駅まで二十分ほどの距離を私たちは無言で歩いた。
 お礼を言われたこともあって、先輩のそばを歩くことに最初ほど抵抗は感じなかったけれど、その代わり『一番大事』という言葉が頭を支配していたから、会話を終えてから駅に着くまでの記憶が全くない。
 しかも、なんだか考えることに疲れてしまって、改札を通る人たちをぼーっと眺めていたから、
 
「まだ時間ある?」
「はい……——えっ?」

 なんて調子で、またやってしまった。
 雑踏というには物足りないまばらな人の気配と、駅特有の無機質な騒音。それらを知覚したときには、すでに先輩は改札口の前を通り過ぎて駅に併設されているコンビニへ足を踏み入れるところだった。
 やっぱりあとを追うしかなくて戸惑いながらも店に入り、奥まで進む。
 先輩はペットボトル飲料が並ぶガラス扉の前にいて、ちょうど扉を開くところだった。そのまま迷いなく水のペットボトルを一本取り出すと、扉を閉じるや否や私の目を見てこう言った。

「なにがいい?」
「えっ? なにがいい……とは?」
「お礼。生徒手帳の」

 予想外の展開に、『お礼』の意味をすぐに理解できなかった。数秒かかってようやく咀嚼できたと同時に、私は大きく頭と両手を振る。

「お、お礼なんて大丈夫です! ぐ、偶然拾った、だけなので」
「選んで」
「だから——」
「早くしないと、激辛スナックと酸っぱすぎるグミの二択になるけど」
「げ、きから……」

 辛いのも酸っぱいのも食べられるけれど、それはごはんに関する好みであってお菓子はどちらかというと甘いほうがいい。だから、どちらも買ってもらったところで扱いに困る。
 これは欲しいものを言わないと。ものすごく躊躇われるけれど、なにも言わなければきっと先輩は本気でどちらかのお菓子を買うつもりだ。

「あの、じゃあ、えーっと……み——」
「水は禁止」
「えっ」
「お礼し甲斐がないから、水以外」

 驚いた。どうして水を頼むことが分かったのだろう。
 確かに純粋に欲しいものかと言われたら少しちがう。あまり高価なものは気が引けるという遠慮、お菓子は我慢しなくちゃという理性、そして喉が乾いているという事実。さまざまな事情が含まれたうえでの『水』だった。
 でも、ちょっと笑ってしまいそうになる。だって、お礼で選ぶものに制限をかけられたのなんて初めてだ。激辛スナックも酸っぱすぎるグミも食べ物だったし、先輩の中でお礼は固形物という決まりでもあるのかもしれない。

「じゃあ、アイス……とか……?」

 今度こそ、嘘偽りない好物を口にする。

「いいよ。好きなの選んで」
「ありがとう、ございます……」

 コンビニから出ると、先輩はなにも言わず改札口とは反対方向へ進み始めた。
 次になにが起こるのか考えても分からないから、私はもう考えることを放棄して、ただ先輩についていく。というより、先輩が手に提げているビニール袋の中にアイスが入っているから、ついていく以外の選択肢がなかった。
 先輩は私のアイスの他に先ほどの水とおにぎり二つ、そしてレジ横にあるから揚げを買った。
 夜ごはん前の軽食にしては量が多い気がするけれど、クラスの男子も授業の合間にお弁当を食べてお昼休みに食堂にいるところを見たことがあるから、おかしなことではないのかもしれない。私は一人っ子だしお父さんでは同年代の男子とものさしがちがいすぎるから、男子の生態系をあまり知らない気がする。
 それにしても軽食でこれだけ食べてこの体型だなんて、先輩の体質が心底羨ましい。私なんて食事や運動に気をつけていても、すぐにとんでもない体重を叩き出してしまうというのに。
 大好きなアイスだって極力我慢している。今日は行き帰りが徒歩だからまだ許すことができたけれど、食事前のこの時間は水で空腹を紛らわすのが通常だ。
 やがて先輩は駅のロータリーにあるベンチに腰を下ろすと、立ち止まった私を「座らないの?」とでも言いたげな表情で見上げた。ここで空いているのは先輩の隣だけ。少し離れたベンチなら空いているけれど、そこに行くのがおかしいことぐらい私にも分かる。
 私は意を決してベンチの前まで進むと、「失礼します」と断ってからできるだけ距離を取って隣に腰を下ろした。

