「ふう……」
帰る前に私はお手洗いへ席を立った。
たくさん話して考えたせいか、洗面台の鏡に映る顔は少し疲れて見える。やっぱり自分の顔を見ると嫌悪感に歪むけど、それでも目を逸らさずに立っていられるほど心は軽い。
「手紙……やっぱりあのタイミングで言えばよかった……」
未来を見せてとは言わないから、「後悔するよ」のテロップぐらい目の前に出てほしい。
戻ってから訊こうにもさすがにこれ以上は時間がやばい。お父さんからも帰宅を促すメッセージが入っていたから、帰りは家までダッシュ確定だ。
手紙についてはまた後日、先輩に時間を作ってもらおう。そのためにも戻ったら連絡先を訊いてみてもいいかもしれない。時期的に公園で当てもなく待つのは厳しくなってくる。
「……え?」
濡れた手を備え付けのペーパータオルで拭きながら、自分の考えに自分で驚いた。ずいぶんと遠慮のない考えをするようになった。最初のころなんて、生徒手帳を拾ったことすらはっきり伝えられなかったというのに。
「先輩が何度も私を受け入れてくれたから……」
私と関わるのが嫌ではないのかと訊いたときはそんな概念すらなさそうだったし、私に触られても不快ではないとはっきり言ってくれた。
視点は鋭いし率直だから言われた瞬間はかなり刺さる。でも決して理不尽なことは言わないし、なんだかんだ突き放したりもしない。即効性というよりは、持ち帰って改めて考えてみると必要な指摘だったと気が付ける。そんな不思議な力を持っている人だと思う。
それに、思ったことをそのまま口にしているわけではなさそうだ。私の勘違いかもしれないけど、口に出す前に伝えていいものかを一度考えているような、そんな配慮を感じることがたびたびあった。
「すごく強い意志だった……」
自身の考えを話しているときの先輩は一段と声が低くて、言葉の裏に青い炎のような強い感情が滲んで見えた。店内の喧騒や定期的に響く電車の音に勝てるほどの大声ではないのに、鼓膜を貫いて心を突き刺す信念のようなものが先輩の言葉には宿っている気がした。
正直言うと、こういった強さが全面的に表れている人なんだと思っていた。
女子に対しては例外なくパーソナルスペースが広くて、相手の意思を尊重することなく自分の意見を押し通す人。少なくとも一果たちから事前情報を聞いた時点では、信頼できる可能性なんて一ミリもない相手だった。
だからこそ、思う。
私から見れば恵まれているとしか言いようのない人なのに、先輩からは莉央ちゃんのような深い自己肯定感が見えない。決して自信がないわけではないけど、ありのままで存在することが当然というよりは、それを自分で自分に許しているような感じだった。
それに多分、先輩は自分が桜であることに全く興味がない。他人が勝手に苗木を植えただけで、自分は望んでここにいるわけではないとでもいうような、なんというか自身の魅力に対する無頓着さが漂っている。
——外見なんて、ただの飾りなんだから。
あの言葉はそういうところから来ているのかな。
「……ょ、…………なんて、もらったことないわ」
「今どきそんなアナログな経験、滅多にできないでしょ」
お手洗いから出たところで、近くの席の会話が耳に届いた。心が晴れ晴れしているせいか、いつもより耳がいいように感じるのは完全に気のせいだろう。
「でも、ちょっと憧れねぇ?」
「僕は普通にメッセージでいいかも。それか直接」
お手洗いと席を隔てるパーティションの裏の席なのか、会話がはっきり聞こえてしまう。
声や話し方からして同年代なのかもしれない。盗み聞きの趣味はないので、とっとと席に戻ろうと足を早めたとき——
「おれ、もらったことあるよ。ラブレター」
その一言に、心臓がドクッと嫌な跳ね方をした。
先輩とはちがう人好きのする話し方と、先輩よりも少し高い声。中学のころ、目だけでなく耳でも追っていたあの声とよく似ている気がする。
いつの間にか足は止まっていた。「まじかよ!」「いつ?!」と続く会話の主たちは、パーテーションを挟んで私の左側にいるはずだ。
「中学のとき。でもあれ——」
これ以上は聞いてはいけない。
頭ではそう思うのに、岩のように固まった足は一向に動いてくれない。
動け、動け——……
