「ねえ西野さん、たまには三十点以上の点数見てみたくない?」
目の前に座る、まるで昨日まで高校生だったかのような雰囲気を纏う男性教師は、叱るを通り越して私に提案を試みた。
放課後の廊下には透明な白い光が差し、向かいに座る教師の色素の薄いふわふわした髪を染めている。
南校舎と北校舎を繋ぐ屋内渡り廊下。西日が差し込む窓側に、カフェのように机と椅子がいくつか配置され、そこでは今、ある化学教師と面談をしている。いや、もうこれは面談じゃない、先生からの説教、説得、もはやお願いだ。
二十五歳だというこの鈴根先生、いつもにこにこしている愛嬌のある顔立ちに、程よく生徒に馴れ馴れしくて距離を掴むのが上手い性格のせいか、教師によくある厳格さや威厳なんかがまるでない。
西野香澄。私が書いた名前の横に、先生の疲労が滲んだインクで27の文字。あと3点、惜しい。ただこの数点のおかげで、テスト後は毎回ふたりだけで話すことが出来ている。先生からしたら迷惑以外の何物でもない。
「もう何回目かなあ、これで」
勘弁してと言わんばかりに項垂れて机に突っ伏している鈴根先生。申し訳ないが赤ペンを持つその白く綺麗な手にしか目がいかない。クラスの運動部男子とはまた違う。
「数えてないですけど、とにかく今までのテストの回数と同じです」
「毎回ってことじゃん」
ため息と共に体を起こし、薄目で私を見てくる。その視線がぐさりと刺さる。
「先生パーマかけてるんですか」
「かけてない、天然」
急にテストから話を逸らされて拗ねたのか、素っ気なく言い放つと、ペンを持ったまま右手で頬杖をついた。少しだけ幼い顔つき、白い肌。首にかけてある名札を外せば、ただの大学生にしか見えない。
先生の言う通り、化学は毎回赤点。こんなに連続記録を更新しているのは私だけだと思う。もはやこれは卒業まで更新し続けるべきでは、とまで考えている。
「でも、他の教科はよく出来るんでしょ?なんで、なんで化学だけ…」
そりゃそうだよ、化学の赤点は譲れないから、他の教科で点取っておかないとまずいことくらいはわかっている。さすがに卒業と進学に関わりそうだ。
「物理も生物も平均以上じゃん、化学は?」
「ストレートも似合うと思いますよ」
「化学は?」
二十五歳と十七歳か。見た目だと大差ないのに、数字にすると確実に違う。八歳差なんてよくありそうなのに、立場が。
「先生結婚してるんですか」
「さあどうでしょう。俺も部活中じゃなければ教えるから職員室おいでよ」
「バスケ部でしたっけ」
「うん、副顧問だけど」
「じゃあ今度体育館に質問しに行ってもいいですか」
「いいけど、来たらその場で入部な」
冗談っぽく笑い、すかさず部活勧誘してくる。入部も悪くない、と思う自分も自分だと思うが。
「最近、部活でも不届き者が多くてさ」
「…不届き者?」
説得に飽きたのか、いきなり始まった先生の雑談。こういう、教師の仮面が外れる瞬間が、たまらなく体の芯を震わせる。
ていうか、部活でもって。あとは誰なんだろう。毎回面談している女子生徒、とか。
「辞める部員でもいるんですか?」
「病める部員がいるの」
関西でも聞かないような謎のイントネーションに首を傾げつつ、頭の中で無事、病めると変換されたころには、次のクエスチョンマークが浮かんだ。
「風邪ですか?」
「そういうことじゃなくて」
私の変換ミスかと思ったが、単なる先生の言い回しの問題だった。
「部内でカップルが急増してて。それで最近そこでいざこざがあって。しかも複数。顧問の笹木先生は雰囲気が浮ついてるって不機嫌だし。副顧問の俺、両方から挟まれてんの」
「…なるほど」
「さっき笹木先生、喝いれてやろうって職員室で張り切ってたし。俺もそろそろ行かないとだし」
「なんで、今そんな話に?」
「いや、結婚してるんですか、で思い出した」
片方だけ、軽く口角を上げて目を細める表情に、心臓ごと持ってかれそうになる。スルーされたと思っていた質問を拾い上げてくれたことが嬉しかった。答えては欲しかったけど。やっぱり、化学毎回欠点は譲れないな。
「…あー、でも私は、恋人がいるっていう点だけでも、その部員たちが羨ましいですよ。私も誰かと赤い糸で繋がってないかな」
「お、じゃあ入部する?」
「いや、譲りませんから入部しなくても大丈夫です」
脈略もない私の発言に、よくわかんないけどとにかく次のテストは頼んだよと念押しした先生は、補習プリントを置いて席を立った。
「先生、私化学嫌いじゃないんですよ」
「点数で示して欲しいよねそれ」
すみません、と返事をする代わりに、かなり攻めたことを言ってみようと思う。
「…もし、意図的に赤点取ってるって言ったら?」
「ん…え?」
まだ意味がよくわかってない先生と私の続きは、まだ空欄のまま。