「はい」
「あ、ありがとうございます」

 差し出された先輩の手から慌ててアイスを受け取るも、それきり会話が途切れてしまった。
 歩いているときとちがって、今は正真正銘、先輩が隣にいる。ペットボトルの水が骨ばった喉を鳴らすのも、から揚げにかぶりついたときの歯ごたえも、先輩の一挙手一投足が空気やベンチを伝ってくるようで全く落ち着かない。
 私は縋るようにアイスのフィルムに手をかけた。
 柔らかい容器を気遣いながら慎重に剥がすと、白くて丸いアイスが二つ姿を現す。
 個人的に寒い季節に食べるとより一層美味しく感じられるこれが、一番のお気に入りだ。あえて暑い時期は我慢して寒さとともに味わうのが我流だったりする。見るだけで癒されるフォルムも愛おしい。
 付属のピックでアイスの一つを刺すと、白い粉が落ちないように容器ごと口元まで運んでパクリとかじりつく。外側を覆うもちもちとした感触に唇が包まれて、ひんやり冷たいバニラの甘みに舌が踊る。
 美味しい。ずっと気を張っていた分、じんわりと全身に染み渡って身体の緊張が溶けていくのが分かる。馴染ある見た目と味が、人気者の先輩と並んで座るという非日常の生んだ気疲れを癒やしてくれるようだ。

「普通に食べるんだな」

 二つ目のアイスを飲み込んだところで、先輩がそう口にした。

「えっ?」
「ベンチに座っても固まってたし、食べないつもりなのかと思った」
「そ、そんなこと……」
「見知った相手じゃないと、緊張して食べ物が喉を通らない人もいるだろ。実際、昨日も喋りたくなさそうに見えたから、そうなのかと思って。さっきも声かけるか一瞬迷った」
 
 そこまで気を遣わせてしまったことに、みるみる罪悪感が募っていく。
 異性の私に対する認識は否定的なもの一色なのだとばかり思っていた。私がどんな人間か知らない初対面の男子ですら、少し話せばすぐにこの挙動不審に怪訝な表情を浮かべる。
 そういうものだと思っていたから、先輩が私の様子をうかがっていたなんて微塵も思わなかった。
 そういえば——と脳裏を過ったのは、懐かしさの欠片もないある人の顔。
 ある日、なんの前触れもなく『おれのこと、きらい?』と訊いてきたのだ。『あんまり話してくれないから』と続けるその人に勇気を出して男子が苦手だと伝えたら、『よかった。おれ、出井ともっと話したかったから』なんてクシャッと細められた目。
 あのときは最後の一言に気を取られて気づかなかったけれど、きっと彼も先輩と同様の印象を私に抱いていたのだろう。自分のことに必死で、彼にも申し訳ないことをしてしまった。
 でも、高石先輩は彼とはちがう。超塩対応で有名な人。だから、その意外な一面を見てどうしてもこう言わずにはいられなかった。

「喋りたくないのは、先輩のほう……では……?」
「え、なんで俺?」
「え……、だ、だって……」

 あまりにも率直な先輩の問いかけに、一瞬面食らってしまった。

「えっと、その……、あんまり女の子に心を開かないって、聞いたことがあって……?」

 しどろもどろ二割増のせいで、事実なのに言い訳がましく聞こえてしまう。

「ああ。……まあ、そうだな。相手は選んでるかも」
「選んでる……?」
「聞こえは悪いけど、無闇に近づいて来ないやつ? それが俺にとって心地いい距離感」
「そ、れは……」

