「縁葉、なにかあった?」
元日の昼過ぎ。
朝昼兼用のおせち料理を食べ終わりソファでぼんやりとスマホを眺めていると、唐突にキッチンからお母さんの声が切り込んできた。
お父さんはお母さんに頼まれてコンビニまでデザートを買いに行っているから、今はいない。夕方には近所の神社に初詣に行く予定だから、その帰りにでも買えばいいのに。
お父さんが使い走りにされるのは毎年恒例のことで、もはやここ数年は「そろそろ行ってくる」と自主的に出ていくようになってしまった。かくいう私もちゃっかりアイスをお願いしている。
「特にないけど」
言葉とは裏腹に、その口調にははっきりと歯がゆい気持ちが滲んでしまった。
なにせ現在進行系でよくないことが発生している。
莉央ちゃんと会った翌朝、先輩に連絡を入れようとチャット画面を開いたところ、最後に私が送ったメッセージに既読が付いていた。
もしかしたら返信が来るかもしれない。そう期待してしばらく様子を見ていると、その日の夕方に『大丈夫。ありがとう』の二言が届いた。
さて、ここからどうしよう。
チャットか電話か、はたまた会うべきか。
ほんの少し悩んで、手紙の件も不鮮明なままだから直接会えないかと送った直後、
——やばい。終業式の数日前に、高石先輩の家に警察来てたらしい。
という衝撃の連絡が一果から入った。
つまり、なにかおおありな状況なのだけれど、どうせお母さんに話したところで「本人に聞いてみればいいじゃない」と言われるだけだ。そんなことできるなら、とっくにやっている。
「そう? いいことでもあったのかと思ったけど」
「ああ、そういうこと」
「え?」
「ううん、なんでもない。でも、なんでそう思うの?」
「そりゃ、いきなり髪切って帰ってくるし、心境の変化でもあったのかと思うじゃない。仲直りしたとか、新しい友達できたとか、いろいろあるでしょ」
鋭いところを突かれてほんの一瞬面食らう。
図星であることを悟られたくなくて、「なにそれ」の一言に大げさに笑いを含めた。切った理由もろくに伝えていないのに、“だてにお母さんやってない”ということなのだろうか。
「ていうか、髪切るのって普通は失恋なんじゃないの?」
「今の子もそうなの?」
「うーん、多分?」
「どっちなのよ」
確かにいいこともあった。一果や紗良との友情はさらに深まって、莉央ちゃんにはようやく本心を伝えることができた。
先輩にたくさん教えてもらって、自分の気持ちを上手く整理できるようになってきた。
だけど、一つだけ分からない。
私が先輩を“先輩”だと思う気持ちの底にはなにがあるのだろう。
手紙をしわくちゃにされたことは驚いたけれど、詳細が分からない今、それ以上の感情は浮かんでこない。でも、すごく心配だ。突然転校するなんて、しかも高校生で転校だなんて、あまりいい理由ではない気がしてしまう。
そこに追い打ちをかけるように入った一果からの情報が、私の思考をさらにネガティブな方向へ運んでいく。
会えないかとは聞いたものの、もし会えたとして私は先輩に気の利いた言葉の一つでもかけられるだろうか。詳しい事情を教えてもらえたとしても、私なんかになにができるというのだろう。
「失恋で髪を切るって、誰が始めたんだろうね」
「なに、いきなり」
「だって、切っても失恋した事実は消えないじゃない」
お母さんらしい考え方にため息が漏れる。
「心機一転したいんじゃないの? 縁がなかったって思うだけじゃ消化できないから、暗い気持ちごと切り落としたくなるんだよ。きっと」
ちょっと語気を強めてしまった。
小林くんのときもバッサリ行っていれば、こんなに引きずらなかったのかもしれない。
「失恋て消化したいものなのね」
「え、なに? 百発百中で成就してきたの?」
「ちがうわよ。それなりに失恋はしたけど、全部納得して終わってるから、切り落としたいものになったことがないの」
「納得って……そんなに上手くいくものばかりなわけないじゃん」
お母さんの恋愛にここまで踏み込むのは初めてだ。
だけどそんなことよりも、全敗記録保持者としてはお母さんの言葉が嫌味に聞こえてしまって鼻持ちならない。
