「うっ……、さむ……」

 ビュッと吹いた強い風が首元を撫でて、私はさらに身を縮めた。
 定位置であるパンダのスプリング遊具に腰を下ろして、早一時間。空の端を染めていた薄明(はくめい)は、いつの間にか濃紺が支配する世界に溶けてしまったらしい。家の明かりや街灯がなければ辺りは真っ暗だっただろう。
 十二月の宵の口ともなるとさすがに寒い。特に今日は時折り強い風が吹くせいか、より一層寒さが身に沁みる。ついこの前まで腕をまくったり着込んだりと気分屋な秋に踊らされていたというのに、期末考査に音を上げそうになる私を横目に冬は師走の訪れにずいぶん浮足立っていたようだ。気がつけば秋の名残りなどどこにも見当たらなくなっていた。

「今日はいないのかな……」

 初めて先輩と遭遇したあの日と同じ曜日・時間を狙って公園(ここ)を訪れてみたけれど、待てど暮らせど姿が見えない。前回、先輩が勝手口から出てきた時間はとうに過ぎている。それなのに勝手口はおろか公園前の道を通る気配もなくて、不安だけが募る一方だ。
 先輩は本当にあの家にいるのだろうか。
 勝手口の横にある小窓から灯りが漏れているから、中に人がいるのは分かる。でも、それが先輩かどうかここからでは確かめようがない。

「ペルショワール・デ・ソーニュ」

 スマホを開いて、ブラウザアプリの検索結果を読み上げた。カタカナばかりで舌が絡まりそうになるそれは、フランス語由来の造語らしい。
 先輩の格好からしてアルバイトでもしているのだろうと思っていたけれど、予想通りあの家は一階がカフェになっていた。色とりどりの花が出迎えてくれる正面玄関の写真もいくつかネットに載っている。
 口コミによると、早期退職したご夫婦が自宅を改造して五年ほど前に開いたお店らしい。近所の人を中心に口コミで人気が広がった、知る人ぞ知る有名店なのだとか。
 主なメニューはガレットというそば粉で作られたクレープ。卵や野菜の乗った食事系のものからクリームとフルーツを組み合わせたデザート系のものまで、豊富なトッピングの中から好みの一品を見つけるものここに通う醍醐味の一つだという。店名の正式な表記は「Perchoir des Songes」、フランス語で「夢の止まり木」を意味する。
 驚いたのが、そのお値段。普段私が行くお店で目にするものよりも桁が一つ多くて、とてもではないけれど高校生が放課後に通えるようなところではない。お母さんがたまに友人と連れ立って行く、「ご褒美」と称した高級カフェに近い雰囲気を感じた。
 先輩がどうしてそんなところで働いているのかは分からない。でも、先輩を訪ねて気軽に足を踏み入れられる場所でないことは明らかだった。
 だから、手持ち無沙汰になることを承知でこうして公園で待っているのだけれど、もしかしたら今日はシフトが入っていないのかもしれない。

「七時になっても会えなかったら、諦めて帰ろう」

 時刻は午後六時三十五分。
 私はイヤフォンを耳に着けると、音楽アプリの再生ボタンを押す。
 お気に入りの曲に耳を踊らせながら、すっかり冷たくなった両手を袖の中に埋めてそのままコートのポケットに突っ込んだ。

「——……ぃ、……出井?」
「へっ?!」

 突然左肩を掴まれたことに驚いて、ビクッと体が大きく跳ねた。その反動で後ろに倒れそうになる上半身を、「危なっ」と背中から支えられる。私も反射的に目の前のものをギュッと掴んだ。

