「いやぁ、マジでびっくりだわ! あの高石先輩とそこまで仲良くなってたとか、急展開すぎるっしょ!」
「ほんとそれ! ジュース奢ったの、先週の話だよ? そんなに一気に進展することある?」
翌週の月曜日。
一果と紗良、そして私は高校の最寄駅近くにあるファストフード店にいた。
紗良の部活の休みが曜日で固定されているので、一果のバイトのシフトが合わせられるときは、放課後にこうして三人で出かけることが多い。と言ってもお小遣いには限度があるので行き先は限られてくるし、月末ともなれば公園と自販機が頼みの綱となる。
今日は朝から冷たい雨が続いていて、放課後のこの時間もとても外にいられる状況ではない。話題的に人けのない場所に行きたかったけれど、三人とも方向がバラバラなので家は却下。そうして残った選択肢が飲食店に入ることだった。月の中頃ということもあり、まだ全員に比較的潤沢な資金が残っていたのが救いとなった。
「進展じゃないよぉ……後退してるんだよぉ……」
めそめそと並べた泣き言は椅子を引きずる音やそこかしこで飛び交う会話にたちまち呑まれてしまう。ファストフード店特有の喧騒はすべての客に平等に降り注ぐもので、傷心中の高校生を気遣うなんてことはしてくれない。
「なに言ってんの!」と楽しそうに身を乗り出したのは、正面に座る一果だ。
「縁葉が男子に意見してる時点で進展っしょ! まあ相手が高石先輩ってのは、どれだけ怖いもの知らずだよって感じだけど」
「ちょっと、一果。縁葉にトドメ刺さないで」
「分かってるよぉ……私が悪いんだよぉ……」
「ほらー! ジメジメ度が増しちゃったじゃん!」
「あっはは! めっちゃジメジメしてる」
「こら、笑わないの!」
私と並んでソファに座る紗良が「大丈夫だよ」と背中を撫でてくれる。
あまり重苦しい空気にはしたくないけれど、かといって真剣に聴いてもらえないのも悲しいので、二人のバランスがちょうどいい。
なんてわがままを言えるのは友達に恵まれている証拠なのだろう。
「それにしても、想像以上に辛いものだったなぁ」
「……?」
隣を見遣ると、悲しげな面持ちの紗良がこう続けた。
「縁葉の男子が苦手になったきっかけのこと」
「それ。悪気がないほうが“効く”ってやつ? 小学生のときの子、縁葉を傷つけたことすら気づいてないよ。絶対」
先輩とのいきさつを説明するにあたって、この際だからとようやく過去の出来事をすべて二人に伝えることができた。五年生のときのことも、ラブレターの正しい結末も、包み隠さずすべてだ。
紗良は当然として、先ほどは大笑いしていた一果も真剣に耳を傾けてくれた。
莉央ちゃんとの関係については、情報通の一果の口から名前が出たときに伝えていたけれど、『今はあまり交流がない』という私の言葉を二人とも覚えていたらしく、話題にはしないよう気を遣ってくれていたらしい。
だから、高石先輩のクラスについて話したときも、『莉央ちゃんに訊けば?』とは誰も言わなかったのだと今さらながら気がついた。
「ずっと黙ってて、ごめんね。あと、中学のときのことも『振られた』って嘘ついちゃって……」
「別にいいっしょ。見栄張って事実と全然ちがうこと言ってたわけじゃないんだし。てか、これまでの人生ぜんぶ共有とか、普通に無理くない?」
「それは、そうだけど……」
「一果の言う通りだよ。詳しく伝えても混乱させるだけだと思ったら、大事な部分だけ端折って話すことは私だってあるもん。そもそも過去の出来事を細部まで覚えてないのもあるけど」
「紗良は覚えてなさすぎっしょ。先週あたしがお金借りたのだって、さっき返すときまで忘れてたじゃん」
「一果の記憶力がチートなんだって。私の脳みそは、あんまりキャパないの。一つ新しい情報が入ってきたら、その分古いのを捨てないと。すぐ容量オーバーになっちゃうよ」
「元部長の脳みその容量、そんな小さくて大丈夫なわけ?」
店内の喧騒に二人の笑い声が溶けていく。
そんな二人を眺めながら、頭の中ではあの日の言葉が無限にこだましていた。
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
先輩にそう言われて、分からなくなった。
悔しさや拒絶感をはじめとして、臨界点に達した感情はそう簡単には鎮まってくれない。あんな時間にお味噌汁をお腹に入れたこともあって、あの日は朝方まで寝付けなかった。
だけど、長く起きていた分だけ燃え続けた感情は瞼が重くなるころには落ち着きを見せ始めて、目が覚めたときには冷静さに変わっていた。時間にしてほんの三時間ほどの睡眠だったというのに、過去に類を見ないほど頭がスッキリしていたのを覚えている。
それからは、たくさん考えた。
途中、反省と後悔に何度も悶えながら先輩の言葉を一つずつ見つめ直して、そのたびに自分の心と向き合った。
私は自分の存在を認めてほしかった。でも、認めてもらえなかった。
だから、認められている人をお手本にして変わりたいと思った。そのお手本となったのが、もっとも身近な存在である莉央ちゃんだった。
この結論に疑問を抱いたことは一度もない。
芸能人に憧れて髪型や服装、メイクを真似る人はたくさんいる。彼らをモチベーションにして体型管理に精を出す人だって、世の中には溢れているというのに。
芸能人か一般人かのちがいはあれど、私が莉央ちゃんに憧れるのはおかしいことなのだろうか。
「てか、いっこ言いたいことあんだけど!」
出し抜けに声を張った一果に、私はびくりと身を震わせた。
ハンバーガーにかぶり付いた口をもぐもぐと動かしながら、紗良が「どうひた、どうひた」と続きを促す。
「笹本先輩にならないと男子の前に立てないなら、笹本先輩以外の女子全員アウトじゃん?」
「えっ?!」
「だって、そういうことっしょ? 縁葉の言う女子の『正しい在り方』が笹本先輩なら、あたしらもダメじゃん」
「ち、ちがうよ!! 私が莉央ちゃんにならないといけないって話で、他の女の子に対して同じように思ったことはないよ?!」
「ほんとかぁー?」
「ほんと! 絶対にほんと!!」
じとーっとした眼差しを向けられて、私は思わずたじろいた。
「わ、私にとっては莉央ちゃんが“正しい”けど、でも、それがみんなにも当てはまるとか、そういうことじゃないから。だから——」
知らなかった。
「私の劣等感で二人を傷つけてたら、ごめん……」
俯くように頭を下げたから、ちゃんと二人に届いたのかは分からない。