 他人とは一定の距離を保ちたいということなのだろうか。
 男子を避けて通る私なら、確かにそれに当てはまっていると言えなくもない。
 でも、

「……わ、私ですよ?」
「ん?」
「せ、先輩が今、話してるの……私ですよ? 嫌ですよ、ね……?」
「え? なにが嫌?」
「えっ……と、だから、私とこうして関わるのが……?」

 考え込むように、先輩がほんの数秒目を逸らす。

「ごめん、意味が分からない。どういう意味?」
「えっ、と……」

 真正直な言葉と眼差しに、思わず逃げ出したくなる。
 昨日今日でなんとなく感じたこと。その眼差しと等しく、先輩は言葉も真っ直ぐだ。自分の気持ちをはっきりと断言できる、言い淀んでばかりの私とは正反対の人。
 淡白に聞こえるけれど声を荒げるわけではないからか、責められているようには感じない。本当に疑問に思っているのだろうことが伝わってくる。
 だからこそ、私は言葉に詰まってしまった。
 大柄で冴えない私より、莉央ちゃんが隣にいたほうが嬉しいはず。先輩に限らず、男子に対してはずっとそう思ってきた。それが当たり前すぎて、改めて言葉で説明するとなると上手く言える気がしない。

「なんか、ずっと身構えてるよな」
「え……」
「俺、怖い?」
「こ、わ……」

 『くない』とは言い切れなかった。

「だ、男子の前だと、どう振る舞っていいのか分からなくて……」
「ああ、なるほど。でも、なんで私“と”関わるのが嫌? それならむしろ、そっちが俺と関わるのが嫌なんじゃないの?」
「そ、れは……」

 確かにそうなのだけれど。
 でも、先行するのは私の感情じゃなくて、男子の私に対する認識だ。だって、私は——

「私は……莉央ちゃんみたいに、かわいくないので……」
「莉央……って、笹本?」

 私はこくりと一つ頷いた。

「なんで笹本?」
「幼馴染、なんです。家が……近所で、保育園のころから一緒に遊んでいました。小学校も学童も、中学校まで一緒で」
「ほぼ姉妹(きょうだい)だな」
「あ、はい。そういう子は近所に何人かいたんですけど、その中でも私は莉央ちゃんに、よく、懐いていたから……」

 先輩の言う通り、かつての私は自分と同じ一人っ子な莉央ちゃんを本当の姉だと思って慕っていた。親に莉央ちゃんと同じ服をねだったこともあるし、ランドセルの色も莉央ちゃんと同じにした。莉央ちゃんみたいに髪を伸ばして、結び方だってお母さんに練習してもらった。
 そうして四六時中ついて回る私を莉央ちゃんは一度も拒絶しなくて、むしろ誰よりもかわいがってくれた。

「でも……次第に、周りから容姿のことで比べられるようになったんです。特に莉央ちゃんの真似をしていた私は、比較対象になりやすかったみたいで……。その……、『莉央ちゃんのほうがかわいい』って直接的な言葉も、たくさん……ありました」

 ——あれ、よりはちゃんだけ?
 初めてそう言われたのはいつだったか。
 次第に私の存在は莉央ちゃんがいないと成立しなくなっていった。それなのに一緒にいれば『よりはちゃんは大きいね』と比べられてしまう。まだ本質的に理解していたわけではないけれど私はそれを『悲しい』と心のどこかで感じていて、自分が優劣で言うところの「優」ではないこともなんとなく察していた。
 さらに言えば、目立つ子と一緒にいたいタイプの女の子にとって、莉央ちゃんに特別かわいがられている私の存在は面白くなかったのだろう。露骨に対抗意識を燃やされたり、陰で悪口を言われたりすることもあった。
 そんな彼女たちが手のひらを返したのは、誰かを好ましく思う気持ちに明確な名前がつき始めた小学校中学年のころだった。

