やや駆け足で駅へ向かった私たちは、コンビニの隣にあるカフェのテーブル席に向かい合うかたちで腰を下ろした。
食事系のメニューも提供しているため、それ目的で入店した人も多いのだろう。店内は賑わっていて、残りわずかの空席をなんとか確保することができた。
店内に背を向けて座っているから人の出入りに気が散ることはないものの、隣の席の若い男性が黙々と口に運んでいるオムライスが目に入ってお腹が空いてくる。
そういえばカフェに着く少し前に、お父さんから帰宅時間を尋ねるチャットが届いていた。外で食べるのならそのことも書かれているはずだから、今日もお父さんが夕飯を作ってくれるのだろう。ここでなにか食べてしまっては夕飯を減らしたくなってしまう。
丸テーブルの上でのんびりと湯気を立てている淹れたてのカフェラテに目を落とす。厚みのあるマグカップを両手で持ち上げて一口含んだら、コーヒーの苦みとミルクの甘みがとりあえず体を満足させてくれた。
忘れないうちに、三十分ほどで帰るとお父さんに返信したところで
「で、俺のせいじゃないならなんで切ったの」
と先輩が見計らったように訊いてきた。
先輩の前にも私と同じカフェラテが置いてある。勝手にコーヒーはブラック派だと思っていたので、こっそり親近感を抱いてしまった。
「あ、はい。えーっと、なんていうか……」
どこから話せばいいだろう。
切った理由をまだ誰にも話していないせいか考えがまとまっていない。
なにせ、切ることを決断したのは昨夜のことだ。ようやく期末考査から開放されて、冬休みの予定でも立てようとカレンダーアプリを開いたときに、美容院の予定が入っていたことに気がついたのだ。
前回利用したときにとりあえずと思って入れた予約だからなのか、高石先輩との出来事やテストで切羽詰まっていたからなのか、なんにせよ予約の存在をすっかり忘れていた。
決断してすぐに一果と紗良にはチャットで伝えたけれど、『心機一転てことか』『憑き物が落ちた感じかな』といい感じに解釈してくれたので細かな理由は説明していない。二人とも会ったときに改めて聞いてくれるつもりなのだと思う。
「先輩に言われたことは、正直まだちゃんと理解できてない……んです……」
あっと思ったときにはもう遅い。切り出し方を盛大に間違えたのだと口にしてから気がついた。
分かったフリをしたくなかったので正直に申告したけれど、どう考えても冒頭に持ってくる話題ではない。これでは先ほどの謝罪が形だけだと自白しているようなものだ。
「まあ、そうだろうな」
「え?」
「ん?」
「お、怒らないんですか? ちゃんと反省してないって……」
やけにあっさりした反応に拍子抜けしてしまう。
「反省してただろ。『たくさんひどい言葉ぶつけてすみません』って」
「そうですけど、そうじゃなくて……。私、まだ先輩に言われたこと、受け入れられてないんですよ?」
「たった数週間で『分かりました』って言われるほうが不自然だと思うけど。そんな簡単に切り替えられるなら、何年も悩んでないんじゃないの」
「そう、なんですかね……」
何度か顔を合わせて思った。先輩は強引なようで柔軟性がある。
はっきりと主張はするけれど、理解や納得を強要してこない。受け入れるかどうかは、あくまでも相手に委ねている感じだ。
それが私の気持ちを尊重してくれているのか、指摘はしたからあとは勝手にしてくれと思っているのかは分からない。前者だといいな、なんて生意気にも思ってしまった。
「受け入れてないのに切ったんだ?」
「……はい。その、この前ほんの少しだけ『私でよかった』って思った瞬間があって。本当にごくわずかなんですけど、でも、すごく大事な気持ちな気がして。せっかくそう思えたのに、それを蔑ろにして莉央ちゃんを目指し続けるのは嫌だなって思ったんです。なんとなく、ですけど……」
「自分を好きになってきたってこと?」
「そこまではっきりしたものじゃ……。そう思えたのも、まだ一度だけだし……。でも、大好きな友達にもらった気持ちだから、どうしても忘れたくなくて、強引にでも退路を断ってみようかなって」
「にしても、思い切ったな」
「たまたまなんですけどテスト明けに美容院の予約を入れていたので、これはもう切れってことなのかなと思って。この機会を逃したら、二度と踏み出せない気がしたし」
私のことだ。気持ちなんてきっと簡単に揺らいでしまう。もしまた容姿で傷つくことがあれば、すぐに「自分」を手放してしまうだろう。
「聞こうと思ってたんだけど」
「はい」
「その『笹本になる』って、どこまで?」