「上手くいくというより、自分で選んだ相手でしょ? 良い人でも悪い人でも、選んだのは自分なんだから。最悪の結果にならないように、どうにか動かしていくしかないじゃない。それでも無理なら仕方ない。縁がなかったってことよ」
どこかで聞いたことのある話に驚かずにはいられない。
これまで忌避していたお母さんの性質の、その根源にあるものが初めて見えた気がする。
お母さんも“そう”なんだ。
決断に迷いがないのも、いつも溌剌としているのも、人生の舵を自分で握っているから。選ぶときは納得できるもの突き詰めて、自分が楽しめる道を進む。私みたいに「しないといけない」なんて、やらされているような考え方はしないんだ。
竹を割ったような性格を地で行く人だと決めつけていたから、お母さんの生き方を深く掘り下げたことなんてなかった。
「じゃあ、なんでお父さんだったの? 二人とも全然性格ちがうじゃん。正直、お母さんがお父さんに惹かれるとは思えないし、逆も然りなんだけど」
「失礼ね。これでも一応、ちゃんと惹かれて結婚したんだけど」
そんなことは分かっている。
ほぼ真逆の性格なのに二人はいつも仲がいい。生活リズムだってちがうのに、常にどちらからともなく会話が飛び交っている。私もだてに娘はやっていないのだ。
だからこそ、本当に謎だった。どうしてお父さんとお母さんが夫婦なのか。この二人からは莉央ちゃんのご両親のような恋愛の匂いが全くしない。昔は知らないけれど、少なくとも物心がついたころから今の雰囲気だ。
「んー、恋愛以外のところが盛り上がったから、かな」
「え、結婚なのに?」
「結婚だからよ。これから先、何十年も寄り添う人と、恋愛の勢いだけで一緒になりたくなかったの。家族になっても楽しい人がよかった。それがお父さんだったのよ。具体的にどこがって言われても、直感だから説明できないけど」
直感だと言われてしまえばそれまでだ。
「お父さんはなっかなか踏み切ってくれなかったから、何回も尻を叩いたけどね」
容易に想像できてしまって、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、莉央ちゃんのご両親みたいなラブラブな夫婦を羨ましいと思ったことはないの?」
「ないわね。周りにもそういう人はいるけど、私に合うやり方じゃないの」
分かるような分からないような、どっちつかずな感想しか出てこない。
小学五年生のときの子も小林くんも、私は彼らと接して自分の心が踊るのを強く実感していた。だからこそ今までずっと引きずっていたのだ。
そして、それが高石先輩に当初抱いていた恐怖心とは全然ちがう胸の高鳴りで、このごろ感じるようになった尊敬とは似ても似つかないものだということも分かっている。
ならば、私が先輩に抱いている感情の名前は恋愛感情ではない、はずだ。それなのに断言できない自分がここにいて、まるで無理矢理恋愛に運ぼうとしている気がして嫌気が差してくる。
「恋愛も結婚も、その単語だけで片付けてしまうのはもったいないと思うの」
押し黙った私を見兼ねたのか、お母さんがまたもや唐突に不思議な切り口で割り込んできた。
「どういう意味?」
「人間は言葉が話せるから、なにもかも言葉に当てはめすぎなのよ。職場の人たちも、なにかにつけて悩んだ理由を説明してくるけど、正直そんなことはどうでもいい。あなたの本心がなんて言っているのか、私はそれが知りたいだけ。『好き』とか『楽しい』とか本心を表す言葉だけ教えてくれれば、あとは自由にしてくださいって思うの」
これは恐らく休憩時間に発生する雑談のことを言ってるのだろう。
「それ、職場の人に言ったら絶対怒られるよ」
「ねー。だから言わないけど。みんな、頭でっかちなのよ。『こういう理由だから』がないと行動に移せないなんて、理由を考えている時間が無駄だし、もっと直感で動けばいいの。そして、仕事中にまで引きずらないでほしいわ」
だから、そんなことができれば誰も苦労しない。
お母さんのように悩まず本能で正しい選択ができる人なんて、ほんの一握りだろう。
「でも、縁葉は娘だから別よ」
「え?」
「同僚にはちゃんと働いてもらわないと困るけど、それは仕事の話。あんたはまだ高校生なんだし、いっぱい悩めばいいの」
