太陽が頭を照らして、髪の毛は今にも火がついてしまいそうなほど熱い。もう小暑も過ぎたというのに、蝉の鳴声は少しも聞こえない。去年まで鬱陶しくも、当たり前に存在すると思っていたものが急になくなってしまったせいで、この静けさが却って不気味に感じられる。
汗が次々と身体を伝って落ちていく。本格的な夏の到来を伝える役割を果たせるものがなくなった今、もはやこの暑さ以外で、夏らしさを感じられるものはないだろう。
こんな様になったのには理由がある。約三週間前、巨大隕石が太平洋に墜落し、これまでの記録を破るような規模の大きい津波を発生させたのだ。消波ブロックを軽々と乗り越えられ、トラックのように重量があるものやマンションなどの建物も飲み込まれてしまった。
鉄やコンクリートも津波の激流には耐え切ることができなかったのだ。たとえ土の中に隠れていようとも、小さくか弱い命に耐えられるはずがなかった。
人類の名誉のためにも言えば、人々は地球に隕石が向かって来ていることを知らなかったというわけではなかった。あらかじめ避難用のシェルターを各地の丘や山に建設することだってできていた。しかし隕石が電波に影響を与えたことで、正確な津波の発生時間及びその速さを予測することが不可能になってしまった。
想定外の積み重ねで、世界中がパニック状態に陥った。多くの人がシェルターに逃げ込むことも叶わずに大量の砂や瓦礫をその腹に収めた波に追いつかれてしまった。
短期間で廃れてしまった自分の生まれ育った都市を、白井朝陽は散策していた。彼の他に家からシェルターが近かったために津波から逃れることができた人たちは、とうに救助用ヘリコプターやボートに乗って避難していった。
白井朝陽も鈍感ではなかったため、人気のなさから他の人が自分を置いて既にここから脱出したことに気づいていた。それなのに助けを呼ばないのは、今更自分一人のためだけに救助を頼むなんて、きっと大きな迷惑だろう、という遠慮のせいだった。
救助は呼べず、歩いて行こうにも地図は持っていないため、この都市からはすぐには出られない。それどころか都市を出る前に餓死してしまうだろう。
どうすればいいものかと頭を悩ませた末に白井朝陽は人々がついぞ使用することがなかったシェルターから食糧を頂きながら、故郷からの脱出を目指すことにした。
人は自分の目先に危機が訪れると本性を現したり、これまで自分で自分に禁じていたことも繰り返し行えば次第に慣れていってしまうものだ。
誰かが自分のためだけに行動すると申し訳なさそうにする朝陽だったが、今では感謝こそ忘れないが、かつて他所の人の所有物だったものを平気で消費するようになっていた。
草や花で緑色に染まっていた地面は、一面土色に変わってしまった。全ての若かったり、根をうまく張ることができていなかった樹木は薙ぎ倒されている状態でなければ、幹の部分をへし折られている状態だった。
倒れた樹木の叫ぶ声が今にも聞こえてきそうだった。ちょうど耳を塞ごうとしたところ、いいものが目に入ったのか朝陽の顔は喜色満面になった。
「お、あそこにシェルターがある。今日はあのシェルターにお邪魔しよう。」
そのシェルターは丘の頂上から少し外れたところに立っていた。遠くからでも壁に雷のような形の割れ目があるのが見えた。ちょうど津波はこれぐらいの高さがあったのだろう。
シェルター巡りを始めてから今日を入れて八日経過した。前七日間は日が暮れてもなかなかシェルターが見つからなかったが、今日はいつもより随分と早くシェルターを見つけることができた。
喜びで歩く速度が速くなったのか、すぐにシェルターに到着することができた。
改めて近くで見てみると、あの割れ目はシェルターの中を覗けそうなほど酷いものだった。それでも轟音を立てて崩壊する気配がないのは、技術の進歩のおかげと言えるだろう。
いざ中に入ろうと朝陽がドアノブに手をかけた瞬間、内側から小さくコツコツという明らかに何かの生物による音が響いた。
(もしかしてこの中に誰かがいるのか?)
