部屋の重苦しい空気がようやく落ち着いたかに見えたそのとき。
 もう一人、座の奥から口を開いた男がいた。

 高遠 雅弥(たかとおまさや)
 柚羽の婚約者として父が選んだ相手だ。政財界に人脈のある、高遠家の次男。整った面立ちの青年で、若い巫女達は彼が屋敷に来るとあれこれ理由をつけて話をしたがっていた。しかし最近は事業が忙しいとかで、顔を見せることは少なくなっていた。
 柚羽の任命式も仕事で不在だったが、沙耶の死を聞き知って急ぎ駆けつけたらしい。

「御神楽家の当主には大変申し訳ないのですが、柚羽さんとの婚約はなかったことにさせていただきたいのです」

 その言葉に、父が小さく呻く。

「っ、高遠君それは……困る。君との婚姻は、当家と高遠家の繋がりを――」
「承知しております。しかし、世間体というものもございます。婿入りだとしても「死の巫女」を妻にするなど、高遠家が許すはずはありません。当主様も私の立場をご理解いただけるかと」

 言葉は丁寧だったが、語調には決意がこもっていた。
 柚羽は呆然と立ち竦む。

(雅弥(まさや)さん……)

 政略結婚であるのは理解していたが、優しい雅弥とはいずれ理解し合い幸福な家庭を築けるものだと勝手に思い込んでいた。
 けれど雅弥は噂だけを信じ、何の躊躇もなく柚羽を切り捨てようとしている。
 そんな中、紫乃がおずおずと雅弥に声をかけた。

「……それなら、私では駄目ですか?」

 柔らかい声だった。だが、それが何を意味するかは明白だった。

「なるほど。紫乃様が妻となるのであれば、何の問題もありません」

 その声には、どこか前々から期待していたかのような含みすらあった。
 高遠家から融資を受けている父が反論する余地はなく、紫乃の申し出にすがるしかなかった。
 紫乃はさらに続ける。

「姉様のことは私が支えます。今はお力が落ちているだけです。少しの間、私が代わりに神楽を務めさせていただけませんか?」

 誰も異を唱えなかった。

(この家に私は必要なくなったんだわ)

 柚羽は静かにきびすを返し、自室へと戻る。それから幾ら待っても呼びに来るものはいなかった。

***

 その夜、柚羽は母の遺影の前に座っていた。
 母が亡くなったのは、今から五年前。
 原因不明の病だと医師から聞かされた。
 最後の数日は床に伏したままだった。
 だが思い返せば、不自然な点がある。

「柚羽、最近お香を変えたの?」

 あのとき、母はそう言ったのだ。
 まだ布団の上半身を起こせていた頃。穏やかな表情で、枕元に座った柚羽に声をかけた。

「いいえ、お母様。いつものものです」

 そう答えた記憶がある。
 紫乃が母の部屋に花を飾った直後のことだった。

「……そう。なんだか少し、胸が重たくなるような……そんな香りがするのよ」

 それは呟くような声だったが、耳に残っていた。

 その数時間後から、母は急に咳き込み――死んだ。

 当時は誰も気にしなかった。だが今になって、あの「香り」が何だったのかやけに気になる。

(どうしてこんなこと、思い出したんだろう……そうだ。沙耶のご遺体!)

 血臭の中、僅かにあの香りがしていた。でもそれだけだ。
 ふと、あの香りが室内に漂った気がした。