「ふぅ……、いっぱい喋った……」
話を聞いてくれたお礼と改めての謝罪を伝えて、帰る前に私はお手洗いへ席を立った。
たくさん話して考えたせいか、洗面台の鏡に映る顔は少し疲れて見える。やっぱり自分の顔を見ると嫌悪感に歪むけれど、それでも今の心はたんぽぽの綿毛ほど軽い。このまま風に乗って地球の裏側の草原まで飛んで行ってしまえそうだ。
「結局、手紙のことを話題にする暇はなかったな……」
『まずは期末テストだな』という一果の一言で現実に戻された私たちだったけれど、あれからもしばらくファストフード店に滞在していた。
誰からともなく次々と湧いて出る話題の中には手紙のことも含まれていて、どうして先輩がそれを生徒手帳に挟んでいるのか三人で思いつく限りの可能性を出し合った。笑えるものからありそうなものまでかなりの数が出たけれど、結局どれもしっくりこなくて本人に確かめることで落ち着いたのだった。
本当は謝ったあとに訊くつもりだったけれど、これ以上はさすがに時間がやばい。お父さんからも帰宅を促すメッセージが入っていたから、カフェを出たら家までダッシュしなくては。
「これからは公園で待つのも寒いし、戻ったら連絡先聞いてみようかな……」
濡れた手を備え付けのペーパータオルで拭きながら、そう呟いた自分に驚かずにはいられない。ずいぶんと遠慮のない考えをするようになった。最初のころなんて、生徒手帳を拾ったことすらはっきり伝えられなかったというのに。
「先輩が何度も私を受け入れてくれたから……」
私と関わるのが嫌ではないのかと聞いたときはそんな概念すら持ち合わせていない様子だったし、私に触られても不快ではないとはっきり言ってくれた。今さらながら嬉しさが込み上げてきて、なんだかむず痒い。
視点は鋭いしオブラートに包んだ言い方はしないから、言われた瞬間はかなり刺さる。でも、落ち着いた口調と耳に優しい声音のおかげか、改めて振り返ると必要な指摘だったのだと納得してしまう。そんな不思議な力を持っている人だと思う。
それに、思ったことをそのまま口にしているわけではなさそうだ。私の勘違いかもしれないけれど、口に出す前に伝えていいものなのかを熟慮しているような、こちらに対する配慮を感じることがたびたびあった。
そんな印象だったから、少し意外だった。
「すごく強い意志だった……」
自身の考えを話しているときの先輩は一段と声が低くて、言葉の裏に青い炎のような強い感情が滲んで見えた。店内の喧騒や定期的に響く電車の音に勝てるほどの大声ではないのに、鼓膜を貫いて心を突き刺す信念のようなものが先輩の言葉には宿っている気がした。
どうしてあんな風に思うのだろう。
私から見れば恵まれているとしか言いようのない人なのに、先輩からは莉央ちゃんのような深い自己肯定感を感じない。決して芯がないわけではないのに、自分が桜であることにまるで興味がないように見える。人間が勝手に苗木を植えただけで、自分は望んでここにいるわけではないとでもいうような無力感がどことなく伝わってくる。
——外見なんて、ただの飾りなんだから。
あの言葉はどんな思いから出たものなのだろう。
「……ょ、…………なんて、もらったことないわ」
「今どきそんなアナログな経験、滅多にできないでしょ」
お手洗いから出たところで、近くの席の会話が耳に届いた。気持ちがスッキリしたせいか、いつもより耳がいいように感じるのは完全に気のせいだろう。
お手洗いと席を隔てるパーティションを過ぎたところで、
「でも、ちょっと憧れねぇ?」
「僕は普通にメッセージでいいかも。それか直接」
と会話の音量が上がって続きが聞こえてしまう。声や話し方からして同年代なのかもしれない。盗み聞きの趣味はないので、とっとと席に戻ろうと足を早めたとき——
「おれ、もらったことあるよ。ラブレター」
その一言に、心臓がドクッと嫌な跳ね方をした。
先輩のそれとはちがう人好きのする話し方と、先輩よりも少し高い声。中学のころ、目だけでなく耳でも追っていたあの声とよく似ている気がする。
いつの間にか足は止まっていた。「まじかよ!」「いつ?!」と続く会話の主たちは、方向からして私の背後にある席にいるはずだ。
「中学のとき。でもあれ——」
