話を終えて私に向けられた眼差しは、今までで一番力ないものだった。
先輩が軽く腰掛けているスプリング遊具のうさぎまで悲しげな表情に見えてくる。向かい合うかたちでパンダの背に座る私は、
「あの公園に、先輩が……」
なんて話の要約のような言葉しか出てこない。
——外見なんてただの飾りなんだから。
あの言葉の裏にこんなにもつらい過去が隠れていたなんて。そんなことも知らずに、先輩にひどい言葉をたくさんぶつけてしまった。先輩は一度も口を挟まなかったけれど、一体どんな気持ちで耳を傾けていたのだろう。
ご両親からの心ない扱い、異性からの身勝手な要求。
外見に恵まれていない人間のほうが苦労しているに決まっているなんて、そんなはずがないことは莉央ちゃんの近くにいた私なら知っていたはずなのに。それすらも忘れてしまうほど私は過去の経験に囚われて、自分の殻に閉じこもっていたんだ。
だって、全然気づかなかった。先輩はずっと——
「あの、聞いてもいいですか……?」
「ん?」
「それがどうして、『一番大事』って言葉に繋がったんですか? 前に言ってましたよね。生徒手帳よりも手紙が一番大事って……」
「ああ……」
ギギッ……と遊具が余韻を残して軋む。それはどちらの遊具から聞こえたものだろう。
「俺がずっと勉強をがんばってたのは、両親に振り向いてもらいたかったから。自分を悪だと責めたのは、そんな両親の血を引いているのだと知って絶望したから。そして、ずっと自分に自信がなかったのは、勉強も運動も恋愛もなにひとつ上手くできないと思ってたから。でも、小林の胸ぐらを掴んで声を上げたあと、自分に抗う力があるんだって気づいた」
「抗う力?」
先輩がコクリと深く頷いた。
「自分の置かれた環境に抗う力っていうの? 周囲が、特に親が、身勝手に向けてくる理不尽に屈しない反骨心が自分に備わってるって知った」
「それって——」
納得できるものだけで——先輩の生き方はここから生まれたのだろうか。
「そう。親のために勉強するのをやめて、よく分からない恋愛に時間を割くのをやめた。自分の好きに振る舞って、好きなことしかやらない。出井の手紙は俺にそう気づくきっかけをくれた。だから、一番大事」
「…………」
無駄ではなかったというのだろうか。
熟考を重ねてようやくたどり着いた告白の手段も、文面も、同じ学校の生徒の目を忍んで選んだ場所も。意図した相手には一切伝わらなかったけれど、それでも無駄ではなかったというのだろうか。
長らく深い闇で覆われていた失恋の記憶にスッと柔らかな光が差し込んだ気がして、俯いていた私は顔を上げる。だけど、そんな私とは対照的に先輩の面持ちはまだ晴れない。
そうだった。先輩に支えてもらってばかりの私からは抜け出すと決めたんだ。「高石理世」という一個人の過去を知ってしまった今、もう今までと同じ関係ではいられない。それを分かっていて、私はこの人をここに呼んだ。
「後悔してますか?」
「いや。……でも、……」
先輩が言葉に詰まるなんて。
私も固唾を呑んで見守る。
「小林に突っかかったのは後悔してない……。いや、してるんだけど、それよりも俺は……」
その眼差しがゆっくりと私を捉える。
「ごめんな、こんな話で。しかも、手紙だって俺がめちゃくちゃに——……」
やっぱり、そうだ——たまらず私は先輩を抱き締めていた。
「いず、い……」
「なんで……なんで先輩がそんなに…………」
先輩はずっと心配してくれていたんだ。
当時、まだ赤の他人だった私の幸せを願ってくれるような人だから、うじうじ悩んでばかりだった私の話に耳を傾けてくれるような人だから。私が小林くんの話を聞いたら傷つくんじゃないかって、ずっと心を痛めてくれていたんだ。
ひどい後悔に襲われて唇を噛む。
こんなことになるのなら初めてロータリーで話したときに、小林くんのことも言っておくんだった。まずは私が“こう”なったきっかけをと思って五年生の失恋話から始めたけれど、そのせいで小林くんのことは話せず終いになってしまったから。
あんなかたちで手紙の送り主が私だと知られてしまうなんて、悔やんでも悔やみきれない。伝えるタイミングは何度もあったのに、なにかと理由をつけて名乗り出ることを先延ばしにした私の臆病さが招いた最悪の結果だ。
カフェで話した日の別れ際に先輩が見せた、すべてを呑み込んだ表情。
あれは呑み込んだのではなくて、心配に押しつぶされそうな思いから来たものだったのだろう。そう思うと、視界が滲む。
だけど、それだけじゃない。きっと先輩は——
「手紙に込めた私の想いが報われなかったんじゃないかって、ずっと気がかりだった……んですか……?」
腕の中で先輩が小さく頷いたのが伝わってきた。
思わず先輩の背中に回した腕にキュッと力を込める。
「ありがとう、ございます……」
袖口で滲んだ視界を整えると、「でも」と先輩の肩を掴んで勢いよく体を離す。私を見上げる先輩と目が合った。その瞳がかすかに揺らぐ。
これまでずっとこの眼差しに射抜かれることを恐れていたのに、今は逸らしてほしくないと思っている自分が不思議でならない。
「確かに私の恋心は報われなかったんですけど、それは絶対に先輩が小林くんを怒ったからでも、手紙をしわくちゃにしたからでもありません」
手紙を受け取ったあとの小林くんの話なんて、確かに聞きたくなかった。でも、おかげで一つ思い出した。
「小林くん、よく莉央ちゃんと帰っているときに私に声をかけてきたんです。でも、莉央ちゃんには挨拶をするだけで、別れるまでずっと話すのは私とだけだった……。だから、安心してたんです。小林くんは莉央ちゃん目当てなんかじゃないって……」
「…………」
「今思えば、それも莉央ちゃんに対するアピールだったのかなって。私たちが仲いいのは周知の事実だったから、私の友達ポジから攻めていこう……みたいな……」
