二十分ほど滞在した講師室をあとにして、そのまま出口に向かって歩き始める。
 三年間お世話になったお礼と無事に卒業したことを報告するだけのつもりが、思った以上に長居してしまった。講師たちと仲が良かったこともあって、思い出話に花が咲いてしまったのだ。学校の次に居心地のいい場所だったから仕方がない。
 人と話したことと、告白の現場に遭遇したという驚きで気が紛れたことも相まって、少しだけ気分も軽くなった気がする。
 もうここに来ることもないのか。柄にもなくしみじみとしながら、出口手前にある談話スペースを進んでいると——

「聞いて。おれ、さっきラブレター渡された」

 聞き覚えのあるその声に、立ち止まらずにはいられなかった。
 ゆっくりと声のほうへ顔を向けると、先ほど視界の端で捉えた学ランが目に入る。便箋を掲げて、テーブルを挟んで座っている同じ制服の男子に見せつけていた。
 公園にいた男とその友達だろうか。とはいえ、声と服装だけで決めつけるのはまだ早い。
 そう思い直したというのに——

「なんか、悪いよな。勘違いさせちゃって」

 続いた言葉に、止まった歩みを進めることはできなかった。

「おれが話しかけてたのは、幼馴染との繋がりがほしかったからなんだけど。自分に気があると思っちゃったみたいでさ」

 友達と思しき相手からの批判をものともせず、便箋を眺めながらそいつは再び口を開いた。

「声があからさまに震えててさ。笑っちゃうかと思って、なにも言えなかったけど。明日からどうしようかなー」

 まだ、確証はない。
 そう思うのに、俺はうっ血しそうなほど両手をきつく握り締めていた。
 落ち着け。なにを言ったところで俺はただの部外者だ。そんなやつが突然口を出せば、不利になるのは目に見えている。それにこいつが本当に公園のやつだとしても、あの女の子はこのやり取りを知らない。俺が出る必要なんてどこにもないだろう。
 絶えずそう訴えてくる理性とは裏腹にふつふつと苛立ちが煮えたぎる。
 だが、なおもそれを懸命に抑え込もうとする理性を容易く剥ぎ取ってしまったのは、他でもないあいつの言葉だった。

「まだ手放すには早いから、なかったことにするのが一番かな。流しても、文句言わなさそうだし」
 
 気がついたときには、すでに学ランの胸ぐらを掴んでいた。
 名前も知らないそいつは俺の眼下で目を瞠っている。束の間、開かれたままだったその口が「な、なんだよ?!」と発したのを合図とするように、俺はこう捲し立てた。

「お前、自分がなにしようとしてるか分かってるのかよ?! 告白を蔑ろにするなんて、あの子が目の前にいても同じことができるか?! あんなに一生懸命に、勇気を振り絞って渡してきた姿を思い出しても、お前の心は動かないのかよ?!」

 他にもなにか言ったような気がするけど覚えていない。それほど俺は頭に血が上っていたのだろう。

「う……、うるっさいなっっ!!」

 そいつが俺の手を振りほどくのと割って入ろうとした友達の力も手伝って、離れた弾みでよろけた俺は咄嗟にそばにあったテーブルに手をついてしまった。
 クシャッ——
 嫌な音が耳をかすめる。
 恐る恐る目を落とすと、俺の手のひらの下で便箋がしわくちゃになっていた。
 その光景で一瞬にして冷静さを取り戻すも、すべては後の祭り。
 騒ぎを聞いて駆けつけた講師たちから逃げるようにその場をあとにしたそいつは、談話スペースから出る際に丸めた便箋を封筒もろともゴミ箱へ放り去った。
 残された俺は講師たちに少し揉み合いになったとだけ伝えたけど、相手も口を割らなかったのかそれ以降追及されることもなかった。
 俺のもとに残されたのは、ゴミ箱から拾い上げたしわくちゃの便箋だけ。封筒は汚れてしまってとても救える状態ではなかった。

「絶対、何回も書き直しただろ……」

 抑えられない気持ちを書き殴ったようには見えないほど、便箋に載った文章は整っていた。どう書けば相手に気持ちが伝わるのか、一字一句何度も推敲したであろう様子が赤の他人ながら目に浮かぶ。
 ふいにあの子の震える声が思い起こされて、俺は願わずにはいられなかった。
 どうかあの子が傷つきませんように。
 自分の努力が、勇気が踏みにじられたのだと知ることがありませんように——