これ以上は聞いてはいけない。
頭ではそう思うのに、沼底のような床に沈んだ足は一向に動いてくれない。
いやだ、いやだ——
「ぐちゃぐちゃになったから、そのまま置いてきた。そのあとは知らない」
気づいたときには、すでにテーブルの前に立っていた。
あれほど動かなかった足で、どうやってここにたどり着いたのかは覚えていない。
見下ろした視線の先では、やっぱり懐かしさの欠片もない顔が目を見開いて私を見上げている。
「い、ずい……」
「小林くん」
私のほうが低いんじゃないかと思うほど腹の底から響いた声が、彼—— 小林明孝くんにのしかかった。中学では名字から取って『コバ』と呼ばれていたけれど、私はもちろん名前まで把握していた。いまだに憶えていることに、もう驚いたりはしない。
「えっ?!」「なに?!」とあたふたする友達二人に構うことなく、私は続ける。
「さっきの話……、どういう意味?」
「ぇ……?」
「ラブレター。……私が渡したやつ、だよね?」
「ぁ……えっと…………」
「なかったことにされて、すっごく辛かった……。でも……、謝ってほしいわけじゃない。……なにがあったのか、ちゃんと知りたいだけ」
眼下で青ざめる小林くんの姿にこれまでの想いが霧散する。
たとえ手紙がしわくちゃになったとしても、それを正直に話してほしかった。手紙が読めない状態になったとしても、私の気持ちを知った小林くんは残っているのだからちゃんと返事がほしかった。
気持ちを伝えたのは私の勝手だから、答えるか否かは小林くんの勝手なのかもしれない。でも、そんなことを言っていたら人間関係はあまりにも無秩序なものになってしまう。
告白になにも返さないのは話しかけられて無視するのと変わらない。少なくとも私は無視されていると感じた。自分の中からあなたの気持ちを、存在を、消したのだと言われた気がした。
それは私が一番嫌なことで、もっとも恐れていたことだったのに。小林くんはそんなことをしない人だと信じたから、勇気を振り絞って気持ちを送ったのに。
「教えてください、お願いします……!」
頭を下げた私の勢いに負けたのか、小林くんが「だ、だから……」と声を詰まらせながらも話し始めた。
「あの日、て、手紙もらったあと、そのまま塾に行ったんだ。そこで……」
「お、お前がぐちゃぐちゃにしたのかよ?!」
そう追及したのは小林くんの友達の一人だ。
「ち、ちがう!! 突然、知らないやつが突っかかってきて、揉み合いになって……。そのときにそいつがぐちゃぐちゃにしたんだよ! おれじゃない!!」
「本当かよ?!」
「明孝が学校のプリントに挟まってた手紙を、気づかずにプリントと一緒に捨てようとしたんじゃないの?!」
一緒に盛り上がっていたのだと思ったけれど、友達二人は完全に小林くんの味方というわけでもないらしい。怪訝そうな面持ちを小林くんに向けている。
そんな彼らの態度が小林くんの不安を煽ったのかもしれない。「ちがうって! 本当に突っかかってきたんだよ!」と答える彼は、今にも泣き出しそうだ。
「じゃあ、誰だよそいつ?!」
「だから、知らないやつなんだって!」
「そんなの信用できないよ。明孝が間違って捨てたのを隠すために、架空の人物をでっち上げてるんじゃないの?」
「なんでお前らまでおれを疑うんだよ?! 本当にいたんだって! なんか、めっちゃ怖そうな——」
突如、話すのを止めた小林くんの目線を私たちも追う。
その先には高石先輩が立っていた。
「そろそろ帰らなくていいの? もう八時だけ……」
先輩の視線が私から隣へ落ちる。
ぎこちなく顔を動かすと、小林くんが先ほどよりも大きく目を見開いていた。友達二人は状況が呑み込めないとでもいうように、不安げな面持ちで顔を見合わせている。私は嫌な予感がした。
「お前……」
そう呟いたのは先輩だ。
「こ、こいつだよ!! おれに突っかかってきて、手紙をぐしゃぐしゃにしたやつ!!!! だ、だから、おれは悪くない! もう読めなくなったから仕方なく置いてきただけで、それがなければちゃんと返事してたんだ!!!!」
そう言い捨てた小林くんは、逃げるようにカフェをあとにした。
なぜか彼を追う友達二人が私に頭を下げてくれたけれど、もうそれどころではなかった。