首を傾げた私に先輩が続けた。
「物理的に手を加えない限り笹本と同じ顔にはなれないし、中身って言っても趣味嗜好まで同じにするのは現実的じゃない。特に考え方なんて環境の変化をもろに受けるものだから、真似した次の日には変わってるなんてこともザラにあるだろ」
「それは……」
鋭い人だ。いつも私の悩みの本質に触れてくる。
それが意図的なのか無意識なのか傍からでは分からないけれど、私一人では言語化できなかった靄を形にしてくれるのは確かだ。代償とでも言うべきか、剥き身のように露わになった心をまじまじと見られているようで落ち着かないけれど。でも——
「文字通り“すべて”でした」
この眼差しから逃げてしまったら私はきっと変われない。
「ずっと整形したいって思ってました。本当に全部、莉央ちゃんを丸々コピーしたかったので。て言っても整形はすぐにはできないし、趣味嗜好を全部把握するのも無理だから、とりあえず髪を伸ばしてダイエットするところから始めましたけど」
なかなか改善されない体質には本当に悩まされた。
華奢であればモデル体型で通用するけれど、筋肉があると威圧感がすごい。特に私は筋肉がつきやすい体質らしく、中学のときの運動部でも同じトレーニングをしているはずの同級生より筋肉が発達していた。それが本当に嫌で、いつ見てもほっそりとした幼馴染の体つきが心底羨ましかった。
高校で部活を続けなかったのは中学の部活が楽しくなかったのもあるけれど、一番は筋肉をつけたくなかったからだ。
とはいえ、動かなければ脂肪がつく。だからといって、やり過ぎれば筋肉がついてしまう。いい塩梅が見つけられない歯がゆさにずっと苛まれていた。
「“私”という個性を完全に消したかった……」
「今はちがうんだ?」
「そう、ですね……、私もそれはずっと考えていたんですけど……。このまま莉央ちゃんを目指したとして、ゴールってどこにあるんだろうって……。そう思い始めてから、自分がなにをしたいのか分からなくなって……」
これまでは盲目的に莉央ちゃんを追いかけていたから、そんな疑問にすら思い至らなかった。
「まだ答えは出てないんですけど、友達の話から学んだというか……。二人とも自分の嫌な部分を丸ごと塗り替えるんじゃなくて、上手く折り合いをつけてるなって感じたんです。でも、ずっと自分がだいきらいだったから、すぐに切り替えることもできないし。とりあえず髪型だけでもって思ったんですけど、これぐらいじゃなにも変わらないですね……」
言い終えると同時に漏れた力のない笑い声は、すぐに店の喧騒に呑まれてしまった。
一果と紗良の話を聞いてから、ずっと心がそわそわしていた。彼女たちにはあって自分にはないもの。その大事ななにかを見落としている気がしてもどかしかった。試験期間はそれに心を持っていかれないように必死だったほどだ。
そうして合間合間に考えてやっとのことで気がついた。
「私、莉央ちゃんを逃げ道にしていたんだなって……」
もちろんそんなつもりは一切なかったけれど、気づきを否定できないことが答えなのだと思う。
だいきらいな自分のままでいることは、きっと目を逸らすことよりも難しい。“出井縁葉”のままで在ろうとするためには、まず自分の醜さを認めて、次に受け入れて、そのうえでどう改善していくのか考えないといけないのだから。
しかも、なんとか向き合ったところで必ず理想の自分にたどり着ける保証すらもない。そんな不確定な未来のために自分から目を逸らさずにいるなんて、弱った心には毒でしかないだろう。
「莉央ちゃんを目指そう」と結論づけるほうがはるかに心の負担は小さいし、一見前向きに思えてしまうから厄介だ。私もずっと自分を変えるために努力できているのだと思っていた。
「醜い自分を見たくなさすぎて、でもなにもしないのは嫌で。一番楽な方法に逃げたのかなって……」
「俺はいいと思うけど」
「えっ?」
「その髪。似合ってるし、なんかスッキリして見える」
「あ、髪、ですか……。ありがとう……ございま、す……」
お世辞だと分かっていても、褒められ慣れていないせいか反応に困ってしまう。
莉央ちゃんならこんな捻くれた解釈なんてせずに、笑顔でお礼を言うのだろう。そう思ったところで、この思考がいけないのだと気がついた。なんでも莉央ちゃんに当てはめているから、いつまで経っても幼馴染から自分を切り離せない。
「あと、楽するのは別に悪いことじゃない」
「え?」
「そこじゃなくて——、……なあ、好きな動画配信者は?」
「えっ? 動画?!」
藪から棒になんの話だろう。