発した声は、この賑やかな店内ではあまりにも弱すぎた。
高石先輩に当たり散らしてしまったのが、ほんの数日前。そして、今度は大切な友達にまで不快な思いをさせてしまった。この数日間の反省と後悔は一体なんだったのか、過去の自分を牢屋にでも閉じ込めてそう問い質したい。
やっと、嘘偽りなく「友達」だと思える存在に出会えたのに。
この劣等感を誰にも相談しなかったせいで、自分の悩みが傍目にどう映るのかを知らなかったせいで、かけがえのない関係を自らの手で壊してしまうのかもしれない。
小学生のときに女の子の手のひら返しを目の当たりにしたせいか、友達作りに慎重になりすぎる癖があるのは自覚している。二回の失恋の衝撃が大きすぎただけで、下手をすれば性別関係なく人間不信に陥っていたとすら思うほどだ。
残念ながら、その癖は中学に上がっても抜けなかった。一緒にいる子はいたし、その時々を楽しめてはいたけれど、心の防壁を打ち破るほどの出会いではなかったのだと思う。相手もきっとそんな私の距離感に気づいていたのだろう。卒業アルバムの空白のページには『高校もがんばってね』なんて当たり障りのないメッセージが並んでいて、友情ってこんなものなのかなと肩を落とした記憶がある。
だけど、こんなことになるのなら無理にでも誰かに相談しておけばよかった。
でも、莉央ちゃんになんて話せるはずがない。
お父さんは真摯に聴いてくれるけれど、得意分野は勉強や進路についてだから、思春期の娘特有の悩みにはきっと頭を悩ませてしまう。
お母さんには一度話したことがあるけれど、『どう足掻いても他人にはなれないんだから』『自分をきらう時間を好きになる努力をする時間に充てたらいいの』と崖の頂上にしか存在しない答えが返ってきた。
“誰かに”なんて思ったけれど、誰を頼ればよかったのだろう。そう思うと同時に、私は恵まれていたのだと考えを改めた。十六年間、人の気配は絶えず近くにあったのだ。そんな環境で誰にも言えないなんて、あまりにも贅沢な悩みすぎて自分に嫌気が差す。
「えっ!? 待って待って!!」
閉ざされた思考の中に、一筋の光が差し込んだ。
これは紗良の声だ。
「私は全然傷ついてないよ?! てゆーか、一果もそうでしょ?!」
「おん」
「え……?」
こわごわと顔を上げる。
氷を鳴らしながらコーラを吸い上げた紗良が、「そうじゃなくて」と口火を切った。
「縁葉は私たちが笹本先輩を目指す必要はないって、思ってくれてるんだよね?」
「もちろん……!」
「じゃあ、どうして私たちにはそう思ってるのって話。だよね、一果?」
「おん」
「そ、れは……えーっと……」
二人の視線が強すぎて、目が回りそうだ。
「二人は莉央ちゃんを目指さなくても、十分魅力的だから……かな?」
「なんだよそれ、照れるじゃないか」
一果が恥ずかしそうに頬を掻いた。
対して、眉間にはっきりと皺を寄せた紗良が続ける。
「もしかして自分以外、誰も劣等感抱えてないとでも思ってる?」
「そ、それはないよ! みんな、なにかしら悩んでるとは、思う。……ただ、私の場合は『見た目が悪い』ってずっと言われてきたから。客観的に見てそう思うってことは、相当ひどいのかなって……」
「…………」
「…………」
「でも、仕方ないよ! 私もそう思うもん。鏡とかガラスに映ちゃった自分を見ても、『ひどいな』って確かに思うから。納得してるからこそ、莉央ちゃん目指そうって決めたんだし」
気を遣わせたくなくて明るく振る舞ってみたけれど、これといって効果はなさそうだ。
二人は——特に紗良は——険しい表情を浮かべている。少しの間を置いて、「はぁ」と深いため息をこぼしたのも紗良だ。
「私もさ、中学のときはもっと自分に自信がなかったの」
「え?」
「ほら、ずっとテニスやってるじゃん? 年中日焼けしてるし、体質的にもあんまり色が戻るタイプじゃないの。それが嫌だったんだよね」
「そうなんだ……」
紗良からこの手の話を聞くのは初めてで、内心戸惑いを隠せない。
確かに常に自信たっぷりかと言われるとそうではないけれど、何事も仕方ないと割り切ってしまえる潔さがあることを私は知っている。そして、そこには彼女が自分に対して抱く否定的感情も含まれるものだと思っていた。
「もちろん体型も気にしてたよ。ラケット握ってたらどうしても腕はしっかりしちゃうし、半袖がきらいだった。食事制限もがんばってたしね」
「えっ、そうなの?」
現在の彼女からは想像もできない姿に、つい声量を調整し忘れてしまった。
紗良はいつも好き嫌いなく美味しそうに食べる。お菓子もジャンクフードも気にせず口に運んで、それを後悔する素振りもない。食堂でもカツ丼や唐揚げ定食などを好んで食べているけれど、部活で相当消費するらしく体はいつも引き締まっている。
だから、紗良と食事制限という言葉がどうしても結びつかなかった。
「じゃあ、なんで止めたの? 食事制限」
ポテトを頬張りながら一果が尋ねた。
「中学のとき、部活の練習試合で気を失ったことがあるんだよね」
「「えぇ?!」」
「あ、そんな大したものじゃないよ? 試合中にペアの子とぶつかっちゃって。軽い脳しんとうだったから、すぐに目が覚めたんだけど。でも、薄れる意識の中で思ったの。『ケーキ食べておけばよかったな』って」
「……ん?」
「ケーキ……?」
先に首を傾げた一果に私も続く。
「そう、ケーキ。前日がちょうど弟の誕生日で、夕食のあとにケーキが出たんだけど、太るのが嫌で食べなかったの。もう、それがすっっっごい心残りでね。結果的には大事に至らずに済んだけど、意識を失う時点ではそんなの分からないじゃん? もう死ぬかもって思うでしょ?」
「それは、そうだね」
一果もうんうんと頷いた。
「じゃあ、ケーキ食べておけばよかったってなるじゃん?! 死に際に思い出して後悔するなら、ケーキ一個ぐらい食べてその分動いたほうが絶対いいでしょ?!」
「いや、まあ、うん……?」
紗良の勢いに気圧される私とは対照的に、
「死に際って、そもそも死んでないんだよ」
と一果が冷静に指摘する。
次の瞬間、私と一果は吹き出した。
「あっははは! もう、なんだよ紗良! どれだけ食い意地張ってんの?!」
「いやいや、食べたいでしょ! だって、ケーキだよ?! 美味しいじゃん!」
「お、美味しいけど……、でも、最期に思い出すのがケーキって……、ケーキって……!」
「だから、“最期”じゃないんだわ。余計に笑かさないで、縁葉」
