——うわぁ、二年生ばっかり……

 一つ、二つ、と教室の前を通り過ぎながら、私はさも当たり前のことを考えていた。
 昼休みも残り半分を切った今、つま先に紺色の入った上履きがここかしこで目に付く。
 うちの高校は四階から二階までが教室のフロアになっていて、上階から下階へ学年が上がっていく割り当てだ。どのフロアも一組から七組までの教室が順に並んでいて、その両側に階段が設置されている構造は変わらない。それなのに、つい先ほどまでいた四階と今いる三階がちがって見えるのは、単に私の気持ちの問題なのだろう。
 チラッと足元に目を落とすと、鈍い速度で入れ替わる二つの臙脂色が目に入った。
 各生徒が思い思いの方法で休み時間を満喫しているこの状況で、たった一人のつま先のちがいに気づく人なんて誰もいない。そんなこと、私だって分かっている。
 とはいえ、混ざりにいく側としてはそう上手くは考えられないもので、三階の廊下に足を踏み入れてからというもの、普段とは違う少し大人っぽい雰囲気に怯みっぱなしだ。
 だけど、私を悩ませる要素は他にもある。

「昨日、階段の踊り場に落ちているのを見つけました。持ち主を確かめるために、中を開いてしまってすみません」

 先輩の前でしどろもどろになりたくない。
 そんな思いから、先ほどからブツブツと会話の予行演習を繰り返している。もちろん、周りには聞こえない程度に声量は絞っている。
 数回前から噛まずに言えるようになったから、あとはブレザーのポケットに入れた生徒手帳と一緒に先輩へ差し出すだけだ。たかが忘れ物を返すだけで、これほど大掛かりな準備を必要とする自分が本当に恥ずかしい。
 莉央ちゃんなら練習なんてしなくても、上手く会話を盛り上げることができるのだろう。他学年の廊下を歩くときだって、絶えず注がれる羨望の眼差しをものともせず颯爽と進んでいくはずだ。
 そうこうしているうちに目的地にたどり着いた私は、「二年五組」の表示を確認してから恐る恐る室内を覗いてみた。
 今のところ、幼馴染の姿は見当たらない。
 ——このクラスじゃないのかな。
 そう思うだけで、心がほんの少し軽くなる。
 だけど、本当にほんの少しだけだから、あまり気持ちに変化はない。なにせ今から、超塩対応の高石先輩を呼び出さなくてはいけないのだ。
 久しぶりの、男子。
 それなのに、超塩対応。
 そう思うと、全身が圧縮されたかのようにギュッと強張ってしまう。一回りほど小さくなった体に収まりきらなくなった内臓がすべて口から出てきそうで、ちょっと気持ち悪い。
 しかも、間違いなく注目を集めると分かっていることが、私を余計に気後れさせてくる。その視線のうち、いくつが『あの見た目でよく高石先輩にいくよね』なんて思いを含んでいるのだろう。

「でも、二人にあれだけ協力してもらったんだし……」

 やるだけやってみよう。
 私はぶんぶんと頭を大きく左右に振ってから、一度深呼吸をして近くの席で読書をしていた眼鏡の男の先輩に声をかけた。何度か呼びかけたところでようやく顔を上げたその人に、高石先輩を呼んでもらうようお願いする。そんな一瞬のやり取りにすら声を震わせるなんて、つくづく情けない。
 立ち上がって教室の奥へ進む眼鏡の先輩の背中を眺めながら、私は『今はいない』と言われなかったことに安堵のため息を漏らした。一果と紗良に背中を押してもらった勢いは今回で使い切ってしまうから、もし高石先輩がいなくてもう一度ここに来ないといけないとなれば、もう無理だった気がする。
 眼鏡の先輩に意識を戻すと、その行く先に窓際で盛り上がっている五、六人の男子グループの姿があった。きっとあの中に高石先輩がいるのだろう。
 そこまで見て、教室を出入りする先輩方の邪魔にならないように一旦脇へ避けたから、高石先輩がどの人なのか目星をつけることができなかった。対面する前に少しでも気持ちの準備ができたらと思ったけれど仕方がない。
 人の出入りが落ち着いて再び教室を覗くと、眼鏡の先輩はすでにグループの人たちと話しているところだった。ほどなくして、そのうちの一人が眼鏡の先輩と一緒にこちらへ顔を向ける。彼らに続いて、周りの男子も同様の動きをした。