今度は私が力なく笑う。
伸ばされた先輩の右手が私の左手を優しく握った。もう涙は出ていないのに泣いているのがバレた気がして、平静であることを伝えるためにぎゅっと握り返す。
強がりではなく、小林くんに対する気持ちは少しも残っていない。カフェで見下ろした小林くんは私の知っている彼ではなかったから。きっと、あれが本当の姿なのだろう。
だけど、心のどこかに悲しみの気配がするのは、私の名前の先に莉央ちゃんを期待していた事実が純粋に悲しいからだ。分かってはいたけれど、それを笑い飛ばせるほどの強さは私にはまだない。
「小五の失恋からずっと男の子が苦手で、克服のためにと思い立った告白でした。結果は散々だったし、苦手意識も悪化したけど……、でも、今は後悔してません。あのときの私はちゃんと自分で告白するって道を選んで進んだから。先輩の教えてくれたことが、私の黒歴史をいい経験に変えてくれたんです」
「よくはないだろ……」
私はゆっくりと頭を振る。
「そんなことない。私は行動できる人間なんだって、先輩だって私に教えてくれた」
「なんだよそれ。もっと怒れよ……」
「怒ることなんて一つもない。むしろ、感謝のほうが伝えきれてません。だって、先輩の指摘がなかったら髪を切るなんてしなかった。莉央ちゃんを目指すことが腑に落ちていないことにだって気づけなかった。生徒手帳を拾ったのは偶然だけど、先輩と出会えてよかったって、先輩のおかげだって思ってるから……」
「…………」
「……えっと、本当は生徒手帳を返したときに、手紙のことも伝えて返してもらうつもりだったんです。でも、言えなくてよかったのかも。あのときの私だったらすぐに手紙なんて捨てちゃって、先輩が怒ってくれたことも知れなかったかもしれない」
とはいえ、あのとき言えていたら最悪の結果にならなかった可能性だって残っている。
結局、物事のすべてを後悔なく終わるのはとても難しいことなのかもしれない。そう言ったら、「俺もそう思う」と意外な答えが返ってきた。
「偉そうなこと言ったけど、俺だって納得できないことはある。むしろ、納得できない状況の中で少しでも納得できる答えを探すほうが、実際は多いのかもしれない」
「それは……」
「お家のことですか」と踏み込んでいいのか分からなくて、口にできなかった。
だけど、きっと顔に出ていたのだろう。
「俺にとって、世界一居心地の悪い場所があの家」
「——……っ」
正しい返し方が分からなくて、必死に言葉を探す。
間に合わず、正解にたどり着く前に「だから」と先輩が口を開いてしまった。
「極力家に帰らなくていいように生きてきた」
「えっ?! い、家出……みたいな……?」
「できればいいんだけど。近くに頼れる人もいないし、夜はさすがに帰ってた。でも、夕飯はバイト先でお世話になってたな」
「え、あのカフェで?」
「そう。あそこ十八時に閉まるんだけど、あるとき会話の流れで家に居づらいことが知られてから、まかないだって言ってオーナー夫婦が夕食に混ぜてくれるようになった」
ネットで読んだ口コミでもオーナー夫婦の人柄に触れるものは多かった。
つまり、私がテスト明けに公園で待ちぼうけを食わされたのは、オーナー夫婦の食事の席に混ざっていたからということだろう。
もしかするとロータリーで話したときに先輩がもりもり食べていたのは、夕飯前の軽食ではなく本当に夕飯だったのかもしれない。
「そういえば、どうしてあそこで働いてるんですか? ちょっと、いえ、かなり高級なカフェですよね?」
「ああ。最初は高校の最寄駅にあるファミレスで働いてたんだけど……」
一果たちと行ったファストフード店と同じビルに入っている店舗のことを言っているだのろう。あの駅はうちの高校の他にも近隣の大学の最寄駅になっているから、あのときも満席で入れなかった。
「顔も知らない女子から話しかけられることが多くて仕事にならないから、ファミレスの店長の知り合いの店紹介してもらった。あのカフェなら学生が入れる価格帯じゃないから、平和に働けるだろうって」
「店長、めちゃくちゃいい人じゃないですか」
「な。短い間だったけどお世話になったし、尊敬してた」
それからしばらくは他愛ない話で盛り上がった。
ファミレスのどのメニューが好きだったとか、もっとも恐怖を感じたお客さんとのエピソードとか、どれも雑談の範疇を超えないものばかりだったけれど本当に楽しかった。希望的観測かもしれないけれど、先輩も同じに見えた。
だけど、そろそろ空が赤らみ始める。
このまま別れるわけにはいかない。あと一つ、私にはどうしてもやらなくてはいけないことがあるのだから。
私が急に黙ったからか、空気が少し重苦しくなった。
なにか言わなくてはと慌てていたら、そんな空気を切り裂くような軽やかな声が耳に届いた。
「俺、転校する」
欲しかった話題のはずなのに聞きたくなかった。そんな矛盾した思いが駆け巡る。
だけど、きっと先輩は分かっている。
私が転校の話を知っていることも、それを口にできなかったことも。それを分かっていて切り出してくれたというのに、このまま黙っていてはその気遣いを無駄にしてしまう。
切り替えるように頭を軽く振ってから、「聞きました。どちらに?」となんとか会話を続けた。
「関西。父方の伯父のところにお世話になる予定。三学期から」
「さん、学期って……」
もうあと数日しかない。
「二学期の終わりに、しばらく会えないって言っただろ? あれ、兄が警察沙汰を起こしたからなんだけど」
「えっ」
一果が言っていたのは、このことだろう。
「両親は俺にとって厄介な存在だったけど、俺の兄——智広はよく分からない人間だった。優秀なのは傍目にも理解できるけど、人間性を知れるほど仲が良かったわけでもなくて。なんて言えばいいかな。俺のことをずっと敵視してる感じだった」