「な、なに、いきなり……」
「ずっと心配してたのよ。あんたはお父さんに似て慎重なところがあるでしょう。私とは根本的に考え方がちがうから、どれだけ手を尽くしても役に立てないときがどうしてもある。だから、それを補ってくれるような存在が少しでも多くいればって思ってたの」
「…………」
「これでも子育てには慣れてきたつもりだけど、自分が成長する分、子どもだって成長するからね。上手くいったと思っても、すぐに次の壁にぶち当たって、もどかしくて唇を噛んだことなんて山ほどあるわよ」
「だから——」とお母さんは柔らかく目尻を下げた。
「高校に入ってからは今までよりもずっと楽しそうで、ちょっと安心してた。ほら、放課後に遊んでくる日も増えたでしょ? それが最近は顔つきもすっきりして、髪まで切ってくるんだから。いいことあったのかって聞きたくもなるじゃない」
そんなの知らない。
これまで一度だって、そんな内面を見せたことなんてなかったのに。
娘を分かろうとしてくれない無慈悲な母親なのだと思っていた自分が恥ずかしくなってくる。うじうじと同じところを行ったり来たりしてばかりの娘に愛想を尽かしたのだと思っていたから、小五の失恋以降の私はお母さんにキツく当たることが増えてしまったのに。
罪滅ぼしのつもりでそう言ったら、「そんなわけないでしょう」と眉根を下げて笑われてしまった。
「それならそう言ってくれれば……。知らないまま大人になってたら、お……、恩みたいなのだって感じられなかったかもよ? せっかく育ててやったのにってならないの?」
「ならないわよ。私はね、育ててあげたなんて思いたくないの。子どもを望んだのは百パーセント親のエゴなんだから、子どもに恩を売るようなことはしたくない。ほら、あれと一緒よ。ペット」
「ペット?」
「あんたが幼いころ、おばあちゃんの家にいた柴犬。あの子が本当にやんちゃでね。お風呂に入れたその日に泥水に全身突っ込むわ、ソファ破るわ、大変だったの。でも、本当にかわいかった。人間みたいに稼いでくるわけでも、家事をしてくれるわけでもないのに、本当にかわいい。いてくれるだけで十分だったのよ。それと同じ」
「え、私ペットなの?」
「例えよ、例え。子どもは人間だからどうしても見返りを望んでしまいたくなるけど、本当はペットと同じで存在してくれるだけで十分なはず。そこからより良い人生になるようにいろいろと施すのだって、完全に親の自己満足。それがもし子どもに合わなくて、恩を感じてもらえなかったとしても、それは私の力量不足だったってだけよ」
ゼロか百。相変わらず、お母さんは少し潔すぎる気もするけれど、こうして深堀りしてみると悪いところばかりではないのかもしれない。
確かに、私には合わないところのほうが多い。
現に私はこうして腹を割って話すまでお母さんのことを誤解していた。そのせいでぎくしゃくしていた期間が延びたのかもしれない。莉央ちゃんの家に生まれていたらって思ったことだって、さすがに口にはしなかったけれど実はあった。
「なんか、恥ずかしいね。要するにあれよ。お父さんもお母さんもなにがあっても縁葉の味方だから、好きに生きなさいってことよ」
「急に雑じゃない?」
「あ、でも、法に触れるようなことはさすがに庇いきれないから、法律の範囲内でお願いします」
「そんなことしません」
見計らったように、玄関の扉の開く音がした。
この地域にしては珍しく雪がチラついていたようで、リビングに入ってきたお父さんは頭や肩がぐっしょり濡れていた。慌ててお風呂の準備をするお母さんの背中をソファからぼんやり眺めていたとき、私はあることをひらめいた。
——縁がなかったのよ。諦めなさい。
もしかしてあの言葉は私が最悪の結果にならないように行動したうえでのやむを得ない失恋だと、そう行動できる娘だと信じてくれていたからこそ出たものだったのだろうか。答え合わせをするつもりはないけれど、そうだと嬉しい。
そう思いながら口に運んだもちもちのアイスは、雪のおかげでキンキンに冷えたままだった。だけど、このとき食べたそれは今までで一番温かい食べ物に感じられた。