「モテる莉央ちゃんを、女の子が妬むようになっちゃって。男の子からは『莉央ちゃんに好きだって言ってほしい』なんて、代理告白を頼まれるようになるし。……まさに、板挟みって感じでした」

 そんな折、私のクラスに一人の男の子が転校してくる。小学五年生に進級したタイミングだった。

「私、その子のこと好きだったんです。偶然、その子の最初の席が私の隣になって、溌剌としたその子と話すのがすごく楽しくて。席が離れてからも、ずっと目で追うようになってた」

 誰かを好きになるのは保育園の初恋以来だった。
 周りの女の子と比べて恋愛に疎いほうだったから、好きな人を訊かれたらなんとなく人気な子を答えるぐらいで、しっかりと恋心を認識したのはあの子が本当に久しぶりだった。

「『ああ、好きなんだ』って、子どもながらにちゃんと認識した相手でした。でも……」

 言葉に詰まってしまい、ゴクリと喉を鳴らして一度唾を飲み込んだ。

「その子が転校してきてから数ヶ月経ったころに、学童に途中入学してきたんです。そこで、その子が初めて莉央ちゃんと話して……、はっきりと分かったんですよね。『あ、恋に落ちた』って……」
 
 これまでずっと私を真っ直ぐ見てくれていたその子の眼差しが、その瞬間から莉央ちゃんばかりを追うようになった。どれだけ私の目がその子を追っても、私の視界で彼は絶えず莉央ちゃんを見つめている。
 教室で私に声をかけるのは、莉央ちゃんのことがもっと知りたいから。
 帰り道で私の名前を呼ぶのは、莉央ちゃんがいることを期待しているから。
 私はちゃんとあの子を見ていたのに、名前を呼ばれても目の前に立っていても彼の中で私はいないも同然だった。
 そんな状態がしばらく続いた、ある日——

「『莉央ちゃんが好きだから返事が欲しい』って、その子が私の目の前で莉央ちゃんに告白したんです……」

 『悲しい』とはっきり感じた瞬間だった。
 近所のおばあさんが飼っていた猫が死んでしまったり、大切なおもちゃが壊れてしまったり、悲しいと思う瞬間はこれまでにもたくさんあった。
 だけど、このとき感じた悲しみはそれらとは少しちがう。
 猫もおもちゃも誰かからその存在を大切に思われていた。存在していることを喜ばれていた。だから、その存在が消えたら悲しい。それは自然な感情の流れだ。
 対して、私の存在はすでにあの子の中から消えていた。それを自覚した。だけど、誰も悲しんでくれない。誰も悲しんでくれないなら、私が自分で悲しむしかない。その孤独感が私は一番辛かった。
 それならまだ他の男の子みたいに、代理告白を頼まれるほうがマシだったとすら思う。最終目的地は莉央ちゃんだとしても、その道中に私が存在しているという事実が残るほうが幾分か救われる。
 きっとあの子は私が莉央ちゃんの隣にいても告白に支障はないと考えたんじゃない。もはや存在していなかったのだ。摩訶不思議な道具で透明人間になったかのように、告白をしたときの彼の視界には莉央ちゃんただ一人しか存在していなかった。

「莉央ちゃんは私の気持ちを知っていたので、断ったんですけど。それからは、なんか……、ネガティブな考えばっかりが浮かぶようになっちゃって……」

 私のほうがその子と関わった時間は間違いなく長いのに。
 教科書を忘れた彼に見せてあげたことだってあるし、苦手なにんじんが給食で出たときは食べてあげたことだってある。
 ——それなのに私は消えちゃうんだ。
 誰かの瞳から自分の姿が消える瞬間なんて、もう二度と目の当たりにしたくない。
 莉央ちゃんを見るなとは言わないから、せめて私といるときは私を見てほしい。
 私の名前は私を呼ぶためだけに使ってほしい。
 ずっと、そう叫びたかった。
 でも、私はいつも叫ぶことができなくて込み上げては飲み込んでを繰り返しているうちに、
 ——私が私だからいけないんだ。
 と叫びが私自身を攻撃し始めた。
 一度そう思ってしまうと、どうしたって自分の欠点ばかりに目が行ってしまう。
 鏡に限らず姿が映るものを前にすると、私の意思の外側で勝手に自分に対する審査が始まってしまうのだ。全体的なシルエットに腕や脚の太さ、輪郭や顔の作り、そして肌や髪の質。それらすべての評価結果が「要改善」。
 最終的に自分自身に下されるのは、こんな私では男の子の前には立てないという総評。さらに、これが正しい在り方だとでも言うように提示される、私が慕って止まなかった一人の女の子の姿。

