「——ねえ、二年生の高石先輩って知ってる? 何組か知りたいんだけど」

 翌日の昼休み、私は机の上にお弁当を広げながらそう尋ねた。
 だけど、待てど暮らせど反応が返ってこない。不審に思って顔を上げると、私の席の前に座る一果(いちか)のお箸から、ちょうどポロッとタコさんウインナーが落ちる瞬間だった。すぐ下にお弁当箱を持っていたから事なきを得たけれど、最悪の場合、たこさんがお亡くなりになっていたじゃないか。
 だけど、様子がおかしいのは彼女だけではない。
 そのまま隣に顔を向けると、こちらでは紗良(さら)が緑茶のペットボトルに口をつけたまま固まっている。目を見開いて私を見つめる二人の顔は、まるで「信じられない」とでも言いたげだ。
 一体、どうしたのだろう。なにかしてしまったのだろうか。二人の様子に不安を覚えた私は「……あれ? なんか、変なこと言った?」と思わず問いかけた。

出井(いづい)くん」

 そう私を苗字で呼んだのは一果だ。だけど、そんな呼ばれ方、今まで一度もされたことがない。

「な、なに?」

 彼女の深刻な表情に私はごくりと喉を鳴らした。
 対して、お弁当箱を机に置いた一果はおもむろに椅子の背もたれに両肘を置くと、顔の前で手を組んだ。その眉間には皺が寄っている。

「彼だけは、やめておきなさい」
「うん……え?」

 重苦しい空気に流されて思わず首肯したけれど、一果の言葉の意味がわからない。『やめておく』ってなんのことだろう。

「私も反対ですね。傷つくことになるのは、間違いなく縁葉(よりは)さんですから」
「縁葉『さん』……?」

 頭を捻る私を差し置いて、眼鏡をクイッと持ち上げる仕草とともに紗良が口を挟んだ。彼女まで口調がおかしなことになっている。なにより紗良は裸眼だ。
 もしかして——
 やっと分かった。この二人、絶対に面白がっている。だって、少し前に三人で見に行った映画に、こんな感じのシーンがあったから。大企業の経営陣が企業存続を掛けて右往左往する陰謀系のストーリーで、お母さんには『女子高生ってもっとかわいい映画を観るものだと思ってた』なんて言われたけれど、案外三人ともハマってしまって数日間は映画の話でもちきりだったほどだ。

「ねぇ、絶対ふざけてるって。勝手に重役会議、始めないでくれる?」

 私はやっとのことで反論の声を上げた。
 二人が同時に吹き出したのは、一拍遅れてのこと。

「ふっはは! ごめんごめん! でも、よかったっしょ? あたしの代表取締役っぷり」

 大きく口を開けてケラケラと笑いながら、一果は先ほど食べ損ねたタコさんウインナーをその口に放り込んだ。
 頭の動きに合わせて、校則ギリギリアウトな明るい茶髪の毛先が肩より少し上で跳ねている。片方を耳にかけているからピアスの穴が見えているけれど、それが塞がれるのは放課後になってから。

「うーん、代表取締役までは分かんなかった」
「なんでよ、名演技だろうが」

 キッと睨みを利かせる一果を横目に、私は初手に選んだ玉子焼きを口に含む。
 一果が役柄にまでこだわっているのは、あの映画を見たいと言い出した張本人だからだろう。将来の夢が富豪である彼女は、ほとんど毎日バイトのシフトを入れていて、経営系の本まで読むほどお金に対する関心が強い。
 確かに映画を終えたとき、『一回あんな会議に出てみたい』なんて冗談交じりに話した記憶はあるけれど、それをこのタイミングで仕掛けられるとは思ってもみなかった。

「あはは、私もごめん。さっきの休み時間、縁葉がトイレに行ってるときに、また映画の話をしてたんだよね」

 目尻も眉根も下げて笑う紗良だって、すごく乗り気だったのを私は見逃していない。
 そのおっとりした顔立ちに反して、ポニーテールと小麦肌がトレードマークの彼女は、一年生ながらすでに硬式テニス部の次期エース候補だと聞く。
 中学時代には部長を務めていたこともあってかなりのしっかり者だけれど、こうして寸劇にも付き合ってくれるほどノリがいい。

「もお、何事かと思ったよ。なにかしちゃったのかと思って、めちゃくちゃ焦ったし」

 なんて口を尖らせてみるけれど、当然ながらそこに批判的な感情は一切含まれていない。むしろ、二人はなんの打ち合わせもなく寸劇を始めたのだろう。そう思うと、見事な連携プレーだった。
 会話の九割はくだらなくて、その内容も話題が変われば即忘れてしまう。そんな愉快で適当な繋がりが私にはとても心地いい。
 友情運でも悪かったのか中学までの同級生とはここまで気兼ねなく話すことができなかったから、心から友達だと思えた相手は二人が初めてだ。
 そのせいか私は二人との何気ない会話を過剰に楽しんでしまっている気がするから、「好き」とか「楽しい」といった言葉を軽率に口にしないように気をつけている。あまり言い過ぎると、言葉の重みが減ってしまう気がするのだ。