このシェルターの主人や自分と同じように食糧を求めて放浪する者、ひいては人間以外の動物など、一通りこの音を発したものの正体としてあり得るものを朝陽は脳内で並べた。
いずれの場合にしても、真っ先にドアを開けるのは得策ではないということが言えるだろう。
まずは中の様子をこっそり確認したいところだが、窓を使うと中のものに姿を見られてしまう可能性がある。ここで壁の割れ目が役に立つ。朝陽は割れ目の部分に両目を当てると、はっきりと中の様子が見えた。
最初に朝陽の視界に映ったのは、まだ削りの粗い白い石像だった。その次はこちらに背を向けた状態で石像の隣に立っている青年の姿だった。青年は手に鑿を持ち、石像に刺し込もうとしていた。どうやらあの石像はこの青年が彫ったもののようだ。
(それにしてもこの後ろ姿、やけに見覚えがあるな…こっちに顔を向けてくれたら、あいつのことを知っているかどうか確かめられるのに…)
偶然にも朝陽の思いに応えるように青年は前振りもなく、朝陽が目を当てている割れ目がある方向を向いた。
「俺、やっぱりあいつのこと知ってる…」
これまでで一度も日光を浴びたことがないのではないかと思ってしまうほどの白い肌と、漆黒の髪をもつその青年の名前は潮見夕だった。
彼は朝陽が一年生だったときのクラスメイトだったが二年生に進級してからクラスが別れ、数少なかった交流も無に等しくなってしまった。それでも朝陽は中にいるのが夕だと分かった瞬間に、迷いもせずシェルターに足を踏み入れた。
ドアを開けると、人工物特有の嫌な匂いが漂ってきた。続いて視界に壁に掛かったたくさんの絵が視界に飛び込んできた。さっきの匂いは、一部の絵の乾ききっていない絵の具によるものだったようだ。絵はどれも色彩豊かに描かれていた。壁に飾ることで、まるで壁に生えている割れ目を隠しているようにも見えた。
「よっ、潮見。本当に驚いた、まさか俺以外にまだここに残っている人がいるなんてな。」
朝陽に夕をびっくりさせるつもりは微塵もなかったが、いきなり話しかけたものだから、少しは驚いた顔をすると思っていた。しかし朝陽の予想に反し、夕はちっとも驚かなかった。むしろ朝陽が入ってくることは予想ついていた、とでも言うかのような態度だった。
「久しぶり、白井くん。僕も自分以外の人はとうに避難していったのかと思ってた。でも、それは勘違いだったようだね。」
いくら夕が顔に出さなかったとはいえ、いきなり自分の敷地に入ってきた人にいい印象は持たないだろう。
そう思った朝陽は咄嗟に偶然を装ったことで、夕に怪訝に思われずに済んだ。
「それにしてもこの絵の枚数はすごいな。全部潮見が描いたのか?」
「まぁね。二週間ぐらいずっとここに篭って描いていたんだ。」
「二週間もか?よく生きてこれたな。」
朝陽がそう言うのもおかしくはなかった。なぜなら夕がいるこのシェルターを見渡すと小ぶりの冷蔵庫はあったものの、これまで朝陽が訪れたシェルターとは違って水や食べ物は見当たらず、仕様も一回り昔のものであったのだ。
「水は濾過器があったから大丈夫。確かに冷蔵庫には少しの食糧しかなかった。だけど一日のうちほとんどの間動かないからあまりエネルギーを消費しなかったおかげで、ここまで生きる分には十分だったよ。」
やはり物事はなかなかうまくいかないものだ。空がだいぶ明るいうちにシェルターを見つけることができたことに加えて、その主人は互いに名を知るものだった。しかしその中に求めていた食糧は水以外なかったのだ。日はまだまだ高い位置にあるが、草臥れて歩けなくなる前に二つ目のシェルターを見つけられる自信が朝陽にはなかった。
そんな朝陽の心配をその表情から読み取ったのか、夕は手を差し出して言った。
「水だけならあるから、もしよかったら今夜はここで休憩していったら?」
「ありがとう、そうする。」
夕が朝陽を想って投げかけた言葉だ。それを無下にすることなんて、朝陽には到底できなかった。
鉄紺色の空で星が命を燃やしながら瞬いていた。辺りは依然として静かなままだった。朝陽の提案で二人はシェルターから出て夜風に当たっていた。
「綺麗だなぁ、こんな星空は初めてだ。」
これまでは街のネオンに、多くの控えめに光る星は圧倒されていたため、観ようとしても観ることができなかった。また放浪を始めてからも、慣れないことをする疲労でゆっくりと空を眺める余裕なんて生まれなかった。