ツボにはまったのか、お腹がピクピクと痙攣するのに笑いが止まらない。
それは一果も同じようで、目に涙を浮かべている。
「えー、そんなに笑うかな?」
「ごめん、ごめん。でも、まさかケーキが出てくるなんて、思わなくて……」
笑いの余韻が消えなくて、話しながら声が震えてしまう。
「ほんとそれ。もっと思い出すことあるっしょ。マジでそれが食事制限止めた理由なわけ?」
「うん、そう。私にとって美容もダイエットも我慢でしかなかったから。ただでさえ勉強なんて楽しくないことやってるのに、我慢ばかりで後悔しながら死ぬのは嫌だなって思ったの。それからは一応意識はするけど、食べたいものは食べるようになった。そうしたら性格も明るくなって、彼氏もできたんだ」
「えー、そんな変わるもん?」
「変わった、変わった。周りにもすごい言われたもん。『前向きになったね』って。我慢が減って楽しいことが増えると、それに比例して性格も変わるんだなって実感した」
意外なところで発揮された潔さが、紗良らしい。
さすがに話を聞いただけでは前向きではない姿までは想像できないけれど、それでいて紗良にもっと近づけたような不思議な感覚だ。
「縁葉は? 楽しい?」
「え?」
「笹本先輩目指すの、楽しい?」
「た、の…………」
予想外の質問に言葉が詰まる。
莉央ちゃんになることは、私にとってやらなくてはいけないことだ。だから、それと楽しさが混ざり合うなんて考えたこともない。
「すっごい追い込むじゃん、自分のこと。アスリートでも目指してんの?」
気持ちをそのまま伝えたら、一果に一刀両断されてしまった。
「確かに縁葉って自分に厳しいよね。宿題もテスト勉強も全教科手を抜かないの、いつも偉いなって思ってたの」
「でも、それは二人だって……」
「私は結構イヤイヤやってるところがあるし、分からないところは諦めがちだよ。見せてないだけで、空欄も多い。そう考えると、一果も意外とちゃんとやるよね。偏りすごいけど」
「意外ってなんだ。学生なんだから、ちゃんとやるわ。ま、数学と社会だけだけど」
特に国語が苦手な一果は、一学期の期末考査で赤点を獲得済みだ。
二回赤点を取ると補習対象になるので後がないにもかかわらず、『背水の陣だから』と自信満々に言う彼女に『ちょっとちがう』と指摘するところまでがお決まりである。
数学と社会はいつも満点に近い成績なだけに、担任の先生からも『やる気を分散しろ』と言われたらしい。
「私は勉強はキライだけど、テニスは楽しいからきつい練習もがんばれる。一果は数学と社会を学ぶのが楽しいから、進んで勉強ができる。縁葉はどうなのかなって思って」
「どう……なんだろう……」
上手く返事を拵えることができない。
勉強はやるもの。
莉央ちゃんにはなるもの。
「楽しい」という言葉は二人と過ごす時間や娯楽に対して使うものだと思っていたから、自分の行動原理に含めるなんて概念はあまりにも寝耳に水だ。
「ちなみにさ、あたしだってあるからね。悩みぐらい」
これまで比較的静かに聞いていた一果が口を開いた。
「ないと思ってたっしょ、悩み」
「さすがにそこまでは……。ただ、引きずらないタイプかなとは思ってたし、あんまり劣等感もないのかなって印象は……ある」
「そうなんだよ。寝たら忘れるし、劣等感もない」
「あ、ないんだ」
ハンバーガーの最後の一口を飲み込んだ紗良が、隣でブフッと吹き出した。
「あたしって一重じゃん? でも、パパもママもお姉ちゃんも、みーんなかわいいって言って育ててくれたの。だからあたし、ずっと自分のことかわいいと思って生きてきたし、みんなもそうだと思ってたんだよ」
「みんなも?」
「そう。みんな家族から褒められて生きてきて、みんな自分のこと肯定的に思ってると思ってた」
「なにそれ。すごいいい考え方」
紗良の言葉に私も頷いた。
「でしょ? でも、中学に上がると、一重の子が口を揃えて『二重になりたい』って言い始めたんだよ。そこで初めて、一重に対して否定的な感情を持つ人がいるって知ったんだけど……」
一果が言葉を詰まらせた。
初めて見る一果の姿だ。
「仲良かった子にさ、突然『私の気持ちなにも分かってない』って言われて」
「え、なんで?」
「んー……。あたし、自撮り好きだったんだ。隠れてスマホ持って行ってたから怒られたこともあるけど、学校めっちゃ好きだったから、楽しい瞬間を思い出に残しておきたかった。だから、先生の目を盗んで事あるごとにカメラ構えてた。でも、その子は写真に写りたくなかったらしいんだよ。そんなこと一度も言わなかったけどさ。同じ一重のあたしなら惨めな気持ちを分かってくれると思ってたんだって」
「そんな……」
一果は自撮りをするときに、必ず「撮っていい?」と訊いてくれる。
それは私が写真や動画に映るのが苦手だと伝える前からそうだったし、伝えてからはより一層気を遣ってくれるようになった。それでもうんざりするほど頻度が多いわけではないし、思い出を残したい気持ちも分かるから、撮ってもらえることに否定的な感情を抱いたことはない。ただ、私が見返すことができないだけで、思い出がスマホの中に残っていることは純粋に嬉しかった。
紗良も率先して写真を撮るタイプではないから、いわば思い出づくりの旗振り役とも言える一果には感謝しているほどだ。
「そっからは自撮り止めた。まあ、撮りたいとも思わなくなったからなんだけど。その子とも卒業してから連絡取ってないし」
「そっか……」
一果の表情が少しだけ曇った気がした。
「結局、一重がダメな理由も分からないんだよ。それぞれに似合うメイクがあるんだから、それを楽しめばいいっしょって思う。友達が二重だからって自分もそうならないといけないとか、誰が決めた? 都合のいいときは個性とか言うくせに、そういうときは使わないのかよって叫びたくなる」
語気を強めた一果が、「だから——」と私をちらっと見た。
「?」
「——だから、二人の会話盗み聞きしたときは、めっちゃ嬉しかったんだよね」
「盗み聞き?」
「そ。仲良くなりたてのときかな。放課後寄り道して、あたしがトイレから戻るときに、自撮り苦手だって話してたことあるっしょ」
そう言えば、そんなことがあった。
あれは確か流行りのドリンクを三人で飲んだ日に、私がこう切り出したのだ。
『私、写真あんまり得意じゃないんだ……』
『えっ、そうなんだ』
『うん。自分の顔を客観的に見たくなくて……』
