翌日、私はある場所へ向かって、独り住宅街の中を進んでいた。
 ゆったりとしたベージュのパンツに淡いオレンジのニットを合わせて、かばんは持たずスマホだけをポケットに忍ばせた身軽な格好をしている。
 それなのにわずかに息が上がっているのは、緩やかな坂道がずっと続いているせいだ。この季節でもしばらく登ると体がぽかぽかしてくる絶妙な加減の勾配に、私はいつも苦しめられている。
 それでも、代わる代わる目に入るお洒落な邸宅を見るのは楽しい。
 庭で花々の手入れをしている人や高そうな車を丹念に洗っている人、そして買い物帰りの家族連れ。土曜日の夕方ということもあってちらほらと住人の姿を見かけはするけれど、基本的にはとても静かな場所だ。

 坂道を十五分ほど登ったところで、向かって左手に黄色い車止めポールが二本見えてきた。長い間、雨風に晒されてひどく錆びたそれらの間を抜けると、すぐ目の前に小さな公園が現れる。
 坂道に面する入口以外の三方を住宅に囲まれたこの区画は、大人の足なら一周するのに数分もかからないほど小ぶりなもので、もはや「公園の名残り」と言ったほうが的確かもしれない。
 遊具は高さのちがう二連の鉄棒とうさぎとパンダのスプリング遊具だけ。砂場や滑り台、ブランコといった定番の遊具は見当たらないし、いずれも劣化が激しくて塗装の剥がれが目立つから足を運ぶ人なんて誰もいない。それがかえって、私の目には魅力的に映る。今日も今日とて、その魅力は健在だ。
 公園に入るとそのままパンダのスプリング遊具の前まで進み、そっと横向きにお尻を乗せた。ギッ……とバネの軋む音がするのは、遊具が老朽化しているせいだ。絶対に、そうだ。

「ふぅ……」

 落とした視線の先でだらりと放り出された左右の脚が目に入った。
 長く歩いたせいかふくらはぎが張っているのが分かる。帰宅部になってからずいぶんと体力が落ちてしまった。動画投稿サイトを参考にして筋トレやエクササイズはしているけれど、ダイエットが目的のそれらだけでは体力の向上は期待できないのかもしれない。
 空には小さな雲のかたまりが点在している。うろこ雲だったか、ひつじ雲だったか、そんな名前の秋の雲。ゆったりと浮かぶそれらを眺めていると、ふいに幼いころクッションの中に入っている綿(わた)を手でもぎ取ったことを思い出した。確かあれは、莉央ちゃんの家のリビングのクッションだ。
 私の記憶が確かなら莉央ちゃんも一緒になって楽しんでいて、途中で気づいた莉央ちゃんのお母さんにめちゃくちゃ叱られた。その日はおやつにクッキーを出してくれるはずだったのに、それを取り上げられそうになって二人で泣きながら懇願した記憶がある。

「今も大好きなのにな……」

 茜色に染まった空の綿をまるごと取り込むように息を吸うと、胸元がほんのり冷たくなって気持ちいい。数秒溜めてから勢いよく吐き出したら、公園の空気がすべて私の呼気に変わった気がする。
 ここに初めて足を運んだときも私は同じことを思った。
 あれは中学一年生の冬のこと。
 期待に胸を膨らませて入学した中学だったけれど、現実はそれとはほど遠いものだった。同級生の女の子たちとはどうにも馬が合わず、入っていた運動部も楽しめなくて、さらには異性に対する苦手意識も悪化の一途をたどっていた。
 そんなある日の放課後、ふと遠回りをして帰ろうと思い立ったのだ。律儀に週に一度ある部活のオフ日に決行するところが、なんとも私らしい。そうして偶然通りかかったのがここだった。
 中学の学区の外れにあるから顔見知りと遭遇する心配がないうえに、そもそも人の気配が少ないここはすぐに落ち着く場所になった。
 それ以来、考えることが多くて頭を整理したいときや辛いことがあったとき、なんとなくぼーっとしたいときなど気ままに立ち寄るのが癖になっている。

「はぁ……」

 深いため息と同時に全身から力が抜けていく。
 無性になにかに寄りかかりたくなって遊具を跨いで馬乗りになると、パンダの頭の部分に両腕を乗せてそこに顔を(うず)めた。
 こうしてパンダのお世話になるのは昨日ぶりだ。
 昨日、高石先輩の前から逃げるように立ち去ったあと、しばらくその余韻から抜け出せなかった私は、午後の授業に全く集中できなかった。
 分かっている。高石先輩が私に話しかけてくれたのは、莉央ちゃんから私があそこにいた理由を聞かれたからで、『もう一度見てくれた』なんて騒ぐほどのものじゃない。
 でも、私には貴重な経験だった。たとえ、高石先輩にとって数ある会話のうちの一つだったとしても、私にとってはそうじゃない。あの澄んだ瞳を、意外と聞き心地のいい声を、かけてくれた言葉を、何度も反芻して、味わって、噛み締めて。そうしたらいつの間にか授業が終わっていた。もうすぐ期末考査なのに、本当になにも聞いていなかった。
 放課後に私からひと通り話を聞いた一果と紗良は、まさかそこまで言葉を交わすとは思っていなかったらしい。自分のことのように喜んでくれたうえに、ジュースまでご馳走してくれる奮発ぶりだった。
 だけど、その帰り道。
 バイトと部活に行く二人と別れて駅まで向かっていた私を、突如あの告白の恥ずかしさが襲ったのだ。