「でも、『やめといたほうがいい』っていうのは本当だよ」

 先ほどまでとは打って変わって、紗良の表情がはっきりと曇った。
 一果も「同感」と首を縦に振る。
 この二人のいいところの一つは、こういうところ。おふざけが大好きだけれど、相談事には真剣に向き合ってくれる。それが分かっているから、前座に寸劇を挟まれたところで目くじらを立てることなんてしない。
 だけど、ちょっと言っている意味が分からなくて、私は疑問をそのまま口にした。

「やめとくって、なにを?」
「だから、高石先輩」

 そう答えたのは一果だ。
 紗良は一果に説明を任せたのか、なんの躊躇いもなくカレーパンにかじりついた。

「あの二年生のことでしょ? 超塩対応で有名な」
「超、塩対応?」
「入学したてのころかな、ちょっとした噂になったんだわ。『二年にかっこいい先輩がいる』って。で、何人かの猛者がお近づきになりたくて声かけまくったけど、誰一人心開いてもらえなかったらしい」
「え……」
「しかもこれ、一年生だけじゃなくて上級生も同じなんだよ。みーんな、その見た目に惹かれて声かけるけど、相手にしてもらえない」
「う……、そうなんだ」

 なんだか、雲行きが怪しくなってきた。
 男子が苦手な私がそんな塩対応な人を前にして、ちゃんと生徒手帳を返して手紙のことを聞けるのだろうか。頭が焦燥感でいっぱいになって、しどろもどろになって、挙げ句なにも目的を果たせないまま戻って来る。そんないつもの私の姿が容赦なく脳裏を過った。
 そもそも学内で名を馳せているような人が、どうして私の手紙なんかを生徒手帳に挟んでいるのだろう。しかも、一度捨てられたしわくちゃの手紙なんて、なんの役にも立たないのに。

「猛者たちが言うには、視界にも入れてくれないらしい。名指しで声かけても目合わないから、それなら物理接触しかないと思って腕に手を回したけど、めっちゃ怪訝そうな顔で振り払われたって言ってた」
「へぇ、ふほひへぇ」

 紗良がもぐもぐしながらなにか言っている。多分、『へぇ、すごいねぇ』だろう。
 でも、私も紗良と同じことを思った。目も合わない相手にもっと踏み込むなんて真似、私なら絶対にできない。なにが悪いのかも分からないのにとりあえず謝って、そそくさと視界から消える。そして、以降は徹底的に相手を避ける。私なら、きっとこうする。

「すごいっしょ? でも、モテるんだわ。何回か遭遇したことあるけど、遠目にも分かるぐらいめっちゃ目立つし、『きれいな人』って言葉が似合いすぎてた。しかも、頭もいいとか完璧かよ!」
「なんか、二次元みたいな人だね」
「な。てか、紗良もそのとき一緒だったくない?」
「うーん、覚へてひゃい」
「そうだわ。この人、彼氏一筋だったわ」

 眉根を寄せて「べっ」と舌を出した一果の表情がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。

「でも、彼女の話も聞かないんだよなぁ。大学生とか年上と付き合ってんじゃないかって噂もあるけど、全部噂止まりだし」

 一果はこの手の話にやたら詳しい。
 昔から周回遅れレベルで情報が入ってくる私だったのに、彼女と仲良くなってからは情報通の域に片足を突っ込んでしまった気がする。それは紗良も同じらしく、『一果のおかげで学内の情報に詳しくなった』といつだったか笑っていた。
 そんな紗良がカレーパンの最後の一口を飲み込んだところで、追加情報を提供してくれた。

「私も人気あることしか記憶になかったけど、一果の話で思い出した。部活の先輩の友達が告白したけど、やっぱりダメだったって。なんか、『俺のなにがいいわけ?』みたいなこと言われて、号泣して帰ってきたって。立ち直るのに相当時間かかって、何回も泣いてるその子慰めたんだって」