『あー、分かるかも。でもさ、一果は好きだよね。自撮り』
『ね。あれ本当に不思議なんだけど、なんか写ってもいいかなって思っちゃうの。いつも撮る前に許可取ってくれるし、本当に楽しい思い出を残したいんだなって伝わるからかな?』
『分かる。タイミングとか頻度とか、考えてくれてる気がするよね。私もすんなり受け入れちゃうなぁ』
すっかり忘れていた。
写真が苦手であることを隠して写ることに罪悪感を覚えて、つい紗良に白状してしまったのだ。決して一果を悪く言いたいわけではなかったとはいえ、あれを聞かれていたなんて。
「ご、ごめん……」
「えっ、なんで謝る? あれが嬉しかったって言ってんの。だってさ、はっきり言っちゃうけど縁葉だって奥二重じゃん?」
「う……ん、そうだね」
私のきらいなところの一つだ。
中学時代の一果のクラスメイトと同じ、幼馴染の二重に憧れた私の劣等感の構成要素。かろうじて奥二重の、ほぼ一重。
「あ、勘違いナシね? それがダメって言ってんじゃないから。むしろ感謝してんの。苦手なことを提案してたあたしを悪く言わずに、『それでもいい』って受け入れてくれるとか最高じゃない?」
「そう、なの?」
「そ、う、な、の! 正直言うと、ちょっと疑ってたもん。あたしの隣で安心してんのかなって。でもあの盗み聞きで、あたしと一緒にいる理由は傷の舐め合いじゃないってはっきり分かったから、余計に二人のこと好きになった」
紗良は「だからあのあと、突然コンビニのから揚げ奢ってくれたんだ」と納得したような口調だ。
「そういうこと。あたしだって、自分に対して好きになれない部分はあるよ。思ったことはすぐ言っちゃうから、クラスメイトと衝突したことは何回もあるし、そのたびに『なんでこんなにぶつかるんだろう』って悩んだし。でも、いいかなって思った。そうやって悩んだお陰で、二人に配慮できるあたしに成長したから」
「ほんと、ポジティブ変換が上手いよね。一果って」
そう言って、紗良はおかしそうに笑った。私もコクコクと何度も頷く。
本当にすごいと思う。
後悔しないために吹っ切れた紗良も、自省と卑屈を履き違えないでいられる一果も、二人とも「自分」のままで生きていくことに上手く折り合いをつけている。途中で躓いて転んだとしてもそこで終わりじゃなくて、どうにか足掻いてもがいて最終的には納得のいく形に作り変えている。
私は、“出井縁葉”は、このまま莉央ちゃんを目指してどうなりたいのだろう。
達成した暁には望んだ未来を手にするのだとずっと信じて疑わなかったのに、高石先輩と話して、二人の過去を聞いて、なにもかもが揺らいでしまった。二人のように「自分」のまま生きていく選択ができていれば、こんなに悩まずに済んだのかもしれない。高石先輩に八つ当たりすることもなくて、お礼をしてもらって円満に解散できたのかもしれない。
そう思うのに、莉央ちゃんを目指さない道へ踏み出すのがどうしても怖い。たった一歩が、とてつもなく重い。
「だからさ、高石先輩の言いたいことも分かるってゆーか」
一果の声で自分が俯いていたことに気がついた私は、跳ねるように顔を上げた。
「あたしは縁葉のことが好きだし、卒業しても友達やってたいって思ってる。それは縁葉の外見や性格が笹本先輩じゃなくても一緒。だって、縁葉ともっと仲良くなりたいって思ったのは、盗み聞きしたときの縁葉の言葉があったからっしょ? “縁葉(笹本先輩ver.)”だったら、そんな話題にもならなかったじゃん」
「そうだね。むしろ、笹本先輩になられたら困るかも。それはもう笹本先輩と友達になってるから、私たちの好きな縁葉はいなくなっちゃってる」
「…………」
言葉が喉でつかえて声にならない。
熱すぎず、冷たすぎず、まさに適温以外に表しようのない心地よいぬくもりで、ゆっくりと心が満たされていく。
人生を豊かにしてくれる友達、そんなものが本当に実在するなんて。映画やドラマで見るたびに憧れていた、まるで自分のことのようにお互いを想い合える関係。それは物語の中でしか成立しない、空想の繋がりなのだと思っていた。
家族や幼馴染とも少しちがう。それぞれが人生の途中で交わった関係だから、過去についてはお互いの言葉でしか知ることができないのに、当時のその人と同程度かもしくはそれ以上に心を痛めて、苦しんで、分かち合える不思議な繋がり。
ずっと欲しかった、本当の友情。これがそうなのかもしれないと強く実感した今、少しだけ『私で良かった』と心のどこかが笑った気がした。
「高石先輩もそんな感じのこと言いたかったんじゃない? わざわざ呼び止めてまで、生徒手帳のお礼してくれるような人だもん」
紗良がにこりと微笑んだ。
「だね。むしろ話聞いたとき、ほんとに高石先輩かって耳を疑ったわ。縁葉の妄想でも聞かされてるのかと思った」
「えぇ、そんな……」
あまりの言われように、ようやく喉が動いた。
二人はあははっと声を上げて笑っている。私の一番好きな二人の姿だ。
きっと二人なりに場を和まそうとしてくれているのだろう。私が押し黙ったせいで気を遣わせてしまった。とはいえ、こんな公共の場で瞳を濡らすほうが、かえって二人に迷惑をかけてしまうのは間違いない。そうならないためにも口をぎゅっと噤むしか手はなかった。
「笹本先輩に憧れるのが悪いことだとは言わない。でも、話してくれてるときも、縁葉ずっと苦しそうだったからさ。あたしらと中身のない会話してるときのほうが、よっぽど肩の力抜けてていいと思う」
一通り笑ってスッキリしたのか、真面目な面持ちの一果が話を戻した。
言いたいことは分かる。たとえ雀の涙ほどでも自分のことを肯定的に捉えられたのは、私にとって大きな一歩だ。その一歩が踏み出せるように手を引いてくれた二人には、感謝してもしきれない。心からそう思っている。
だからといって、「今からありのままの自分でいきます」と言えるほど切り替えられたわけではない。そんなことができるのならここまで拗らせてはいないだろうし、お母さんの助言だってもっと素直に聞き入れていたはずだ。
せっかく二人が時間を割いて私のことを考えてくれたのに。そう思うと、やるせない申し訳なさに押し潰されそうになる。
「でもまあ、いきなり容姿を気にするなって言われても難しいよね。私だって命の危機に晒されて、やっと吹っ切れたんだもん」
そう言った紗良の口調はとても明るいものだった。
きっと傍目にも分かるほど、私は難しい顔をしていたのだろう。
