やや駆け足で駅へ向かった私たちは、コンビニの隣にあるカフェのテーブル席に向かい合わせに腰を下ろした。
食事系のメニューも提供しているため、それ目的で入店した人も多いのだろう。店内は賑わっていて、残りわずかの空席をなんとか確保することができた。
店内に背を向けて座っているから人の出入りに気が散ることはないものの、隣の席の若い男性が黙々と口に運んでいるオムライスが目に入ってお腹が空いてくる。
だけど、今ここで食べるわけにはいかない。カフェに着く少し前にお父さんから帰宅時間を尋ねるメッセージが届いていたのだ。外食ならそのことも書かれているはずだから、今日もお父さんが夕飯を作ってくれるはず。ここで固形物を口にしてしまったら、夕飯を減らしたくなる衝動に絶対に抗えない。
気を紛らわせるように、スクエアテーブルの上でのんびりと湯気を立てている淹れたてのカフェラテに目を落とす。厚みのあるマグカップを両手で持ち上げて一口含んだら、コーヒーの苦みとミルクの甘みがとりあえず体を満足させてくれた。
忘れないうちに、三十分ほどで帰るとお父さんに返信したところで、「で、俺のせいじゃないならなんで切ったの」と先輩が見計らったように訊いてきた。
先輩の前にも私と同じカフェラテが置いてある。勝手にコーヒーはブラック派だと思っていたので、こっそり親近感を抱いてしまった。
「あ、はい。えーっと、なんていうか……」
どこから話せばいいだろう。
切った理由をまだ誰にも話していないせいか考えがまとまっていない。
なにせ、切ることを決断したのは昨夜のことだ。ようやく期末考査から開放されて、冬休みの予定でも立てようとカレンダーアプリを開いたときに、美容院の予定が入っていたことに気が付いた。
前回利用したときにとりあえずと思って入れた予約だからなのか、高石先輩との出来事やテストで切羽詰まっていたからなのか、なんにせよ予約の存在をすっかり忘れていた。
決断してすぐに一果と紗良にはメッセージで伝えたけど、『心機一転てことか』『憑き物が落ちた感じかな』といい感じに解釈してくれたので細かな理由は説明していない。二人とも会ったときに改めて聞いてくれるつもりなのだと思う。
「先輩に言われたことは、正直まだちゃんと理解できてない……あ……」
やってしまった。切り出し方を盛大に間違えた。
わかったフリをしたくなかったとはいえ、どう考えても出だしで言っていい内容じゃない。これでは先ほどの謝罪が形だけだと自白しているようなものだ。
「まあ、そうだろうな」
「え?」
「ん?」
「お、怒らないんですか? ちゃんと反省してないって……」
やけにあっさりした反応に拍子抜けしてしまう。
「反省してただろ。『たくさんひどい言葉ぶつけてすみません』って」
「そうですけど、そうじゃなくて……。私、まだ先輩に言われたこと、受け入れられてないんですよ?」
「たった数週間で『わかりました』って言われるほうが不自然だと思うけど。そんな簡単に切り替えられるなら、何年も悩んでないんじゃないの」
「そう、ですけど……」
何度か顔を合わせて思った。先輩は強引なようで柔軟性がある。
はっきりと主張はするけど、理解や納得を強要してこない。受け入れるかどうかは相手に委ねている感じだ。
それが私の気持ちを尊重してくれているのか、指摘はしたからあとは勝手にしてくれと思っているのかはわからない。でも、前者だといいな、なんて生意気にも思ってしまった。
「受け入れてないのに切ったんだ?」
「……はい。その、この前ほんの少しだけ『私でよかった』って思った瞬間があって。本当に、本当に少しなんですけど、でも、すごく大事な気持ちな気がして。せっかくそう思えたのに、それを無視して莉央ちゃんを目指し続けるのは嫌だなって思ったんです。なんとなく、ですけど……」
「自分を好きになってきたってこと?」
「そこまではっきりしたものじゃ……。そう思えたのも、まだ一度だけだし……。でも、友達に……大好きな子たちにもらった気持ちだから、どうしても忘れたくなくて、なにかしたくて……。それで強引にでも退路を断ってみようかなって」
「にしても、思い切ったな」
「偶然なんですけど、テスト明けに美容院の予約が入ってたんです。これはもう切れってことなのかなって。この機会を逃したら、二度と踏み出せない気がしたし」
私のことだ。気持ちなんてきっと簡単に揺らいでしまう。そんな要らないところに付いてしまった自信はとても頑固だから、このぐらいしておかないと駄目なんだ。
「気になってたんだけど」
「はい」
「その“小笹になる”って、どこまで?」
首を傾げた私に先輩が続けた。
「物理的に手を加えない限り小笹と同じ外見にはなれないし、中身って言っても趣味嗜好まで同じにするのは現実的じゃない。考え方なんてなおさらだろ」
「それは……」