「そう、動画。見ないの?」
「見ます、けど……」
私を見据える眼差しに答えを促される。見ますと言った手前、なにか言わなくては逃してもらえなさそうだ。
名前を聞かれたときもそうだったけれど、先輩は目で訴えることが多い気がする。
「エ、エクササイズ系はよく見ます。……ダイエット目的、ですけど」
「それだけ?」
「そ……、趣味だと収納とか梱包系のASMRが好きです」
「好きなゲームは?」
「うーん、ゲームはしないんですよね。友達に誘われていくつかアプリを入れたことはあるんですけど、すぐに飽きちゃって」
頭の中が疑問符でいっぱいになる。
途中からはいちいち突っ込むのを諦めたけれど、先輩の意図が全く読めない状況は変わらない。まるで動画配信者の質問コーナーを体験している気分だ。
「あの、なんなんですか。これ」
たまらずそう尋ねたら、思ったよりも声が尖っていて驚いた。
だけど、先輩は全く気にしていないようで、
「ASMRの動画を見ろとか、ゲームはだめだとか、誰かに言われた?」
などと畳み掛けてくる。
「言われてはないですけど……。ASMRはおすすめで上がってきたし、ゲームは幼いころから興味がなかったので」
「そう」
聞いておいて、なんて淡白な反応なのだろう。
ほんの一瞬そう思ったけれど、どうやら私の答えを蔑ろにしているわけではなさそうだ。黙り込んだ先輩の表情は真剣そのもので、とても私が口を挟める様子ではない。
無言の時間を持て余して、とりあえずカフェラテを最後まで飲み切った。他にすることもなくてマグカップの底に残ってしまった泡を見つめていると、「これはあくまで俺の意見だけど——」と聞こえて視線を上げた。
「——自分で選ぶことが大事なんだと思う」
「自分で、選ぶ?」
「そう。周りの意見を疑いもせずに受け入れてるから、出井は苦しいんじゃないの」
「それは、どういう……?」
「出井と笹本の間に優劣をつけたのは、小学校の同級生だろ?」
「……はい」
「それを理由に出井を傷つけたのも、自分の恋心に必死で出井に配慮する余裕がなかったのも周りのやつ」
「はい」
「そいつらが間違ってるんじゃないかって考えたこと、ある?」
束の間ためらってから、ゆっくりと頭を左右に振った。
「コンテストでもない限り、他人の容姿を評価する権利なんて誰にもない。そんな失礼なやつの発言に従う義務だって、誰にもない。自分に対する理想を掲げる権利も、どうありたいか最終的な決断を下す責任も本人にしかないはずなんだよ」
「だけど、客観的な意見て大事だと思うし。大勢がそう言うなら、それが正しいってことになるのかなって。実際、私と莉央ちゃんが並んだら、莉央ちゃんのほうが優れてるのは本当だから」
「出井自身がそう思って、本心から笹本を目指すならそれでいい。でも、出井の理想像って本当に笹本?」
「それは……」
そのはずだ。莉央ちゃんの真似をして私は育った。
昔からずっと莉央ちゃんを基準にして生きてきたと言っても過言ではない、はずだ。
「好みの話に戻るけど、好きなものを迷わず答えられるのはそれに納得してるからだと思う。好きかどうかを判断するときって、必ず自分に問いかけるだろ。その答えが確たる根拠としてあるから、自信を持って好きだと口に出せる。普段の出井はそれがちゃんとできてるんじゃないの」
「でも、好きなものは単純に好きかきらいかの判断だから……。そんなに難しいことじゃ……」
「難しいだろ。なにが好きか分からないやつだって、たくさんいる。この前、アイス選んだときもそう」
「アイス?」
「どう考えても遠慮であろう水の選択肢消したら、すぐにアイスって言っただろ? 決めるのに時間かかるとか選んでほしいって頼んでくるとか、俺の周りにもいろいろな性格のやつがいるけど、あれは自分の中で答えがはっきりしてるやつの選択だと思った」
驚きすぎて言葉が出ない。好みがはっきりしているなんて初めて言われた。
「出井にとっては何気なくやってることかもしれないけど、問いかけても自分から答えが返ってこないやつだっている。気づいてないだけで、そういうところ他にもあるんじゃないの」
「…………」
「あと、これは笹本から聞いた。追いかけてくるわりに、従順なわけじゃなかったって」
「え゙」
ものすごく恥ずかしいことを言われた気がして、みるみる顔が熱くなる。
「り、莉央ちゃんに、聞いたんですか……? 私のこと……」
「社会の選択科目が隣の席。授業始まる前に時間あったから話振ってみた。『出井と仲いいんだって?』って」
「ああぁぁぁ……」