 「——……っ」

 視線の圧に思わず後ずさりそうになりながらも、なんとか踏みとどまって会釈を返す。錆びた歯車のようにぎこちない動きだったけれど、それによって行く先を定めたのか、最初に私を見た男子生徒がグループの輪を抜けてこちらへ向かってきた。
 無造作な黒髪に、すらりとした背格好。そして、不意に私を捉えた切れ長の目。
 ——この人が、高石理世先輩。
 私は心の中でそう呟いた。
 一応、呼び出しには応じてくれるみたいだけれど、『超塩対応』の名に相応しく、その全身からは目に見えて警戒心が滲んでいる。
 久しぶりの男子としては最高難度かもしれない。そう思ったときにはすでに、視界の中で臙脂色のつま先が揺れていた。だけど、思いのほか早くそこに影が落ちて、私はスカートの裾をぎゅっと握り締める。
 ——先輩の前に立ってしまって、ごめんなさい。
 ——でも、用事があって来たんです。
 ——男女のあれこれじゃないので、女子として来たわけではないので、許してください。
 頭の中を駆け巡る弁明の言葉を振り払うように、私はゆっくりと顔を上げた。

「——……」

 思わず、息を呑んだ。確かにこれは、見入ってしまう。
 一果が口にした『きれいな人』という言葉が、先輩から目を逸らせずにいる私の脳裏を過った。
 顎のラインがはっきりとしたきれいな輪郭にスッと通った鼻筋、そして肌は羨ましいほど肌理(きめ)が細かい。そんなお手本のような作りの中でも、特に目元は別格だと思う。目尻に向かって広がる二重が中性的な印象を際立たせていて、初対面の人間は漏れなくその眼差しに吸い寄せられてしまうだろう。加工なしでこの完成度だなんて信じられない。
 それが細身ながら適度に引き締まった体の、なおかつ私ですら見上げる高さにあるのだから、もう文句のつけようがない。
 苦手をこじらせすぎて男子に注目してこなかったから、こんなに完成度の高い人がいるなんて知らなかった。
 だけど、当人にその良さを活用するつもりは一切ないのか先輩はずっと驚くほどに無愛想だ。今なお注がれる眼差しは鋭く、唇は固く引き結ばれている。
 なにか言わないと。そう思うのに、繰り返し練習したはずの言葉が一つも口から出てこない。

「なに?」

 想像よりもう一段階、低い声。
 それが焦りに溺れている私の鼓膜を震わせた。呼応するように全身も一度大きく跳ね上がる。

「なあ、聞いてる?」

 黙り込んでしまった私の顔を覗き込むように先輩が軽く首を傾げた。目が合ったことを確信すると、

「俺になにか用?」

 と無機質な声音で畳み掛けてくる。
 そうだ、あたふたしている場合ではない。私はここに生徒手帳を返しに来たんだ。一果と紗良に『ちゃんと返してくる』って言ったじゃないか。
 スカートの裾から動けない両手を叱責し、ようやくブレザーのポケットから今回の目的を取り出すと、「あ、あの……」と弱々しく切り出した。

「とつぜ、ん、すみません。こ、これを……」

 背後を行き交う人の視線がすべて自分に向けられている気がする。
 横目で見ながら通り過ぎる人、悪びれもなくじっと見ている人、はたまた耳打ちでなにかを話している人——視界に映らないはずの廊下の隅々まで、そこにいる全員の動きが分かるようだ。
 同様に、二年五組の教室中が私たちに注目している気がする。高石先輩の体で見えないのに、その先に()る目つきが見えるようで居心地が悪い。だから、一刻も早く受け取ってほしい。それなのに——

「…………」
「…………」

 どうしてだろう。高石先輩は差し出された生徒手帳を見つめたままで、なかなか受け取ろうとしない。妙な沈黙が二人の間に居座ってすごく気まずいのに、今さら腕を引っ込めることもできなくて余計に恥ずかしい。

「……ああ、俺のってこと」

 数秒置いて、ようやく先輩が私の手から生徒手帳を抜き取ってくれた。
 私は軽い息を吐くと同時にハッとする。そうか、私の説明が足りなかったんだ。確かに、突然目の前に生徒手帳を差し出されたところで、それがなにを意図しているのかなんて分かるはずがない。『落ちていました』と言うはずだったのに、焦るあまりすべての説明をすっ飛ばしてしまった。
 しかも、最悪だ。体の前で合わせた両手のひらがしっとりしている。
 ふんわりと包むように持っていたつもりだけれど、これほど湿っていれば生徒手帳が汚れてしまったかもしれない。
 気になってそろりと先輩の顔を盗み見るけれど、パラパラと中に目を通している先輩の表情に変化はなく、私の手汗を気にする素振りも見られなかった。
 代わりに、