目の前に座る、まるで昨日まで高校生だったかのような雰囲気を纏う男性教師は、叱るを通り越して私に提案を試みた。
放課後の廊下には透明な白い光が差し、向かいに座る教師の色素の薄いふわふわした髪を染めている。
南校舎と北校舎を繋ぐ屋内渡り廊下。西日が差し込む窓側に、カフェのように机と椅子がいくつか配置され、そこでは今、ある化学教師と面談をしている。いや、もうこれは面談じゃない、先生からの説教、説得、もはやお願いだ。
二十五歳だというこの鈴根先生、いつもにこにこしている愛嬌のある顔立ちに、程よく生徒に馴れ馴れしくて距離を掴むのが上手い性格のせいか、教師によくある厳格さや威厳なんかがまるでない。
西野香澄。私が書いた名前の横に、先生の疲労が滲んだインクで27の文字。あと3点、惜しい。ただこの数点のおかげで、テスト後は毎回ふたりだけで話すことが出来ている。先生からしたら迷惑以外の何物でもない。
「もう何回目かなあ、これで」
勘弁してと言わんばかりに項垂れて机に突っ伏している鈴根先生。申し訳ないが赤ペンを持つその白く綺麗な手にしか目がいかない。クラスの運動部男子とはまた違う。
「数えてないですけど、とにかく今までのテストの回数と同じです」
「毎回ってことじゃん」
ため息と共に体を起こし、薄目で私を見てくる。その視線がぐさりと刺さる。
「先生パーマかけてるんですか」
「かけてない、天然」
急にテストから話を逸らされて拗ねたのか、素っ気なく言い放つと、ペンを持ったまま右手で頬杖をついた。少しだけ幼い顔つき、白い肌。首にかけてある名札を外せば、ただの大学生にしか見えない。
先生の言う通り、化学は毎回赤点。こんなに連続記録を更新しているのは私だけだと思う。もはやこれは卒業まで更新し続けるべきでは、とまで考えている。
「でも、他の教科はよく出来るんでしょ?なんで、なんで化学だけ…」
そりゃそうだよ、化学の赤点は譲れないから、他の教科で点取っておかないとまずいことくらいはわかっている。さすがに卒業と進学に関わりそうだ。
「物理も生物も平均以上じゃん、化学は?」
「ストレートも似合うと思いますよ」
「化学は?」
二十五歳と十七歳か。見た目だと大差ないのに、数字にすると確実に違う。八歳差なんてよくありそうなのに、立場が。
「先生結婚してるんですか」
「さあどうでしょう。俺も部活中じゃなければ教えるから職員室おいでよ」
「バスケ部でしたっけ」
「うん、副顧問だけど」
「じゃあ今度体育館に質問しに行ってもいいですか」
「いいけど、来たらその場で入部な」
冗談っぽく笑い、すかさず部活勧誘してくる。入部も悪くない、と思う自分も自分だと思うが。
「最近、部活でも不届き者が多くてさ」
「…不届き者?」
説得に飽きたのか、いきなり始まった先生の雑談。こういう、教師の仮面が外れる瞬間が、たまらなく体の芯を震わせる。
ていうか、部活でもって。あとは誰なんだろう。毎回面談している女子生徒、とか。
「辞める部員でもいるんですか?」
「病める部員がいるの」
関西でも聞かないような謎のイントネーションに首を傾げつつ、頭の中で無事、病めると変換されたころには、次のクエスチョンマークが浮かんだ。
「風邪ですか?」
「そういうことじゃなくて」
私の変換ミスかと思ったが、単なる先生の言い回しの問題だった。
「部内でカップルが急増してて。それで最近そこでいざこざがあって。しかも複数。顧問の笹木先生は雰囲気が浮ついてるって不機嫌だし。副顧問の俺、両方から挟まれてんの」
「…なるほど」
「さっき笹木先生、喝いれてやろうって職員室で張り切ってたし。俺もそろそろ行かないとだし」
「なんで、今そんな話に?」
「いや、結婚してるんですか、で思い出した」
片方だけ、軽く口角を上げて目を細める表情に、心臓ごと持ってかれそうになる。スルーされたと思っていた質問を拾い上げてくれたことが嬉しかった。答えては欲しかったけど。やっぱり、化学毎回欠点は譲れないな。
「…あー、でも私は、恋人がいるっていう点だけでも、その部員たちが羨ましいですよ。私も誰かと赤い糸で繋がってないかな」
「お、じゃあ入部する?」
「いや、譲りませんから入部しなくても大丈夫です」
脈略もない私の発言に、よくわかんないけどとにかく次のテストは頼んだよと念押しした先生は、補習プリントを置いて席を立った。
「先生、私化学嫌いじゃないんですよ」
「点数で示して欲しいよねそれ」
すみません、と返事をする代わりに、かなり攻めたことを言ってみようと思う。
「…もし、意図的に赤点取ってるって言ったら?」
「ん…え?」
まだ意味がよくわかってない先生と私の続きは、まだ空欄のまま。
