夢でも見ているのだろうか。
三十分後、公園にやってきた先輩と合流した私は、なぜかそのまま一緒に駅へ向かっているこの状況を呑み込めないでいた。
いや、呑み込むもなにも『駅でいい?』と聞かれて咄嗟に『はい』と答えてしまったからなのだけれど、実のところ私は公園から家まで歩いて帰れる距離だから駅まで出る必要はない。むしろ遠回りになってしまう。
だからといって自分で頷いた手前、『やっぱり駅行かなくていいです』なんて言い出すこともできなくて、ためらいなく踵を返した先輩のあとを慌てて追うしかなかった。
迷いのない足取りで進む先輩と、その後ろを及び腰でついていく私。
傍から見ればストーキングにしか見えないであろう私の位置取りに、すれ違う人たちが漏れなく眉をひそめる。だけど、異性と並んで歩くなんて私には無理だ。苦手克服の試練だと前向きに考えたところで、序盤で出てくる難易度ではないと思う。
しかも、公園を出てからというもの先輩はただ一定の速度で坂を下るだけで、話すことはおろか振り返ることすらしない。一緒に行動はするものの隣に並ぶことまでは許されていない気がして、とりあえず見失わない程度の距離を保つので精一杯だった。
「あのさ」
しばらく続いたストーキングまがいの状態は、先輩の一言で唐突に終わりを迎えた。
足元をうろついていた視線を上げると、少し先で立ち止まった先輩がこちらを振り返っている。ちゃんとついていっているつもりだったけれど、思っていたより離れてしまっていたらしい。
「は、はい」
言いながら、私は少し駆け足で先輩との距離を詰めた。
人三人分ほど離れているというのに、相変わらずその眼差しは寸分の屈折も揺らぎもなく私のもとに届いてくる。今日も今日とて無愛想な人だ。
着替えてきたのか、今の先輩は先ほどの黒いパンツに同じ色の大きめのスウェットを合わせてリュックを背負っている。シンプルな服装なのに様になるのは、飾りがいらないほど素材がいいことの証明だろう。
「な、なんです、か……」
珍しく自分から切り出したことに理由はない。
強いて言うなら駆け寄った私の息が落ち着くまで先輩が口を開かないような気がしたから、聞く体勢が整ったことを伝えたかった。でも、それは本当に微々たるものだと思う。
「手紙——」
耳を通った予想外の一言に心臓がドクッと一つ大きな鼓動を打ち鳴らす。
まさか、その話題を放り込まれるとは思わなかった。つい先ほどまで私がそのことについて悩んでいたなんて先輩が知るはずもないから、間違いなくこれはただの偶然だ。
だからこそなにを言われるのか見当がつかなくて、ただただ怖い。
「——見たんだよな?」
やっぱり疑っていたんだ。
ぎこちなく頷きながら、なんとか「はい」の一言を絞り出す。
「そう……」
先輩の言葉にはため息が混ざっていた。そのまま目を逸らされてしまったから、どうすることもできなくて沈黙が訪れる。
これは咎められる。
だって、見られたことになにも感じていなければ、こうして先輩自ら話題に出すなんてことはしない。なにかしら言いたいことがあるから、先輩にとってなんのメリットもない私を待たせてでもこうして二人の場を設けたのだろう。
だけど、咎められて当然だ。昨日は自分の手紙だからと謝ることに抵抗を覚えたけれど、今の冷静な頭なら謝るべきだったと思える。
たとえ私があの手紙の内容をすべて知っていたとしても、先輩が言いたいのはきっとそこじゃない。「自分のものを勝手に覗かれた」という部分に不快感を抱いているのだろう。
先輩がそう思うのも当然だ。私だって先輩の名前を確認するために生徒手帳を開いたとき、『他人の家を覗くような行為』だと思ったのだから。
「……す、すみませんでした」
「……なにが?」
「その……勝手に、見てしまって……」
「…………」
「…………」
先輩の視界の中に閉じ込められたかのように、じっと見つめられる。
心の中を無防備に覗かれている気がして、ものすごく居心地が悪い。でも、ここで逸らすのは不誠実な気がした。
「別に、怒ってるわけじゃない」
数秒後、先に目線をほどいたのは先輩のほうだった。
スウェットのポケットに突っ込んでいた手の片方を出して、グッと襟元を緩めるように引っ張っている。リュックの重みで首元が詰まってしまい苦しかったのだろう。
「でも、正直疑った。言い触らしてるんじゃないかって」
「言い、触らす……」
うまく言葉が続かなくて代わりに大きく頭を振った。そういう懸念もあったのかと驚いてしまったのだ。