鋭い人だ。いつも私の悩みの本質を突いてくる。
それが意図的なのかはわからないけど、私一人ではきっともやもやしたままで終わってしまうものを形にしてくれるのは確かだ。
代償とでも言うべきか、殻をむいた卵のように露わになった心をまじまじと見られているようで落ち着かないけど。でも——
「文字通り“すべて”でした」
この眼差しから逃げてしまったら私はきっと変われない。
「ずっと整形したいって思ってました。……いや、今もまだ少し思ってます、けど……。とりあえず、本当に全部、莉央ちゃんを丸々コピーしたかったんです。でも整形はすぐにはできないし、中身を全部真似するのも無理だから、とりあえず髪を伸ばしてダイエットするところから始めました」
なかなか改善されない体質には本当に悩まされた。
長身でも華奢であればモデル体型で通用する。でも、そこに筋肉が加わると一気に威圧感が出てしまう。特に私は筋肉がつきやすい体質らしく、中学のときの運動部でも同じトレーニングをしているはずの同級生より筋肉が発達していた。それが本当に嫌で、いつ見てもほっそりしている莉央ちゃんの体つきが心底羨ましかった。
高校で部活を続けなかったのは中学の部活が楽しくなかったのもあるけど、一番は筋肉をつけたくなかったからだ。
とはいえ、動かなければ脂肪がつく。だからといって、やり過ぎれば筋肉がついてしまう。いい塩梅が見つけられない歯がゆさにずっと苛まれていた。
「“私”を完全に消したかった……」
「今は?」
「今、は……自分がなにをしたいのか、わからなくなって……。このまま莉央ちゃんを目指したとして、望んだ未来が手に入る気がしなくなってきたというか……。ゴールってどこにあるんだろうって……」
これまでは盲目的に莉央ちゃんを追いかけていたから、そんな疑問に思い至ることすらなかった。
「ちょっと話が逸れるんですけど……」でも、高石先輩に聞いてほしい、大切な気持ち。
「友達が教えてくれたんです。自分の嫌な部分を丸ごと塗り替えるんじゃなくて、上手く折り合いをつけるやり方もあるって。でも、ずっと自分がだいきらいだったから、すぐに切り替えることもできないし……。とりあえず髪型だけでもって思ったんですけど、これぐらいじゃなにも変わらないですね……」
ほとんどため息のような力ない笑い声が漏れた。
一果と紗良の話を聞いてから、ずっと心がそわそわしていた。二人にはあって自分にはないもの。その大事ななにかを見落としている気がしてもどかしかった。試験期間はそれに心を持っていかれないように必死だったほどだ。
そうして合間合間に考えて、やっとのことで気が付いた。
「私、莉央ちゃんを逃げ道にしてたんだなって……」
もちろんそんなつもりは一切なかった。でも、否定できないことが答えなのだと思う。
だいきらいな自分のままでいることは、目を逸らすことよりもずっと苦しい。自分の醜さを認めて、次に受け入れて、そのうえで改善方法を考える。そうして向き合ったところで結果がすぐに出るわけでもなければ、必ず理想の自分にたどり着ける保証もない。
そんな不確実な未来のためにきらいな存在に付き添い続けるなんて、すでに弱っている心をさらにじっくりといたぶっていくようなものだ。
それなら「莉央ちゃんを目指そう」と結論付けるほうが、はるかに心の負担は小さくて済む。一見前向きに思えて、自分を変えるために努力できているのだと勘違いしてしまう、なんとも厄介な道だとも気付かずに。
「だから、失敗して当然だったんです。告白だって『自分を変えたくて』なんてもっともらしいこと言ってたけど、本当はなにが問題なのかすら考えようとしてなかった……。“がんばってるフリ”、してたんです……」
「……俺はいいと思ったけど」
「え?」
「……いや、その髪。似合ってるし、なんかスッキリして見える」
「あ、髪、ですか……。ありがとう……ございま、す……」
お世辞だとわかっていても、褒められ慣れていないせいで反応に困ってしまう。
莉央ちゃんならこんな捻くれた解釈なんてせずに、笑顔でお礼を……ああ、また出てしまった。なんでも莉央ちゃんに当てはめているから、いつまで経っても幼馴染から自分を切り離せない。
「あと、そんなに自分を卑下しなくていいんじゃない」
「え?」
「誰かに憧れることが逃げみたいに言うけど、目標があるのはいいことだろ。文句だけ一人前で、行動すらしてないのとはわけがちがう。出井の場合はそこじゃなくて……そうだな、アイスとか?」
「え、アイス? ですか??」
「そう。あのときみたいに、自分で選ぶことが大事なんだと思う」
生徒手帳のお礼をしてくれたときのことを言っているのだろう。
激辛スナックと酸っぱすぎるグミの究極の二択を迫られて、さらには水を禁じられて、ようやく出た嘘偽りない好物。それが……大事?