「変えたいところがあって努力するのはいいことだよ。向上心がある証拠だと私は思う。ただ、望んだ通りに変われなくても自分を強く責めないでほしいな。縁葉ってあんまり悩んでるのが表に出ないじゃない? でも、いろいろ聞いちゃった以上、『今も苦しんでるのかな?』って心配になるし、お節介焼きたくなっちゃうから」
「だなー。特に容姿の悩みって外からじゃなにも手伝えないっしょ? 縁葉が悩んでるのは分かってんのに、手を拱いているしかできないとか不甲斐なさすぎて泣く」
二人の言葉に私はハッとした。
今からありのままの自分で——とは言えなくても、これからの私は「友達」に包み隠さず相談できるんだ。そのことに気づいた瞬間、目の前を覆っていた濃い霧が少しだけ晴れたように感じた。
「こ、これからはできる限り、二人に相談する! 小さいことも、深刻なことも、全部言うつもりだから! だから、覚悟してて!」
なんだか悪役の捨て台詞みたいになってしまったけれど、「そうそう、その調子!」「よっしゃ、受けて立つ」と返してくれた二人はとても嬉しそうだ。
「じゃあまずは、高石先輩だね」
「え?」
「このままじゃダメだって思ったから、私たちに相談してくれたんでしょ?」
私はゆっくり首肯した。
「なんて、結局なにも役に立つこと言えてないんだけど」
「そんなことないよ! 相談してよかったって、本当に思ってたところだから……」
正面からドリンクをストローで飲み終えるとき特有のズゴゴッという音が響いた。一果のレモンティーだ。
「私——」
二人がいてくれて本当によかった。それは高石先輩にどう向き合うか、その具体的な答えをもらうよりもずっと有益な気づきだと私は思う。
例えるなら、車のガソリンが満タンになったようなものだろうか。燃料は十分にある。あとはいつエンジンをかけて、どこを目指してどうハンドルを切るか。それを考えるのは私自身だ。
「——高石先輩にちゃんと謝る!」
「よし、一発かましてこい!」
「うん、うん。縁葉なら大丈夫だよ」
ぎゅっと握った拳に紗良が自分のものをコツンと当ててくれた。
スポーツ選手がチームの士気を高めるときにやる仕草と似ていて、単純ながら気持ちが昂っていくのが自分でも分かる。今すぐにでもあの公園に行って、先輩に謝りたい。許してもらえるとは思えないけれど、精一杯気持ちを伝えよう。
そう意気込んでいたのも束の間——
「でも、まずは期末テストだな」
「「あ」」
一果の放った一言で、私たちは一瞬にして現実に引き戻された。
「ほんとそれ! ジュース奢ったの、先週の話だよ? そんなに一気に進展することある?」
翌週の月曜日。
一果と紗良、そして私は高校の最寄駅近くにあるファストフード店にいた。
紗良の部活の休みが曜日で固定されているので、一果のバイトのシフトが合わせられるときは、放課後にこうして三人で出かけることが多い。と言ってもお小遣いには限度があるので行き先は限られてくるし、月末ともなれば公園と自販機が頼みの綱となる。
今日は朝から冷たい雨が続いていて、放課後のこの時間もとても外にいられる状況ではない。話題的に人けのない場所に行きたかったけれど、三人とも方向がバラバラなので家は却下。そうして残った選択肢が飲食店に入ることだった。月の中頃ということもあり、まだ全員に比較的潤沢な資金が残っていたのが救いとなった。
「進展じゃないよぉ……後退してるんだよぉ……」
めそめそと並べた泣き言は椅子を引きずる音やそこかしこで飛び交う会話にたちまち呑まれてしまう。ファストフード店特有の喧騒はすべての客に平等に降り注ぐもので、傷心中の高校生を気遣うなんてことはしてくれない。
「なに言ってんの!」と楽しそうに身を乗り出したのは、正面に座る一果だ。
「縁葉が男子に意見してる時点で進展っしょ! まあ相手が高石先輩ってのは、どれだけ怖いもの知らずだよって感じだけど」
「ちょっと、一果。縁葉にトドメ刺さないで」
「分かってるよぉ……私が悪いんだよぉ……」
「ほらー! ジメジメ度が増しちゃったじゃん!」
「あっはは! めっちゃジメジメしてる」
「こら、笑わないの!」
私と並んでソファに座る紗良が「大丈夫だよ」と背中を撫でてくれる。
あまり重苦しい空気にはしたくないけれど、かといって真剣に聴いてもらえないのも悲しいので、二人のバランスがちょうどいい。
なんてわがままを言えるのは友達に恵まれている証拠なのだろう。
「それにしても、想像以上に辛いものだったなぁ」
「……?」
隣を見遣ると、悲しげな面持ちの紗良がこう続けた。
「縁葉の男子が苦手になったきっかけのこと」
「それ。悪気がないほうが“効く”ってやつ? 小学生のときの子、縁葉を傷つけたことすら気づいてないよ。絶対」
先輩とのいきさつを説明するにあたって、この際だからとようやく過去の出来事をすべて二人に伝えることができた。五年生のときのことも、ラブレターの正しい結末も、包み隠さずすべてだ。
紗良は当然として、先ほどは大笑いしていた一果も真剣に耳を傾けてくれた。
莉央ちゃんとの関係については、情報通の一果の口から名前が出たときに伝えていたけれど、『今はあまり交流がない』という私の言葉を二人とも覚えていたらしく、話題にはしないよう気を遣ってくれていたらしい。
だから、高石先輩のクラスについて話したときも、『莉央ちゃんに訊けば?』とは誰も言わなかったのだと今さらながら気がついた。
「ずっと黙ってて、ごめんね。あと、中学のときのことも『振られた』って嘘ついちゃって……」
「別にいいっしょ。見栄張って事実と全然ちがうこと言ってたわけじゃないんだし。てか、これまでの人生ぜんぶ共有とか、普通に無理くない?」
「それは、そうだけど……」
「一果の言う通りだよ。詳しく伝えても混乱させるだけだと思ったら、大事な部分だけ端折って話すことは私だってあるもん。そもそも過去の出来事を細部まで覚えてないのもあるけど」
「紗良は覚えてなさすぎっしょ。先週あたしがお金借りたのだって、さっき返すときまで忘れてたじゃん」
「一果の記憶力がチートなんだって。私の脳みそは、あんまりキャパないの。一つ新しい情報が入ってきたら、その分古いのを捨てないと。すぐ容量オーバーになっちゃうよ」
「元部長の脳みその容量、そんな小さくて大丈夫なわけ?」
店内の喧騒に二人の笑い声が溶けていく。
そんな二人を眺めながら、頭の中ではあの日の言葉が無限にこだましていた。
——“出井縁葉”は、それでいいわけ?