「手紙、どうしよう……」

 昨日も同じようなことを呟いて、気がつくと足が勝手にここへ向かっていた。
 諦めてしまった、先輩の生徒手帳に挟まった私の手紙。あれを処分することができないのなら、私はあの告白にどう向き合えばいいのだろう。
 彼の通う高校は知っている。一応繋がっている中学の同級生のSNSで、そこの文化祭に行ったことが動画で投稿されていたから。
 動画に映る彼はとても楽しそうだった。ほんの少しだけ大人びた顔つきは、笑うと細められる目に当時の面影を感じて、なんだか心臓がくすぐったかった。そのときは告白の恥ずかしさを覚える暇もないほど、時間が経ったら消えてしまう動画に釘付けになっていたっけ。
 このときに勇気を出せばよかった。返事をもらえない悲しみに素直に浸って、遠くにいる彼に思いを馳せるだけの、純粋な私だったときに会いに行くべきだった。
 だって、今はもう会えない。会いたくない。
 手紙をきっかけに自分を客観視してしまったことで、自分の言動の滑稽な部分にしか目が行かなくなってしまった。あのころとなにも変わらない惨めな姿のまま、彼の前に立ちたくない。「私」ではダメなんだ。
 そうしてネガティブな考えに溺れてしまった結果、昨日はなんの打開策も見つけらないまま帰途についた。
 悲しいかな。使うのは同じ脳みそだから、昨日の今日で名案が浮かぶはずもない。家にいても埒が明かないから、気分転換も兼ねてまたここに足を運んだのだけれど——

「本当にどうしよう……」

 パンダも、その横を走るうさぎも、頭を抱える私に手を差し伸べてはくれない。
 かわいいはずの動物たちの笑顔がやけに冷たく感じられて、なんだか突き放されたような気持ちになってしまった。
 手紙を諦めたのは私だ。昨日に関しては、あの状況で話題にできたとも思えないから仕方がないとして。
 それなのに、

「もう一回、高石先輩に会いに行ってみようかな……」

 なんて積極性が顔を出し始めているのは、間違いなく先輩のせいだ。
 先輩が昨日通りの人なら、また私を真っ直ぐ見てくれるかもしれない。私の話に耳を傾けてくれるかもしれない。そんな何度摘んでもしつこく萌え出る期待の芽が、「もう一回、会いに行っちゃえ」と私を唆す。

「でも……怖いなぁ…………」

 ぐりぐりと額を腕に押し付けながら、なんとも頼りない声が漏れる。
 みんなにとっては憧れの存在でも、私にとってはやっぱり男子のうちの一人だった。昨日だって緊張と不安が先走って上手く振る舞うことができなかったし、注目度が高い分、前に立つことがより憚られてしまった。
 そんな私のままもう一度会いに行ったところで、先輩はまた同じ対応をしてくれるだろうか。次こそは、見切りをつけられてしまうかもしれない。

『でも、よかったわ。作戦決行することになんなくて』

 ふと、昨日の一果の言葉が思い出された。
 食堂の隣りにある自販機コーナーでジュースをご馳走してくれたときのことだ。

『作戦?』

 確か、私はそう尋ねた。

『もし縁葉が泣いて帰ってきたら、二人で先輩に物申しに行こうって決めてたんだわ』
『えっ?!』
『だって、おかしいじゃない。落とし物届けた相手を泣かすなんて。普通ならお礼言って終わるところを、どうして泣かせる必要があるのって感じだし。いくら超塩対応だからって、そんなの人としてありえないよ』

 そう言い切ったのは紗良だった。いつになく険しいその表情に驚いたのを覚えている。
 そんな風に考えてくれていたなんて想像もしていなかったから、昼休みからの短時間で嬉しいことが一気に押し寄せすぎて、このときこそ涙腺が緩んでしまいそうになった。

「……やっぱり、先輩に会いに行ってみよう……」

 もし先輩に見限られてしまったら——そのときは、二人に甘えてもいいだろうか。彼女たちなら打ちのめされた惨めな姿を見せても受け入れてくれるかもしれない。まだ半年ほどの付き合いだけれど、不思議とそう思える。
 それに中学のときの相手とちがって先輩に対する甘い感情があるわけではない。学年がちがうから校内で鉢合わせることも滅多にないだろう。たとえ上手くいかなくても、あのときほど苦しまずに済むかもしれない。