「……今の私じゃ、だめなんです。莉央ちゃんみたいにならないと。今の私じゃ、誰も存在を認めてくれないから……」

 残酷なことにどれだけ私が自分を恥じたところで、実体が消えるでもしない限り、男子と関わる機会は必然的にやってきてしまう。それが嫌で、逃げるように男の子を避け続けていたら、次第に関わり方が分からなくなってしまった。
 残ったのは、男子に対する苦手意識と凄まじい劣等感。

「……だから、こんな醜い私と一緒にいるのは、嫌だと思って……」
「…………」

 言って、しまった。一果にも紗良にも話していない、私のもう一つの苦い思い出を。苦い、始まりを。それを今、知り合って間もない高石先輩に話すことになるなんて。
 隣を向くことができない。
 こんな重苦しい話を聞いて、先輩はなにを思ったのだろう。『たったそれだけのことで』なんて言われたらと思うと、怖くて先輩が見られない。
 話している間も今もずっと視線を感じているから、こちらを向いていることは分かるけれど。

「朝、目が覚めたときに——」
「……え?」

 あまりの突拍子のなさに、あっさりと顔を横へ向けてしまった。

「自分じゃない誰かになっていたら——って、思う?」
「えっと、まぁ、そうです……ね」
「それが、笹本?」
「……はい」

 先輩は遠くを見るように、ベンチの後ろ側についた両手に上体を預けた。

「見た目が笹本になっても、中身は……名前は?」
「え、名前?」

 先輩が顔だけを動かして、じっと私を見つめる。ああ、私の名前か。

「出井縁葉です……」
「笹本の外見が欲しいってことだよな?」

 数拍空いて、私は首肯した。

「それって中身は出井のままだけど。満足?」
「それは……」

 莉央ちゃんは中身だっていい。それは私が慕っていることがなによりの証拠だ。見た目の良さを鼻にかけたり他人を見下したりなんてしない、謙虚で勤勉で素直な女の子。非の打ち所がない、私のお手本。
 叶うなら、中身だって莉央ちゃんになりたい。それはずっと思っていたことだ。もちろん、生まれ持った性格もあることは分かっている。莉央ちゃんのご両親だって優しくて温かい人だから、その遺伝子を存分に受け継いでいるのだろう。
 でも、絶対にそれだけじゃない。ありのままの自分でいられる環境だったからこそ、優れた遺伝子を無駄にすることなくここまでこられたのだ。誰からも受け入れられて、認められて、尊敬される。「あなたがいい」と求められる。そんな環境にいたからこそ、今の莉央ちゃんが在る。
 だから、一番大切なのはきっとそこじゃない。

「まずは、見た目を変えないと……。それで、莉央ちゃんの見た目になれば、もっと自分に自信を持てて……。そうしたら、莉央ちゃんみたいな……」
「笹本みたいな中身になる?」
「そ、うですね」
「それ、“出井縁葉”はどこいった?」
「わたし、は……」