「出井と小笹の間に優劣をつけたのは、小学校の同級生だろ?」
「……はい」
「自分の恋心に必死で出井に配慮する余裕がなかったのも、告白の返事をしなかったのも、全部そいつが勝手にやったこと」
「ま、まあ……そうなる、の、かな?」
「なんで他人のやったことまで、まるで自分のものみたいに抱えてんの?」
言われて、一瞬言葉に詰まった。
「か、抱えてるつもりは……」心の底の辺りがなんとなくモゾッとして、けれどそれに気付かれたくなくて繋ぎとしての否定をとりあえず挟む。
でも、その場しのぎなんかじゃない。先輩から見ると『自分のものみたいに抱えて』いるものには、ちゃんとした意味がある……はずなんだ。
「だ、大事じゃないですか、客観的な意見って。自分じゃ気付けないことに気付けるし、大勢がそう言うなら、それが正しいはずだし……。実際、私と莉央ちゃんが並んだら、莉央ちゃんのほうが優れてるのは本当だから……」
「出井自身がそう思って、本心から小笹を目指すならそれでいい。でも、出井の理想像って本当に小笹?」
「それは……」
そのはずだ。莉央ちゃんの真似をして私は育った。
昔からずっと莉央ちゃんを基準にして生きてきたと言っても過言ではない、はずだ。
「アイスの話に戻るけど、好きなものを迷わず答えられるのは、それに納得してるからだと思う。好き嫌いって、自分の内側から湧いてくるものだろ。それを根拠としてるから、『本当にアイスが好きなのか』なんて迷うこともない。気付いてないだけで、出井も実はそれができてるんじゃないの」
「でも、アイスなんて、そんな小さいもの……」
「“そんな小さいもの”の寄せ集めでできてるんだと思うけど、人間て」
「…………」
自分にない視点すぎて言葉が出ない。
確かにアイスは莉央ちゃんに対する劣等感を自覚する前から好きだった。特にお礼として買ってもらったアイスは、おばあちゃんの家で初めて食べたときに衝撃を受けて以降、好きなアイス第一位の座から陥落したことがない。食べ過ぎてお腹を壊してお母さんに怒られたこともあるほどだ。
「食べ過ぎたらお腹を壊す」という制限はあるけど、「『私』ではいけないから」という理由で選んだものじゃない。莉央ちゃんはアイスよりもケーキ派だから、一緒にいるときはケーキを選んでたけど、家ではアイス欲を抑えられなかったことだって何度もある。
「あと、これは小笹から聞いた。追いかけてくるわりに、従順なわけじゃなかったって」
「………………え?」
黙り込んだ私の意識を引き戻すには十分すぎる破壊力だった。あまりの恥ずかしさに、みるみる顔が熱を帯びる。
「り、莉央ちゃんに、訊いたんですか……? 私のことを……?」
「社会の選択科目が隣の席。授業始まる前に時間あったから話振ってみた。『出井と仲いいんだって?』って」
「ああぁぁぁ……」
「そしたら口挟む隙も与えてくれないほど、一気に思い出話披露してくれた。わりと小笹が折れることが多くて、遊びもお菓子も決定権は出井に譲ってたって」
「う、うう嘘だ……! だって、ランドセルとか髪型とか、服だってお揃いにして……」
「それは単に同じものが気に入ったってだけだろ。なんだっけ? ……ああ、裁縫道具。一学年上の小笹が先に買ったから、それ見て絶対同じのにするって言ってたくせに、翌年満面の笑みで見せてきたのは全然ちがう柄だったって」
「ええぇぇぇ……」
先輩の目を見てられなくて両手で顔を覆う。
「全然憶えてない……」
「他のことを記憶してられないぐらい、容姿を比べられたことがショックだったんだろ」
「確かにショックでしたけど……そうなんですけど……」
恥ずかしさが限界を突破したのか、全身から力が抜けていく。テーブルに両肘を突いて、組んだ手に寄りかかるようにうなだれた。
「私って、そんなに奔放な子どもだったんだ……」
「むしろ、それが本来の出井なんじゃないの。だから髪、ばっさりいったんだと思ってた」
「これは単純に後戻りできないようにって、思っただけなんです……。莉央ちゃんから離れられる髪型ってなんだろうって……探して…………」
力を入れていないのに自然と頭が上がる。同時に、私の意思とは関係なく昨晩のことが思い出された。
このまま莉央ちゃんに固執していたら、一果と紗良がくれた気持ちを無駄にしてしまう。そう思ったとき脳裏を過ったのが、もう何度も何度も頭の中で繰り返していた先輩の言葉だった。