「トラブルに巻き込まれて、ぐちゃぐちゃになっちゃったんだよな。もう読めないから、仕方なくそのまま置いてきた。そのあとは知らない」
気付いたときには、すでにテーブルの前に立っていた。あれほど動かなかった足で、どうやってここにたどり着いたのかは記憶にない。見下ろした先では、やっぱり懐かしさの欠片もない顔が細い目を見開いて私を見上げている。
「い、ずい……」
「小林くん」
私のほうが低いんじゃないかと思うほど腹の底から響いた声が、彼—— 小林明孝くんにのしかかった。中学では名字から取って『コバ』と呼ばれていたけど、私はもちろん名前まで把握していた。いまだに憶えていることに、もう驚いたりはしない。
「えっ?!」「なに?!」とあたふたする友達二人に構うことなく、私は続ける。
「さっきの話……どういう意味?」
「え……?」
「ラブレター。……私が渡したやつ、だよね?」
「あ……えっと…………」
「なかったことにされて、すっごくつらかった……。でも……謝ってほしいわけじゃない。……なにがあったのか、ちゃんと知りたいだけ」
眼下で青ざめる小林くんの姿にこれまでの想いが霧散する。
たとえ手紙がしわくちゃになったとしても、それを正直に話してほしかった。手紙が読めない状態になったとしても、私の気持ちを知った小林くんは残っているのだからちゃんと返事がほしかった。
気持ちを伝えたのは私の勝手だから、答えるか否かは小林くんの勝手なのかもしれない。でも、そんなことを言っていたら人間関係はあまりにも無秩序なものになってしまう。
告白になにも返さないのは話しかけられて無視するのと変わらない。少なくとも私は無視されていると感じた。自分の中から私の気持ちを、存在を消したのだと言われた気がした。
それは私が一番嫌なことで、もっとも恐れていたことだったのに。小林くんはそんなことをしない人だと信じたから、勇気を振り絞って気持ちを送ったのに。
「教えてください。お願いします……!」
頭を下げた私の勢いに負けたのか、小林くんが「だ、だから……」と声を詰まらせながらも話し始めた。
「あの日、て、手紙もらったあと、そのまま塾に行ったんだ。そこで……」
「お、お前がぐちゃぐちゃにしたのかよ?!」
そう追及したのは小林くんの友達の一人だ。
「ち、ちがう!! 突然、知らないやつが突っかかってきて、揉み合いになって……。そのときにそいつがぐちゃぐちゃにしたんだよ! おれじゃない!!」
「本当かよ?!」
「明孝が学校のプリントに挟まってた手紙を、気付かずにプリントと一緒に捨てようとしたんじゃないの?!」
一緒に盛り上がっていたのだと思ったけど、友達二人は完全に小林くんの味方というわけでもないらしい。怪訝そうな眼差しを小林くんに向けている。
そんな彼らの態度が小林くんの不安を煽ったのかもしれない。「ちがうって! 本当に突っかかってきたんだよ!」と答える彼は、今にも泣き出しそうだ。
「じゃあ、誰だよそいつ?!」
「だから、知らないやつなんだって!」
「そんなの信用できないよ。明孝が間違って捨てたのを隠すために、架空の人物をでっち上げてるんじゃないの?」
「なんでお前らまでおれを疑うんだよ?! 本当にいたんだって! なんか、めっちゃ怖そうな——……」
突如、話すのを止めた小林くんの目線を私たちも追う。
その先には高石先輩が立っていた。
「そろそろ帰らなくていいの? もう八時だけど……」
先輩の視線が私から隣へ落ちる。
ぎこちなく顔を動かすと、小林くんが先ほどよりも大きく目を見開いていた。友達二人は状況が呑み込めないとでもいうように、不安げな面持ちで顔を見合わせている。私は嫌な予感がした。
「お前……」
そう呟いたのは先輩だ。
「こ、こいつだよ!!」
小林くんは勢いよく立ち上がり、先輩を指差す。
「おれに突っかかってきて、手紙をぐしゃぐしゃにしたやつ!!!! だ、だから、おれは悪くない! もう読めなくなったから仕方なく置いてきただけで、それがなければちゃんと返事してたんだ!!!!」
そう言い捨てた小林くんは、逃げるようにカフェをあとにした。
なぜか彼を追う友達二人が私に頭を下げてくれたけど、もうそれどころではなかった。
