時空の狭間みたいなところだと思った。
目まぐるしく移り変わる現世に疲れた人間が、心身の癒やしと浄化を求めて足を踏み入れる場所。その小さな公園に俺はそんな印象を抱いた。
今でこそ銘板すら設置されていないが、この辺りが整備される前は「縁ノ杜」と呼ばれていた大きな公園だったのだとバイト先の主人が教えてくれた。
その昔、この地域一帯を治めていた地主が時勢のいたずらで生き別れた想い人と再会した場所だという逸話もあるらしいが、真偽のほどは不明だそうだ。
「今日もいました」
「あら、やっぱりなにか悩んでいるのかしら。一度、声をかけてうちにお招きしましょうか」
「Perchoir des Songes」。
高一の夏休み明けにこのカフェで働き始めてしばらく経ったある日、俺は通り道にある公園に人影を見つけた。遠目からでは性別しか判別できなかったが、漂う雰囲気からしてきっとこの空間を求めているのであろうことはすぐに分かった。
だから、「いえ、それはやめておきましょう」とつい夫人の提案を否定してしまったのだが、思いのほか強く響いたその語調に俺はハッとした。しまった。以前の俺なら他人の意見を一蹴するなんて絶対にしなかったはずだ。
気を悪くしただろうか——そんな思いから、すかさず謝罪の言葉を口にしようとしたとき。
「僕も理世くんに賛成だ。きっと誰の目もないからと思って、あそこを選んだんだよ」
とオーナーであるカフェの主人が優しくフォローしてくれた。
夫人も特に俺の発言を気にしている様子はない。そのことに心底安堵すると同時に、改めてここで働ける幸運を噛み締めた。
このご夫婦はとても穏やかで懐の深い人たちだ。それはバイトの面接で初めてここを訪れた時点ですでに感じていたこと。本来、二人で十分人手が足りているはずのところを、俺の事情を鑑みて採用を決定してくれたのだ。
店の名前は、日々の生活に追われる人たちがほっと一息つける場所になれたらという意味を込めて付けられたらしい。
名は体を表すとはまさにこのことだろう。
視界を邪魔しない程度の植物に慎ましいデザインの食器や家具、そして素材の味を生かした丁寧な食事。それらを提供するご夫婦の人柄。
ここはどんな心の傷もしなやかに受け止めて支えてくれる、まさに羽休めのための止まり木のような雰囲気を味わうことができる場所。だからこそ、俺もここにいることを望んだのかもしれない。
「あいつらとは、大ちがいだな」
その日の帰り道、坂道を下りながら俺は冷笑を吐き捨てた。
両親は筋金入りの学歴主義者だ。
だけど、それはあいつら自身の経歴からくるものではない。
高石智広——俺の十歳上の兄の存在によって、子どもの出来が自身に多大なる恩恵を与えるのだと知ったからだ。
智広は俗に言う天才だった。就学前から漢字の読み書きができて、数字に強く、特に理科の分野に興味を示した。小学生のときからテストは満点ばかりで、教師からは数々のコンテストへの出場を勧められた。そこで漏れなく優秀な成績を収め、保護者に宛てて定期的に配布される学校通信にはもはや常連と言えるほど名前が載っていた。
そんな息子の功績に両親は当然鼻高々だった。
“高石智広くんのご両親”として羨望の眼差しを注がれ、どんな教育をすれば智広くんのようになれるのかと助言を請われること多数。
個人情報保護などの理由から智広が四年生に進級するタイミングで学校通信への個人名の掲載がなくなったときには、学校に何度も抗議したらしい。同じ小学校に入学した俺の二年生の担任が偶然その当時学校通信を担当していたそうで、保護者面談の空気が最悪だったことは理不尽としか言いようがない。
そんな面ばかり見ていたからだろうか。
俺にはあいつらが息子の功績の上でふんぞり返る愚か者に見えて仕方がなかった。
「この点数はなんだっ?! なんで智広みたいにできない?!」
初めてテストで点数がつけられたとき、そう怒鳴ってテストを握り潰した父親の顔は憎悪に歪んでいた。
子どもは一人と決めていたらしいあいつらが俺を作ったのは、自分たちが得られる恩恵の元手をさらに増やすためだ。自分の子どもは漏れなく優秀なはず——そんな期待を背負って生まれた俺の人生は散々だった。