「それは好ききらいとはちがうんですか?」
「きらわれてると言えばそうなんだろうけど。もっと激しい感情……、憎悪に近い雰囲気だった気がする。学童の一斉帰宅で遭遇したときはすごい形相で睨んできたし、小学生のときにバレンタインでもらったクッキーは踏みつけて粉々にされたし」
「ええ……」
思わず素直に反応してしまったけれど、人様のご家族であることを思い出して「すみません」と謝った。だけど、「俺も同じ感想だから」と笑われてしまう。
「今思えば、クッキーの件が初めて智広の本性が垣間見えた瞬間だった。それまでは出来の悪い俺を庇うことも、両親と一緒に蔑むこともしなくて、ただ遠巻きに見てるだけだったから。当時は両親の関心を一身に受けてるはずなのに、俺のなにが気に入らないんだろうって思ってたんだけど——」
「けど……?」
「——でも、警察沙汰になってやっと分かった。智広は他人との意思疎通がことらさ苦手で、友達と一緒にいる俺に嫉妬してたらしい」
「そ、れは……」
嫉妬心の一言まとめるにしては、かなり強い感情のように思えてしまった。
先輩の言う通り計り知れない憎悪が含まれていたのだとしたら、それほどまでに先輩のお兄さんは人との繋がりを求めていたのかもしれない。
私も友達に恵まれない期間が長かったから、孤独によって焦燥感や不安を煽られたことは何度もある。特に人気者が近くにいればいるほど、自分には魅力がないのだと暗に突きつけられているみたいで惨めな気持ちになった。
「家族との交流なんて皆無だったから、家の中がどんな状況かすら俺はほとんど知らなかったんだけど。智広は数ヶ月前に休職して以来、ずっと部屋に引きこもってたらしい」
「仕事が上手くいってなかったんでしょうか?」
「いや、仕事は智広の得意分野だから、問題があったとすれば人間関係のほうだったって。大学院まで進んだから働き始めたのは一昨年だけど、当初から職場の人とはほとんど会話してなかったらしい。それが今年の春ごろに小さなトラブルが原因で悪化して、ストレスが溜まっていったんじゃないかって」
人間関係の話といえど、バイトの経験すらない私には職場でのトラブルやそこからくるストレスなんて想像もつかない。
お母さんもよくお父さんに仕事の愚痴をこぼしているけれど、あれは口にすることで鬱憤を吐き出していたということなのだろうか。
「あの……、そういうストレスってご両親に相談しなかったんですか? ご両親は、えっと……、お兄さんには優しかったんですよ、ね……?」
はっきりと言葉にするのがためらわれて、尻すぼみになってしまう。
そんな私の様子にふっと微笑んだ先輩はそのまま私の頭を軽く撫でた。「わっ!」と大げさに反応してみせたのは、遠慮したことを見抜かれた気恥ずかしさを隠すためだ。
熱の残った頭頂部に意識が持って行かれないように、「多分、あいつらはそんなことしてない」と言った先輩の声に集中する。
「俺がバイトから帰ったときにちょうど両親と智広が言い合ってて、父親が『育ててやった恩も返さずに』みたいなこと言ってたから。引きこもってからの智広は、あいつらにとってお荷物でしかなかったんだよ」
「そんな……」
「俺は関わりたくなかったからすぐに自室に向かおうとしたんだけど、まさか智広が刃物に手を伸ばすんだもんな。さすがにまずいと思って、急いで警察に通報した」
「それで、転校を……?」
「そう。関西に住んでる伯父が騒ぎを聞きつけて、俺を保護するって言い出してくれた。家族に蔑ろにされていた俺を気にかけてくれた唯一の身内だったから、断る理由もなくて」
先輩に味方がいたことにホッとする気持ちと、受け入れてほしくなかったという気持ちが複雑に絡み合う。
受け入れてほしくないなんて、赤の他人の私が言えた立場ではないのに。
「今はまだお家に?」
「いや、一旦ホテル泊。智広のこともまだ落ち着いてないからって、伯父が手配してくれた。あいつら……両親が手のひらを返すように俺にすがってきたのを見てたからだろうけど」
ご両親が我が子に求めていたのは、本当に自分たちに対する恩恵だけだったということだろう。
あまり先輩の身内のことを悪く言いたくはないけれど、そんな環境の中で真っ直ぐに育った先輩のことを尊敬せずにはいられない。私なんて一果や紗良、そして先輩の力を借りてやっと殻を破ることができたのに。
私の手紙がきっかけになったと言ってくれたけれど、そこから前向きな気づきを得て自分らしい生き方を見つけられるなんて絶対に簡単なことではない。それをすべて自分一人の力でやってきたなんて——
そう思うと、また強く抱きしめたい気持ちに駆られる。
「学校を休んでたのは転校先を探したり、編入試験受けたり、転校の手続きで手一杯だったから。俺は来年受験生だし、時期的に転校は難しかったけど、伯父の知り合いに学校関係者がいて協力してくれた。それで、なんとか偏差値の近いところで見つけられて……」
上手く収まりそうなことに喜ぶべきなのに、「よかったですね」の一言が喉で支えてどうしても出てこない。
「そうですか」なんて代わりにするにはそっけない返事をしてしまった。先輩が気を悪くした様子はないけれど、一方で私は一人モヤモヤしている。
「チャット、返せなくてごめん。クラスのやつも連絡くれてたんだけど、これでもかなり滅入ってたから見る気になれなくて。昨日もずっと待っててくれたんだろ? 本当にごめん」
謝る必要なんてどこにもない。
その思いを込めて、あとモヤモヤを振り払いたくて、私は強く頭を振る。
「インフルの教訓で、すごく温かい格好してますから。ほら、今着てるこれ。中がボアになってるし、その下も分厚いものだから、むしろ暑いくらいです」
なんて上着の前を開いて見せてみるけれど、言動とは裏腹に声に全く力が入らない。