 そういえば、あのときの私は泣かなかった。正確に言うと、泣くタイミングが見つけられなかった。
 地面を引きずられる重たい砂袋のように、私の恋心はずっと彼に紐づいたままだったから、その紐が切れるほどの衝撃も綺麗に結ばれるような喜びも与えてもらえなくて、ずっと感情の形成が不完全だったのだ。
 そんな後味の悪すぎる恋だから、正直なところ手紙を処分したからといって決着をつけられるとは思っていない。手紙の存在を知って、しかもそれが手の届きそうなところにあるとなれば、放って置くよりはマシになる気がする程度だ。少なくとも、昨日思い出してしまった恥ずかしい部分を消化できたら及第点だと思う。
 でも、甘かったのかもしれない。高石先輩がそこまで目立つ人だったなんて。『手の届きそうなところ』どころか、むしろ一番届かない存在だ。これでは教室を訪ねただけで注目を集めるのは目に見えているし、どう言い(はや)されるか分かったものではない。
 詳しい話を聞くためにどこか人けのない場所まで移動したかったけれど、それ以前の問題だ。
 もう手紙のことは諦めて、先生に落とし物として届け出たほうがいいのかな。
 だけど、名前を確かめるために先生が手帳を開いたら、手紙の存在がバレてしまうかもしれない。万が一、勉強に不必要なものだとして先輩が怒られてしまったら、さすがに後味が悪い。

「どうしよう……」

 肩を落とした私を見て、二人がなぜか慌て始めた。

「あ、だからね? 縁葉の気持ちは尊重したいけど、縁葉に限らず厳しいから心配だなって話だよ?」
「そうそう。打っても全く響かない相手を思い続けるとか、普通にしんどくない?」

 ん? 気持ちは尊重? 思い続ける?
 紗良の言葉も、それに続いた一果の発言も、どこか私の考えていることとズレている気がする。
 だって、二人の言っていることって、まるで——
 
「なんか、私が高石先輩に気があるみたいな感じだけど」
「「え? ちがうの?」」

 まさかハモるとは思わなくて、一旦三人で爆笑してしまった。
 お腹を抱えて一通り笑い終えたところで、私は二人に事情を説明する。

「昨日、先輩の生徒手帳を拾ったから返しに行きたいだけ。先生に渡してもよかったんだけど、中に……いろいろと挟んであったから、見られたくないかなって思ってさ」

 言いながら、胸がツキンッと針を刺したように痛んだ。
 中学のときの告白について、一果と紗良には私がラブレターを渡して『振られた』と伝えてある。高校で二人と出会って毎日が楽しくなったおかげで思い出さない日も増えたとはいえ、まだすべてを(つまび)らかにできるほど吹っ切れてはいない。それでも、できる限り嘘のないようにと必死に絞り出した結果が『振られた』という説明だった。
 でも、その表現はある意味正しいと思う。だって、実際に私の恋は成就していない。私が勝手に凄まじい粘度の未練を抱えているだけで、彼にとっては一刻も早く手放したかったものなのだ。そうじゃないと、手紙を捨てたりなんてしない。これを『振られた』と言わなければ、なんと言い表せばいいのだろう。
 だから、『いろいろと』なんて嘘をついてしまって、ごめんなさい。でも、こんな重苦しい背景をすべて説明するには、時間も場所もきっと今じゃない。すでに昼休みは残り半分ほどになっているし、近くには他のクラスメイトだっている。話すにしても、ゆっくりできる機会を改めて設けたい。

「なんだよー、そういうことは早く言え。ついに縁葉も恋したのかって、めっちゃ嬉しかったのに」
「上げて落とす感じになったのは悪いけど。重役会議始めたの、一果なんだよね」

 私に痛いところを突かれたのか、一果は素知らぬ顔でレモンティーをストローで吸い上げた。私たちのやり取りを見ながら肩を震わせていた紗良は、
 
「私も期待しちゃったよ。男子が苦手な縁葉にはちょっと心配な相手だったから、いろいろ言っちゃったけどね」

 と温かい眼差しを向けてくれる。

「でもさ、生徒手帳返すぐらいから始めるのがいいかもよ」

 その言葉の真意を尋ねるように、私と紗良は一果に視線を送った。

「男子が苦手なのに、いきなり会話しろって言われても難しいっしょ? 生徒手帳返すなら『落ちてました』『ありがとう』ぐらいのやり取りで終わるし、まずは男子の前に立つことから慣れていくのがいいって思ったんだよ」
「えー、でもどうだろう? お礼も言わずに奪い取られて終わるかもよ?」
「う、奪い取られて……」