「うん、会いに行こう!」

 そうと決まれば、あとはどうやって先輩にたどり着くか、それだけだ。
 それだけなのに、それが一番の難問だ。
 会いに行くなんて軽々しく口にしたけれど、冷静に考えると教室は人の目がありすぎる。手紙のことを聞くのなら、もう少しひっそりとした場所がいい。
 さらに言えば、場所を決めたところで伝えるすべがない。靴箱にこっそり手紙を忍ばせる方法もあるけれど、告白の呼び出しだと思われてしまうかもしれない。SNSでアカウントを探して直接メッセージを送るのは、さすがにやりすぎだ。

「やっぱり、教室凸しかないかぁ……」

 頭を上げてパンダの両側面にある突起にそれぞれ足をかけると、耳の下から伸びている取手を握って遊具を軽く漕ぐ。耐荷重の心配もあるし、それ以前に遊具自体が脆すぎるから控えめに動かしているけれど、それでもギコギコといびつな音が鳴り響いた。
 しばらくして、あまりのいびつさに鼓膜が痒みを覚え始めたとき——
 バネの軋む音の中にガチャッと扉の開く音が混ざった気がした。確か公園の入口から見て真正面、パンダの進行方向右手側にある家からだ。目を向けると確かに錆びたフェンス越しに人影が見えた。勝手口が開かれたのだろう。
 ここには何度も通っているけれど、こうして住民の気配を感じたのは今日が初めてだ。正確に言うと公園の入口の前を人が通ることはあっても、公園を囲む家の住人は見たことがなかった。
 放課後はともかくとして休日はもっと早い時間に訪れていたから、時間帯の問題なのかもしれない。
 あまりじっと見ては失礼だからと目を逸らしたものの、ガサガサとビニール袋のこすれるような音がして気が散ってしまう。騒がしい話し声でも耳を(つんざ)くほどの爆音でもないのに、普段が静かな分、かすかな音でも耳障りに思える。
 とはいえ、「静かにしてください」なんて言うわけにもいかない。ならば、いっそのこと作業が終わるまで私も休憩しよう。ちょうどおしりが痛くなってきたから、一旦立ち上がりたいと思っていたところだ。
 取手から手を離して上体を動かしたとき——

「へっ?!」

 私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 ちらりと勝手口が視界に入った瞬間、同じタイミングでこちらを見遣った相手としっかり目が合ってしまったのだ。
 その相手の顔はまさに今、私の頭を悩ませている——

「高石……先輩……」

 驚きのあまり、その名を口にしてしまった。
 見たところ先輩はカフェの店員でもしているのだろうか。淡いブルーのシャツに黒地のエプロンを着けて、細身の黒いパンツを合わせている。スラリとした体型も相まってとても良く似合っているのだけれど。
 どうして私、ご丁寧に先輩の名前を言ってしまったのだろう。お互いに学校の制服姿でないのなら、他人の空似で押し通すことだってできたかもしれないのに。

「……ああ、昨日の」

 ほら、先輩は私のことなんて認識していなかったのに。完全に募穴を掘った。
 とりあえず、この状況をどうにかしないと。
 だって、どう考えても怪しい。
 昨日、生徒手帳を返した後輩が高校の近くでもないこの場所で勝手口から出てきた先輩と鉢合わせるなんて、偶然にしてはできすぎている。いや、本当に偶然なのだけれど、先輩が同じように考えてくれるとは到底思えない。
 なにせ私は一度、自作自演を疑われた身だ。度重なる偶然をすべて“装った”と認識されてしまうにちがいない。いくら公園の常連だと説明したところで、それを証明する方法がない以上、先輩には言い訳にしか聞こえないだろう。
 なにをしたところで疑われるのなら、もうなにも言わずに立ち去ったほうがいいかもしれない。
 先輩からぎこちなく逸らした目をそのまま公園の入口へ滑らせる。そして、二本の錆びた黄色目がけて静かに踏み出そうとしたとき、私は衝撃的なことを思い出した。
 私、今、遊具にまたがったままだった——

「…………」
「…………」

 どうして人間は窮地に追い込まれると、平常なら絶対にしないような行動に出てしまうのだろう。自分の滑稽な体勢が心の深手となり完全に冷静さを失った私は、スッと静かに先輩へ視線を戻してしまったのだ。
 フェンス越しに再び先輩と目が合った。
 妙な沈黙がこの場を支配して、変な温度の汗がだらだらと背中を流れていく。
 なにか、言わないと。なにか——

「なあ」

 口を開いたのは先輩だった。
 冷えた秋の風がサッと通り過ぎて、私で満ちていた公園の空気を一気に入れ替えていく。
 
「は、はい……」
「あと三十分、待てる?」
「え?」
「あと三十分で上がりだから、そこで待ってて」
「は……い……?」