「うん、本当に綺麗だね。それに、なんだかいつもより天が近く感じない?」
そう言って夕は顔を朝陽に近づけた。危うく鼻先がぶつかりそうになった。互いの瞳には互いの姿しか映らなかった。朝陽は夕の言動の意味がよくわからず、乾いた笑い声を出して、そうかもしれないな、と曖昧な返事をした。
ほんの一瞬だけ居心地が悪くなってしまったが、朝陽にとってこうして星空を見上げる時間は、いままでのどの時間よりも穏やかで心が安らぐ時間だった。
汗が次々と身体を伝って落ちていく。本格的な夏の到来を伝える役割を果たせるものがなくなった今、もはやこの暑さ以外で、夏らしさを感じられるものはないだろう。
こんな様になったのには理由がある。約三週間前、巨大隕石が太平洋に墜落し、これまでの記録を破るような規模の大きい津波を発生させたのだ。消波ブロックを軽々と乗り越えられ、トラックのように重量があるものやマンションなどの建物も飲み込まれてしまった。
鉄やコンクリートも津波の激流には耐え切ることができなかったのだ。たとえ土の中に隠れていようとも、小さくか弱い命に耐えられるはずがなかった。
人類の名誉のためにも言えば、人々は地球に隕石が向かって来ていることを知らなかったというわけではなかった。あらかじめ避難用のシェルターを各地の丘や山に建設することだってできていた。しかし隕石が電波に影響を与えたことで、正確な津波の発生時間及びその速さを予測することが不可能になってしまった。
想定外の積み重ねで、世界中がパニック状態に陥った。多くの人がシェルターに逃げ込むことも叶わずに大量の砂や瓦礫をその腹に収めた波に追いつかれてしまった。
短期間で廃れてしまった自分の生まれ育った都市を、白井朝陽は散策していた。彼の他に家からシェルターが近かったために津波から逃れることができた人たちは、とうに救助用ヘリコプターやボートに乗って避難していった。
白井朝陽も鈍感ではなかったため、人気のなさから他の人が自分を置いて既にここから脱出したことに気づいていた。それなのに助けを呼ばないのは、今更自分一人のためだけに救助を頼むなんて、きっと大きな迷惑だろう、という遠慮のせいだった。
救助は呼べず、歩いて行こうにも地図は持っていないため、この都市からはすぐには出られない。それどころか都市を出る前に餓死してしまうだろう。
どうすればいいものかと頭を悩ませた末に白井朝陽は人々がついぞ使用することがなかったシェルターから食糧を頂きながら、故郷からの脱出を目指すことにした。
人は自分の目先に危機が訪れると本性を現したり、これまで自分で自分に禁じていたことも繰り返し行えば次第に慣れていってしまうものだ。
誰かが自分のためだけに行動すると申し訳なさそうにする朝陽だったが、今では感謝こそ忘れないが、かつて他所の人の所有物だったものを平気で消費するようになっていた。
草や花で緑色に染まっていた地面は、一面土色に変わってしまった。全ての若かったり、根をうまく張ることができていなかった樹木は薙ぎ倒されている状態でなければ、幹の部分をへし折られている状態だった。
倒れた樹木の叫ぶ声が今にも聞こえてきそうだった。ちょうど耳を塞ごうとしたところ、いいものが目に入ったのか朝陽の顔は喜色満面になった。
「お、あそこにシェルターがある。今日はあのシェルターにお邪魔しよう。」
そのシェルターは丘の頂上から少し外れたところに立っていた。遠くからでも壁に雷のような形の割れ目があるのが見えた。ちょうど津波はこれぐらいの高さがあったのだろう。
シェルター巡りを始めてから今日を入れて八日経過した。前七日間は日が暮れてもなかなかシェルターが見つからなかったが、今日はいつもより随分と早くシェルターを見つけることができた。
喜びで歩く速度が速くなったのか、すぐにシェルターに到着することができた。
改めて近くで見てみると、あの割れ目はシェルターの中を覗けそうなほど酷いものだった。それでも轟音を立てて崩壊する気配がないのは、技術の進歩のおかげと言えるだろう。
いざ中に入ろうと朝陽がドアノブに手をかけた瞬間、内側から小さくコツコツという明らかに何かの生物による音が響いた。
(もしかしてこの中に誰かがいるのか?)