「た、高石先輩?!」

 顔を上げると、そこには待ち望んでいた人の姿があった。だけど、その顔はとても訝しげだ。

「こんな時間になにやってんの? もう真っ暗だけど」
「あっ、えっ?!」
 
 慌ててスマホの確認すると、すでに七時を回っていた。

「す、すみません! 音楽に夢中になっていたみたいで……——って、腕!」

 咄嗟に手を伸ばしたそれは先輩の左腕だったらしい。
 黒いボアジャケットの袖越しにがっつり腕を掴んでしまっている。しかも、両手でしっかりと包み込むように。
 状況を理解した途端、サーッと血の気が引いた。以前先輩が言っていた心地よい距離感と、一果から聞いた先輩に物理接触したという猛者の話が瞬時に脳裏を過る。
 それなのに慌てて手を離したら、私の背中に添えられた先輩の右手に少し力が込められたのが伝わってきた。その優しさが申し訳なくて、イヤフォンをケースに戻しつつ急いで立ち上がる。先輩は私の動きに合わせて背中から手を離すと、数歩下がって場所を空けてくれた。
 先輩はやむを得ない接触を咎めるような人ではない。たとえ不快に思っていたとしても、ここで私を責めるようなことはしないだろう。
 そう思うからこそ、余計に心苦しい。

「すみません、思いきり触ってしまって。先輩、触られるの嫌なのに……」
「俺、触られるの嫌とか言ったっけ?」
「え? だって、腕に手を回した女の子を振り払ったって……」
「めちゃくちゃ知られてるんだな、俺の行動って」
「あっ……、えっと、生徒手帳を返すときにクラスが分からなかったので、友達に聞いたらいろいろと教えてくれて……」
「そう。まあいいけど。別に出井に触られたところで不快なんて思わない。言っただろ、『相手は選んでる』って」

 胸がぎゅっと引き絞られたように強く痛む。
 先輩は最初から変わらない。莉央ちゃんがそばにいても、重苦しい過去を打ち明けても、こうして私に向き合って受け入れてくれる。
 そんな人に私はなんてことをしてしまったのだろう。
 胸の奥からないまぜになった感情がせり上がる。矛盾を指摘されたときですらならなかったのに、今が一番泣きそうだ。でも、泣くのはずるい。私はまだやるべきことすら、ちゃんとできていないのだから。
 間違ってもそれが漏れ出さないように下唇を噛んで勢いよく頭を下げると、

「この前は本当にすみませんでした。先輩はなにも悪くないのに、その、痛いところを突かれた気がして、ついカッとなってしまって……。たくさんひどい言葉をぶつけてしまって、本当にすみません」

 とひと思いに言い切った。
 生徒手帳を返しに行ったときとちがって、今回はなにを言うか事前に考えることはしなかった。テストに追い詰められていたというのもあるけれど、あまりガチガチに固めてしまうとかえって気持ちが伝わらないと思ったのだ。
 それにやるべきことは謝ることただそれだけだから、変にあれこれと言葉を付け加える必要もない気がしていた。

「この数分で何回謝るんだよ」

 頭上から聞こえたのは、呆れを含んだ優しい声だった。

「頭上げて」

 一瞬ためらって言われた通りにすると、

「俺も出井の気持ち考えずに傷つけること言った。ごめん」

 と逆に頭を下げられてしまった。これには驚きの声を上げずにはいられない。

「待ってください! 先輩が謝ることはなにも……」

 ゆっくりと顔を上げた先輩の目は真剣そのもので、私は言葉に詰まった。

「あるよ。仮に俺の発言が正論だとしても、相手を傷つける言葉を選んだのは間違いだった」
「そんな……」
「だからもし、それ——」

 先輩が私の首元を見つめたまま顔を歪める。

「あ、はい。実はさっき美容院に行ってきて、バッサリ切っちゃいました」

 言いながら、私も自分の首に触れた。
 今まであった髪の感触がなくて、そのまま皮膚に触れてしまうのにまだ慣れない。しかも、襟足を短くしたからうなじが丸見えだ。美容院から出てすぐはまるで裸で外を歩いている感じがして、愧死(きし)するかと思った。
 そこまで考えて気がついた。もしかして——

「あの、髪を切ったのは先輩のせいじゃないですから」
「……ほんとかよ」
「本当です。確かに、先輩の言葉に影響は受けまし……——ヘッ……クシュンッ……!」

 先ほどから断続的に吹く風にいよいよ耐えられなくなってしまった。先輩の前で盛大なくしゃみをかましてしまうなんて穴があったら入りたい。
 髪の毛がないとこんなに寒いなんて知らなかった。マフラーを持ってくるんだったと後悔していると、

「どっか入るか」

 と微笑んだ先輩はとても夜が似合うと思った。