自分の手紙であることの衝撃があまりにも強すぎて、どう処分するか以外の発想に至らなかった。結果的にそれが先輩にとってもいい方向に働いたのは怪我の功名だけれど。
「名前確認するために中見たって自分から申告してきたから、そこまで疑ってたわけじゃないけど。探るような聞き方して悪かった」
「い、いえ。でも……、信じてくれるんですか?」
触れ回っていない証拠などどこにもないというのに。
「謝る以外、変に言い訳もしてこないし。大丈夫かなと思って」
「なる、ほど……」
ほんの数回関わっただけの相手を、たったこれだけの言葉のやり取りで信用してしまうなんて。疑ってほしいわけではないけれど、私なら本当に触れ回っていないのかもっと徹底的に確認してしまうだろう。先輩もどちらかと言えば懐疑的な人だと思っていたから、ある程度追及されることは覚悟していたのに。
なにはともあれ、疑いを晴らすことができてほっとした。二度と関わることはないと思っていた人でも、疑いの目を向けられたままでいるのはやっぱり居心地が悪い。
だけど、どうして先輩はこれほどまでに手紙のことを心配するのだろう。生徒手帳が帰ってきてすぐに手紙の存在を確認していたあたり、とても大切にしていることは分かる。そんなに特別なことは書いていないはずだけれど、なにか刺さる一文でもあったのだろうか。
ちょうど会話も一区切りついた。手紙を手に入れた経緯も合わせて、今ならいろいろと聞けるかもしれない。
「ありがとう」
「え?」
口を開こうとしたところで耳に届いた言葉に、私は跳ねるように顔を上げた。
聞きまちがい、じゃない。今、確かに先輩は『ありがとう』と口にした。
「生徒手帳。手紙が入ってたから直接届けてくれたんだよな。助かった」
「——……っ」
胸がぎゅっと強く締め付けられる。
わずかに和らいだ眼差しに、ほんの少しだけ上がった口角。話に聞いていた「超塩対応」とはほど遠い先輩の姿に、胸の奥から激しい罪悪感が込み上げてくる。
だって、先輩に直接持って行ったのは手紙を返してほしいという自分本位な目的を達成するためで、『届けてくれた』なんて言ってもらえるような純粋な親切心によるものじゃない。『助かった』なんて言葉に相応しい行動を私はただの一つもしていない。
ちゃんと言おう。罪滅ぼしではないけれど、手紙の差出人は私だと言ってしまおう。「できれば返してほしいです」って頭を下げて、言うんだ——
「あの……て、がみ……」
「え?」
「手帳の中の……手紙、なんですけど……」
「ああ。あれが一番大事」
「え……?」
どういうこと?
どうして先輩があの手紙を『一番大事』だなんて言うの?
頭の中に次々と疑問が湧いてくる。
あれは私が中学のときに好きだった人に渡したものだ。昨日の放課後、一果たちとの会話で先輩とはちがう中学だということも確認できたから、私と彼と先輩に接点があるはずもないのに。
「白状すると、落とし物ってのも疑ってた。別の物だけど盗まれたことあるから。勝手にいろいろ疑って悪かった」
「…………」
どうしよう、なにも言葉が出てこない。
やっぱり自作自演を疑われていたんだとか思うことはたくさんあるはずなのに、『一番大事』という言葉が頭にこびり付いて冷静に物事を考えられない。
間違っているのは私のほうなのだろうか。拗らせた恋心を通して手紙を見たせいで、盛大な見当違いでもしているというのだろうか。
だとしても便箋も筆跡もそして文面も、すべてが一致するなんてさすがにありえない。偶然だと片付けるには、なにもかも見覚えがありすぎる。
特に文面は一言一句覚えていて、「私」がにじみ出た言い回しに当時も嫌気が差した記憶がある。莉央ちゃんならこんな回りくどい書き方はしないだろうと、手紙を見つけた日の夜も家でのたうち回ったほどだ。
不快な伝え方にならないように、スマホのメモアプリで何度も何度も下書きを作り直したことも覚えている。やっと書き始めたと思ったら書き損じるたびに新しい便箋を用意して、ようやく完成した一枚。それでも数年後に改めて読んでみると、ひどい有り様だった。
だから、あれは絶対に私が書いた手紙——
そこまで考えたところで車のヘッドライトが私たちを照らした。気がつけば、もうずいぶんと暗くなっている。
この道は歩道がないから、車が通過するのを道の脇に避けて待っている間に会話が途切れてしまった。それきり二人とも口を開くことはなくて、手紙のことはそれ以上聞けなかった。