「そしたら口挟む隙も与えてくれないほど、一気に思い出話披露してくれた。わりと笹本が折れることが多くて、遊びもお菓子も決定権は出井に譲ってたって」
「う、ううう嘘だ……! だって、ランドセルとか髪型とか、服だってお揃いにして……」
「それは単に同じものが気に入ったってだけだろ。なんだっけ、……ああ、裁縫道具か。一学年上の笹本が先に買ったから、それ見て絶対に同じのにするって言ってたくせに、満面の笑みで見せてきたのは全然ちがう柄だったって」
「えぇぇぇ……」
恥ずかしすぎて思わず顔を手で覆う。
「全然憶えてない……」
「他のことを記憶してられないぐらい、容姿を比べられたことがショックだったんだろ」
「確かにショックでしたけど……、そうなんですけど……。私って、そんなに奔放な子どもだったんだ……」
あまりの衝撃に全身の力がガクッと抜け落ちる。
「むしろ、それが本来の出井なんじゃないの」
「えぇぇぇ……」
「だから髪、ばっさりいったんだと思ってた」
「こ、これは単純に後戻りできないようにって思っただけで。莉央ちゃんから離れられる髪型ってなんだろうって……探して…………」
昨晩のことが脳裏を過る。
このまま莉央ちゃんに固執していたら、一果と紗良がくれた気持ちを忘れてしまうんじゃないか。そう思ったとき、
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
という先輩の言葉を思い出した。
一果も紗良も私「が」好きだと言ってくれたのに、踏み出す勇気がないせいで二人がくれた温かさを忘れるのは嫌だ。“出井縁葉”はそう思った。だから、どうにかして莉央ちゃんから離れてみようと考えた。
とはいえ容姿も体型もなにも受け入れられなくて、辛うじて手を出せるのが髪だったというだけだ。しかも、莉央ちゃんのようなロングヘア以外なりたいものなんて思い浮かばなかったから、手当たり次第いろいろな髪型を検索してみた。
片っ端から気に入ったものをお気に入りに入れて改めて振り返ったとき、そのほとんどがショートヘアだった。本当にそれだけだ。
「ロング以外好きかどうかも考えたことがなくて、意外と私ってショートが気になるんだって思……。あっ……」
真っ暗闇にぽつっと一つ、小さな光が灯る。
「心の声って、そういうこと……?」
先輩が静かに、それでいてはっきりと口角を上げた。
「決断するときも、好きなものを選ぶ感覚で俺はやってる。『失敗してもその道を選んだのは自分だ』って受け入れられることしかやりたくないから。『誰かに言われたから』が第一声に来る時点で、その選択に納得できてない証拠だろ」
「莉央ちゃんになることに納得してない……?」
「それは自分に聞いてみないと分からない。少なくとも、髪型は納得してなかったってことなんじゃないの」
「……ですね」
腑に落ちてしまった。
曖昧な違和感と鮮明な不快感。その正体は私自身が自分の行動に納得できていないことによるものだったのだと。
寒色系を好む私が暖色系を好む莉央ちゃんと同じ服を身につけても、しっくり来るはずがない。それでも誰からも選ばれなかったことによる心の傷が、私の手を暖色系に向くよう仕向けてきた。そんなことが他にもあったのかもしれない。
「俺は自分の人生を納得できるものだけで作り上げたい。他人の意見なんてこっちの意思とは関係なくすぐ変わるのに、そんなもので人生作ってたら一生振り回されることになる」
「だから、『相手は選んでる』って言ってたんですね」
「まあ、それも一部。修行僧でもないのに、わざわざ自分に苦行を強いる必要なんてない。少なくとも俺には、そんな生き方は無理。『このためなら苦労してもいい』って思えることしかやりたくない」
「ふは、わがままだ」
「そうだよ、俺はそれでいい。たとえその結果、孤立したとしても後悔しない。自分を無理に抑え込んで生きていくなんて、絶対にしんどいから。『楽をする』って聞こえは悪いけど、手を抜くことだけを指すんじゃなくて、自分に無理させないって意味もあると思ってる」
紗良に訊かれた『楽しい』って、こういうことだったのかもしれない。
紗良はダイエットよりも食欲を満たすことによる満足感を優先した。
一果は一重がダメだという友達の主張に同調することよりも、その子と離れることを選んだ。
間違った判断だと言う人もいるのかもしれない。だけど、二人は自分の本心と向き合って自分の心を守る選択をした。判断の基準を自分の中に作ったのだ。
私も先輩や二人のようにできるだろうか。