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
一果も紗良も私“が”好きだと言ってくれたのに、踏み出す勇気がないせいで二人がくれた温かさを忘れるのは嫌だ。“出井縁葉”はそう思った。どうにかして莉央ちゃんから離れてみようと考えた。
だからと言って、容姿も体型も今のままでは受け入れられない。かろうじて手を出せるのが——本当に泣く泣くだけど——髪だったというだけだ。
しかも、莉央ちゃんのようなロングヘア以外なりたいものなんて思い浮かばなかったから、手当たり次第いろいろな髪型を検索してみた。そうして片っ端から保存した髪型を振り返ったとき、そのほとんどがショートヘアだった。本当にそれだけだ。
「ロング以外好きかどうかも考えたことがなくて、意外と私ってショートが気になるんだって思……あっ……」
霧が完全に晴れて、雲一つない真っ青な空が視界いっぱいに広がる。
「『内側から湧いてくる』って、そういうこと……?」
先輩がはっきりと口角を上げた。
「俺は決断するときも、好きなものを選ぶ感覚でやってる。『失敗してもその道を選んだのは自分だ』って受け入れられることしかやりたくないから。『誰かに言われたから』が第一声に来る時点で、その選択に納得できてない証拠だろ」
「私、莉央ちゃんになることに納得してない……?」
「さあ。少なくとも、髪型は納得してなかったってことなんじゃないの」
「……ですね」
腑に落ちてしまった。
私の言葉の根底にある、私ですら気付いていない欲望——それは暴かれたら困るものなんかじゃなかった。ただ、「私」の声だったんだ。
寒色系を好む私が暖色系を好む莉央ちゃんと同じ系統の服を身に着けてもしっくり来るはずがない。莉央ちゃんが推している美容系インフルエンサーのスキンケア動画だって、私は肌質がちがうから見たところであまり参考にできない。
それでも誰からも選ばれなかったことによる心の傷が、私の手を莉央ちゃんの好みに向くよう仕向けてきた。そんなことが他にもあったのかもしれない。
「俺は自分の人生を納得できるものだけで作り上げたい。他人の意見なんてこっちの意思とは関係なくすぐ変わるのに、そんなもので人生作ってたら一生振り回されることになる」
「だから、『相手は選んでる』って……」
「気の合わないやつといるの、時間の無駄だろ。修行僧でもないのに、わざわざ自分に苦行を強いる必要なんてない。少なくとも俺には、そんな生き方は無理。『このためなら苦労してもいい』って思えることしかやりたくない」
「ふはっ、わがままだ」
「そうだよ。それでいい。たとえその結果、孤立したとしても後悔しない。自分を無理に抑え込んで生きていくなんて、絶対にしんどいから。『楽をする』って聞こえは悪いけど、手を抜くことだけを指すんじゃなくて、自分に無理させないって意味もあると思ってる」
紗良に訊かれた『楽しい』って、こういうことだったのかもしれない。
紗良はダイエットよりも食欲を満たすことによる満足感を優先した。一果は一重がダメだという友達の主張に同調することよりも、その子と離れることを選んだ。
間違った判断だと言う人もいるのかもしれない。だけど、二人は自分の本心と向き合って自分の心を守る選択をした。判断の基準を自分の中に作ったんだ。
私も先輩や二人のようにできるのかな。なんて思ってたら、
「『俺に言われたから』でなにもかも変えようとするなよ」
と先輩に釘を刺されて笑ってしまった。
「はい。ちゃんと自分の心の声を聞いてみます」
とりあえず家に帰ったら、今一度「このまま莉央ちゃんを目指し続けたい?」と自分に訊いてみよう。
食事系のメニューも提供しているため、それ目的で入店した人も多いのだろう。店内は賑わっていて、残りわずかの空席をなんとか確保することができた。
店内に背を向けて座っているから人の出入りに気が散ることはないものの、隣の席の若い男性が黙々と口に運んでいるオムライスが目に入ってお腹が空いてくる。
だけど、今ここで食べるわけにはいかない。カフェに着く少し前にお父さんから帰宅時間を尋ねるメッセージが届いていたのだ。外食ならそのことも書かれているはずだから、今日もお父さんが夕飯を作ってくれるはず。ここで固形物を口にしてしまったら、夕飯を減らしたくなる衝動に絶対に抗えない。