「今日の授業参観なんて最悪だったわよ! 隣の母親に『誰でも得手不得手がある』って哀れみの目を向けられたんだから! あんなに人が見てる中でお前が間違えたりなんかするから、私が恥かいたじゃない!!」
なにをするにも智広に届かない俺は、なにをするにも智広が基準のあいつらに幼いころから叱られ続けた。虐待を疑われることを恐れたのか傷ができるほどの暴力はなかったが、代わりに罵倒とともに手近な物を壊すことは日常茶飯事だった。
それでも幼い子どもが怖気づくには十分の迫力で、俺はなんとか褒めてもらおうと必死で足掻くしかなかった。
本を読んでみても、「智広はもっと難しいのを読んでいた」とため息をつかれる。かといって智広が読んでいたものは当時の年齢にしては難しいものばかりで、理解できた試しがない。
学校の勉強についていくのがやっとで、コンテスト出場なんてもってのほか。
運動は得意だったから一年生の運動会で好成績を収めたときは、そこに活路を見出したようにスポーツ教室に通わされたけど、上には上がいると突き付けられたのかすぐに辞めさせられてしまった。
そんな俺をあいつらが見限るのは早かった。
「なんのためにお前を作ったと思ってる」
「あんなにお腹を痛めたのが無駄になったわ」
三年生になっても満足させられる成績を差し出せない俺に向かって、両親が吐いた言葉は一生忘れない。
以降、両親は声を荒げることも俺に勉強を強制することもしなくなった。そこで開放されたのだと思えれば幸せだったのだろう。
でも、このときの俺はそうは思えなかった。
突如として広大な海の果てに取り残されたような呆然とした感覚と、ここから独りどう陸に戻ればいいのか分からないことによる焦燥感。そして、そのまま暗い海の底に沈むことを期待されているのだと知ったときの胸が潰れるような悲しみ。
まだ大人にはほど遠い年齢の俺が、一気に押し寄せてくる絶望を往なせるはずもなかった。
どうにかもがいて陸にたどり着けば、そこにはまだなにかしらの希望が残っているにちがいない——見放されたのだという現実を受け入れられなかった結果、俺はこれまで以上に勉強に精を出すようになってしまった。
目まぐるしく移り変わる現世に疲れた人間が、心身の癒やしと浄化を求めて足を踏み入れる場所。その小さな公園に俺はそんな印象を抱いた。
今でこそ銘板すら設置されていないが、この辺りが整備される前は「縁ノ杜」と呼ばれていた大きな公園だったのだとバイト先の主人が教えてくれた。
その昔、この地域一帯を治めていた地主が時勢のいたずらで生き別れた想い人と再会した場所だという逸話もあるらしいが、真偽のほどは不明だそうだ。
「今日もいました」
「あら、やっぱりなにか悩んでいるのかしら。一度、声をかけてうちにお招きしましょうか」
「Perchoir des Songes」。
高一の夏休み明けにこのカフェで働き始めてしばらく経ったある日、俺は通り道にある公園に人影を見つけた。遠目からでは性別しか判別できなかったが、漂う雰囲気からしてきっとこの空間を求めているのであろうことはすぐに分かった。
だから、「いえ、それはやめておきましょう」とつい夫人の提案を否定してしまったのだが、思いのほか強く響いたその語調に俺はハッとした。しまった。以前の俺なら他人の意見を一蹴するなんて絶対にしなかったはずだ。
気を悪くしただろうか——そんな思いから、すかさず謝罪の言葉を口にしようとしたとき。
「僕も理世くんに賛成だ。きっと誰の目もないからと思って、あそこを選んだんだよ」
とオーナーであるカフェの主人が優しくフォローしてくれた。
夫人も特に俺の発言を気にしている様子はない。そのことに心底安堵すると同時に、改めてここで働ける幸運を噛み締めた。
このご夫婦はとても穏やかで懐の深い人たちだ。それはバイトの面接で初めてここを訪れた時点ですでに感じていたこと。本来、二人で十分人手が足りているはずのところを、俺の事情を鑑みて採用を決定してくれたのだ。
店の名前は、日々の生活に追われる人たちがほっと一息つける場所になれたらという意味を込めて付けられたらしい。
名は体を表すとはまさにこのことだろう。
視界を邪魔しない程度の植物に慎ましいデザインの食器や家具、そして素材の味を生かした丁寧な食事。それらを提供するご夫婦の人柄。