先輩にそう言われて、分からなくなった。
悔しさや拒絶感をはじめとして、臨界点に達した感情はそう簡単には鎮まってくれない。あんな時間にお味噌汁をお腹に入れたこともあって、あの日は朝方まで寝付けなかった。
だけど、長く起きていた分だけ燃え続けた感情は瞼が重くなるころには落ち着きを見せ始めて、目が覚めたときには冷静さに変わっていた。時間にしてほんの三時間ほどの睡眠だったというのに、過去に類を見ないほど頭がスッキリしていたのを覚えている。
それからは、たくさん考えた。
途中、反省と後悔に何度も悶えながら先輩の言葉を一つずつ見つめ直して、そのたびに自分の心と向き合った。
私は自分の存在を認めてほしかった。でも、認めてもらえなかった。
だから、認められている人をお手本にして変わりたいと思った。そのお手本となったのが、もっとも身近な存在である莉央ちゃんだった。
この結論に疑問を抱いたことは一度もない。
芸能人に憧れて髪型や服装、メイクを真似る人はたくさんいる。彼らをモチベーションにして体型管理に精を出す人だって、世の中には溢れているというのに。
芸能人か一般人かのちがいはあれど、私が莉央ちゃんに憧れるのはおかしいことなのだろうか。
「てか、いっこ言いたいことあんだけど!」
出し抜けに声を張った一果に、私はびくりと身を震わせた。
ハンバーガーにかぶり付いた口をもぐもぐと動かしながら、紗良が「どうひた、どうひた」と続きを促す。
「笹本先輩にならないと男子の前に立てないなら、笹本先輩以外の女子全員アウトじゃん?」
「えっ?!」
「だって、そういうことっしょ? 縁葉の言う女子の『正しい在り方』が笹本先輩なら、あたしらもダメじゃん」
「ち、ちがうよ!! 私が莉央ちゃんにならないといけないって話で、他の女の子に対して同じように思ったことはないよ?!」
「ほんとかぁー?」
「ほんと! 絶対にほんと!!」
じとーっとした眼差しを向けられて、私は思わずたじろいた。
「わ、私にとっては莉央ちゃんが“正しい”けど、でも、それがみんなにも当てはまるとか、そういうことじゃないから。だから——」
知らなかった。
「私の劣等感で二人を傷つけてたら、ごめん……」
俯くように頭を下げたから、ちゃんと二人に届いたのかは分からない。
発した声は、この賑やかな店内ではあまりにも弱すぎた。
高石先輩に当たり散らしてしまったのが、ほんの数日前。そして、今度は大切な友達にまで不快な思いをさせてしまった。この数日間の反省と後悔は一体なんだったのか、過去の自分を牢屋にでも閉じ込めてそう問い質したい。
やっと、嘘偽りなく「友達」だと思える存在に出会えたのに。
この劣等感を誰にも相談しなかったせいで、自分の悩みが傍目にどう映るのかを知らなかったせいで、かけがえのない関係を自らの手で壊してしまうのかもしれない。
小学生のときに女の子の手のひら返しを目の当たりにしたせいか、友達作りに慎重になりすぎる癖があるのは自覚している。二回の失恋の衝撃が大きすぎただけで、下手をすれば性別関係なく人間不信に陥っていたとすら思うほどだ。
残念ながら、その癖は中学に上がっても抜けなかった。一緒にいる子はいたし、その時々を楽しめてはいたけれど、心の防壁を打ち破るほどの出会いではなかったのだと思う。相手もきっとそんな私の距離感に気づいていたのだろう。卒業アルバムの空白のページには『高校もがんばってね』なんて当たり障りのないメッセージが並んでいて、友情ってこんなものなのかなと肩を落とした記憶がある。
だけど、こんなことになるのなら無理にでも誰かに相談しておけばよかった。
でも、莉央ちゃんになんて話せるはずがない。
お父さんは真摯に聴いてくれるけれど、得意分野は勉強や進路についてだから、思春期の娘特有の悩みにはきっと頭を悩ませてしまう。
お母さんには一度話したことがあるけれど、『どう足掻いても他人にはなれないんだから』『自分をきらう時間を好きになる努力をする時間に充てたらいいの』と崖の頂上にしか存在しない答えが返ってきた。
“誰かに”なんて思ったけれど、誰を頼ればよかったのだろう。そう思うと同時に、私は恵まれていたのだと考えを改めた。十六年間、人の気配は絶えず近くにあったのだ。そんな環境で誰にも言えないなんて、あまりにも贅沢な悩みすぎて自分に嫌気が差す。
「えっ!? 待って待って!!」
閉ざされた思考の中に、一筋の光が差し込んだ。
これは紗良の声だ。
「私は全然傷ついてないよ?! てゆーか、一果もそうでしょ?!」
「おん」
「え……?」
こわごわと顔を上げる。
氷を鳴らしながらコーラを吸い上げた紗良が、「そうじゃなくて」と口火を切った。
「縁葉は私たちが笹本先輩を目指す必要はないって、思ってくれてるんだよね?」
「もちろん……!」
「じゃあ、どうして私たちにはそう思ってるのって話。だよね、一果?」
「おん」
「そ、れは……えーっと……」
二人の視線が強すぎて、目が回りそうだ。
「二人は莉央ちゃんを目指さなくても、十分魅力的だから……かな?」
「なんだよそれ、照れるじゃないか」
一果が恥ずかしそうに頬を掻いた。
対して、眉間にはっきりと皺を寄せた紗良が続ける。
「もしかして自分以外、誰も劣等感抱えてないとでも思ってる?」
「そ、それはないよ! みんな、なにかしら悩んでるとは、思う。……ただ、私の場合は『見た目が悪い』ってずっと言われてきたから。客観的に見てそう思うってことは、相当ひどいのかなって……」
「…………」
「…………」
「でも、仕方ないよ! 私もそう思うもん。鏡とかガラスに映ちゃった自分を見ても、『ひどいな』って確かに思うから。納得してるからこそ、莉央ちゃん目指そうって決めたんだし」
気を遣わせたくなくて明るく振る舞ってみたけれど、これといって効果はなさそうだ。
二人は——特に紗良は——険しい表情を浮かべている。少しの間を置いて、「はぁ」と深いため息をこぼしたのも紗良だ。
「私もさ、中学のときはもっと自分に自信がなかったの」
「え?」
「ほら、ずっとテニスやってるじゃん? 年中日焼けしてるし、体質的にもあんまり色が戻るタイプじゃないの。それが嫌だったんだよね」
「そうなんだ……」
紗良からこの手の話を聞くのは初めてで、内心戸惑いを隠せない。
確かに常に自信たっぷりかと言われるとそうではないけれど、何事も仕方ないと割り切ってしまえる潔さがあることを私は知っている。そして、そこには彼女が自分に対して抱く否定的感情も含まれるものだと思っていた。
「もちろん体型も気にしてたよ。ラケット握ってたらどうしても腕はしっかりしちゃうし、半袖がきらいだった。食事制限もがんばってたしね」
「えっ、そうなの?」
現在の彼女からは想像もできない姿に、つい声量を調整し忘れてしまった。
紗良はいつも好き嫌いなく美味しそうに食べる。お菓子もジャンクフードも気にせず口に運んで、それを後悔する素振りもない。食堂でもカツ丼や唐揚げ定食などを好んで食べているけれど、部活で相当消費するらしく体はいつも引き締まっている。