気を紛らわせるように、スクエアテーブルの上でのんびりと湯気を立てている淹れたてのカフェラテに目を落とす。厚みのあるマグカップを両手で持ち上げて一口含んだら、コーヒーの苦みとミルクの甘みがとりあえず体を満足させてくれた。
忘れないうちに、三十分ほどで帰るとお父さんに返信したところで、「で、俺のせいじゃないならなんで切ったの」と先輩が見計らったように訊いてきた。
先輩の前にも私と同じカフェラテが置いてある。勝手にコーヒーはブラック派だと思っていたので、こっそり親近感を抱いてしまった。
「あ、はい。えーっと、なんていうか……」
どこから話せばいいだろう。
切った理由をまだ誰にも話していないせいか考えがまとまっていない。
なにせ、切ることを決断したのは昨夜のことだ。ようやく期末考査から開放されて、冬休みの予定でも立てようとカレンダーアプリを開いたときに、美容院の予定が入っていたことに気が付いた。
前回利用したときにとりあえずと思って入れた予約だからなのか、高石先輩との出来事やテストで切羽詰まっていたからなのか、なんにせよ予約の存在をすっかり忘れていた。
決断してすぐに一果と紗良にはメッセージで伝えたけど、『心機一転てことか』『憑き物が落ちた感じかな』といい感じに解釈してくれたので細かな理由は説明していない。二人とも会ったときに改めて聞いてくれるつもりなのだと思う。
「先輩に言われたことは、正直まだちゃんと理解できてない……あ……」
やってしまった。切り出し方を盛大に間違えた。
わかったフリをしたくなかったとはいえ、どう考えても出だしで言っていい内容じゃない。これでは先ほどの謝罪が形だけだと自白しているようなものだ。
「まあ、そうだろうな」
「え?」
「ん?」
「お、怒らないんですか? ちゃんと反省してないって……」
やけにあっさりした反応に拍子抜けしてしまう。
「反省してただろ。『たくさんひどい言葉ぶつけてすみません』って」
「そうですけど、そうじゃなくて……。私、まだ先輩に言われたこと、受け入れられてないんですよ?」
「たった数週間で『わかりました』って言われるほうが不自然だと思うけど。そんな簡単に切り替えられるなら、何年も悩んでないんじゃないの」
「そう、ですけど……」
何度か顔を合わせて思った。先輩は強引なようで柔軟性がある。
はっきりと主張はするけど、理解や納得を強要してこない。受け入れるかどうかは相手に委ねている感じだ。
それが私の気持ちを尊重してくれているのか、指摘はしたからあとは勝手にしてくれと思っているのかはわからない。でも、前者だといいな、なんて生意気にも思ってしまった。
「受け入れてないのに切ったんだ?」
「……はい。その、この前ほんの少しだけ『私でよかった』って思った瞬間があって。本当に、本当に少しなんですけど、でも、すごく大事な気持ちな気がして。せっかくそう思えたのに、それを無視して莉央ちゃんを目指し続けるのは嫌だなって思ったんです。なんとなく、ですけど……」
「自分を好きになってきたってこと?」
「そこまではっきりしたものじゃ……。そう思えたのも、まだ一度だけだし……。でも、友達に……大好きな子たちにもらった気持ちだから、どうしても忘れたくなくて、なにかしたくて……。それで強引にでも退路を断ってみようかなって」
「にしても、思い切ったな」
「偶然なんですけど、テスト明けに美容院の予約が入ってたんです。これはもう切れってことなのかなって。この機会を逃したら、二度と踏み出せない気がしたし」
私のことだ。気持ちなんてきっと簡単に揺らいでしまう。そんな要らないところに付いてしまった自信はとても頑固だから、このぐらいしておかないと駄目なんだ。
「気になってたんだけど」
「はい」
「その“小笹になる”って、どこまで?」
首を傾げた私に先輩が続けた。
「物理的に手を加えない限り小笹と同じ外見にはなれないし、中身って言っても趣味嗜好まで同じにするのは現実的じゃない。考え方なんてなおさらだろ」
「それは……」
鋭い人だ。いつも私の悩みの本質を突いてくる。
それが意図的なのかはわからないけど、私一人ではきっともやもやしたままで終わってしまうものを形にしてくれるのは確かだ。
代償とでも言うべきか、殻をむいた卵のように露わになった心をまじまじと見られているようで落ち着かないけど。でも——
「文字通り“すべて”でした」
この眼差しから逃げてしまったら私はきっと変われない。