このシェルターの主人や自分と同じように食糧を求めて放浪する者、ひいては人間以外の動物など、一通りこの音を発したものの正体としてあり得るものを朝陽は脳内で並べた。
いずれの場合にしても、真っ先にドアを開けるのは得策ではないということが言えるだろう。
まずは中の様子をこっそり確認したいところだが、窓を使うと中のものに姿を見られてしまう可能性がある。ここで壁の割れ目が役に立つ。朝陽は割れ目の部分に両目を当てると、はっきりと中の様子が見えた。
最初に朝陽の視界に映ったのは、まだ削りの粗い白い石像だった。その次はこちらに背を向けた状態で石像の隣に立っている青年の姿だった。青年は手に鑿を持ち、石像に刺し込もうとしていた。どうやらあの石像はこの青年が彫ったもののようだ。
(それにしてもこの後ろ姿、やけに見覚えがあるな…こっちに顔を向けてくれたら、あいつのことを知っているかどうか確かめられるのに…)
偶然にも朝陽の思いに応えるように青年は前振りもなく、朝陽が目を当てている割れ目がある方向を向いた。
「俺、やっぱりあいつのこと知ってる…」
これまでで一度も日光を浴びたことがないのではないかと思ってしまうほどの白い肌と、漆黒の髪をもつその青年の名前は潮見夕だった。
彼は朝陽が一年生だったときのクラスメイトだったが二年生に進級してからクラスが別れ、数少なかった交流も無に等しくなってしまった。それでも朝陽は中にいるのが夕だと分かった瞬間に、迷いもせずシェルターに足を踏み入れた。
ドアを開けると、人工物特有の嫌な匂いが漂ってきた。続いて視界に壁に掛かったたくさんの絵が視界に飛び込んできた。さっきの匂いは、一部の絵の乾ききっていない絵の具によるものだったようだ。絵はどれも色彩豊かに描かれていた。壁に飾ることで、まるで壁に生えている割れ目を隠しているようにも見えた。
「よっ、潮見。本当に驚いた、まさか俺以外にまだここに残っている人がいるなんてな。」
朝陽に夕をびっくりさせるつもりは微塵もなかったが、いきなり話しかけたものだから、少しは驚いた顔をすると思っていた。しかし朝陽の予想に反し、夕はちっとも驚かなかった。むしろ朝陽が入ってくることは予想ついていた、とでも言うかのような態度だった。
「久しぶり、白井くん。僕も自分以外の人はとうに避難していったのかと思ってた。でも、それは勘違いだったようだね。」
いくら夕が顔に出さなかったとはいえ、いきなり自分の敷地に入ってきた人にいい印象は持たないだろう。
そう思った朝陽は咄嗟に偶然を装ったことで、夕に怪訝に思われずに済んだ。
「それにしてもこの絵の枚数はすごいな。全部潮見が描いたのか?」
「まぁね。二週間ぐらいずっとここに篭って描いていたんだ。」
「二週間もか?よく生きてこれたな。」
朝陽がそう言うのもおかしくはなかった。なぜなら夕がいるこのシェルターを見渡すと小ぶりの冷蔵庫はあったものの、これまで朝陽が訪れたシェルターとは違って水や食べ物は見当たらず、仕様も一回り昔のものであったのだ。
「水は濾過器があったから大丈夫。確かに冷蔵庫には少しの食糧しかなかった。だけど一日のうちほとんどの間動かないからあまりエネルギーを消費しなかったおかげで、ここまで生きる分には十分だったよ。」
やはり物事はなかなかうまくいかないものだ。空がだいぶ明るいうちにシェルターを見つけることができたことに加えて、その主人は互いに名を知るものだった。しかしその中に求めていた食糧は水以外なかったのだ。日はまだまだ高い位置にあるが、草臥れて歩けなくなる前に二つ目のシェルターを見つけられる自信が朝陽にはなかった。
そんな朝陽の心配をその表情から読み取ったのか、夕は手を差し出して言った。
「水だけならあるから、もしよかったら今夜はここで休憩していったら?」
「ありがとう、そうする。」
夕が朝陽を想って投げかけた言葉だ。それを無下にすることなんて、朝陽には到底できなかった。
鉄紺色の空で星が命を燃やしながら瞬いていた。辺りは依然として静かなままだった。朝陽の提案で二人はシェルターから出て夜風に当たっていた。
「綺麗だなぁ、こんな星空は初めてだ。」
これまでは街のネオンに、多くの控えめに光る星は圧倒されていたため、観ようとしても観ることができなかった。また放浪を始めてからも、慣れないことをする疲労でゆっくりと空を眺める余裕なんて生まれなかった。
「うん、本当に綺麗だね。それに、なんだかいつもより天が近く感じない?」
そう言って夕は顔を朝陽に近づけた。危うく鼻先がぶつかりそうになった。互いの瞳には互いの姿しか映らなかった。朝陽は夕の言動の意味がよくわからず、乾いた笑い声を出して、そうかもしれないな、と曖昧な返事をした。
ほんの一瞬だけ居心地が悪くなってしまったが、朝陽にとってこうして星空を見上げる時間は、いままでのどの時間よりも穏やかで心が安らぐ時間だった。