先輩はそれでいいんですか——そう訊いてしまいたい。
だけど、その答えはもうすでにもらっている。納得できない状況の中で、きっとこれが先輩の選んだ納得できる道なんだ。
先輩が何度も口にして、私にも教えてくれた生き方を尊重したい。
たとえ心がないまぜな感情で溢れていたとしても、それをぶつけるのは今ではない。これで最後とは限らないんだと莉央ちゃんが教えてくれたから。先があるのかどうか今はまだ分からないけれど、私だって納得できるかたちで先輩を見送りたい。
それが私の今やるべきこと、やりたいこと。この数週間、私はそのために動いてきたのだから。
「先輩、これ——」
私はショルダーバッグの中からあるものを取り出すと、グッと両手を伸ばして差し出した。
「……手紙?」
手紙が手から離れると同時に、言葉の代わりに首肯する。
「なに? 別れの手紙?」
「それは……、先輩が決めてください。私の気持ちはすべてそこに綴ったので」
束の間、先輩はじっと手紙を見つめたあと「分かった」と微笑んだ。
「先輩」
「ん?」
「私、やっぱり莉央ちゃんに憧れる気持ちは捨てられません」
「……うん」
「だけど、今の私が莉央ちゃんになりたいのは、もっと深い部分なんだって思いました」
改めて莉央ちゃんを前にして、彼女の外見そのものを欲する気持ちが薄れていることに気がついた。
それは自分のままでいいのだと納得したわけじゃない。ある意味、諦めにも近い感情なのだと思う。どう足掻いても同じ外見を手に入れることはできないと悟ってしまって、追いかけても無駄だと諦めたような感覚。
だけど、今の私はそのことに不満を覚えていないし、無理に納得しようとしているわけでもない。さまざまな出会いと経験をもって、諦めを受け入れられるだけの余裕が心に生まれた気がしている。
私に限らず、外見に左右される機会はやっぱり存在すると思う。だけど、それを上手く受け流して自分に向き合える強さが今は欲しい。莉央ちゃんと会って、私はそう思った。
「まだ男子に対する苦手意識も克服できてないし、自分の見た目だって好きじゃないけど……。でも、前みたいに莉央ちゃんのコピーになりたいとは思いません。だって、私が莉央ちゃんのコピーじゃなかったから、小林くんに手紙を書いて、その手紙で先輩を助けられた……っていうのはただの自惚れですけど……。ちょっとでも、お役に立てたのかなーって……」
調子に乗っておかしなことを口走ってしまった。先輩の顔を見ていられなくてサッと目線を落とす。靴の中で足の指がモゾモゾと動いているのが見えた。
少し前向きになれたからといって思い上がりにもほどがある。自分の中に眠っていた反骨心に気づくきっかけをくれたと言われただけで、助けられたなんて一言も言われていない。
「いや、合ってる。助けられたよ、あの手紙に。それに俺、ずっと出井のこと尊敬してたから」
「………………え?」
予想外の言葉に耳を疑わずにはいられない。
先輩から見て私は尊敬とはほど遠いところにいる存在だと、諦めでも投げやりでもなく事実としてそう思っていた。
だから、「ど、どこを……?」と尋ねる声は驚くほどに間抜けで、さすがの先輩も笑いをこぼす。
「なんだよ、その『ありえない』みたいな表情。信じてないだろ、本当に尊敬してんのに」
「え、いや、だって……」
「じゃあ、言わせてもらうけど。なにかを変えるために告白って行動に移したところ、素直にすごいと思った。当時はまだ出井だって知らなかったけど。あとは笹本に嫉妬してたのに、笹本を大事にし続けようとしてたところも。智広が俺にしたみたいに笹本を妬むこともなく、自分で全部背負おうとしてただろ。どれも並大抵のことじゃないと俺は思う」
「…………」
頬を何筋もの涙が流れる。
せっかく気づかれないように視界を整えたのに、これでは意味がない。
だけど、自分の意思に反して止めどなく涙が溢れてくる。
この人はどうしてこんなに優しいんだろう。自分だってたくさん傷ついたのに、どうして素直に人を認められるんだろう。
たった今、私にくれた言葉のすべてをそのまま先輩に返したい。
だけど、もう時間がない。
辺りは暗くなり始めていて、グッと寒さが強まった。これから新しい道に進む人をこんなところに留めてはいけない。
「高石先輩」
弾むような声に先輩の名前を乗せる。
袖口で思いきり拭ったから目元がじんじんしているのに、追い打ちをかけるようにまた濡れてしまう。もう涙を止めるのは諦めた。
「手紙、ちゃんと読んでくださいね」
「……ああ」
「じゃあ、私はこれで」
「駅まで送れなくてごめん。気をつけて」
「大丈夫です! バイト先へのご挨拶も大事ですから」
踵を返すと、一定の速さになるように気をつけて歩みを進めた。
すぐに黄色い車止めポールまでたどり着いたけれど、それらの間を通って坂道に差し掛かってからも私は振り返らなかった。視界の端で先輩がじっと私を見送ってくれている気配がする。それだけで十分だ。
「ぅっ……クッ…………」
嗚咽を漏らしながら、ただひたすらに坂道を進む。
袖口はぐっしょりと湿っていて、もはやなんの役にも立たない。
たくさん考えたけれど、結局先輩に対する気持ちに明確な名前はつけられなかった。だけど、確かな思いが一つある。それは先輩との繋がりと断ちたくないということ。その気持ちを私は手紙に正直に記した。
他にもたくさん書いた。
迷惑ばかりかけたことに対する謝罪と、支えてくれたことに対するお礼。そして、莉央ちゃんとの会話の内容や一果と紗良の紹介。
そんなことを書いていたら、便箋五枚の超大作になってしまった。
先輩は返事をくれるだろうか。
もし、もらえたら——そのときは、もっとたくさん綴りたい。
これまでつらいことを独りで乗り越えてきた先輩が、自分を悪だと言っていた先輩が、私にしてくれたように。