元日の昼過ぎ。
朝昼兼用のおせち料理を食べ終わりソファでぼんやりとスマホを眺めていると、唐突にキッチンからお母さんの声が切り込んできた。
お父さんはお母さんに頼まれてコンビニまでデザートを買いに行っているから、今はいない。夕方には近所の神社に初詣に行く予定だから、その帰りにでも買えばいいのに。
お父さんが使い走りにされるのは毎年恒例のことで、もはやここ数年は「そろそろ行ってくる」と自主的に出ていくようになってしまった。かくいう私もちゃっかりアイスをお願いしている。
「特にないけど」
言葉とは裏腹に、その口調にははっきりと歯がゆい気持ちが滲んでしまった。
なにせ現在進行系でよくないことが発生している。
莉央ちゃんと会った翌朝、先輩に連絡を入れようとチャット画面を開いたところ、最後に私が送ったメッセージに既読が付いていた。
もしかしたら返信が来るかもしれない。そう期待してしばらく様子を見ていると、その日の夕方に『大丈夫。ありがとう』の二言が届いた。
さて、ここからどうしよう。
チャットか電話か、はたまた会うべきか。
ほんの少し悩んで、手紙の件も不鮮明なままだから直接会えないかと送った直後、
——やばい。終業式の数日前に、高石先輩の家に警察来てたらしい。
という衝撃の連絡が一果から入った。
つまり、なにかおおありな状況なのだけれど、どうせお母さんに話したところで「本人に聞いてみればいいじゃない」と言われるだけだ。そんなことできるなら、とっくにやっている。
「そう? いいことでもあったのかと思ったけど」
「ああ、そういうこと」
「え?」
「ううん、なんでもない。でも、なんでそう思うの?」
「そりゃ、いきなり髪切って帰ってくるし、心境の変化でもあったのかと思うじゃない。仲直りしたとか、新しい友達できたとか、いろいろあるでしょ」
鋭いところを突かれてほんの一瞬面食らう。
図星であることを悟られたくなくて、「なにそれ」の一言に大げさに笑いを含めた。切った理由もろくに伝えていないのに、“だてにお母さんやってない”ということなのだろうか。
「ていうか、髪切るのって普通は失恋なんじゃないの?」
「今の子もそうなの?」
「うーん、多分?」
「どっちなのよ」
確かにいいこともあった。一果や紗良との友情はさらに深まって、莉央ちゃんにはようやく本心を伝えることができた。
先輩にたくさん教えてもらって、自分の気持ちを上手く整理できるようになってきた。
だけど、一つだけ分からない。
私が先輩を“先輩”だと思う気持ちの底にはなにがあるのだろう。
手紙をしわくちゃにされたことは驚いたけれど、詳細が分からない今、それ以上の感情は浮かんでこない。でも、すごく心配だ。突然転校するなんて、しかも高校生で転校だなんて、あまりいい理由ではない気がしてしまう。
そこに追い打ちをかけるように入った一果からの情報が、私の思考をさらにネガティブな方向へ運んでいく。
会えないかとは聞いたものの、もし会えたとして私は先輩に気の利いた言葉の一つでもかけられるだろうか。詳しい事情を教えてもらえたとしても、私なんかになにができるというのだろう。
「失恋で髪を切るって、誰が始めたんだろうね」
「なに、いきなり」
「だって、切っても失恋した事実は消えないじゃない」
お母さんらしい考え方にため息が漏れる。
「心機一転したいんじゃないの? 縁がなかったって思うだけじゃ消化できないから、暗い気持ちごと切り落としたくなるんだよ。きっと」
ちょっと語気を強めてしまった。
小林くんのときもバッサリ行っていれば、こんなに引きずらなかったのかもしれない。
「失恋て消化したいものなのね」
「え、なに? 百発百中で成就してきたの?」
「ちがうわよ。それなりに失恋はしたけど、全部納得して終わってるから、切り落としたいものになったことがないの」
「納得って……そんなに上手くいくものばかりなわけないじゃん」
お母さんの恋愛にここまで踏み込むのは初めてだ。
だけどそんなことよりも、全敗記録保持者としてはお母さんの言葉が嫌味に聞こえてしまって鼻持ちならない。