「これ——」

 手元を離れた眼差しで私を真っ直ぐに捉えると、

「——どこで?」

 そう尋ねてきた。
 「……ぇ」と激しい動揺をかすかに漏らして、私はたまらず縮こまる。

「…………」

 声が出せない。
 決して荒い言葉遣いではないけれど、たった三文字の問いかけに身が竦む。
 一度捕らえたら二度と離さない捕食者のような眼差しと、凍てつくほどの冷たい声が、鋭い棘のように私に突き刺さった。なんて言えばいいのだろう。『問い質す』と言ったほうが正しいような、私に対するはっきりとした不信感。
 まるで、『忘れ物を届ける』という行為そのものを疑っているような——
 まさかとは思うけれど、生徒手帳を盗んだと思っているのだろうか。先輩との接点を作るために、そして先輩の気を引くために、こうして届けに来たのが自作自演だと思われているとしたら。
 そういえば拾った場所もきちんと伝えていない。持ち主を確かめたことだって言っていないし、私は一体なにをやっているのだろう。これでは先輩が疑うのも当然だ。
 同じ人間でも常識を遥かに超えた行動を取る人がいることは私も知っている。特にこと恋愛に関しては、意中の相手の目に留まるためなら手段を選ばない人だっているのだと身をもって学んだ。
 もしかしたら高石先輩は自作自演に巻き込まれた経験があるのかもしれない。そして、どう見ても挙動不審な私にその疑念を抱いたのだとしたら。
 今すぐに誤解を解かないと。さすがに窃盗の疑いはかけられたくない。

「あ……き、昨日……三階の階段の踊り場で、見つけ、て……」
「……そう」
「あの……名前、を確認するために、少しだけ、中を……」
「…………」

 途切れ途切れな私の言葉に耳を傾けてくれたものの、恐らくまだ容疑は晴れていない。生徒手帳を見つめる先輩の表情がどことなく訝しげに見えるから。
 かといって、他にどう説明すればいいのだろう。必要なことはすべて伝えた。これ以上なにか言うほうがかえって怪しまれてしまう気がする。
 ——もしかして、手紙のこと……?
 そう思ったのは本当にただの勘だ。先輩の視線がなんとなく生徒手帳の中を気にしているように見えたのだ。最初に中身をパラパラと捲ったのも、手紙が入っていることを確認したのかもしれない。『中を見た』という私の言葉によって、手紙を読まれたのではと疑っているのだとしたら。
 これは「読みました」と正直に申し出て謝るべきなのだろうか。
 だけど、私は手紙の差出人なのだから、読むもなにも内容なんて当然すべて知っている。むしろ、どうしてあの手紙を先輩が持っているのか聞きたいのは私のほうだ。
 だからといって、ここで私が「手帳に挟まっている手紙は私が書いたものなんです」と言ったところで信じてもらえるだろうか。先輩が私を怪訝に思っているこの状況では、それこそ先輩の気を引くための発言だと捉えられてしまう可能性が高い。
 もう、帰ろう。
 これほど男子と接したのは久しぶりのことで、あれこれ気を揉みすぎて疲れてきた。
 手紙のことだって半ば諦めていたのだ。これ以上留まったところで私にできることはなにもない。私なんかとは二度と関わる人ではないのだから、疑いまで晴らす必要はないだろう。

「あ、の……私は、これで——……」

 「失礼します」という言葉が喉元まで出かかった、そのとき——

「あれ? よりちゃん?」

 聞き慣れた鈴を転がすような声が私の耳に届いた。
 姿を見なくとも分かる、あの鼓膜をくすぐる声。

「莉、央……ちゃん……」

 振り向くと、廊下の少し先に予想通りの人物が立っていた。
 大きな目を丸くして、口もぽかんと開けて、その小さな顔すべてが驚きに満ちている。だけど、その表情は瞬く間に花開くのだ。

「えーっ! どうしたの?! なにか用——……」

 声を弾ませながら駆け寄ってきた莉央ちゃんは、私の前に立つ人物に気がついて目を見開いた。同時に高石先輩の視線が、ゆっくりと私の隣に立つ莉央ちゃんへ移される。
 ——あっ……
 そう思ったときには、もう遅い。

