終電のアナウンスが駅に響いたとき、私はホームのベンチに座ったまま、立ち上がらなかった。
「行っちゃったな」
人気のないホームで、小さく呟く。
最後の電車のテールライトが遠ざかっていくのを、私は黙って見送った。

わざとだった。
帰れなくなるのを分かっていて、乗らなかった。
理由なんてない。いや、理由がありすぎて、ひとつに絞れなかった。
ひとつにしようとするたびに、こぼれてしまう。名前のない感情が。

最近、何をしても、何を言われても、心に触れない。
笑っても、怒っても、涙が出ても、本当の自分がどこにいるのか分からなかった。
学校も、家も、友達も、何もかもが、どこか遠くにあるような気がして。
まるで、音のない水槽の中で、ひとりきりで泳いでいるみたいだった。

寒さが少しずつ肌を刺す。
でもそれさえ、ちょうどいい痛みに思えた。
自分がここにいることを、ちゃんと確かめてくれるような。

私はホームのベンチから立ち上がり、歩き出す。
制服のまま、靴の音をカツンカツンと響かせながら、歩道を歩く。
真夜中の商店街、シャッターの下りた店先。
街灯がオレンジ色の光をぽつんと灯す。

夜は不思議だ。
昼間の喧騒がぜんぶ薄れて、世界がすこしだけ優しくなる。
誰も見ていない時間。
誰にも見せたことのない自分でいられる時間。

深く深呼吸をする。
口からふわりとこぼれた白い息は、夜の空に溶けていく。
星は見えない。雲が薄く空を覆っている。
でもそのくすんだ夜の色が、今日はなぜかとてもきれいに思えた。

「帰らなきゃって、思うのに」
私は小さく笑った。
その笑いは、強がりでも開き直りでもなくて、ただ、空に漏れた独り言みたいなものだった。

制服のポケットに手を突っ込んで、歩く速度を少しだけ緩めた。
いつもの道が、夜のせいで知らない街に見える。
歩くたびに、足音だけが一定の孤独を肯定してくれる。

人の気配のない夜道を歩きながら、ふと浮かんだのは母の顔だった。
叱られるだろうか。きっと心配するに決まっている。
でも、今夜だけは、誰にも会いたくなかった。
優しさでさえ、今の私には痛すぎる。
「どうしたの?」
もし誰かに訊かれたら、なんて答えるだろう。
たぶん、「大丈夫」って笑ってしまうと思う。
あるいは、何も言えずにうつむいてしまうかもしれない。

理由なんて、説明できるほど綺麗にまとまっていない。
ただ、今日が少し苦しかっただけ。
昨日でも、明日でも、きっと同じように苦しかった。

小さなことで泣きたくなる日がある。
何もされていないのに、存在を否定されたような気がして、
自分の価値がゼロどころか、マイナスみたいに思えてくる夜がある。

気づいたら、目の奥が熱くなっていた。
泣くほどのことじゃない。
そう言い聞かせたけど、涙はじんわり滲んでいた。
歩きながら拭うわけにもいかず、私はそのままうつむいて歩き続けた。

そのとき、自販機の光が視界の端に飛び込んできた。
ひときわ明るく見えたその光に吸い寄せられるように、私は立ち止まり、小銭を入れる。
温かい缶コーヒーを一本、取り出す。
プシュッと開けると、ほのかな湯気が立ちのぼった。

誰も来ないはずのベンチに腰を下ろす。
缶を両手で包みながら、そっと目を閉じた。

本当は、誰かとここに座っていたかった。
言葉なんていらない。ただ、黙って隣にいてくれるだけでよかった。
そんな夜も、きっとあっていい。
いや、あってほしかった。

たとえば、あの子。
最近、少しだけ話すようになったクラスメイト。
何気ない会話に、救われた日があった。
でも、伝える言葉を選んでいるうちに、心の奥はまた閉じてしまった。
期待すると、傷つく。
だから私は、いつも一歩手前で立ち止まってしまう。

目を閉じていると、遠くで車の音が聞こえた。
あとは風の音。
誰の声もない夜。
誰の期待も届かない時間。
そんな静けさが、ようやく心のざわめきを沈めてくれる。

気がつけば、涙がひと粒、頬をつたっていた。
自分が泣いていることに気づいたとき、少しだけ驚いた。
でも、それを止めようとは思わなかった。
この夜だけは、涙をこぼしてもいいと思えた。

空き缶をコートのポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がる。
ベンチの冷たさが背中に残っていた。
けれど、もう座り直す理由はなかった。

歩き出すと、制服のポケットの中でスマホが小さく震えた。
取り出すと、「柚木どこにいるの?」と通知が表示されていた。
誰からかは見なくても分かった。
画面の光が、やけに眩しく思えた。

指が一瞬だけ動いた。
けれど、私はすぐにその画面をスリープに戻した。
今はまだ、誰の声も届かない場所にいたかった。
誰かの優しさに触れてしまったら、きっともう歩けなくなる気がした。

見上げた空は、まだ夜のままだった。
重たい雲が空を覆い、星ひとつない。
でも、その鈍く沈んだ夜の色が、今日だけはきれいに思えた。

私は、もう少しこの夜にいたい。
朝なんて、まだ来なくていい。
この静けさの中でだけ、私は私でいられる気がする。

歩きながら、ふと立ち止まる。
自分の影が、街灯に照らされて細く長く伸びていた。
誰もいない夜道の真ん中で、私はひとりのまま、しばらく動けずにいた。

「……まだ、大丈夫」

ぽつりと漏れた声は、誰にも届かないまま、夜に吸い込まれていった。
けれど、その一言が、自分のための呪文みたいに胸の奥で響いていた。

たとえ何も解決していなくても、
たとえ明日も同じくらい苦しくても、
今夜、この夜に、ほんの少しだけ自分を許せた気がした。

私はまた歩き出す。
カツン、カツンと靴音が、眠る街にやさしく響いていく。
夜はまだ終わらない。