帰る前に私はお手洗いへ席を立った。
たくさん話して考えたせいか、洗面台の鏡に映る顔は少し疲れて見える。やっぱり自分の顔を見ると嫌悪感に歪むけど、それでも目を逸らさずに立っていられるほど心は軽い。
「手紙……やっぱりあのタイミングで言えばよかった……」
未来を見せてとは言わないから、「後悔するよ」のテロップぐらい目の前に出てほしい。
戻ってから訊こうにもさすがにこれ以上は時間がやばい。お父さんからも帰宅を促すメッセージが入っていたから、帰りは家までダッシュ確定だ。
手紙についてはまた後日、先輩に時間を作ってもらおう。そのためにも戻ったら連絡先を訊いてみてもいいかもしれない。時期的に公園で当てもなく待つのは厳しくなってくる。
「……え?」
濡れた手を備え付けのペーパータオルで拭きながら、自分の考えに自分で驚いた。ずいぶんと遠慮のない考えをするようになった。最初のころなんて、生徒手帳を拾ったことすらはっきり伝えられなかったというのに。
「先輩が何度も私を受け入れてくれたから……」
私と関わるのが嫌ではないのかと訊いたときはそんな概念すらなさそうだったし、私に触られても不快ではないとはっきり言ってくれた。
視点は鋭いし率直だから言われた瞬間はかなり刺さる。でも決して理不尽なことは言わないし、なんだかんだ突き放したりもしない。即効性というよりは、持ち帰って改めて考えてみると必要な指摘だったと気が付ける。そんな不思議な力を持っている人だと思う。
それに、思ったことをそのまま口にしているわけではなさそうだ。私の勘違いかもしれないけど、口に出す前に伝えていいものかを一度考えているような、そんな配慮を感じることがたびたびあった。
「すごく強い意志だった……」
自身の考えを話しているときの先輩は一段と声が低くて、言葉の裏に青い炎のような強い感情が滲んで見えた。店内の喧騒や定期的に響く電車の音に勝てるほどの大声ではないのに、鼓膜を貫いて心を突き刺す信念のようなものが先輩の言葉には宿っている気がした。
正直言うと、こういった強さが全面的に表れている人なんだと思っていた。
女子に対しては例外なくパーソナルスペースが広くて、相手の意思を尊重することなく自分の意見を押し通す人。少なくとも一果たちから事前情報を聞いた時点では、信頼できる可能性なんて一ミリもない相手だった。
だからこそ、思う。
私から見れば恵まれているとしか言いようのない人なのに、先輩からは莉央ちゃんのような深い自己肯定感が見えない。決して自信がないわけではないけど、ありのままで存在することが当然というよりは、それを自分で自分に許しているような感じだった。
それに多分、先輩は自分が桜であることに全く興味がない。他人が勝手に苗木を植えただけで、自分は望んでここにいるわけではないとでもいうような、なんというか自身の魅力に対する無頓着さが漂っている。
——外見なんて、ただの飾りなんだから。
あの言葉はそういうところから来ているのかな。
「……ょ、…………なんて、もらったことないわ」
「今どきそんなアナログな経験、滅多にできないでしょ」
お手洗いから出たところで、近くの席の会話が耳に届いた。心が晴れ晴れしているせいか、いつもより耳がいいように感じるのは完全に気のせいだろう。
「でも、ちょっと憧れねぇ?」
「僕は普通にメッセージでいいかも。それか直接」
お手洗いと席を隔てるパーティションの裏の席なのか、会話がはっきり聞こえてしまう。
声や話し方からして同年代なのかもしれない。盗み聞きの趣味はないので、とっとと席に戻ろうと足を早めたとき——
「おれ、もらったことあるよ。ラブレター」
その一言に、心臓がドクッと嫌な跳ね方をした。
先輩とはちがう人好きのする話し方と、先輩よりも少し高い声。中学のころ、目だけでなく耳でも追っていたあの声とよく似ている気がする。
いつの間にか足は止まっていた。「まじかよ!」「いつ?!」と続く会話の主たちは、パーテーションを挟んで私の左側にいるはずだ。
「中学のとき。でもあれ——」
これ以上は聞いてはいけない。
頭ではそう思うのに、岩のように固まった足は一向に動いてくれない。
動け、動け——……