「ずっと整形したいって思ってました。……いや、今もまだ少し思ってます、けど……。とりあえず、本当に全部、莉央ちゃんを丸々コピーしたかったんです。でも整形はすぐにはできないし、中身を全部真似するのも無理だから、とりあえず髪を伸ばしてダイエットするところから始めました」
なかなか改善されない体質には本当に悩まされた。
長身でも華奢であればモデル体型で通用する。でも、そこに筋肉が加わると一気に威圧感が出てしまう。特に私は筋肉がつきやすい体質らしく、中学のときの運動部でも同じトレーニングをしているはずの同級生より筋肉が発達していた。それが本当に嫌で、いつ見てもほっそりしている莉央ちゃんの体つきが心底羨ましかった。
高校で部活を続けなかったのは中学の部活が楽しくなかったのもあるけど、一番は筋肉をつけたくなかったからだ。
とはいえ、動かなければ脂肪がつく。だからといって、やり過ぎれば筋肉がついてしまう。いい塩梅が見つけられない歯がゆさにずっと苛まれていた。
「“私”を完全に消したかった……」
「今は?」
「今、は……自分がなにをしたいのか、わからなくなって……。このまま莉央ちゃんを目指したとして、望んだ未来が手に入る気がしなくなってきたというか……。ゴールってどこにあるんだろうって……」
これまでは盲目的に莉央ちゃんを追いかけていたから、そんな疑問に思い至ることすらなかった。
「ちょっと話が逸れるんですけど……」でも、高石先輩に聞いてほしい、大切な気持ち。
「友達が教えてくれたんです。自分の嫌な部分を丸ごと塗り替えるんじゃなくて、上手く折り合いをつけるやり方もあるって。でも、ずっと自分がだいきらいだったから、すぐに切り替えることもできないし……。とりあえず髪型だけでもって思ったんですけど、これぐらいじゃなにも変わらないですね……」
ほとんどため息のような力ない笑い声が漏れた。
一果と紗良の話を聞いてから、ずっと心がそわそわしていた。二人にはあって自分にはないもの。その大事ななにかを見落としている気がしてもどかしかった。試験期間はそれに心を持っていかれないように必死だったほどだ。
そうして合間合間に考えて、やっとのことで気が付いた。
「私、莉央ちゃんを逃げ道にしてたんだなって……」
もちろんそんなつもりは一切なかった。でも、否定できないことが答えなのだと思う。
だいきらいな自分のままでいることは、目を逸らすことよりもずっと苦しい。自分の醜さを認めて、次に受け入れて、そのうえで改善方法を考える。そうして向き合ったところで結果がすぐに出るわけでもなければ、必ず理想の自分にたどり着ける保証もない。
そんな不確実な未来のためにきらいな存在に付き添い続けるなんて、すでに弱っている心をさらにじっくりといたぶっていくようなものだ。
それなら「莉央ちゃんを目指そう」と結論付けるほうが、はるかに心の負担は小さくて済む。一見前向きに思えて、自分を変えるために努力できているのだと勘違いしてしまう、なんとも厄介な道だとも気付かずに。
「だから、失敗して当然だったんです。告白だって『自分を変えたくて』なんてもっともらしいこと言ってたけど、本当はなにが問題なのかすら考えようとしてなかった……。“がんばってるフリ”、してたんです……」
「……俺はいいと思ったけど」
「え?」
「……いや、その髪。似合ってるし、なんかスッキリして見える」
「あ、髪、ですか……。ありがとう……ございま、す……」
お世辞だとわかっていても、褒められ慣れていないせいで反応に困ってしまう。
莉央ちゃんならこんな捻くれた解釈なんてせずに、笑顔でお礼を……ああ、また出てしまった。なんでも莉央ちゃんに当てはめているから、いつまで経っても幼馴染から自分を切り離せない。
「あと、そんなに自分を卑下しなくていいんじゃない」
「え?」
「誰かに憧れることが逃げみたいに言うけど、目標があるのはいいことだろ。文句だけ一人前で、行動すらしてないのとはわけがちがう。出井の場合はそこじゃなくて……そうだな、アイスとか?」
「え、アイス? ですか??」
「そう。あのときみたいに、自分で選ぶことが大事なんだと思う」
生徒手帳のお礼をしてくれたときのことを言っているのだろう。
激辛スナックと酸っぱすぎるグミの究極の二択を迫られて、さらには水を禁じられて、ようやく出た嘘偽りない好物。それが……大事?