「……え? 高石くん?」

 莉央ちゃんが驚くのも当然だ。
 高校に入学して以降、幼馴染である彼女の元すら訪ねたことのない私が、かの有名な高石先輩を教室の入口に呼び出しているのだから。

「えっ?! えっ!! 二人って知り合いだったの?!」

 莉央ちゃんの反応は、心に芽生えた感情がそのまま滲み出ているのだろう。喜怒哀楽やその他の気持ちが、表情と声ですべて分かる。そんな裏表のないところが彼女の信用できるところだ。その気持ちに嘘はない。
 それなのに心の奥底に隠したどす黒いなにかが、ポコポコと沸き立つのを抑えられない。ねっとりとしたそれは、やがて渦巻きながら肥大化して間もなく淀んだ感情を形作る。
 どうして今、このタイミングで、莉央ちゃんは戻ってきてしまったのだろう。あと一歩、私が早く立ち去っていれば入れ違いになれたのに。だって、もう遅い。すでに私は高石先輩の中で存在しなくなってしまった。
 男の子の眼差しが私から逸らされる瞬間——まさに先ほどの高石先輩のような反応が私は一番きらいだ。相手が意中の人かどうかなんて関係ない。その眼差しが二度と戻ってくることはないという想定内の現実を突き付けられたくないのだ。
 かつての担任の先生が『経験は心を豊かにする』と言っていたけれど、私はそれに同意できない。誰かの中から自分の存在が消えたことを実感するのは、何度経験しても私の心をひどく荒らすだけ。取り残された惨めさに私が心を濡らすそばで、男の子は熱に浮かされたように莉央ちゃんを見つめている。そんな決まりきった展開に慣れる日はきっと来ない。
 でも、別にいい。先輩からの印象は良くなかったし、そもそも私は立ち去ろうとしていたところだ。ただ、久しぶりに一番きらいな瞬間に遭遇して、ちょっと動揺してしまっただけ。

「……ぁ……——なあ、聞いてる?」
「……え?」

 目の前をなにかが上下したことで、ようやく私は我に返った。
 見ると、私の顔の前で生徒手帳を上下に動かしながら、高石先輩が私の顔を覗き込んでいる。

「えっ?! えっ……?」

 突然のことで、「え」以外の言葉が出てこない。
 意識がすっかり内に向いていたから当然だけれど、この激しい動揺の理由はそれではないと思う。
 だって顔が、高石先輩の顔が目の前にある。覗き込まれたときよりも、もっと近い距離で私を真っ直ぐに見つめている。これほど至近距離で異性の顔を見るのは初めてのことで、どう反応すればいいのか分からない。
 対する高石先輩はというと、顔の近さなど気にも留めていないようで、

「生徒手帳、見つけてくれたんだろ?」

 などと、話しかけてくる。

「あ……は、はい」

 それは間違いなく事実なので、働かない頭を使わずとも肯定することができた。
 すると、高石先輩の後ろから顔を覗かせていた莉央ちゃんが顔を綻ばせる。

「なんだぁ、そういうことね。わたしに会いに来てくれたのかと思って、勝手に喜んじゃったよ。恥ずかしい」
「あ、はは……」

 私のあからさまな空笑いが三人の間に響いた。

「あ、えーっと……」

 いたたまれなくなった私は一歩後ずさると、

「じゃあ、私はこれで。し、失礼します……」

 と言い残し、最後に一礼をしてその場から立ち去った。
 三階の廊下を足早に進み、勢いそのままに階段を駆け上る。
 心臓が、今にも爆ぜそうだ。
 一生分の心拍数は決まっていると聞くけれど、それなら今の私はすでに十年分ぐらい消費してしまっているかもしれない。
 だけど、どれほど胸を強く押さえたところで、心臓は落ち着いてくれそうにない。もはや、全身が強く脈打っているほどだ。
 だって、びっくりした。まさか、先輩がもう一度、私を見てくれるなんて。
 ちゃんと私の目を見て、私に話しかけてくれるなんて。
 それが、私——

「うれし……かった……」

 四階の廊下にさしかかったところで足を止めた私は、口元を両手で覆いながら思わず呟いた。
 肩が上下するほど、呼吸が乱れている。
 相変わらず心臓はうるさい。
 だけど、だけど——
 私の顔を覗き込む先輩の真っ直ぐな眼差しが、澄んだ綺麗な瞳が、何度も何度も目の前に浮かぶ。
 あの目は確かに私を見てくれていた。もう一度、私を映してくれていた。先輩の中で、私の存在はまだ消えていなかったのだ。
 それが、たったそれだけのことが、私にはたまらなく嬉しかった。