とりあえず家に帰ったら、今一度「このまま莉央ちゃんを目指し続けたい?」と自分に訊いてみよう。
食事系のメニューも提供しているため、それ目的で入店した人も多いのだろう。店内は賑わっていて、残りわずかの空席をなんとか確保することができた。
店内に背を向けて座っているから人の出入りに気が散ることはないものの、隣の席の若い男性が黙々と口に運んでいるオムライスが目に入ってお腹が空いてくる。
そういえばカフェに着く少し前に、お父さんから帰宅時間を尋ねるチャットが届いていた。外で食べるのならそのことも書かれているはずだから、今日もお父さんが夕飯を作ってくれるのだろう。ここでなにか食べてしまっては夕飯を減らしたくなってしまう。
丸テーブルの上でのんびりと湯気を立てている淹れたてのカフェラテに目を落とす。厚みのあるマグカップを両手で持ち上げて一口含んだら、コーヒーの苦みとミルクの甘みがとりあえず体を満足させてくれた。
忘れないうちに、三十分ほどで帰るとお父さんに返信したところで
「で、俺のせいじゃないならなんで切ったの」
と先輩が見計らったように訊いてきた。
先輩の前にも私と同じカフェラテが置いてある。勝手にコーヒーはブラック派だと思っていたので、こっそり親近感を抱いてしまった。
「あ、はい。えーっと、なんていうか……」
どこから話せばいいだろう。
切った理由をまだ誰にも話していないせいか考えがまとまっていない。
なにせ、切ることを決断したのは昨夜のことだ。ようやく期末考査から開放されて、冬休みの予定でも立てようとカレンダーアプリを開いたときに、美容院の予定が入っていたことに気がついたのだ。
前回利用したときにとりあえずと思って入れた予約だからなのか、高石先輩との出来事やテストで切羽詰まっていたからなのか、なんにせよ予約の存在をすっかり忘れていた。
決断してすぐに一果と紗良にはチャットで伝えたけれど、『心機一転てことか』『憑き物が落ちた感じかな』といい感じに解釈してくれたので細かな理由は説明していない。二人とも会ったときに改めて聞いてくれるつもりなのだと思う。
「先輩に言われたことは、正直まだちゃんと理解できてない……んです……」
あっと思ったときにはもう遅い。切り出し方を盛大に間違えたのだと口にしてから気がついた。
分かったフリをしたくなかったので正直に申告したけれど、どう考えても冒頭に持ってくる話題ではない。これでは先ほどの謝罪が形だけだと自白しているようなものだ。
「まあ、そうだろうな」
「え?」
「ん?」
「お、怒らないんですか? ちゃんと反省してないって……」
やけにあっさりした反応に拍子抜けしてしまう。
「反省してただろ。『たくさんひどい言葉ぶつけてすみません』って」
「そうですけど、そうじゃなくて……。私、まだ先輩に言われたこと、受け入れられてないんですよ?」
「たった数週間で『分かりました』って言われるほうが不自然だと思うけど。そんな簡単に切り替えられるなら、何年も悩んでないんじゃないの」
「そう、なんですかね……」
何度か顔を合わせて思った。先輩は強引なようで柔軟性がある。
はっきりと主張はするけれど、理解や納得を強要してこない。受け入れるかどうかは、あくまでも相手に委ねている感じだ。
それが私の気持ちを尊重してくれているのか、指摘はしたからあとは勝手にしてくれと思っているのかは分からない。前者だといいな、なんて生意気にも思ってしまった。
「受け入れてないのに切ったんだ?」
「……はい。その、この前ほんの少しだけ『私でよかった』って思った瞬間があって。本当にごくわずかなんですけど、でも、すごく大事な気持ちな気がして。せっかくそう思えたのに、それを蔑ろにして莉央ちゃんを目指し続けるのは嫌だなって思ったんです。なんとなく、ですけど……」
「自分を好きになってきたってこと?」
「そこまではっきりしたものじゃ……。そう思えたのも、まだ一度だけだし……。でも、大好きな友達にもらった気持ちだから、どうしても忘れたくなくて、強引にでも退路を断ってみようかなって」
「にしても、思い切ったな」
「たまたまなんですけどテスト明けに美容院の予約を入れていたので、これはもう切れってことなのかなと思って。この機会を逃したら、二度と踏み出せない気がしたし」
私のことだ。気持ちなんてきっと簡単に揺らいでしまう。もしまた容姿で傷つくことがあれば、すぐに「自分」を手放してしまうだろう。
「聞こうと思ってたんだけど」
「はい」
「その『笹本になる』って、どこまで?」
首を傾げた私に先輩が続けた。