「出井と小笹の間に優劣をつけたのは、小学校の同級生だろ?」
「……はい」
「自分の恋心に必死で出井に配慮する余裕がなかったのも、告白の返事をしなかったのも、全部そいつが勝手にやったこと」
「ま、まあ……そうなる、の、かな?」
「なんで他人のやったことまで、まるで自分のものみたいに抱えてんの?」
言われて、一瞬言葉に詰まった。
「か、抱えてるつもりは……」心の底の辺りがなんとなくモゾッとして、けれどそれに気付かれたくなくて繋ぎとしての否定をとりあえず挟む。
でも、その場しのぎなんかじゃない。先輩から見ると『自分のものみたいに抱えて』いるものには、ちゃんとした意味がある……はずなんだ。
「だ、大事じゃないですか、客観的な意見って。自分じゃ気付けないことに気付けるし、大勢がそう言うなら、それが正しいはずだし……。実際、私と莉央ちゃんが並んだら、莉央ちゃんのほうが優れてるのは本当だから……」
「出井自身がそう思って、本心から小笹を目指すならそれでいい。でも、出井の理想像って本当に小笹?」
「それは……」
そのはずだ。莉央ちゃんの真似をして私は育った。
昔からずっと莉央ちゃんを基準にして生きてきたと言っても過言ではない、はずだ。
「アイスの話に戻るけど、好きなものを迷わず答えられるのは、それに納得してるからだと思う。好き嫌いって、自分の内側から湧いてくるものだろ。それを根拠としてるから、『本当にアイスが好きなのか』なんて迷うこともない。気付いてないだけで、出井も実はそれができてるんじゃないの」
「でも、アイスなんて、そんな小さいもの……」
「“そんな小さいもの”の寄せ集めでできてるんだと思うけど、人間て」
「…………」
自分にない視点すぎて言葉が出ない。
確かにアイスは莉央ちゃんに対する劣等感を自覚する前から好きだった。特にお礼として買ってもらったアイスは、おばあちゃんの家で初めて食べたときに衝撃を受けて以降、好きなアイス第一位の座から陥落したことがない。食べ過ぎてお腹を壊してお母さんに怒られたこともあるほどだ。
「食べ過ぎたらお腹を壊す」という制限はあるけど、「『私』ではいけないから」という理由で選んだものじゃない。莉央ちゃんはアイスよりもケーキ派だから、一緒にいるときはケーキを選んでたけど、家ではアイス欲を抑えられなかったことだって何度もある。
「あと、これは小笹から聞いた。追いかけてくるわりに、従順なわけじゃなかったって」
「………………え?」
黙り込んだ私の意識を引き戻すには十分すぎる破壊力だった。あまりの恥ずかしさに、みるみる顔が熱を帯びる。
「り、莉央ちゃんに、訊いたんですか……? 私のことを……?」
「社会の選択科目が隣の席。授業始まる前に時間あったから話振ってみた。『出井と仲いいんだって?』って」
「ああぁぁぁ……」
「そしたら口挟む隙も与えてくれないほど、一気に思い出話披露してくれた。わりと小笹が折れることが多くて、遊びもお菓子も決定権は出井に譲ってたって」
「う、うう嘘だ……! だって、ランドセルとか髪型とか、服だってお揃いにして……」
「それは単に同じものが気に入ったってだけだろ。なんだっけ? ……ああ、裁縫道具。一学年上の小笹が先に買ったから、それ見て絶対同じのにするって言ってたくせに、翌年満面の笑みで見せてきたのは全然ちがう柄だったって」
「ええぇぇぇ……」
先輩の目を見てられなくて両手で顔を覆う。
「全然憶えてない……」
「他のことを記憶してられないぐらい、容姿を比べられたことがショックだったんだろ」
「確かにショックでしたけど……そうなんですけど……」
恥ずかしさが限界を突破したのか、全身から力が抜けていく。テーブルに両肘を突いて、組んだ手に寄りかかるようにうなだれた。
「私って、そんなに奔放な子どもだったんだ……」
「むしろ、それが本来の出井なんじゃないの。だから髪、ばっさりいったんだと思ってた」
「これは単純に後戻りできないようにって、思っただけなんです……。莉央ちゃんから離れられる髪型ってなんだろうって……探して…………」
