一方、父には久我家の外に愛した女性がいた。それが後妻の麗子。美琴は彼女の娘だ。
美琴が優れた才能を示したことから、父は千花に対する興味を失った。久我家で、稽古の時以外には使用人のような扱いを受けているのもその証拠だ。

「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 勝手口から井戸に出て水を汲もうとしていたら、声をかけてきたのは遠谷(とおや)蓮司(れんじ)だった。出入り商人の息子である彼は、ちょうど注文していた醤油や味噌を届けてくれたところだったようだ。

「……大丈夫よ、蓮司さん……なんでもないわ」
「そんなこと言わずに。あ、水汲みですよね。俺に任せてください」
「そんな、悪いわ」
「お気になさらず。これぐらいしか、俺に手伝えることはないんで」
「……ありがとう」

 千花につらく当たる人が多い中、蓮司は違っていた。彼に、ほんのりとした好意を持ってはいるが、言葉にしたことはない。千花が余計なおとを言えば、蓮司に迷惑をかけることになるから。

「これでも食べて、元気を出してください」

さっと水汲みをしてくれた蓮司は、千花の手に紙にくるまれた飴玉を落として言った。

「ありがとう、蓮司さん」

 夕食の支度を始める前に、もらった飴玉をそっと口に入れる。とろりと甘いそれは、千花の心を慰めてくれた。


 ◇ ◇ ◇



 その日の夜。