先輩を彩るたくさんの言葉を、これからは私が綴りたい。
先輩が軽く腰掛けているスプリング遊具のうさぎまで悲しげな表情に見えてくる。向かい合うかたちでパンダの背に座る私は、
「あの公園に、先輩が……」
なんて話の要約のような言葉しか出てこない。
——外見なんてただの飾りなんだから。
あの言葉の裏にこんなにもつらい過去が隠れていたなんて。そんなことも知らずに、先輩にひどい言葉をたくさんぶつけてしまった。先輩は一度も口を挟まなかったけれど、一体どんな気持ちで耳を傾けていたのだろう。
ご両親からの心ない扱い、異性からの身勝手な要求。
外見に恵まれていない人間のほうが苦労しているに決まっているなんて、そんなはずがないことは莉央ちゃんの近くにいた私なら知っていたはずなのに。それすらも忘れてしまうほど私は過去の経験に囚われて、自分の殻に閉じこもっていたんだ。
だって、全然気づかなかった。先輩はずっと——
「あの、聞いてもいいですか……?」
「ん?」
「それがどうして、『一番大事』って言葉に繋がったんですか? 前に言ってましたよね。生徒手帳よりも手紙が一番大事って……」
「ああ……」
ギギッ……と遊具が余韻を残して軋む。それはどちらの遊具から聞こえたものだろう。
「俺がずっと勉強をがんばってたのは、両親に振り向いてもらいたかったから。自分を悪だと責めたのは、そんな両親の血を引いているのだと知って絶望したから。そして、ずっと自分に自信がなかったのは、勉強も運動も恋愛もなにひとつ上手くできないと思ってたから。でも、小林の胸ぐらを掴んで声を上げたあと、自分に抗う力があるんだって気づいた」
「抗う力?」
先輩がコクリと深く頷いた。
「自分の置かれた環境に抗う力っていうの? 周囲が、特に親が、身勝手に向けてくる理不尽に屈しない反骨心が自分に備わってるって知った」
「それって——」
納得できるものだけで——先輩の生き方はここから生まれたのだろうか。
「そう。親のために勉強するのをやめて、よく分からない恋愛に時間を割くのをやめた。自分の好きに振る舞って、好きなことしかやらない。出井の手紙は俺にそう気づくきっかけをくれた。だから、一番大事」
「…………」
無駄ではなかったというのだろうか。
熟考を重ねてようやくたどり着いた告白の手段も、文面も、同じ学校の生徒の目を忍んで選んだ場所も。意図した相手には一切伝わらなかったけれど、それでも無駄ではなかったというのだろうか。
長らく深い闇で覆われていた失恋の記憶にスッと柔らかな光が差し込んだ気がして、俯いていた私は顔を上げる。だけど、そんな私とは対照的に先輩の面持ちはまだ晴れない。
そうだった。先輩に支えてもらってばかりの私からは抜け出すと決めたんだ。「高石理世」という一個人の過去を知ってしまった今、もう今までと同じ関係ではいられない。それを分かっていて、私はこの人をここに呼んだ。
「後悔してますか?」
「いや。……でも、……」
先輩が言葉に詰まるなんて。
私も固唾を呑んで見守る。
「小林に突っかかったのは後悔してない……。いや、してるんだけど、それよりも俺は……」
その眼差しがゆっくりと私を捉える。
「ごめんな、こんな話で。しかも、手紙だって俺がめちゃくちゃに——……」
やっぱり、そうだ——たまらず私は先輩を抱き締めていた。
「いず、い……」
「なんで……なんで先輩がそんなに…………」
先輩はずっと心配してくれていたんだ。
当時、まだ赤の他人だった私の幸せを願ってくれるような人だから、うじうじ悩んでばかりだった私の話に耳を傾けてくれるような人だから。私が小林くんの話を聞いたら傷つくんじゃないかって、ずっと心を痛めてくれていたんだ。
ひどい後悔に襲われて唇を噛む。
こんなことになるのなら初めてロータリーで話したときに、小林くんのことも言っておくんだった。まずは私が“こう”なったきっかけをと思って五年生の失恋話から始めたけれど、そのせいで小林くんのことは話せず終いになってしまったから。
あんなかたちで手紙の送り主が私だと知られてしまうなんて、悔やんでも悔やみきれない。伝えるタイミングは何度もあったのに、なにかと理由をつけて名乗り出ることを先延ばしにした私の臆病さが招いた最悪の結果だ。
カフェで話した日の別れ際に先輩が見せた、すべてを呑み込んだ表情。
あれは呑み込んだのではなくて、心配に押しつぶされそうな思いから来たものだったのだろう。そう思うと、視界が滲む。
だけど、それだけじゃない。きっと先輩は——
「手紙に込めた私の想いが報われなかったんじゃないかって、ずっと気がかりだった……んですか……?」
腕の中で先輩が小さく頷いたのが伝わってきた。
思わず先輩の背中に回した腕にキュッと力を込める。
「ありがとう、ございます……」
袖口で滲んだ視界を整えると、「でも」と先輩の肩を掴んで勢いよく体を離す。私を見上げる先輩と目が合った。その瞳がかすかに揺らぐ。
これまでずっとこの眼差しに射抜かれることを恐れていたのに、今は逸らしてほしくないと思っている自分が不思議でならない。
「確かに私の恋心は報われなかったんですけど、それは絶対に先輩が小林くんを怒ったからでも、手紙をしわくちゃにしたからでもありません」
手紙を受け取ったあとの小林くんの話なんて、確かに聞きたくなかった。でも、おかげで一つ思い出した。
「小林くん、よく莉央ちゃんと帰っているときに私に声をかけてきたんです。でも、莉央ちゃんには挨拶をするだけで、別れるまでずっと話すのは私とだけだった……。だから、安心してたんです。小林くんは莉央ちゃん目当てなんかじゃないって……」
「…………」
「今思えば、それも莉央ちゃんに対するアピールだったのかなって。私たちが仲いいのは周知の事実だったから、私の友達ポジから攻めていこう……みたいな……」
今度は私が力なく笑う。
