「高石! オレんちでゲームしよーぜ!」
「おまえってホント謙虚よなー。基本、控えめだし」
「でも、地味にノリいいからおもろい」

 中学に上がるころには、学校生活と勉強のバランスが上手く取れるようになった。
 友情運でもよかったのか、生まれてこの方友達にだけは困った記憶がない。そんな俺は昔から学校が大好きだった。それでも小学生のときは、勉強のために友達との時間を削らなくてはいけなくて何度も歯がゆい思いをした。
 それがやっと要領よくこなせるようになったことで、メリハリがついたのだろう。成績が一気に上がったときは自分でも驚いた。
 実際、学年一位を持ち帰ることが増えたのも事実だ。
 だが、有名私立中学に進学した兄の前では、公立中学での成果など容易く霞む。
 両親が望むのは中の上などではない。常人では成し得ない功績と、それに伴う自分たちへの称賛と羨望。あいつらの所望するものは何年経っても変わらないらしい。
 公立の学校は落ちこぼれが行くところ——かつてそう言っていたあいつらが、“そこ”に進学した俺を相手にするはずもなかった。

「高石くんのことがずっと好きだったの。付き合ってください」

 初めて彼女ができたのは中一の夏休み前。
 これまでにも告白されたことは何度かあったが、自分の中で誰かと付き合うことに対する実感が湧いてきたのがこのときだった。
 相手は五十音順の座席で隣になる女の子。異性の中ではよく話すほうで、波長も合う。断る理由もなかったのだが、それが迂闊だったのだと気づいたときには手遅れだった。
 誰かと付き合うということは、相手のために時間を割かなくてはいけないということ。最初は目新しい感覚に高揚感を覚えたものの、勉強と友達が最優先だった俺にとって次第にそれは窮屈さに変わっていく。
 当然、そんな付き合いが長続きするはずもなく、初めての交際はたった三ヶ月で終わりを迎えた。

「『わたしを最優先して』って言われた?! マジか……」
「ムズいよなー。オレも友達との時間、削りたくない。でも、彼女ともいたい」
「いやいや! 絶対、彼女との時間が最優先だろ?!」

 この議題は友達の中でも意見が割れた。
 友達派、恋人派、そして中立派。この比重はその人の恋愛に対する興味の大きさに比例するのだろう。当の俺はというと、少なくともこのときは恋愛における認識を改善したいという思いは湧いていなかった。
 しばらくはこのままでいいだろう。そう思ったのだが、そんな思いとは裏腹に得体の知れないなにかにじわじわと蝕まれていくような感覚が拭えなかったのも事実だ。
 勉強や運動だけでなく、恋愛でも満足のいく結果を収められない。
 できないことは欠陥だと教えられて育ったのに、できないことばかりで作られた俺は欠陥品そのものなのかもしれない。
 そんな恐怖心にも似た不安にうなされたことは、一度や二度ではなかった。

「お揃いのものが欲しいとか、そういうことが言いたいんじゃない。ただ、わたしのことがちゃんと好きだって証明してほしい」
「一緒にいても理世くんの心が見えなくて寂しいの。もっと好きだって態度で示して」

 そのあと交際人数としては二人増えたものの、いずれも長続きしなかった。
 中でも、示し合わせたように彼女たちが口にする「好意の証明」がもっとも難関だったように思う。ドラマや映画で見るような情熱的な恋愛を求めているのは分かる。俺だってそれほど相手に夢中になってみたい。
 そう思うのに、どれだけ気が合う子を選んでも熱情に呑まれるような経験はできなかった。
 そして、この二度の経験が自分は欠陥品なのだという認識を確かなものにしてしまう。
 勉強、運動、容姿——周りのやつは俺をたくさん褒めてくれる。
 ありがたいことに俺の友達は本当にいいやつばかりで、言葉がすべて本心であることが伝わってきたから、こいつらのためになにができるか常々考えていた。
 だが、どれだけ褒められたところで、友達が俺の承認欲求の対象になることはなかった。友達の存在はあくまでも心の添え木で、割れ目を修復してくれる作用はない。
 それは家庭の事情を軽く相談してみたときに強く実感した。みんなあれこれと心を砕いてくれたものの、そのいずれも俺の意識を大きく変えるほどの衝撃はなかったから。
 結局、俺の欲しい言葉を与えられる人間はこの世でたった二人だけ。それは成長しても変わらないのだと知ったとき、俺は妙に納得してしまった。
 そうして迎えた卒業式——