力を入れていないのに自然と頭が上がる。同時に、私の意思とは関係なく昨晩のことが思い出された。
このまま莉央ちゃんに固執していたら、一果と紗良がくれた気持ちを無駄にしてしまう。そう思ったとき脳裏を過ったのが、もう何度も何度も頭の中で繰り返していた先輩の言葉だった。
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
一果も紗良も私“が”好きだと言ってくれたのに、踏み出す勇気がないせいで二人がくれた温かさを忘れるのは嫌だ。“出井縁葉”はそう思った。どうにかして莉央ちゃんから離れてみようと考えた。
だからと言って、容姿も体型も今のままでは受け入れられない。かろうじて手を出せるのが——本当に泣く泣くだけど——髪だったというだけだ。
しかも、莉央ちゃんのようなロングヘア以外なりたいものなんて思い浮かばなかったから、手当たり次第いろいろな髪型を検索してみた。そうして片っ端から保存した髪型を振り返ったとき、そのほとんどがショートヘアだった。本当にそれだけだ。
「ロング以外好きかどうかも考えたことがなくて、意外と私ってショートが気になるんだって思……あっ……」
霧が完全に晴れて、雲一つない真っ青な空が視界いっぱいに広がる。
「『内側から湧いてくる』って、そういうこと……?」
先輩がはっきりと口角を上げた。
「俺は決断するときも、好きなものを選ぶ感覚でやってる。『失敗してもその道を選んだのは自分だ』って受け入れられることしかやりたくないから。『誰かに言われたから』が第一声に来る時点で、その選択に納得できてない証拠だろ」
「私、莉央ちゃんになることに納得してない……?」
「さあ。少なくとも、髪型は納得してなかったってことなんじゃないの」
「……ですね」
腑に落ちてしまった。
私の言葉の根底にある、私ですら気付いていない欲望——それは暴かれたら困るものなんかじゃなかった。ただ、「私」の声だったんだ。
寒色系を好む私が暖色系を好む莉央ちゃんと同じ系統の服を身に着けてもしっくり来るはずがない。莉央ちゃんが推している美容系インフルエンサーのスキンケア動画だって、私は肌質がちがうから見たところであまり参考にできない。
それでも誰からも選ばれなかったことによる心の傷が、私の手を莉央ちゃんの好みに向くよう仕向けてきた。そんなことが他にもあったのかもしれない。
「俺は自分の人生を納得できるものだけで作り上げたい。他人の意見なんてこっちの意思とは関係なくすぐ変わるのに、そんなもので人生作ってたら一生振り回されることになる」
「だから、『相手は選んでる』って……」
「気の合わないやつといるの、時間の無駄だろ。修行僧でもないのに、わざわざ自分に苦行を強いる必要なんてない。少なくとも俺には、そんな生き方は無理。『このためなら苦労してもいい』って思えることしかやりたくない」
「ふはっ、わがままだ」
「そうだよ。それでいい。たとえその結果、孤立したとしても後悔しない。自分を無理に抑え込んで生きていくなんて、絶対にしんどいから。『楽をする』って聞こえは悪いけど、手を抜くことだけを指すんじゃなくて、自分に無理させないって意味もあると思ってる」
紗良に訊かれた『楽しい』って、こういうことだったのかもしれない。
紗良はダイエットよりも食欲を満たすことによる満足感を優先した。一果は一重がダメだという友達の主張に同調することよりも、その子と離れることを選んだ。
間違った判断だと言う人もいるのかもしれない。だけど、二人は自分の本心と向き合って自分の心を守る選択をした。判断の基準を自分の中に作ったんだ。
私も先輩や二人のようにできるのかな。なんて思ってたら、
「『俺に言われたから』でなにもかも変えようとするなよ」
と先輩に釘を刺されて笑ってしまった。
「はい。ちゃんと自分の心の声を聞いてみます」
とりあえず家に帰ったら、今一度「このまま莉央ちゃんを目指し続けたい?」と自分に訊いてみよう。

