春の雨が、昼過ぎから降り出した。

教室の窓の外では、にじんだ桜がぼんやりと揺れている。
昼休み。静かな教室で、結衣は開いた教科書をぼんやりと見つめていた。

(昨日の放課後のこと――忘れようとしても、音が残ってる)

悠真の言葉。
乃々香の告白。
そして、自分が返した言葉。

何も、言えなかった。

その沈黙が、何よりも雄弁だったのだと思う。

「白石さん。……って、結衣、考えごとしてた?」

ふいに声がして、はっと顔を上げると、悠真が立っていた。
雨で前髪が少し濡れていて、でもその笑顔は変わらない。

「……ううん。ぼーっとしてただけ」

「そっか」

それだけの会話。
だけど、その沈黙の後ろには、もう“元どおり”には戻れない距離があった。

「放課後……今日も、音楽室行く?」

そう問いかけた悠真の声は、どこかおそるおそるだった。

結衣は一度だけ目を伏せ、そして、ゆっくりうなずいた。

「……行く。私、ピアノ、弾きたいから」

その“理由”が、自分のためか、彼のためか。
それは、まだ結衣自身にも分かっていなかった。



放課後、旧音楽室。

しん……と静まり返ったその場所に、今日はひとつの音も響いていなかった。

結衣はピアノの前に座りながらも、鍵盤に触れられずにいた。

「今日の曲は……ないの?」

悠真が、ぽつりとたずねる。

「……あるよ。でも、弾きはじめたら、止まらなくなりそうで」

「止まらなくなっていいじゃん」

「……悠真くんは、乃々香さんのこと、どう思ってる?」

静かな声で、結衣が問うた。
悠真は驚いたようにまばたきをして、しばらく黙った。

「昔から一緒にいて、よく笑って、泣いて、励まされて……大事な人だよ」

「……うん」

「でも、それと“好き”っていうのは、……まだ、違う気がするんだ」

悠真の言葉に、結衣の指が、ようやく鍵盤の上に置かれる。

――ぽん。
ひとつ、音が鳴る。
その音が、まるで答えのようだった。

「私……悠真くんといると、音が変わるの。優しくなったり、苦しくなったり……自分でも、びっくりする」

「俺も。結衣の音が、変わったの、わかるよ」

まっすぐな目で見つめられて、結衣は目をそらした。

まだ、言えない。
自分の中に芽生えてしまった、この想いを。

けれどきっと、悠真も気づいてしまった。
“ふたりとひとり”の距離が、もう同じじゃないことに。

音楽室の外では、まだ雨が降っていた。

けれど、結衣の心には、静かに陽が射しはじめていた。