「はぁ……はぁ…………」

 家に着くなり、靴を脱ぎ捨てて脇目も振らずに二階へ向かう。
 自室へ飛び込んで着の身着のままベッドに突っ伏すと、枕に顔を(うず)めて大きく息を吸い込んだ。慣れた自分の匂いが鼻腔をくすぐって、持て余していた感情の昂ぶりを少しずつ宥めてくれる。暑い夏の日にようやくありつけた冷房の効いた室内で、全身に帯びた熱がじんわり冷気と解け合う感覚を思い出した。
 だけど、すぐに苦しくなって顔を横に向ける。
 枕と接する耳がやけに鼓動を拾うのは、息急き切って帰ってきたのだから当然だろう。でも、それはただの要因であって原因ではないのだと、やけに理屈っぽい反論が聞こえた気がした。出どころは、いまだ平常より大きな収縮を繰り返す心臓だ。
 その訴えに耳を傾けてしまったからだろうか。
 ——その見た目だから、そんなことが言えるんです。
 ——最初から優勝が決まっている人には分からない。
 身を揺らす心音と入れ替わるようにして、つい先ほどこの口から放たれたばかりの言葉が堰を切ったように飛び交い始めた。今が好機とばかりに躍動するそれは、刃物さながらの鋭さで確実に私の内側を蝕んでいく。
 枕で顔を挟むようにして耳を塞ぐけれど、どうしたって聞こえてしまうその言葉に、心臓がまたきゅっと強く縮まった。
 どれほどの時間、耳を塞いでいたのかは分からない。
 散々私を痛めつけて満足したのか、いつの間にかなにも聞こえなくなっていた。
 ひどく消耗していることが自分でも分かる。筋肉がいやに疲れていて、体のどこにも力が入らない。

「なんで、あんなこと……」

 まるで寿命を迎えた花のような声だ。
 私が悪い。そんな悔恨(かいこん)の念は先輩の前でたがが外れた瞬間から心のどこかに在った。言葉としてはおかしいけれど、口を開いた時点ですでに後悔は生まれていて、一つずつ溜まった(おり)を吐き出していくたびにそれは膨らむ一方だった。
 それなのに、止められなかった。
 ちがう。
 止めたくなかったのだ。
 だって、悔しい。
 思春期を迎えてからというもの、自分の見た目に対する劣等感と嫌悪感は募っていくばかりだった。食事を減らしても変わらない体重。運動すればするほど、しっかりしていく体つき。すぐに荒れてしまう肌なんて、何度剥がしたいと思ったことだろう。
 鏡を見るのが辛くなってからは、フィルターを通したインカメラで身だしなみを整えるようになったし、頑固な脂肪を切り取りたくてハサミを手にしたこともあった。
 それでもなんとか無傷なままでいられたのは、『努力は裏切らない』と画面の向こうでたくさんの人が口を揃えるからだ。私が唯一頼ることのできたインターネットの世界。そこには私と同じように外見のコンプレックスを抱えた人や、それを乗り越えて夢を叶えた人が数え切れないほど存在していて、画面を眺めているうちにいつしか私の心の支えになった。
 彼らに倣って食事の内容を見直した。体質に合わせたエクササイズ動画を見漁って、基礎化粧品にいたっては肌質を含めて一から調べ直した。
 相変わらずほんの少しの変化に一喜一憂する日々は続いたけれど、『なにもしないよりはマシだ』と自分に言い聞かせて努力を続けたつもりだった。
 それを、たった一言で踏みにじられた気がしたのだ。私のやってきたことはただの悪あがきなのだと、実を結ばない努力もあるのだと、突き付けられた気がした。
 それが悔しくて、悲しくて、たまらなかった。

「先輩には、絶対分からない……」

 突如、居るはずのない高石先輩と目が合った気がして心が(すく)む。
 あの強い眼差しは私の言葉の根底にある、私ですら気づいていない欲望を丸裸にしてしまいそうで居心地が悪い。
 ずっとなにかに怯えているのに、どうすればいいか分からなくて、曖昧な違和感と鮮明な不快感が心を支配している感覚。その奥に潜む“なにか”を先輩に見られた気がしていたたまれなかった。
 せっかく、知ることができたのに。
 意外と喋るところも、律儀にお礼をしてくれるところも、他人とは一定の距離を保ちたいところも。「超塩対応」の一言では知り得なかった本当の先輩を、たくさん知ることができたのに。
 それを木っ端微塵にしたのは紛れもなく私だ。では、大人しく謝ればよかったのだろうか。悪いと思ってはいるけれど、それでいて非を認めたくない本音を隠して、「私がすべて悪かった」と謝るのが正しかったのだろうか。今の私には分からない。

「縁葉? 起きてる?」

 淡々としたノック音とともに、部屋の外から私の名前を呼ぶ声がした。お母さんだ。
 薄闇の中に、閉じられたままの木製の扉がぼんやりと浮かび上がる。
 いつの間にか目を瞑っていたらしい。ずっとあれこれと考えていたから寝入ったつもりはないけれど、では覚醒していたかと問われるとちょっと分からない。

「縁葉、寝てるの?」
「んー、起きてる……」

 言いながら、おもむろに上体を起こした。

「起きてるなら、夕飯食べなさい。お父さんが残してくれてるから」

 畳み掛けるように続いた言葉が、ずっしりと重い頭に響く。
 一言一言が鮮明に鼓膜を突き抜けるお母さんの声は、今の私の身体には刺激が強すぎる。

「……いらない」
「ダメ。あんた、お昼もサラダだけだったでしょ? ちゃんと食べなさい」

 返事をする間もなく、階段を下りる足音が部屋の空気を揺らした。
 食べる気になれない。そう言い返す隙を与えてくれないのは、お母さんの中で私が夕飯を食べることがすでに決定事項となっているからだ。体型管理に本腰を入れるようになってからはたびたび発生するやり取りで、強制的に会話を切り上げないと私が食べないことを分かっているのだろう。
 このまま部屋にこもるのは無駄な抵抗だ。この部屋の扉には鍵が付いていないから、過去の経験からして次は強硬手段に出ることも目に見えている。
 今は突入してきたお母さんと言い合う気力もない。大人しくリビングに向かう選択肢以外、私には残されていないのだ。

「お腹、空かない……」

 のそのそとベッドから抜け出して、重い足取りで入口へ向かう。
 そういえば、部屋が暗い。レースカーテンを抜けた街灯の明かりですら眩しく感じられたから、電気がついていないことに気づかなかった。
 そんな状態だから覚悟して扉を開けたというのに、廊下の電気が消えていて拍子抜けしてしまった。