「トラブルに巻き込まれて、ぐちゃぐちゃになっちゃったんだよな。もう読めないから、仕方なくそのまま置いてきた。そのあとは知らない」
気付いたときには、すでにテーブルの前に立っていた。あれほど動かなかった足で、どうやってここにたどり着いたのかは記憶にない。見下ろした先では、やっぱり懐かしさの欠片もない顔が細い目を見開いて私を見上げている。
「い、ずい……」
「小林くん」
私のほうが低いんじゃないかと思うほど腹の底から響いた声が、彼—— 小林明孝くんにのしかかった。中学では名字から取って『コバ』と呼ばれていたけど、私はもちろん名前まで把握していた。いまだに憶えていることに、もう驚いたりはしない。
「えっ?!」「なに?!」とあたふたする友達二人に構うことなく、私は続ける。
「さっきの話……どういう意味?」
「え……?」
「ラブレター。……私が渡したやつ、だよね?」
「あ……えっと…………」
「なかったことにされて、すっごくつらかった……。でも……謝ってほしいわけじゃない。……なにがあったのか、ちゃんと知りたいだけ」
眼下で青ざめる小林くんの姿にこれまでの想いが霧散する。
たとえ手紙がしわくちゃになったとしても、それを正直に話してほしかった。手紙が読めない状態になったとしても、私の気持ちを知った小林くんは残っているのだからちゃんと返事がほしかった。
気持ちを伝えたのは私の勝手だから、答えるか否かは小林くんの勝手なのかもしれない。でも、そんなことを言っていたら人間関係はあまりにも無秩序なものになってしまう。
告白になにも返さないのは話しかけられて無視するのと変わらない。少なくとも私は無視されていると感じた。自分の中から私の気持ちを、存在を消したのだと言われた気がした。
それは私が一番嫌なことで、もっとも恐れていたことだったのに。小林くんはそんなことをしない人だと信じたから、勇気を振り絞って気持ちを送ったのに。
「教えてください。お願いします……!」
頭を下げた私の勢いに負けたのか、小林くんが「だ、だから……」と声を詰まらせながらも話し始めた。
「あの日、て、手紙もらったあと、そのまま塾に行ったんだ。そこで……」
「お、お前がぐちゃぐちゃにしたのかよ?!」
そう追及したのは小林くんの友達の一人だ。
「ち、ちがう!! 突然、知らないやつが突っかかってきて、揉み合いになって……。そのときにそいつがぐちゃぐちゃにしたんだよ! おれじゃない!!」
「本当かよ?!」
「明孝が学校のプリントに挟まってた手紙を、気付かずにプリントと一緒に捨てようとしたんじゃないの?!」
一緒に盛り上がっていたのだと思ったけど、友達二人は完全に小林くんの味方というわけでもないらしい。怪訝そうな眼差しを小林くんに向けている。
そんな彼らの態度が小林くんの不安を煽ったのかもしれない。「ちがうって! 本当に突っかかってきたんだよ!」と答える彼は、今にも泣き出しそうだ。
「じゃあ、誰だよそいつ?!」
「だから、知らないやつなんだって!」
「そんなの信用できないよ。明孝が間違って捨てたのを隠すために、架空の人物をでっち上げてるんじゃないの?」
「なんでお前らまでおれを疑うんだよ?! 本当にいたんだって! なんか、めっちゃ怖そうな——……」
突如、話すのを止めた小林くんの目線を私たちも追う。
その先には高石先輩が立っていた。
「そろそろ帰らなくていいの? もう八時だけど……」
先輩の視線が私から隣へ落ちる。
ぎこちなく顔を動かすと、小林くんが先ほどよりも大きく目を見開いていた。友達二人は状況が呑み込めないとでもいうように、不安げな面持ちで顔を見合わせている。私は嫌な予感がした。
「お前……」
そう呟いたのは先輩だ。
「こ、こいつだよ!!」
小林くんは勢いよく立ち上がり、先輩を指差す。
「おれに突っかかってきて、手紙をぐしゃぐしゃにしたやつ!!!! だ、だから、おれは悪くない! もう読めなくなったから仕方なく置いてきただけで、それがなければちゃんと返事してたんだ!!!!」
そう言い捨てた小林くんは、逃げるようにカフェをあとにした。
なぜか彼を追う友達二人が私に頭を下げてくれたけど、もうそれどころではなかった。