「上手くいくというより、自分で選んだ相手でしょ? 良い人でも悪い人でも、選んだのは自分なんだから。最悪の結果にならないように、どうにか動かしていくしかないじゃない。それでも無理なら仕方ない。縁がなかったってことよ」
どこかで聞いたことのある話に驚かずにはいられない。
これまで忌避していたお母さんの性質の、その根源にあるものが初めて見えた気がする。
お母さんも“そう”なんだ。
決断に迷いがないのも、いつも溌剌としているのも、人生の舵を自分で握っているから。選ぶときは納得できるもの突き詰めて、自分が楽しめる道を進む。私みたいに「しないといけない」なんて、やらされているような考え方はしないんだ。
竹を割ったような性格を地で行く人だと決めつけていたから、お母さんの生き方を深く掘り下げたことなんてなかった。
「じゃあ、なんでお父さんだったの? 二人とも全然性格ちがうじゃん。正直、お母さんがお父さんに惹かれるとは思えないし、逆も然りなんだけど」
「失礼ね。これでも一応、ちゃんと惹かれて結婚したんだけど」
そんなことは分かっている。
ほぼ真逆の性格なのに二人はいつも仲がいい。生活リズムだってちがうのに、常にどちらからともなく会話が飛び交っている。私もだてに娘はやっていないのだ。
だからこそ、本当に謎だった。どうしてお父さんとお母さんが夫婦なのか。この二人からは莉央ちゃんのご両親のような恋愛の匂いが全くしない。昔は知らないけれど、少なくとも物心がついたころから今の雰囲気だ。
「んー、恋愛以外のところが盛り上がったから、かな」
「え、結婚なのに?」
「結婚だからよ。これから先、何十年も寄り添う人と、恋愛の勢いだけで一緒になりたくなかったの。家族になっても楽しい人がよかった。それがお父さんだったのよ。具体的にどこがって言われても、直感だから説明できないけど」
直感だと言われてしまえばそれまでだ。
「お父さんはなっかなか踏み切ってくれなかったから、何回も尻を叩いたけどね」
容易に想像できてしまって、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、莉央ちゃんのご両親みたいなラブラブな夫婦を羨ましいと思ったことはないの?」
「ないわね。周りにもそういう人はいるけど、私に合うやり方じゃないの」
分かるような分からないような、どっちつかずな感想しか出てこない。
小学五年生のときの子も小林くんも、私は彼らと接して自分の心が踊るのを強く実感していた。だからこそ今までずっと引きずっていたのだ。
そして、それが高石先輩に当初抱いていた恐怖心とは全然ちがう胸の高鳴りで、このごろ感じるようになった尊敬とは似ても似つかないものだということも分かっている。
ならば、私が先輩に抱いている感情の名前は恋愛感情ではない、はずだ。それなのに断言できない自分がここにいて、まるで無理矢理恋愛に運ぼうとしている気がして嫌気が差してくる。
「恋愛も結婚も、その単語だけで片付けてしまうのはもったいないと思うの」
押し黙った私を見兼ねたのか、お母さんがまたもや唐突に不思議な切り口で割り込んできた。
「どういう意味?」
「人間は言葉が話せるから、なにもかも言葉に当てはめすぎなのよ。職場の人たちも、なにかにつけて悩んだ理由を説明してくるけど、正直そんなことはどうでもいい。あなたの本心がなんて言っているのか、私はそれが知りたいだけ。『好き』とか『楽しい』とか本心を表す言葉だけ教えてくれれば、あとは自由にしてくださいって思うの」
これは恐らく休憩時間に発生する雑談のことを言ってるのだろう。
「それ、職場の人に言ったら絶対怒られるよ」
「ねー。だから言わないけど。みんな、頭でっかちなのよ。『こういう理由だから』がないと行動に移せないなんて、理由を考えている時間が無駄だし、もっと直感で動けばいいの。そして、仕事中にまで引きずらないでほしいわ」
だから、そんなことができれば誰も苦労しない。
お母さんのように悩まず本能で正しい選択ができる人なんて、ほんの一握りだろう。
「でも、縁葉は娘だから別よ」
「え?」
「同僚にはちゃんと働いてもらわないと困るけど、それは仕事の話。あんたはまだ高校生なんだし、いっぱい悩めばいいの」