ここはどんな心の傷もしなやかに受け止めて支えてくれる、まさに羽休めのための止まり木のような雰囲気を味わうことができる場所。だからこそ、俺もここにいることを望んだのかもしれない。
「あいつらとは、大ちがいだな」
その日の帰り道、坂道を下りながら俺は冷笑を吐き捨てた。
両親は筋金入りの学歴主義者だ。
だけど、それはあいつら自身の経歴からくるものではない。
高石智広——俺の十歳上の兄の存在によって、子どもの出来が自身に多大なる恩恵を与えるのだと知ったからだ。
智広は俗に言う天才だった。就学前から漢字の読み書きができて、数字に強く、特に理科の分野に興味を示した。小学生のときからテストは満点ばかりで、教師からは数々のコンテストへの出場を勧められた。そこで漏れなく優秀な成績を収め、保護者に宛てて定期的に配布される学校通信にはもはや常連と言えるほど名前が載っていた。
そんな息子の功績に両親は当然鼻高々だった。
“高石智広くんのご両親”として羨望の眼差しを注がれ、どんな教育をすれば智広くんのようになれるのかと助言を請われること多数。
個人情報保護などの理由から智広が四年生に進級するタイミングで学校通信への個人名の掲載がなくなったときには、学校に何度も抗議したらしい。同じ小学校に入学した俺の二年生の担任が偶然その当時学校通信を担当していたそうで、保護者面談の空気が最悪だったことは理不尽としか言いようがない。
そんな面ばかり見ていたからだろうか。
俺にはあいつらが息子の功績の上でふんぞり返る愚か者に見えて仕方がなかった。
「この点数はなんだっ?! なんで智広みたいにできない?!」
初めてテストで点数がつけられたとき、そう怒鳴ってテストを握り潰した父親の顔は憎悪に歪んでいた。
子どもは一人と決めていたらしいあいつらが俺を作ったのは、自分たちが得られる恩恵の元手をさらに増やすためだ。自分の子どもは漏れなく優秀なはず——そんな期待を背負って生まれた俺の人生は散々だった。
「今日の授業参観なんて最悪だったわよ! 隣の母親に『誰でも得手不得手がある』って哀れみの目を向けられたんだから! あんなに人が見てる中でお前が間違えたりなんかするから、私が恥かいたじゃない!!」
なにをするにも智広に届かない俺は、なにをするにも智広が基準のあいつらに幼いころから叱られ続けた。虐待を疑われることを恐れたのか傷ができるほどの暴力はなかったが、代わりに罵倒とともに手近な物を壊すことは日常茶飯事だった。
それでも幼い子どもが怖気づくには十分の迫力で、俺はなんとか褒めてもらおうと必死で足掻くしかなかった。
本を読んでみても、「智広はもっと難しいのを読んでいた」とため息をつかれる。かといって智広が読んでいたものは当時の年齢にしては難しいものばかりで、理解できた試しがない。
学校の勉強についていくのがやっとで、コンテスト出場なんてもってのほか。
運動は得意だったから一年生の運動会で好成績を収めたときは、そこに活路を見出したようにスポーツ教室に通わされたけど、上には上がいると突き付けられたのかすぐに辞めさせられてしまった。
そんな俺をあいつらが見限るのは早かった。
「なんのためにお前を作ったと思ってる」
「あんなにお腹を痛めたのが無駄になったわ」
三年生になっても満足させられる成績を差し出せない俺に向かって、両親が吐いた言葉は一生忘れない。
以降、両親は声を荒げることも俺に勉強を強制することもしなくなった。そこで開放されたのだと思えれば幸せだったのだろう。
でも、このときの俺はそうは思えなかった。
突如として広大な海の果てに取り残されたような呆然とした感覚と、ここから独りどう陸に戻ればいいのか分からないことによる焦燥感。そして、そのまま暗い海の底に沈むことを期待されているのだと知ったときの胸が潰れるような悲しみ。
まだ大人にはほど遠い年齢の俺が、一気に押し寄せてくる絶望を往なせるはずもなかった。
どうにかもがいて陸にたどり着けば、そこにはまだなにかしらの希望が残っているにちがいない——見放されたのだという現実を受け入れられなかった結果、俺はこれまで以上に勉強に精を出すようになってしまった。