 紗良の言葉が鉛のようにのしかかり、私は思わず唸った。

「あー、ごめんごめん! ほら、そんなに急いで克服するものでもないしさ? 無理はしなくていいと思うよ?」
 
 克服——
 実際のところ、私はどうしたいのだろう。
 もし、このまま異性に対する苦手意識を抱えて生きていくとしたら。
 大人になれば今よりもっと世界は広がるはずで、そうなれば必然的に異性と接する機会も増えるのに、そのたびに私は死地に赴くような心持ちで挑まないといけないのかな。
 周りはもっと踏み込んだところで悩んでいるのに、私はその何十歩も手前で、一人もたもたと足踏みをすることになるのかもしれない。
 そんな未来はさすがに嫌だ。
 私なんかに輝かしい未来が用意されているとは思わないけれど、今動くことで少しでもマシになるのなら——……
 そうだった。あのときもそう思って、ラブレターを認めたんだった。
 やっぱり、無理だ。タンポポはタンポポのままでは選んでもらえない。なんとかして桜にならないと、小手先の克服なんて意味がない。私がもっとかわいくなって、自分に自信をつけて、桜にならないと。「私」ではダメなんだ。
 でも——

「とりあえず、生徒手帳はちゃんと返してくる」

 私の決意に二人は口角をニッと上げると、「よっしゃ!」「がんばってね」と口々に励ましてくれた。
 桜になるならないは別として、拾ったものを持ち主に届けるぐらいの責任はちゃんと果たしたい。手紙の話を持ち出すのは絶望的だし、呼び出す時点で門前払いを食うかもしれないけれど、先生という逃げ道を選ぶ惨めな姿を二人に見せたくない。
 とりあえず、高石先輩を訪ねるのに必要な情報は——

「えっと、それで、なんだっけ? 高石先輩のなにが知りたいんだっけ?」

 ちょうどいいタイミングで、紗良が話を戻してくれた。そう、私が二人に聞きたかったのは——

「高石先輩の所属クラスだね」
「そうそう、それそれ。でも、私は知らないんだよね。一果は?」
「あたしもクラスまでは分かんないや」

 三人の間に沈黙が落ちる。
 その面持ちからして、二人とも真剣に考えてくれているようだ。私も頭を捻るけれど、一つずつ教室を確認する以外、いい案は思い浮かばない。
 ふと、莉央ちゃんの顔が脳裏を過った。
 一応、莉央ちゃんの連絡先は知っている。昨日だって『一緒に帰ろう』と言ってくれたのは、連絡を取り合って待ち合わせようという意味だったのだろう。それを分かっていて、私はああやって返事をした。最低なことをしているのは分かっている。
 でも、無理だ。莉央ちゃんに高石先輩のことは聞けない。聞きたくない。
 莉央ちゃんのことだから、上級生を独りで訪ねるのは不安だろうと考えて『一緒に行くよ』と言ってくれるだろう。だけど私は彼女と連れ立って男子と関わりたくない。それならもう私の代わりに返してもらったほうがマシだし、昨日頼んでおけばよかったのだ。

「よしっ! パパッと誰かに聞いてみるか。ちょいとお待ち」

 なんの前触れもなく沈黙を破ったのは一果だった。
 引き止める間もなく立ち上がった彼女は、軽快な足取りで他の女子グループのほうへ駆けていく。その嵐のような勢いに圧倒されて、私と紗良はただ呆然と見送るしかできなかった。
 男女問わず気軽に声をかけられる性格のせいか、一果は本当に顔が広い。部活をやっていないのによく他クラスの子からも声をかけられているし、一年二組の生徒に関しては、きっと全員が彼女と一度は言葉を交わしたことがあるんじゃないかな。一果が校内の情報に詳しいのもこの性格ゆえだと思う。
 かく言う私も、一果に声をかけてもらった人間のうちの一人だ。席の近い二人が先に仲良くなって、一人でいた私をその輪に入れてくれたのだけれど、それがこんなに楽しい時間の始まりになるなんて当時の私は思ってもみなかった。中学生までの私が見たら、教室でこんなに笑っている自分の姿に驚くにちがいない。
 そうこうしているうちに、なにやら収穫があったのか、一果が女子グループに手を振ってこちらに戻ってきた。

「分かったぜ」
「本当? ありがとう!」
「さすが、コミュ力の鬼」
「誰が鬼だ」

 元いた席に座る一果に、私と紗良の視線が自然と集まる。
 一方、当人は自身に向いた注目などさほど気にすることなく、レモンティーを手に取りながら「五組だって」と言ってのけた。

「五組か……。よしっ、行ってくる!」

 今度は私が勢いよく立ち上がると、机の横にかかっているスクールバッグから紺色の生徒手帳を取り出した。

「よっしゃ、行ってこい!」
「え、縁葉、一人で行くの? 一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫。この勢いのまま凸してくる」

 むしろ、この機会を逃したら本当に生徒手帳を返せないかもしれない。
 そう思った私はガッツポーズを向ける一果と、心配そうな表情で見つめる紗良に手を振って、教室を後にした。
 ——そういえば、莉央ちゃんは何組なんだろう。
 そんな疑問を浮かべながら。