「みんな、言ってたよ。高石くんてひどいよねって。告白OKする子、かわいい子ばっかりじゃん。わたしたちみたいな一般人のことは、自分がモテる人間だって証明するための道具として、利用価値があるとでも思ってたんでしょ? ほんと、最低」

 卒業式のあと、告白を断ったときに言われた言葉。
 そんなつもりは一切なかった。
 確かに『今度こそ』という思いがあったことは否定できないが、告白を受けたのは好印象を抱いていた相手だけ。断る場合も、極力相手を傷つけない表現を選んだつもりだった。
 その行動のすべてに、俺自身も気づいていない深層心理のようなものが働いていたとしたら——もしかして俺は、両親が俺にしてきたのと同じことを異性にしていたのだろうか。
 優劣をつけて、ふるいにかけて、自分に対して利益をもたらす相手だけを選んでいたのだろうか。もしそうだとしたら、そんなのは欠陥品とも言えない。
 俺が縋りついて離れられない愚かで浅ましい人間たち。そんな悪のような存在から生まれた俺もまた、誰かにとっての悪なのだとしたら——校舎裏に一人残された俺の頬を、一筋の涙が静かに流れた。
 公立中学とはいえ俺にとっては晴れの舞台。小学生のとき同様、両親の姿を観覧席で見ることはなかった。何度学年一位を取ったところで、結局俺があいつらの視界に入ることは一度もなかったのだ。
 自分はなんのために生まれてきたのだろう。
 その目に映ることだけを考えて生きてきたと言っても過言ではないほど親から離れられないのに、あいつらを満足させるために生きてきたのに、その血を引いていると言われればショックを受ける。自分の感情が、思いが、自分で分からない。
 突然、目の前が真っ暗になったかのように行く先を見失ってしまった。
 高校でまた新しい友達に出会えるという希望、そんなものは一瞬にして砕け散っていた。残ったのは、自分は悪かもしれないという絶望だけ。
 そんな俺の耳を弱々しい声がかすめた。

「えっと、これ……よかったら読んで、もらえませんか」

 やっと校舎裏から出て、ある場所に向かう途中で立ち寄った広い公園。その遊歩道を歩いているときに、茂みの向こうに建つ藤棚のほうから聞こえてきたのだ。

「えっ……おれに?」
「いきなりで、びっくりさせてごめんなさい……。でも、ここで言わなかったら、ずっと変われないと思って……。読んでもらえると嬉しい……です」
「う、ん……。わかった……」
「返事は、後日でいいので……」

 やり取りからして告白だろう。
 邪魔をしてはいけないと茂みに身を隠しながら早々に立ち去ったから、その場にいた人たちの顔は見ていない。
 ただ、ちらりと視界に入った服装は自分のブレザーとはちがう学ランとセーラー服だった。この辺りでその制服を採用しているところは隣の中学しかない。さらに言えば、この公園は両中学のちょうど間にあるから間違いないだろう。
 それにしても、ずいぶんと震えた声だった。
 男はともかくとして、女子のほうはきっと告白に慣れていない。そう感じてしまうほど、あの子の声には不安が色濃く滲んでいた。
 だが同時に、強さを含んだ不思議な声だったように思う。自分に襲いかかった逆境に一矢報いるような、ただなんとなく想いを伝えているのではないことが分かる強い響き。それをあの声は携えていた。
 上手くいってほしい。
 努力が、勇気が、報われない気持ちは痛いほど分かる。その痛みがあんなに不安げな彼女に襲いかかってしまったら、あの子はどうなってしまうだろう。
 そんなことを考えながら、俺は三年間通った学習塾の扉を開いた。