 『いらないので』——その言葉は続かなかった。

「存在を認めてもらいたいのは、“出井縁葉”なんじゃないの?」

 落ち着いた先輩の言葉が、耳の奥で硬くこだまする。

「外も中も笹本になった時点で、もう“出井縁葉”は存在しなくなってるけど——」

 ヘッドフォンで音量を上げすぎたときのように、先輩の声がグワングワンと頭の中で響いて痛い。

「“出井縁葉”は、それでいいわけ?」

 突然、すべての音が遮断されてしまった。
 ヘッドフォンの接続が切れた瞬間と同じ、唐突に踏み入れた無音の空間に戸惑う感覚だけが残る。

「でも、莉央ちゃんにならないと……」

 無音の果てから、トク……トク……とかすかな鼓動が聞こえ始めた。

「なりたければ、なればいいけど。結局それって、笹本しか存在を認められてないことにならない?」
「…………」
「“出井縁葉”の存在を認めてないのは、“出井縁葉”自身なんじゃないの?」
「…………」

 ドク……ドク……と次第に大きくなるその音に、思考が呑み込まれそうだ。
 いやだ、いやだ。

「あのさ」

 黙り込んだ私を見かねたのか、先輩が言葉を重ねる。
 「超塩対応」だなんて、誰が最初に言い出したのだろう。

「そんなに外見ばっか、気にしなくていいんじゃない?」

 いやだ、聞きたくない。聞いてはいけない。

「…………」

 なにも言えない私に、先輩はこう続けた。

「外見なんて、ただの飾りなんだから」

 瞬間、眼の前が真っ暗になる。同時に、全身から血の気が引いていくのが分かった。正常な思考の流れる回路がすべて途切れて、まるで線路の分岐器みたいに感情の流れる回路が優先されていく。

「先輩はその見た目だから、そんなことが言えるんです……」

 気がついたときには、心がそのまま声に乗っていた。

「そんな、『見た目は重要じゃない』なんて言えるのは、先輩が選ばれる人だからです。 『見た目は合格だから、あとは中身を見よう』って、そう思ってもらえるから言えるんです」

 先輩は間違いなく莉央ちゃんと同じ立場の人だ。私から逸らされた目線を受け取る側の人。桜の花のように美しいと見上げられる人。ただ、そこにいるだけで存在を認められる人。

「先輩から、外見に恵まれている人から、それを蔑ろにするような言葉は聞きたくない……。何年もずっと見た目を気にしている自分が馬鹿みたいだし、惨めです……」

 先輩の眼差しが鋭さを帯びる。
 背筋を冷たいものが走って、私はほんの一瞬怯んだ。だけど、もう止まれない。

「見た目が不合格の私は、その時点で選択肢からふるい落とされる。候補にも入れてもらえない人間の気持ちなんて、最初から優勝が決まっている人には分からない」
「…………」
「私だって中身が大事だと思う。性格が悪い人と一緒にいたって辛いだけなのは、経験したからよく分かってる。でも、分かっていても、やっぱり見た目は大事だってみんなの行動が私にそう言ってくる。だから、だから……」

 私たちから見て一番近くにあるバス停に一台のバスが停車した。
 プシューっという音とともに車高が下がって扉が開かれる。そこから降りてきた乗客が視界の端で思い思いの方向へ進み始めた。私はようやく我に返った。
 呼吸がひどく不規則だ。
 暴れる心臓が肺の動きを妨げているようで、拍動と呼吸のテンポが合わなくて苦しい。それなのに正常な接続を取り戻した思考回路が、容赦なく私に現実を突きつけてきた。
 なんてことをしてしまったのだろう。先輩の発言が気に食わなかったからといって、何年も溜め込んできた負の感情をぶちまけていい理由にはならない。にもかかわらず、私はそのすべてを先輩にぶつけてしまった。最低だ。
 先輩は私が話しているあいだ口を開かなかった。切れ長の目から覗く澄んだ瞳は私から一度も逸らされなくて、今もいつの間にか立ち上がっていた私を真っ直ぐ見上げたままだ。その穢れなき正しさを浴びて心がさらにただれてしまいそうになる。これ以上は向き合っていられない。

「す、すみません……。あの……、私、帰ります……」

 逃げるように立ち去った私を、先輩はどんな表情で見つめていたのか。
 振り返らなかったから、分からない。