三十分後、公園にやってきた先輩と合流した私は、なぜかそのまま一緒に駅へ向かっているこの状況を呑み込めないでいた。
いや、呑み込むもなにも『駅でいい?』と聞かれて咄嗟に『はい』と答えてしまったからなのだけれど、実のところ私は公園から家まで歩いて帰れる距離だから駅まで出る必要はない。むしろ遠回りになってしまう。
だからといって自分で頷いた手前、『やっぱり駅行かなくていいです』なんて言い出すこともできなくて、ためらいなく踵を返した先輩のあとを慌てて追うしかなかった。
迷いのない足取りで進む先輩と、その後ろを及び腰でついていく私。
傍から見ればストーキングにしか見えないであろう私の位置取りに、すれ違う人たちが漏れなく眉をひそめる。だけど、異性と並んで歩くなんて私には無理だ。苦手克服の試練だと前向きに考えたところで、序盤で出てくる難易度ではないと思う。
しかも、公園を出てからというもの先輩はただ一定の速度で坂を下るだけで、話すことはおろか振り返ることすらしない。一緒に行動はするものの隣に並ぶことまでは許されていない気がして、とりあえず見失わない程度の距離を保つので精一杯だった。
「あのさ」
しばらく続いたストーキングまがいの状態は、先輩の一言で唐突に終わりを迎えた。
足元をうろついていた視線を上げると、少し先で立ち止まった先輩がこちらを振り返っている。ちゃんとついていっているつもりだったけれど、思っていたより離れてしまっていたらしい。
「は、はい」
言いながら、私は少し駆け足で先輩との距離を詰めた。
人三人分ほど離れているというのに、相変わらずその眼差しは寸分の屈折も揺らぎもなく私のもとに届いてくる。今日も今日とて無愛想な人だ。
着替えてきたのか、今の先輩は先ほどの黒いパンツに同じ色の大きめのスウェットを合わせてリュックを背負っている。シンプルな服装なのに様になるのは、飾りがいらないほど素材がいいことの証明だろう。
「な、なんです、か……」
珍しく自分から切り出したことに理由はない。
強いて言うなら駆け寄った私の息が落ち着くまで先輩が口を開かないような気がしたから、聞く体勢が整ったことを伝えたかった。でも、それは本当に微々たるものだと思う。
「手紙——」
耳を通った予想外の一言に心臓がドクッと一つ大きな鼓動を打ち鳴らす。
まさか、その話題を放り込まれるとは思わなかった。つい先ほどまで私がそのことについて悩んでいたなんて先輩が知るはずもないから、間違いなくこれはただの偶然だ。
だからこそなにを言われるのか見当がつかなくて、ただただ怖い。
「——見たんだよな?」
やっぱり疑っていたんだ。
ぎこちなく頷きながら、なんとか「はい」の一言を絞り出す。
「そう……」
先輩の言葉にはため息が混ざっていた。そのまま目を逸らされてしまったから、どうすることもできなくて沈黙が訪れる。
これは咎められる。
だって、見られたことになにも感じていなければ、こうして先輩自ら話題に出すなんてことはしない。なにかしら言いたいことがあるから、先輩にとってなんのメリットもない私を待たせてでもこうして二人の場を設けたのだろう。
だけど、咎められて当然だ。昨日は自分の手紙だからと謝ることに抵抗を覚えたけれど、今の冷静な頭なら謝るべきだったと思える。
たとえ私があの手紙の内容をすべて知っていたとしても、先輩が言いたいのはきっとそこじゃない。「自分のものを勝手に覗かれた」という部分に不快感を抱いているのだろう。
先輩がそう思うのも当然だ。私だって先輩の名前を確認するために生徒手帳を開いたとき、『他人の家を覗くような行為』だと思ったのだから。
「……す、すみませんでした」
「……なにが?」
「その……勝手に、見てしまって……」
「…………」
「…………」
先輩の視界の中に閉じ込められたかのように、じっと見つめられる。
心の中を無防備に覗かれている気がして、ものすごく居心地が悪い。でも、ここで逸らすのは不誠実な気がした。
「別に、怒ってるわけじゃない」
数秒後、先に目線をほどいたのは先輩のほうだった。
スウェットのポケットに突っ込んでいた手の片方を出して、グッと襟元を緩めるように引っ張っている。リュックの重みで首元が詰まってしまい苦しかったのだろう。
「でも、正直疑った。言い触らしてるんじゃないかって」
「言い、触らす……」
うまく言葉が続かなくて代わりに大きく頭を振った。そういう懸念もあったのかと驚いてしまったのだ。