「物理的に手を加えない限り笹本と同じ顔にはなれないし、中身って言っても趣味嗜好まで同じにするのは現実的じゃない。特に考え方なんて環境の変化をもろに受けるものだから、真似した次の日には変わってるなんてこともザラにあるだろ」
「それは……」
鋭い人だ。いつも私の悩みの本質に触れてくる。
それが意図的なのか無意識なのか傍からでは分からないけれど、私一人では言語化できなかった靄を形にしてくれるのは確かだ。代償とでも言うべきか、剥き身のように露わになった心をまじまじと見られているようで落ち着かないけれど。でも——
「文字通り“すべて”でした」
この眼差しから逃げてしまったら私はきっと変われない。
「ずっと整形したいって思ってました。本当に全部、莉央ちゃんを丸々コピーしたかったので。て言っても整形はすぐにはできないし、趣味嗜好を全部把握するのも無理だから、とりあえず髪を伸ばしてダイエットするところから始めましたけど」
なかなか改善されない体質には本当に悩まされた。
華奢であればモデル体型で通用するけれど、筋肉があると威圧感がすごい。特に私は筋肉がつきやすい体質らしく、中学のときの運動部でも同じトレーニングをしているはずの同級生より筋肉が発達していた。それが本当に嫌で、いつ見てもほっそりとした幼馴染の体つきが心底羨ましかった。
高校で部活を続けなかったのは中学の部活が楽しくなかったのもあるけれど、一番は筋肉をつけたくなかったからだ。
とはいえ、動かなければ脂肪がつく。だからといって、やり過ぎれば筋肉がついてしまう。いい塩梅が見つけられない歯がゆさにずっと苛まれていた。
「“私”という個性を完全に消したかった……」
「今はちがうんだ?」
「そう、ですね……、私もそれはずっと考えていたんですけど……。このまま莉央ちゃんを目指したとして、ゴールってどこにあるんだろうって……。そう思い始めてから、自分がなにをしたいのか分からなくなって……」
これまでは盲目的に莉央ちゃんを追いかけていたから、そんな疑問にすら思い至らなかった。
「まだ答えは出てないんですけど、友達の話から学んだというか……。二人とも自分の嫌な部分を丸ごと塗り替えるんじゃなくて、上手く折り合いをつけてるなって感じたんです。でも、ずっと自分がだいきらいだったから、すぐに切り替えることもできないし。とりあえず髪型だけでもって思ったんですけど、これぐらいじゃなにも変わらないですね……」
言い終えると同時に漏れた力のない笑い声は、すぐに店の喧騒に呑まれてしまった。
一果と紗良の話を聞いてから、ずっと心がそわそわしていた。彼女たちにはあって自分にはないもの。その大事ななにかを見落としている気がしてもどかしかった。試験期間はそれに心を持っていかれないように必死だったほどだ。
そうして合間合間に考えてやっとのことで気がついた。
「私、莉央ちゃんを逃げ道にしていたんだなって……」
もちろんそんなつもりは一切なかったけれど、気づきを否定できないことが答えなのだと思う。
だいきらいな自分のままでいることは、きっと目を逸らすことよりも難しい。“出井縁葉”のままで在ろうとするためには、まず自分の醜さを認めて、次に受け入れて、そのうえでどう改善していくのか考えないといけないのだから。
しかも、なんとか向き合ったところで必ず理想の自分にたどり着ける保証すらもない。そんな不確定な未来のために自分から目を逸らさずにいるなんて、弱った心には毒でしかないだろう。
「莉央ちゃんを目指そう」と結論づけるほうがはるかに心の負担は小さいし、一見前向きに思えてしまうから厄介だ。私もずっと自分を変えるために努力できているのだと思っていた。
「醜い自分を見たくなさすぎて、でもなにもしないのは嫌で。一番楽な方法に逃げたのかなって……」
「俺はいいと思うけど」
「えっ?」
「その髪。似合ってるし、なんかスッキリして見える」
「あ、髪、ですか……。ありがとう……ございま、す……」
お世辞だと分かっていても、褒められ慣れていないせいか反応に困ってしまう。
莉央ちゃんならこんな捻くれた解釈なんてせずに、笑顔でお礼を言うのだろう。そう思ったところで、この思考がいけないのだと気がついた。なんでも莉央ちゃんに当てはめているから、いつまで経っても幼馴染から自分を切り離せない。
「あと、楽するのは別に悪いことじゃない」
「え?」
「そこじゃなくて——、……なあ、好きな動画配信者は?」
「えっ? 動画?!」
藪から棒になんの話だろう。
「そう、動画。見ないの?」
「見ます、けど……」