「な、なに、いきなり……」
「ずっと心配してたのよ。あんたはお父さんに似て慎重なところがあるでしょう。私とは根本的に考え方がちがうから、どれだけ手を尽くしても役に立てないときがどうしてもある。だから、それを補ってくれるような存在が少しでも多くいればって思ってたの」
「…………」
「これでも子育てには慣れてきたつもりだけど、自分が成長する分、子どもだって成長するからね。上手くいったと思っても、すぐに次の壁にぶち当たって、もどかしくて唇を噛んだことなんて山ほどあるわよ」
「だから——」とお母さんは柔らかく目尻を下げた。
「高校に入ってからは今までよりもずっと楽しそうで、ちょっと安心してた。ほら、放課後に遊んでくる日も増えたでしょ? それが最近は顔つきもすっきりして、髪まで切ってくるんだから。いいことあったのかって聞きたくもなるじゃない」
そんなの知らない。
これまで一度だって、そんな内面を見せたことなんてなかったのに。
娘を分かろうとしてくれない無慈悲な母親なのだと思っていた自分が恥ずかしくなってくる。うじうじと同じところを行ったり来たりしてばかりの娘に愛想を尽かしたのだと思っていたから、小五の失恋以降の私はお母さんにキツく当たることが増えてしまったのに。
罪滅ぼしのつもりでそう言ったら、「そんなわけないでしょう」と眉根を下げて笑われてしまった。
「それならそう言ってくれれば……。知らないまま大人になってたら、お……、恩みたいなのだって感じられなかったかもよ? せっかく育ててやったのにってならないの?」
「ならないわよ。私はね、育ててあげたなんて思いたくないの。子どもを望んだのは百パーセント親のエゴなんだから、子どもに恩を売るようなことはしたくない。ほら、あれと一緒よ。ペット」
「ペット?」
「あんたが幼いころ、おばあちゃんの家にいた柴犬。あの子が本当にやんちゃでね。お風呂に入れたその日に泥水に全身突っ込むわ、ソファ破るわ、大変だったの。でも、本当にかわいかった。人間みたいに稼いでくるわけでも、家事をしてくれるわけでもないのに、本当にかわいい。いてくれるだけで十分だったのよ。それと同じ」
「え、私ペットなの?」
「例えよ、例え。子どもは人間だからどうしても見返りを望んでしまいたくなるけど、本当はペットと同じで存在してくれるだけで十分なはず。そこからより良い人生になるようにいろいろと施すのだって、完全に親の自己満足。それがもし子どもに合わなくて、恩を感じてもらえなかったとしても、それは私の力量不足だったってだけよ」
ゼロか百。相変わらず、お母さんは少し潔すぎる気もするけれど、こうして深堀りしてみると悪いところばかりではないのかもしれない。
確かに、私には合わないところのほうが多い。
現に私はこうして腹を割って話すまでお母さんのことを誤解していた。そのせいでぎくしゃくしていた期間が延びたのかもしれない。莉央ちゃんの家に生まれていたらって思ったことだって、さすがに口にはしなかったけれど実はあった。
「なんか、恥ずかしいね。要するにあれよ。お父さんもお母さんもなにがあっても縁葉の味方だから、好きに生きなさいってことよ」
「急に雑じゃない?」
「あ、でも、法に触れるようなことはさすがに庇いきれないから、法律の範囲内でお願いします」
「そんなことしません」
見計らったように、玄関の扉の開く音がした。
この地域にしては珍しく雪がチラついていたようで、リビングに入ってきたお父さんは頭や肩がぐっしょり濡れていた。慌ててお風呂の準備をするお母さんの背中をソファからぼんやり眺めていたとき、私はあることをひらめいた。
——縁がなかったのよ。諦めなさい。
もしかしてあの言葉は私が最悪の結果にならないように行動したうえでのやむを得ない失恋だと、そう行動できる娘だと信じてくれていたからこそ出たものだったのだろうか。答え合わせをするつもりはないけれど、そうだと嬉しい。
そう思いながら口に運んだもちもちのアイスは、雪のおかげでキンキンに冷えたままだった。だけど、このとき食べたそれは今までで一番温かい食べ物に感じられた。