話を聞いてくれたお礼と改めての謝罪を伝えて、帰る前に私はお手洗いへ席を立った。
たくさん話して考えたせいか、洗面台の鏡に映る顔は少し疲れて見える。やっぱり自分の顔を見ると嫌悪感に歪むけれど、それでも今の心はたんぽぽの綿毛ほど軽い。このまま風に乗って地球の裏側の草原まで飛んで行ってしまえそうだ。
「結局、手紙のことを話題にする暇はなかったな……」
『まずは期末テストだな』という一果の一言で現実に戻された私たちだったけれど、あれからもしばらくファストフード店に滞在していた。
誰からともなく次々と湧いて出る話題の中には手紙のことも含まれていて、どうして先輩がそれを生徒手帳に挟んでいるのか三人で思いつく限りの可能性を出し合った。笑えるものからありそうなものまでかなりの数が出たけれど、結局どれもしっくりこなくて本人に確かめることで落ち着いたのだった。
本当は謝ったあとに訊くつもりだったけれど、これ以上はさすがに時間がやばい。お父さんからも帰宅を促すメッセージが入っていたから、カフェを出たら家までダッシュしなくては。
「これからは公園で待つのも寒いし、戻ったら連絡先聞いてみようかな……」
濡れた手を備え付けのペーパータオルで拭きながら、そう呟いた自分に驚かずにはいられない。ずいぶんと遠慮のない考えをするようになった。最初のころなんて、生徒手帳を拾ったことすらはっきり伝えられなかったというのに。
「先輩が何度も私を受け入れてくれたから……」
私と関わるのが嫌ではないのかと聞いたときはそんな概念すら持ち合わせていない様子だったし、私に触られても不快ではないとはっきり言ってくれた。今さらながら嬉しさが込み上げてきて、なんだかむず痒い。
視点は鋭いしオブラートに包んだ言い方はしないから、言われた瞬間はかなり刺さる。でも、落ち着いた口調と耳に優しい声音のおかげか、改めて振り返ると必要な指摘だったのだと納得してしまう。そんな不思議な力を持っている人だと思う。
それに、思ったことをそのまま口にしているわけではなさそうだ。私の勘違いかもしれないけれど、口に出す前に伝えていいものなのかを熟慮しているような、こちらに対する配慮を感じることがたびたびあった。
そんな印象だったから、少し意外だった。
「すごく強い意志だった……」
自身の考えを話しているときの先輩は一段と声が低くて、言葉の裏に青い炎のような強い感情が滲んで見えた。店内の喧騒や定期的に響く電車の音に勝てるほどの大声ではないのに、鼓膜を貫いて心を突き刺す信念のようなものが先輩の言葉には宿っている気がした。
どうしてあんな風に思うのだろう。
私から見れば恵まれているとしか言いようのない人なのに、先輩からは莉央ちゃんのような深い自己肯定感を感じない。決して芯がないわけではないのに、自分が桜であることにまるで興味がないように見える。人間が勝手に苗木を植えただけで、自分は望んでここにいるわけではないとでもいうような無力感がどことなく伝わってくる。
——外見なんて、ただの飾りなんだから。
あの言葉はどんな思いから出たものなのだろう。
「……ょ、…………なんて、もらったことないわ」
「今どきそんなアナログな経験、滅多にできないでしょ」
お手洗いから出たところで、近くの席の会話が耳に届いた。気持ちがスッキリしたせいか、いつもより耳がいいように感じるのは完全に気のせいだろう。
お手洗いと席を隔てるパーティションを過ぎたところで、
「でも、ちょっと憧れねぇ?」
「僕は普通にメッセージでいいかも。それか直接」
と会話の音量が上がって続きが聞こえてしまう。声や話し方からして同年代なのかもしれない。盗み聞きの趣味はないので、とっとと席に戻ろうと足を早めたとき——
「おれ、もらったことあるよ。ラブレター」
その一言に、心臓がドクッと嫌な跳ね方をした。
先輩のそれとはちがう人好きのする話し方と、先輩よりも少し高い声。中学のころ、目だけでなく耳でも追っていたあの声とよく似ている気がする。
いつの間にか足は止まっていた。「まじかよ!」「いつ?!」と続く会話の主たちは、方向からして私の背後にある席にいるはずだ。
「中学のとき。でもあれ——」