私を見据える眼差しに答えを促される。見ますと言った手前、なにか言わなくては逃してもらえなさそうだ。
名前を聞かれたときもそうだったけれど、先輩は目で訴えることが多い気がする。
「エ、エクササイズ系はよく見ます。……ダイエット目的、ですけど」
「それだけ?」
「そ……、趣味だと収納とか梱包系のASMRが好きです」
「好きなゲームは?」
「うーん、ゲームはしないんですよね。友達に誘われていくつかアプリを入れたことはあるんですけど、すぐに飽きちゃって」
頭の中が疑問符でいっぱいになる。
途中からはいちいち突っ込むのを諦めたけれど、先輩の意図が全く読めない状況は変わらない。まるで動画配信者の質問コーナーを体験している気分だ。
「あの、なんなんですか。これ」
たまらずそう尋ねたら、思ったよりも声が尖っていて驚いた。
だけど、先輩は全く気にしていないようで、
「ASMRの動画を見ろとか、ゲームはだめだとか、誰かに言われた?」
などと畳み掛けてくる。
「言われてはないですけど……。ASMRはおすすめで上がってきたし、ゲームは幼いころから興味がなかったので」
「そう」
聞いておいて、なんて淡白な反応なのだろう。
ほんの一瞬そう思ったけれど、どうやら私の答えを蔑ろにしているわけではなさそうだ。黙り込んだ先輩の表情は真剣そのもので、とても私が口を挟める様子ではない。
無言の時間を持て余して、とりあえずカフェラテを最後まで飲み切った。他にすることもなくてマグカップの底に残ってしまった泡を見つめていると、「これはあくまで俺の意見だけど——」と聞こえて視線を上げた。
「——自分で選ぶことが大事なんだと思う」
「自分で、選ぶ?」
「そう。周りの意見を疑いもせずに受け入れてるから、出井は苦しいんじゃないの」
「それは、どういう……?」
「出井と笹本の間に優劣をつけたのは、小学校の同級生だろ?」
「……はい」
「それを理由に出井を傷つけたのも、自分の恋心に必死で出井に配慮する余裕がなかったのも周りのやつ」
「はい」
「そいつらが間違ってるんじゃないかって考えたこと、ある?」
束の間ためらってから、ゆっくりと頭を左右に振った。
「コンテストでもない限り、他人の容姿を評価する権利なんて誰にもない。そんな失礼なやつの発言に従う義務だって、誰にもない。自分に対する理想を掲げる権利も、どうありたいか最終的な決断を下す責任も本人にしかないはずなんだよ」
「だけど、客観的な意見て大事だと思うし。大勢がそう言うなら、それが正しいってことになるのかなって。実際、私と莉央ちゃんが並んだら、莉央ちゃんのほうが優れてるのは本当だから」
「出井自身がそう思って、本心から笹本を目指すならそれでいい。でも、出井の理想像って本当に笹本?」
「それは……」
そのはずだ。莉央ちゃんの真似をして私は育った。
昔からずっと莉央ちゃんを基準にして生きてきたと言っても過言ではない、はずだ。
「好みの話に戻るけど、好きなものを迷わず答えられるのはそれに納得してるからだと思う。好きかどうかを判断するときって、必ず自分に問いかけるだろ。その答えが確たる根拠としてあるから、自信を持って好きだと口に出せる。普段の出井はそれがちゃんとできてるんじゃないの」
「でも、好きなものは単純に好きかきらいかの判断だから……。そんなに難しいことじゃ……」
「難しいだろ。なにが好きか分からないやつだって、たくさんいる。この前、アイス選んだときもそう」
「アイス?」
「どう考えても遠慮であろう水の選択肢消したら、すぐにアイスって言っただろ? 決めるのに時間かかるとか選んでほしいって頼んでくるとか、俺の周りにもいろいろな性格のやつがいるけど、あれは自分の中で答えがはっきりしてるやつの選択だと思った」
驚きすぎて言葉が出ない。好みがはっきりしているなんて初めて言われた。
「出井にとっては何気なくやってることかもしれないけど、問いかけても自分から答えが返ってこないやつだっている。気づいてないだけで、そういうところ他にもあるんじゃないの」
「…………」
「あと、これは笹本から聞いた。追いかけてくるわりに、従順なわけじゃなかったって」
「え゙」
ものすごく恥ずかしいことを言われた気がして、みるみる顔が熱くなる。
「り、莉央ちゃんに、聞いたんですか……? 私のこと……」
「社会の選択科目が隣の席。授業始まる前に時間あったから話振ってみた。『出井と仲いいんだって?』って」
「ああぁぁぁ……」
「そしたら口挟む隙も与えてくれないほど、一気に思い出話披露してくれた。わりと笹本が折れることが多くて、遊びもお菓子も決定権は出井に譲ってたって」