伸ばされた先輩の右手が私の左手を優しく握った。もう涙は出ていないのに泣いているのがバレた気がして、平静であることを伝えるためにぎゅっと握り返す。
強がりではなく、小林くんに対する気持ちは少しも残っていない。カフェで見下ろした小林くんは私の知っている彼ではなかったから。きっと、あれが本当の姿なのだろう。
だけど、心のどこかに悲しみの気配がするのは、私の名前の先に莉央ちゃんを期待していた事実が純粋に悲しいからだ。分かってはいたけれど、それを笑い飛ばせるほどの強さは私にはまだない。
「小五の失恋からずっと男の子が苦手で、克服のためにと思い立った告白でした。結果は散々だったし、苦手意識も悪化したけど……、でも、今は後悔してません。あのときの私はちゃんと自分で告白するって道を選んで進んだから。先輩の教えてくれたことが、私の黒歴史をいい経験に変えてくれたんです」
「よくはないだろ……」
私はゆっくりと頭を振る。
「そんなことない。私は行動できる人間なんだって、先輩だって私に教えてくれた」
「なんだよそれ。もっと怒れよ……」
「怒ることなんて一つもない。むしろ、感謝のほうが伝えきれてません。だって、先輩の指摘がなかったら髪を切るなんてしなかった。莉央ちゃんを目指すことが腑に落ちていないことにだって気づけなかった。生徒手帳を拾ったのは偶然だけど、先輩と出会えてよかったって、先輩のおかげだって思ってるから……」
「…………」
「……えっと、本当は生徒手帳を返したときに、手紙のことも伝えて返してもらうつもりだったんです。でも、言えなくてよかったのかも。あのときの私だったらすぐに手紙なんて捨てちゃって、先輩が怒ってくれたことも知れなかったかもしれない」
とはいえ、あのとき言えていたら最悪の結果にならなかった可能性だって残っている。
結局、物事のすべてを後悔なく終わるのはとても難しいことなのかもしれない。そう言ったら、「俺もそう思う」と意外な答えが返ってきた。
「偉そうなこと言ったけど、俺だって納得できないことはある。むしろ、納得できない状況の中で少しでも納得できる答えを探すほうが、実際は多いのかもしれない」
「それは……」
「お家のことですか」と踏み込んでいいのか分からなくて、口にできなかった。
だけど、きっと顔に出ていたのだろう。
「俺にとって、世界一居心地の悪い場所があの家」
「——……っ」
正しい返し方が分からなくて、必死に言葉を探す。
間に合わず、正解にたどり着く前に「だから」と先輩が口を開いてしまった。
「極力家に帰らなくていいように生きてきた」
「えっ?! い、家出……みたいな……?」
「できればいいんだけど。近くに頼れる人もいないし、夜はさすがに帰ってた。でも、夕飯はバイト先でお世話になってたな」
「え、あのカフェで?」
「そう。あそこ十八時に閉まるんだけど、あるとき会話の流れで家に居づらいことが知られてから、まかないだって言ってオーナー夫婦が夕食に混ぜてくれるようになった」
ネットで読んだ口コミでもオーナー夫婦の人柄に触れるものは多かった。
つまり、私がテスト明けに公園で待ちぼうけを食わされたのは、オーナー夫婦の食事の席に混ざっていたからということだろう。
もしかするとロータリーで話したときに先輩がもりもり食べていたのは、夕飯前の軽食ではなく本当に夕飯だったのかもしれない。
「そういえば、どうしてあそこで働いてるんですか? ちょっと、いえ、かなり高級なカフェですよね?」
「ああ。最初は高校の最寄駅にあるファミレスで働いてたんだけど……」
一果たちと行ったファストフード店と同じビルに入っている店舗のことを言っているだのろう。あの駅はうちの高校の他にも近隣の大学の最寄駅になっているから、あのときも満席で入れなかった。
「顔も知らない女子から話しかけられることが多くて仕事にならないから、ファミレスの店長の知り合いの店紹介してもらった。あのカフェなら学生が入れる価格帯じゃないから、平和に働けるだろうって」
「店長、めちゃくちゃいい人じゃないですか」
「な。短い間だったけどお世話になったし、尊敬してた」
それからしばらくは他愛ない話で盛り上がった。
ファミレスのどのメニューが好きだったとか、もっとも恐怖を感じたお客さんとのエピソードとか、どれも雑談の範疇を超えないものばかりだったけれど本当に楽しかった。希望的観測かもしれないけれど、先輩も同じに見えた。
だけど、そろそろ空が赤らみ始める。
このまま別れるわけにはいかない。あと一つ、私にはどうしてもやらなくてはいけないことがあるのだから。
私が急に黙ったからか、空気が少し重苦しくなった。
なにか言わなくてはと慌てていたら、そんな空気を切り裂くような軽やかな声が耳に届いた。
「俺、転校する」
欲しかった話題のはずなのに聞きたくなかった。そんな矛盾した思いが駆け巡る。
だけど、きっと先輩は分かっている。
私が転校の話を知っていることも、それを口にできなかったことも。それを分かっていて切り出してくれたというのに、このまま黙っていてはその気遣いを無駄にしてしまう。
切り替えるように頭を軽く振ってから、「聞きました。どちらに?」となんとか会話を続けた。
「関西。父方の伯父のところにお世話になる予定。三学期から」
「さん、学期って……」
もうあと数日しかない。
「二学期の終わりに、しばらく会えないって言っただろ? あれ、兄が警察沙汰を起こしたからなんだけど」
「えっ」
一果が言っていたのは、このことだろう。
「両親は俺にとって厄介な存在だったけど、俺の兄——智広はよく分からない人間だった。優秀なのは傍目にも理解できるけど、人間性を知れるほど仲が良かったわけでもなくて。なんて言えばいいかな。俺のことをずっと敵視してる感じだった」