自分の手紙であることの衝撃があまりにも強すぎて、どう処分するか以外の発想に至らなかった。結果的にそれが先輩にとってもいい方向に働いたのは怪我の功名だけれど。
「名前確認するために中見たって自分から申告してきたから、そこまで疑ってたわけじゃないけど。探るような聞き方して悪かった」
「い、いえ。でも……、信じてくれるんですか?」
触れ回っていない証拠などどこにもないというのに。
「謝る以外、変に言い訳もしてこないし。大丈夫かなと思って」
「なる、ほど……」
ほんの数回関わっただけの相手を、たったこれだけの言葉のやり取りで信用してしまうなんて。疑ってほしいわけではないけれど、私なら本当に触れ回っていないのかもっと徹底的に確認してしまうだろう。先輩もどちらかと言えば懐疑的な人だと思っていたから、ある程度追及されることは覚悟していたのに。
なにはともあれ、疑いを晴らすことができてほっとした。二度と関わることはないと思っていた人でも、疑いの目を向けられたままでいるのはやっぱり居心地が悪い。
だけど、どうして先輩はこれほどまでに手紙のことを心配するのだろう。生徒手帳が帰ってきてすぐに手紙の存在を確認していたあたり、とても大切にしていることは分かる。そんなに特別なことは書いていないはずだけれど、なにか刺さる一文でもあったのだろうか。
ちょうど会話も一区切りついた。手紙を手に入れた経緯も合わせて、今ならいろいろと聞けるかもしれない。
「ありがとう」
「え?」
口を開こうとしたところで耳に届いた言葉に、私は跳ねるように顔を上げた。
聞きまちがい、じゃない。今、確かに先輩は『ありがとう』と口にした。
「生徒手帳。手紙が入ってたから直接届けてくれたんだよな。助かった」
「——……っ」
胸がぎゅっと強く締め付けられる。
わずかに和らいだ眼差しに、ほんの少しだけ上がった口角。話に聞いていた「超塩対応」とはほど遠い先輩の姿に、胸の奥から激しい罪悪感が込み上げてくる。
だって、先輩に直接持って行ったのは手紙を返してほしいという自分本位な目的を達成するためで、『届けてくれた』なんて言ってもらえるような純粋な親切心によるものじゃない。『助かった』なんて言葉に相応しい行動を私はただの一つもしていない。
ちゃんと言おう。罪滅ぼしではないけれど、手紙の差出人は私だと言ってしまおう。「できれば返してほしいです」って頭を下げて、言うんだ——
「あの……て、がみ……」
「え?」
「手帳の中の……手紙、なんですけど……」
「ああ。あれが一番大事」
「え……?」
どういうこと?
どうして先輩があの手紙を『一番大事』だなんて言うの?
頭の中に次々と疑問が湧いてくる。
あれは私が中学のときに好きだった人に渡したものだ。昨日の放課後、一果たちとの会話で先輩とはちがう中学だということも確認できたから、私と彼と先輩に接点があるはずもないのに。
「白状すると、落とし物ってのも疑ってた。別の物だけど盗まれたことあるから。勝手にいろいろ疑って悪かった」
「…………」
どうしよう、なにも言葉が出てこない。
やっぱり自作自演を疑われていたんだとか思うことはたくさんあるはずなのに、『一番大事』という言葉が頭にこびり付いて冷静に物事を考えられない。
間違っているのは私のほうなのだろうか。拗らせた恋心を通して手紙を見たせいで、盛大な見当違いでもしているというのだろうか。
だとしても便箋も筆跡もそして文面も、すべてが一致するなんてさすがにありえない。偶然だと片付けるには、なにもかも見覚えがありすぎる。
特に文面は一言一句覚えていて、「私」がにじみ出た言い回しに当時も嫌気が差した記憶がある。莉央ちゃんならこんな回りくどい書き方はしないだろうと、手紙を見つけた日の夜も家でのたうち回ったほどだ。
不快な伝え方にならないように、スマホのメモアプリで何度も何度も下書きを作り直したことも覚えている。やっと書き始めたと思ったら書き損じるたびに新しい便箋を用意して、ようやく完成した一枚。それでも数年後に改めて読んでみると、ひどい有り様だった。
だから、あれは絶対に私が書いた手紙——
そこまで考えたところで車のヘッドライトが私たちを照らした。気がつけば、もうずいぶんと暗くなっている。
この道は歩道がないから、車が通過するのを道の脇に避けて待っている間に会話が途切れてしまった。それきり二人とも口を開くことはなくて、手紙のことはそれ以上聞けなかった。
