と夕は肩を並べて道を歩いていた。もう出発してから二時間は経った。たかが二時間、されど二時間。いくら活気溢れる年齢で体力が尽きにくかったとしても、一度立ち止まって休憩しなくては後に辛くなってくる。それに二人は昨晩と今朝のご飯を食べていないのだ。特に夕は数日間運動という運動をしていなかったのだ。一歩歩くたびに幾つかの水玉模様を地面に残した。
 このままでは水分不足で倒れてしまう恐れがあるということを察知した朝陽は付近に影ができているところがないか探し始めた。
 周囲には山のように積み上がった瓦礫ばかりだった。しかし太陽の南中が近かったため、小さい影しかできていなかった。その中で一番大きいものでも人が一人収まるかどうかぐらいの大きさだった。それでも夕を日光の元に晒されるよりはずっといいと判断した朝陽は、足取りが不安定になり始めた夕を半ば背負うようにして日陰の方に引きずっていった。
 自分と同じぐらいの重さで、かつ意識を失いかけている人間を運ぶことは、朝陽が想像していたよりもずっと大変だった。もともとここ九日間で慣れたおかげで、体力に多少の余裕が残っていた朝陽だったが、日陰の下に到達した頃には乱れた息を整えるのに精一杯になった。
 朝陽は持っていた水筒を開けて、夕の口元まで運んで言った。

「ん、水飲みな。」

「…あ、ありがと。」

 夕の声は擦れていた。しばらく経って、自分でボトルを持てるようになるまで回復した夕は両手で朝陽から水を受け取った。
 水分を摂って、夕の唇はいくらばかりか血の気を取り戻した。朝陽は立ち上がり、着ていたベストを枕にして空いたスペースに夕に寝るよう促した。だが夕は自分が朝陽の足を引っ張るのがよほど嫌なのか、朝陽の催促に反発して、起きあがろうとした。

「…ここまでしてもらわなくても大丈夫。もう気分はだいぶ良くなったよ。先を急ごう。」

 自然と目を長い間瞑る仕草をして、なんとか目眩を堪えている様子の夕に朝陽は不満気に反論した。

「明らかに大丈夫じゃないのに無理を言うな。時間のことは気にしなくてもいい。完全に回復するまでゆっくり休みな。」

 その言葉を聞いて安心したのか夕は何も言わず、そのまま瞼を閉じた。
 朝陽は暫くの間、横になった夕の側に座っていたが、ずっと見つめていたら夕は休もうにも休めないことに気がついて、元気になるまで付近を散策することにした。
 歩き始めたのはいいものの、正直なところ周囲には瓦礫の山以外目につくものはなく、やや味気がなく感じられた。
 一周だけして戻ろうと思った矢先、一つの瓦礫の山の下で人間が暗がりの中からこっちを見ている気がした。
 朝陽は鳥肌たった腕を押さえ、本当の人間でないことを祈りつつ、目を凝らしてじっくり見てみると、それは本物ではなくプラスチックでできた像だった。一気に緊張が解けた朝陽はゆっくり地面に膝をついた。

(そういえば最近は大切な日の記念に残すものとして、手のひらサイズの像が流行っていたな。何はともあれ、本物の人間じゃなくてよかった。)

 ただし朝陽が見つけたこの像は、手のひらぐらいの大きさどころではなかった。像は等身大の女子が座っているものだった。この像の所有主はかなりのお金持ちであることが予想できる。
 写真とは違って、像ならば思い出などを立体的に形を残すことができる。最初は価格が高かったため敬遠をしていた人にも、像の細部まで再現しつつ小型化することができるようになったおかげで普及していったのだ。

(プラスチック製の像なら、今では殆どの家庭に置かれているんだ。何もおかしいところなんてないじゃないか。)

 そうして朝陽は足速にこの場から立ち去った。汗が一筋、彼の頬を伝った。太陽が完全に雲に隠れ、少し冷たい風がそよいでいて、全く汗をかくような気候ではなかったのにも拘らず。

 朝陽が戻ってきたとき、夕は体制を変えて瓦礫を背もたれにして座っていた。夕が着ていた服は通気性が良くて手触りも良さそうだったが、硬いものが肌に与える刺激を和らげられるものではなさそうだった。とてもとは言えないが見ていられなくなった朝陽は夕にこう聞いた。

「瓦礫、刺さって痛くないのか?」

 朝陽の質問を、夕はのんびりと、かつ諦めたような口調で答えた。

「違和感は感じるけど、痛いとまではいかないかな。津波が発生したあの日からずっと地面で寝ているから慣れたのかも。」

 柔らかい布団とどこを触ってもザラザラとした感覚が手に残る瓦礫では全く違うだろうと朝陽は思ったが、本人が言うのならばそうなのだろうと、口には出さずに心の奥底にしまった。
 夕は立ち上がってズボンに付着した土埃を払った。しかしどんなに払っても、土や砂の茶色は完全には落ちなかった。

「あー、これは暫くの間綺麗にならないやつだ。時間の無駄にもなるし、出発しようか。」

 そう言って夕は朝陽の前を歩き出した。朝陽もそれにそうだな、とだけ返し、夕の後を追った。

 昼下がり、雲が占める空の割合がだんだんと大きくなるに伴い、気温も下がり始めた。
 シェルターを見つけるまでの間、朝陽は二年生の新学期からずっと学校に行っていないと言った夕に、高校のことを話していた。
 体育祭や文化祭などの特別行事から普段の授業のことまで、その内容はさまざまだった。途中、自分の話が長すぎるが故に夕が鬱陶しく感じていないか心配になって、その顔色を伺った朝陽だったが、夕は始終偽りのない笑顔で話を聞いていた。
 学校に関する話題があっという間に底をついても、朝陽は続けて新しい話題を夕に振った。夕自身のことについてだった。

「なぁ、潮見って両親の他に兄弟とかいる?」

「うん、七歳離れた弟がいるよ。」

「へー、そうなんだ。俺一人っ子だからさ、兄弟がいる潮見のことが羨ましいよ。あっ話変わるけどさ、お前絵描くの上手いよな。なんかコツとかあんの?」

「コツは特にないかな。たまたま小さい頃から絵が上手で、たまたま描き続けてきただけ。」

 会話というより、朝陽による質問攻めの方が近しかった。二人は一見似ているようで、実は異なっていたのだ。特にコミュニケーションの方面で。
 それでも二人は楽しそうに笑っていた。たまに声に出して笑うこともあった。これまで起こった苦しい出来事や辛い出来事を全て塗り替えることだってできそうだった。