だから、紗良と食事制限という言葉がどうしても結びつかなかった。
「じゃあ、なんで止めたの? 食事制限」
ポテトを頬張りながら一果が尋ねた。
「中学のとき、部活の練習試合で気を失ったことがあるんだよね」
「「えぇ?!」」
「あ、そんな大したものじゃないよ? 試合中にペアの子とぶつかっちゃって。軽い脳しんとうだったから、すぐに目が覚めたんだけど。でも、薄れる意識の中で思ったの。『ケーキ食べておけばよかったな』って」
「……ん?」
「ケーキ……?」
先に首を傾げた一果に私も続く。
「そう、ケーキ。前日がちょうど弟の誕生日で、夕食のあとにケーキが出たんだけど、太るのが嫌で食べなかったの。もう、それがすっっっごい心残りでね。結果的には大事に至らずに済んだけど、意識を失う時点ではそんなの分からないじゃん? もう死ぬかもって思うでしょ?」
「それは、そうだね」
一果もうんうんと頷いた。
「じゃあ、ケーキ食べておけばよかったってなるじゃん?! 死に際に思い出して後悔するなら、ケーキ一個ぐらい食べてその分動いたほうが絶対いいでしょ?!」
「いや、まあ、うん……?」
紗良の勢いに気圧される私とは対照的に、
「死に際って、そもそも死んでないんだよ」
と一果が冷静に指摘する。
次の瞬間、私と一果は吹き出した。
「あっははは! もう、なんだよ紗良! どれだけ食い意地張ってんの?!」
「いやいや、食べたいでしょ! だって、ケーキだよ?! 美味しいじゃん!」
「お、美味しいけど……、でも、最期に思い出すのがケーキって……、ケーキって……!」
「だから、“最期”じゃないんだわ。余計に笑かさないで、縁葉」
ツボにはまったのか、お腹がピクピクと痙攣するのに笑いが止まらない。
それは一果も同じようで、目に涙を浮かべている。
「えー、そんなに笑うかな?」
「ごめん、ごめん。でも、まさかケーキが出てくるなんて、思わなくて……」
笑いの余韻が消えなくて、話しながら声が震えてしまう。
「ほんとそれ。もっと思い出すことあるっしょ。マジでそれが食事制限止めた理由なわけ?」
「うん、そう。私にとって美容もダイエットも我慢でしかなかったから。ただでさえ勉強なんて楽しくないことやってるのに、我慢ばかりで後悔しながら死ぬのは嫌だなって思ったの。それからは一応意識はするけど、食べたいものは食べるようになった。そうしたら性格も明るくなって、彼氏もできたんだ」
「えー、そんな変わるもん?」
「変わった、変わった。周りにもすごい言われたもん。『前向きになったね』って。我慢が減って楽しいことが増えると、それに比例して性格も変わるんだなって実感した」
意外なところで発揮された潔さが、紗良らしい。
さすがに話を聞いただけでは前向きではない姿までは想像できないけれど、それでいて紗良にもっと近づけたような不思議な感覚だ。
「縁葉は? 楽しい?」
「え?」
「笹本先輩目指すの、楽しい?」
「た、の…………」
予想外の質問に言葉が詰まる。
莉央ちゃんになることは、私にとってやらなくてはいけないことだ。だから、それと楽しさが混ざり合うなんて考えたこともない。
「すっごい追い込むじゃん、自分のこと。アスリートでも目指してんの?」
気持ちをそのまま伝えたら、一果に一刀両断されてしまった。
「確かに縁葉って自分に厳しいよね。宿題もテスト勉強も全教科手を抜かないの、いつも偉いなって思ってたの」
「でも、それは二人だって……」
「私は結構イヤイヤやってるところがあるし、分からないところは諦めがちだよ。見せてないだけで、空欄も多い。そう考えると、一果も意外とちゃんとやるよね。偏りすごいけど」
「意外ってなんだ。学生なんだから、ちゃんとやるわ。ま、数学と社会だけだけど」
特に国語が苦手な一果は、一学期の期末考査で赤点を獲得済みだ。
二回赤点を取ると補習対象になるので後がないにもかかわらず、『背水の陣だから』と自信満々に言う彼女に『ちょっとちがう』と指摘するところまでがお決まりである。
数学と社会はいつも満点に近い成績なだけに、担任の先生からも『やる気を分散しろ』と言われたらしい。
「私は勉強はキライだけど、テニスは楽しいからきつい練習もがんばれる。一果は数学と社会を学ぶのが楽しいから、進んで勉強ができる。縁葉はどうなのかなって思って」
「どう……なんだろう……」
上手く返事を拵えることができない。
勉強はやるもの。
莉央ちゃんにはなるもの。
「楽しい」という言葉は二人と過ごす時間や娯楽に対して使うものだと思っていたから、自分の行動原理に含めるなんて概念はあまりにも寝耳に水だ。
「ちなみにさ、あたしだってあるからね。悩みぐらい」
これまで比較的静かに聞いていた一果が口を開いた。
「ないと思ってたっしょ、悩み」
「さすがにそこまでは……。ただ、引きずらないタイプかなとは思ってたし、あんまり劣等感もないのかなって印象は……ある」
「そうなんだよ。寝たら忘れるし、劣等感もない」
「あ、ないんだ」
ハンバーガーの最後の一口を飲み込んだ紗良が、隣でブフッと吹き出した。
「あたしって一重じゃん? でも、パパもママもお姉ちゃんも、みーんなかわいいって言って育ててくれたの。だからあたし、ずっと自分のことかわいいと思って生きてきたし、みんなもそうだと思ってたんだよ」
「みんなも?」
「そう。みんな家族から褒められて生きてきて、みんな自分のこと肯定的に思ってると思ってた」
「なにそれ。すごいいい考え方」
紗良の言葉に私も頷いた。
「でしょ? でも、中学に上がると、一重の子が口を揃えて『二重になりたい』って言い始めたんだよ。そこで初めて、一重に対して否定的な感情を持つ人がいるって知ったんだけど……」
一果が言葉を詰まらせた。
初めて見る一果の姿だ。
「仲良かった子にさ、突然『私の気持ちなにも分かってない』って言われて」
「え、なんで?」
「んー……。あたし、自撮り好きだったんだ。隠れてスマホ持って行ってたから怒られたこともあるけど、学校めっちゃ好きだったから、楽しい瞬間を思い出に残しておきたかった。だから、先生の目を盗んで事あるごとにカメラ構えてた。でも、その子は写真に写りたくなかったらしいんだよ。そんなこと一度も言わなかったけどさ。同じ一重のあたしなら惨めな気持ちを分かってくれると思ってたんだって」
「そんな……」
一果は自撮りをするときに、必ず「撮っていい?」と訊いてくれる。
それは私が写真や動画に映るのが苦手だと伝える前からそうだったし、伝えてからはより一層気を遣ってくれるようになった。それでもうんざりするほど頻度が多いわけではないし、思い出を残したい気持ちも分かるから、撮ってもらえることに否定的な感情を抱いたことはない。ただ、私が見返すことができないだけで、思い出がスマホの中に残っていることは純粋に嬉しかった。