「それは好ききらいとはちがうんですか?」
「きらわれてると言えばそうなんだろうけど。もっと激しい感情……、憎悪に近い雰囲気だった気がする。学童の一斉帰宅で遭遇したときはすごい形相で睨んできたし、小学生のときにバレンタインでもらったクッキーは踏みつけて粉々にされたし」
「ええ……」
思わず素直に反応してしまったけれど、人様のご家族であることを思い出して「すみません」と謝った。だけど、「俺も同じ感想だから」と笑われてしまう。
「今思えば、クッキーの件が初めて智広の本性が垣間見えた瞬間だった。それまでは出来の悪い俺を庇うことも、両親と一緒に蔑むこともしなくて、ただ遠巻きに見てるだけだったから。当時は両親の関心を一身に受けてるはずなのに、俺のなにが気に入らないんだろうって思ってたんだけど——」
「けど……?」
「——でも、警察沙汰になってやっと分かった。智広は他人との意思疎通がことらさ苦手で、友達と一緒にいる俺に嫉妬してたらしい」
「そ、れは……」
嫉妬心の一言まとめるにしては、かなり強い感情のように思えてしまった。
先輩の言う通り計り知れない憎悪が含まれていたのだとしたら、それほどまでに先輩のお兄さんは人との繋がりを求めていたのかもしれない。
私も友達に恵まれない期間が長かったから、孤独によって焦燥感や不安を煽られたことは何度もある。特に人気者が近くにいればいるほど、自分には魅力がないのだと暗に突きつけられているみたいで惨めな気持ちになった。
「家族との交流なんて皆無だったから、家の中がどんな状況かすら俺はほとんど知らなかったんだけど。智広は数ヶ月前に休職して以来、ずっと部屋に引きこもってたらしい」
「仕事が上手くいってなかったんでしょうか?」
「いや、仕事は智広の得意分野だから、問題があったとすれば人間関係のほうだったって。大学院まで進んだから働き始めたのは一昨年だけど、当初から職場の人とはほとんど会話してなかったらしい。それが今年の春ごろに小さなトラブルが原因で悪化して、ストレスが溜まっていったんじゃないかって」
人間関係の話といえど、バイトの経験すらない私には職場でのトラブルやそこからくるストレスなんて想像もつかない。
お母さんもよくお父さんに仕事の愚痴をこぼしているけれど、あれは口にすることで鬱憤を吐き出していたということなのだろうか。
「あの……、そういうストレスってご両親に相談しなかったんですか? ご両親は、えっと……、お兄さんには優しかったんですよ、ね……?」
はっきりと言葉にするのがためらわれて、尻すぼみになってしまう。
そんな私の様子にふっと微笑んだ先輩はそのまま私の頭を軽く撫でた。「わっ!」と大げさに反応してみせたのは、遠慮したことを見抜かれた気恥ずかしさを隠すためだ。
熱の残った頭頂部に意識が持って行かれないように、「多分、あいつらはそんなことしてない」と言った先輩の声に集中する。
「俺がバイトから帰ったときにちょうど両親と智広が言い合ってて、父親が『育ててやった恩も返さずに』みたいなこと言ってたから。引きこもってからの智広は、あいつらにとってお荷物でしかなかったんだよ」
「そんな……」
「俺は関わりたくなかったからすぐに自室に向かおうとしたんだけど、まさか智広が刃物に手を伸ばすんだもんな。さすがにまずいと思って、急いで警察に通報した」
「それで、転校を……?」
「そう。関西に住んでる伯父が騒ぎを聞きつけて、俺を保護するって言い出してくれた。家族に蔑ろにされていた俺を気にかけてくれた唯一の身内だったから、断る理由もなくて」
先輩に味方がいたことにホッとする気持ちと、受け入れてほしくなかったという気持ちが複雑に絡み合う。
受け入れてほしくないなんて、赤の他人の私が言えた立場ではないのに。
「今はまだお家に?」
「いや、一旦ホテル泊。智広のこともまだ落ち着いてないからって、伯父が手配してくれた。あいつら……両親が手のひらを返すように俺にすがってきたのを見てたからだろうけど」
ご両親が我が子に求めていたのは、本当に自分たちに対する恩恵だけだったということだろう。
あまり先輩の身内のことを悪く言いたくはないけれど、そんな環境の中で真っ直ぐに育った先輩のことを尊敬せずにはいられない。私なんて一果や紗良、そして先輩の力を借りてやっと殻を破ることができたのに。
私の手紙がきっかけになったと言ってくれたけれど、そこから前向きな気づきを得て自分らしい生き方を見つけられるなんて絶対に簡単なことではない。それをすべて自分一人の力でやってきたなんて——
そう思うと、また強く抱きしめたい気持ちに駆られる。
「学校を休んでたのは転校先を探したり、編入試験受けたり、転校の手続きで手一杯だったから。俺は来年受験生だし、時期的に転校は難しかったけど、伯父の知り合いに学校関係者がいて協力してくれた。それで、なんとか偏差値の近いところで見つけられて……」
上手く収まりそうなことに喜ぶべきなのに、「よかったですね」の一言が喉で支えてどうしても出てこない。
「そうですか」なんて代わりにするにはそっけない返事をしてしまった。先輩が気を悪くした様子はないけれど、一方で私は一人モヤモヤしている。
「チャット、返せなくてごめん。クラスのやつも連絡くれてたんだけど、これでもかなり滅入ってたから見る気になれなくて。昨日もずっと待っててくれたんだろ? 本当にごめん」
謝る必要なんてどこにもない。
その思いを込めて、あとモヤモヤを振り払いたくて、私は強く頭を振る。
「インフルの教訓で、すごく温かい格好してますから。ほら、今着てるこれ。中がボアになってるし、その下も分厚いものだから、むしろ暑いくらいです」
なんて上着の前を開いて見せてみるけれど、言動とは裏腹に声に全く力が入らない。
先輩はそれでいいんですか——そう訊いてしまいたい。