「う、ううう嘘だ……! だって、ランドセルとか髪型とか、服だってお揃いにして……」
「それは単に同じものが気に入ったってだけだろ。なんだっけ、……ああ、裁縫道具か。一学年上の笹本が先に買ったから、それ見て絶対に同じのにするって言ってたくせに、満面の笑みで見せてきたのは全然ちがう柄だったって」
「えぇぇぇ……」
恥ずかしすぎて思わず顔を手で覆う。
「全然憶えてない……」
「他のことを記憶してられないぐらい、容姿を比べられたことがショックだったんだろ」
「確かにショックでしたけど……、そうなんですけど……。私って、そんなに奔放な子どもだったんだ……」
あまりの衝撃に全身の力がガクッと抜け落ちる。
「むしろ、それが本来の出井なんじゃないの」
「えぇぇぇ……」
「だから髪、ばっさりいったんだと思ってた」
「こ、これは単純に後戻りできないようにって思っただけで。莉央ちゃんから離れられる髪型ってなんだろうって……探して…………」
昨晩のことが脳裏を過る。
このまま莉央ちゃんに固執していたら、一果と紗良がくれた気持ちを忘れてしまうんじゃないか。そう思ったとき、
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
という先輩の言葉を思い出した。
一果も紗良も私「が」好きだと言ってくれたのに、踏み出す勇気がないせいで二人がくれた温かさを忘れるのは嫌だ。“出井縁葉”はそう思った。だから、どうにかして莉央ちゃんから離れてみようと考えた。
とはいえ容姿も体型もなにも受け入れられなくて、辛うじて手を出せるのが髪だったというだけだ。しかも、莉央ちゃんのようなロングヘア以外なりたいものなんて思い浮かばなかったから、手当たり次第いろいろな髪型を検索してみた。
片っ端から気に入ったものをお気に入りに入れて改めて振り返ったとき、そのほとんどがショートヘアだった。本当にそれだけだ。
「ロング以外好きかどうかも考えたことがなくて、意外と私ってショートが気になるんだって思……。あっ……」
真っ暗闇にぽつっと一つ、小さな光が灯る。
「心の声って、そういうこと……?」
先輩が静かに、それでいてはっきりと口角を上げた。
「決断するときも、好きなものを選ぶ感覚で俺はやってる。『失敗してもその道を選んだのは自分だ』って受け入れられることしかやりたくないから。『誰かに言われたから』が第一声に来る時点で、その選択に納得できてない証拠だろ」
「莉央ちゃんになることに納得してない……?」
「それは自分に聞いてみないと分からない。少なくとも、髪型は納得してなかったってことなんじゃないの」
「……ですね」
腑に落ちてしまった。
曖昧な違和感と鮮明な不快感。その正体は私自身が自分の行動に納得できていないことによるものだったのだと。
寒色系を好む私が暖色系を好む莉央ちゃんと同じ服を身につけても、しっくり来るはずがない。それでも誰からも選ばれなかったことによる心の傷が、私の手を暖色系に向くよう仕向けてきた。そんなことが他にもあったのかもしれない。
「俺は自分の人生を納得できるものだけで作り上げたい。他人の意見なんてこっちの意思とは関係なくすぐ変わるのに、そんなもので人生作ってたら一生振り回されることになる」
「だから、『相手は選んでる』って言ってたんですね」
「まあ、それも一部。修行僧でもないのに、わざわざ自分に苦行を強いる必要なんてない。少なくとも俺には、そんな生き方は無理。『このためなら苦労してもいい』って思えることしかやりたくない」
「ふは、わがままだ」
「そうだよ、俺はそれでいい。たとえその結果、孤立したとしても後悔しない。自分を無理に抑え込んで生きていくなんて、絶対にしんどいから。『楽をする』って聞こえは悪いけど、手を抜くことだけを指すんじゃなくて、自分に無理させないって意味もあると思ってる」
紗良に訊かれた『楽しい』って、こういうことだったのかもしれない。
紗良はダイエットよりも食欲を満たすことによる満足感を優先した。
一果は一重がダメだという友達の主張に同調することよりも、その子と離れることを選んだ。
間違った判断だと言う人もいるのかもしれない。だけど、二人は自分の本心と向き合って自分の心を守る選択をした。判断の基準を自分の中に作ったのだ。
私も先輩や二人のようにできるだろうか。
とりあえず家に帰ったら、今一度「このまま莉央ちゃんを目指し続けたい?」と自分に訊いてみよう。