これ以上は聞いてはいけない。
頭ではそう思うのに、沼底のような床に沈んだ足は一向に動いてくれない。
いやだ、いやだ——
「ぐちゃぐちゃになったから、そのまま置いてきた。そのあとは知らない」
気づいたときには、すでにテーブルの前に立っていた。
あれほど動かなかった足で、どうやってここにたどり着いたのかは覚えていない。
見下ろした視線の先では、やっぱり懐かしさの欠片もない顔が目を見開いて私を見上げている。
「い、ずい……」
「小林くん」
私のほうが低いんじゃないかと思うほど腹の底から響いた声が、彼—— 小林明孝くんにのしかかった。中学では名字から取って『コバ』と呼ばれていたけれど、私はもちろん名前まで把握していた。いまだに憶えていることに、もう驚いたりはしない。
「えっ?!」「なに?!」とあたふたする友達二人に構うことなく、私は続ける。
「さっきの話……、どういう意味?」
「ぇ……?」
「ラブレター。……私が渡したやつ、だよね?」
「ぁ……えっと…………」
「なかったことにされて、すっごく辛かった……。でも……、謝ってほしいわけじゃない。……なにがあったのか、ちゃんと知りたいだけ」
眼下で青ざめる小林くんの姿にこれまでの想いが霧散する。
たとえ手紙がしわくちゃになったとしても、それを正直に話してほしかった。手紙が読めない状態になったとしても、私の気持ちを知った小林くんは残っているのだからちゃんと返事がほしかった。
気持ちを伝えたのは私の勝手だから、答えるか否かは小林くんの勝手なのかもしれない。でも、そんなことを言っていたら人間関係はあまりにも無秩序なものになってしまう。
告白になにも返さないのは話しかけられて無視するのと変わらない。少なくとも私は無視されていると感じた。自分の中からあなたの気持ちを、存在を、消したのだと言われた気がした。
それは私が一番嫌なことで、もっとも恐れていたことだったのに。小林くんはそんなことをしない人だと信じたから、勇気を振り絞って気持ちを送ったのに。
「教えてください、お願いします……!」
頭を下げた私の勢いに負けたのか、小林くんが「だ、だから……」と声を詰まらせながらも話し始めた。
「あの日、て、手紙もらったあと、そのまま塾に行ったんだ。そこで……」
「お、お前がぐちゃぐちゃにしたのかよ?!」
そう追及したのは小林くんの友達の一人だ。
「ち、ちがう!! 突然、知らないやつが突っかかってきて、揉み合いになって……。そのときにそいつがぐちゃぐちゃにしたんだよ! おれじゃない!!」
「本当かよ?!」
「明孝が学校のプリントに挟まってた手紙を、気づかずにプリントと一緒に捨てようとしたんじゃないの?!」
一緒に盛り上がっていたのだと思ったけれど、友達二人は完全に小林くんの味方というわけでもないらしい。怪訝そうな面持ちを小林くんに向けている。
そんな彼らの態度が小林くんの不安を煽ったのかもしれない。「ちがうって! 本当に突っかかってきたんだよ!」と答える彼は、今にも泣き出しそうだ。
「じゃあ、誰だよそいつ?!」
「だから、知らないやつなんだって!」
「そんなの信用できないよ。明孝が間違って捨てたのを隠すために、架空の人物をでっち上げてるんじゃないの?」
「なんでお前らまでおれを疑うんだよ?! 本当にいたんだって! なんか、めっちゃ怖そうな——」
突如、話すのを止めた小林くんの目線を私たちも追う。
その先には高石先輩が立っていた。
「そろそろ帰らなくていいの? もう八時だけ……」
先輩の視線が私から隣へ落ちる。
ぎこちなく顔を動かすと、小林くんが先ほどよりも大きく目を見開いていた。友達二人は状況が呑み込めないとでもいうように、不安げな面持ちで顔を見合わせている。私は嫌な予感がした。
「お前……」
そう呟いたのは先輩だ。
「こ、こいつだよ!! おれに突っかかってきて、手紙をぐしゃぐしゃにしたやつ!!!! だ、だから、おれは悪くない! もう読めなくなったから仕方なく置いてきただけで、それがなければちゃんと返事してたんだ!!!!」
そう言い捨てた小林くんは、逃げるようにカフェをあとにした。
なぜか彼を追う友達二人が私に頭を下げてくれたけれど、もうそれどころではなかった。