だけど、その答えはもうすでにもらっている。納得できない状況の中で、きっとこれが先輩の選んだ納得できる道なんだ。
先輩が何度も口にして、私にも教えてくれた生き方を尊重したい。
たとえ心がないまぜな感情で溢れていたとしても、それをぶつけるのは今ではない。これで最後とは限らないんだと莉央ちゃんが教えてくれたから。先があるのかどうか今はまだ分からないけれど、私だって納得できるかたちで先輩を見送りたい。
それが私の今やるべきこと、やりたいこと。この数週間、私はそのために動いてきたのだから。
「先輩、これ——」
私はショルダーバッグの中からあるものを取り出すと、グッと両手を伸ばして差し出した。
「……手紙?」
手紙が手から離れると同時に、言葉の代わりに首肯する。
「なに? 別れの手紙?」
「それは……、先輩が決めてください。私の気持ちはすべてそこに綴ったので」
束の間、先輩はじっと手紙を見つめたあと「分かった」と微笑んだ。
「先輩」
「ん?」
「私、やっぱり莉央ちゃんに憧れる気持ちは捨てられません」
「……うん」
「だけど、今の私が莉央ちゃんになりたいのは、もっと深い部分なんだって思いました」
改めて莉央ちゃんを前にして、彼女の外見そのものを欲する気持ちが薄れていることに気がついた。
それは自分のままでいいのだと納得したわけじゃない。ある意味、諦めにも近い感情なのだと思う。どう足掻いても同じ外見を手に入れることはできないと悟ってしまって、追いかけても無駄だと諦めたような感覚。
だけど、今の私はそのことに不満を覚えていないし、無理に納得しようとしているわけでもない。さまざまな出会いと経験をもって、諦めを受け入れられるだけの余裕が心に生まれた気がしている。
私に限らず、外見に左右される機会はやっぱり存在すると思う。だけど、それを上手く受け流して自分に向き合える強さが今は欲しい。莉央ちゃんと会って、私はそう思った。
「まだ男子に対する苦手意識も克服できてないし、自分の見た目だって好きじゃないけど……。でも、前みたいに莉央ちゃんのコピーになりたいとは思いません。だって、私が莉央ちゃんのコピーじゃなかったから、小林くんに手紙を書いて、その手紙で先輩を助けられた……っていうのはただの自惚れですけど……。ちょっとでも、お役に立てたのかなーって……」
調子に乗っておかしなことを口走ってしまった。先輩の顔を見ていられなくてサッと目線を落とす。靴の中で足の指がモゾモゾと動いているのが見えた。
少し前向きになれたからといって思い上がりにもほどがある。自分の中に眠っていた反骨心に気づくきっかけをくれたと言われただけで、助けられたなんて一言も言われていない。
「いや、合ってる。助けられたよ、あの手紙に。それに俺、ずっと出井のこと尊敬してたから」
「………………え?」
予想外の言葉に耳を疑わずにはいられない。
先輩から見て私は尊敬とはほど遠いところにいる存在だと、諦めでも投げやりでもなく事実としてそう思っていた。
だから、「ど、どこを……?」と尋ねる声は驚くほどに間抜けで、さすがの先輩も笑いをこぼす。
「なんだよ、その『ありえない』みたいな表情。信じてないだろ、本当に尊敬してんのに」
「え、いや、だって……」
「じゃあ、言わせてもらうけど。なにかを変えるために告白って行動に移したところ、素直にすごいと思った。当時はまだ出井だって知らなかったけど。あとは笹本に嫉妬してたのに、笹本を大事にし続けようとしてたところも。智広が俺にしたみたいに笹本を妬むこともなく、自分で全部背負おうとしてただろ。どれも並大抵のことじゃないと俺は思う」
「…………」
頬を何筋もの涙が流れる。
せっかく気づかれないように視界を整えたのに、これでは意味がない。
だけど、自分の意思に反して止めどなく涙が溢れてくる。
この人はどうしてこんなに優しいんだろう。自分だってたくさん傷ついたのに、どうして素直に人を認められるんだろう。
たった今、私にくれた言葉のすべてをそのまま先輩に返したい。
だけど、もう時間がない。
辺りは暗くなり始めていて、グッと寒さが強まった。これから新しい道に進む人をこんなところに留めてはいけない。
「高石先輩」
弾むような声に先輩の名前を乗せる。
袖口で思いきり拭ったから目元がじんじんしているのに、追い打ちをかけるようにまた濡れてしまう。もう涙を止めるのは諦めた。
「手紙、ちゃんと読んでくださいね」
「……ああ」
「じゃあ、私はこれで」
「駅まで送れなくてごめん。気をつけて」
「大丈夫です! バイト先へのご挨拶も大事ですから」
踵を返すと、一定の速さになるように気をつけて歩みを進めた。
すぐに黄色い車止めポールまでたどり着いたけれど、それらの間を通って坂道に差し掛かってからも私は振り返らなかった。視界の端で先輩がじっと私を見送ってくれている気配がする。それだけで十分だ。
「ぅっ……クッ…………」
嗚咽を漏らしながら、ただひたすらに坂道を進む。
袖口はぐっしょりと湿っていて、もはやなんの役にも立たない。
たくさん考えたけれど、結局先輩に対する気持ちに明確な名前はつけられなかった。だけど、確かな思いが一つある。それは先輩との繋がりと断ちたくないということ。その気持ちを私は手紙に正直に記した。
他にもたくさん書いた。
迷惑ばかりかけたことに対する謝罪と、支えてくれたことに対するお礼。そして、莉央ちゃんとの会話の内容や一果と紗良の紹介。
そんなことを書いていたら、便箋五枚の超大作になってしまった。
先輩は返事をくれるだろうか。
もし、もらえたら——そのときは、もっとたくさん綴りたい。
これまでつらいことを独りで乗り越えてきた先輩が、自分を悪だと言っていた先輩が、私にしてくれたように。
先輩を彩るたくさんの言葉を、これからは私が綴りたい。