紗良も率先して写真を撮るタイプではないから、いわば思い出づくりの旗振り役とも言える一果には感謝しているほどだ。
「そっからは自撮り止めた。まあ、撮りたいとも思わなくなったからなんだけど。その子とも卒業してから連絡取ってないし」
「そっか……」
一果の表情が少しだけ曇った気がした。
「結局、一重がダメな理由も分からないんだよ。それぞれに似合うメイクがあるんだから、それを楽しめばいいっしょって思う。友達が二重だからって自分もそうならないといけないとか、誰が決めた? 都合のいいときは個性とか言うくせに、そういうときは使わないのかよって叫びたくなる」
語気を強めた一果が、「だから——」と私をちらっと見た。
「?」
「——だから、二人の会話盗み聞きしたときは、めっちゃ嬉しかったんだよね」
「盗み聞き?」
「そ。仲良くなりたてのときかな。放課後寄り道して、あたしがトイレから戻るときに、自撮り苦手だって話してたことあるっしょ」
そう言えば、そんなことがあった。
あれは確か流行りのドリンクを三人で飲んだ日に、私がこう切り出したのだ。
『私、写真あんまり得意じゃないんだ……』
『えっ、そうなんだ』
『うん。自分の顔を客観的に見たくなくて……』
『あー、分かるかも。でもさ、一果は好きだよね。自撮り』
『ね。あれ本当に不思議なんだけど、なんか写ってもいいかなって思っちゃうの。いつも撮る前に許可取ってくれるし、本当に楽しい思い出を残したいんだなって伝わるからかな?』
『分かる。タイミングとか頻度とか、考えてくれてる気がするよね。私もすんなり受け入れちゃうなぁ』
すっかり忘れていた。
写真が苦手であることを隠して写ることに罪悪感を覚えて、つい紗良に白状してしまったのだ。決して一果を悪く言いたいわけではなかったとはいえ、あれを聞かれていたなんて。
「ご、ごめん……」
「えっ、なんで謝る? あれが嬉しかったって言ってんの。だってさ、はっきり言っちゃうけど縁葉だって奥二重じゃん?」
「う……ん、そうだね」
私のきらいなところの一つだ。
中学時代の一果のクラスメイトと同じ、幼馴染の二重に憧れた私の劣等感の構成要素。かろうじて奥二重の、ほぼ一重。
「あ、勘違いナシね? それがダメって言ってんじゃないから。むしろ感謝してんの。苦手なことを提案してたあたしを悪く言わずに、『それでもいい』って受け入れてくれるとか最高じゃない?」
「そう、なの?」
「そ、う、な、の! 正直言うと、ちょっと疑ってたもん。あたしの隣で安心してんのかなって。でもあの盗み聞きで、あたしと一緒にいる理由は傷の舐め合いじゃないってはっきり分かったから、余計に二人のこと好きになった」
紗良は「だからあのあと、突然コンビニのから揚げ奢ってくれたんだ」と納得したような口調だ。
「そういうこと。あたしだって、自分に対して好きになれない部分はあるよ。思ったことはすぐ言っちゃうから、クラスメイトと衝突したことは何回もあるし、そのたびに『なんでこんなにぶつかるんだろう』って悩んだし。でも、いいかなって思った。そうやって悩んだお陰で、二人に配慮できるあたしに成長したから」
「ほんと、ポジティブ変換が上手いよね。一果って」
そう言って、紗良はおかしそうに笑った。私もコクコクと何度も頷く。
本当にすごいと思う。
後悔しないために吹っ切れた紗良も、自省と卑屈を履き違えないでいられる一果も、二人とも「自分」のままで生きていくことに上手く折り合いをつけている。途中で躓いて転んだとしてもそこで終わりじゃなくて、どうにか足掻いてもがいて最終的には納得のいく形に作り変えている。
私は、“出井縁葉”は、このまま莉央ちゃんを目指してどうなりたいのだろう。
達成した暁には望んだ未来を手にするのだとずっと信じて疑わなかったのに、高石先輩と話して、二人の過去を聞いて、なにもかもが揺らいでしまった。二人のように「自分」のまま生きていく選択ができていれば、こんなに悩まずに済んだのかもしれない。高石先輩に八つ当たりすることもなくて、お礼をしてもらって円満に解散できたのかもしれない。
そう思うのに、莉央ちゃんを目指さない道へ踏み出すのがどうしても怖い。たった一歩が、とてつもなく重い。
「だからさ、高石先輩の言いたいことも分かるってゆーか」
一果の声で自分が俯いていたことに気がついた私は、跳ねるように顔を上げた。
「あたしは縁葉のことが好きだし、卒業しても友達やってたいって思ってる。それは縁葉の外見や性格が笹本先輩じゃなくても一緒。だって、縁葉ともっと仲良くなりたいって思ったのは、盗み聞きしたときの縁葉の言葉があったからっしょ? “縁葉(笹本先輩ver.)”だったら、そんな話題にもならなかったじゃん」
「そうだね。むしろ、笹本先輩になられたら困るかも。それはもう笹本先輩と友達になってるから、私たちの好きな縁葉はいなくなっちゃってる」
「…………」
言葉が喉でつかえて声にならない。
熱すぎず、冷たすぎず、まさに適温以外に表しようのない心地よいぬくもりで、ゆっくりと心が満たされていく。
人生を豊かにしてくれる友達、そんなものが本当に実在するなんて。映画やドラマで見るたびに憧れていた、まるで自分のことのようにお互いを想い合える関係。それは物語の中でしか成立しない、空想の繋がりなのだと思っていた。
家族や幼馴染とも少しちがう。それぞれが人生の途中で交わった関係だから、過去についてはお互いの言葉でしか知ることができないのに、当時のその人と同程度かもしくはそれ以上に心を痛めて、苦しんで、分かち合える不思議な繋がり。
ずっと欲しかった、本当の友情。これがそうなのかもしれないと強く実感した今、少しだけ『私で良かった』と心のどこかが笑った気がした。
「高石先輩もそんな感じのこと言いたかったんじゃない? わざわざ呼び止めてまで、生徒手帳のお礼してくれるような人だもん」
紗良がにこりと微笑んだ。
「だね。むしろ話聞いたとき、ほんとに高石先輩かって耳を疑ったわ。縁葉の妄想でも聞かされてるのかと思った」
「えぇ、そんな……」
あまりの言われように、ようやく喉が動いた。
二人はあははっと声を上げて笑っている。私の一番好きな二人の姿だ。
きっと二人なりに場を和まそうとしてくれているのだろう。私が押し黙ったせいで気を遣わせてしまった。とはいえ、こんな公共の場で瞳を濡らすほうが、かえって二人に迷惑をかけてしまうのは間違いない。そうならないためにも口をぎゅっと噤むしか手はなかった。
「笹本先輩に憧れるのが悪いことだとは言わない。でも、話してくれてるときも、縁葉ずっと苦しそうだったからさ。あたしらと中身のない会話してるときのほうが、よっぽど肩の力抜けてていいと思う」
一通り笑ってスッキリしたのか、真面目な面持ちの一果が話を戻した。
言いたいことは分かる。たとえ雀の涙ほどでも自分のことを肯定的に捉えられたのは、私にとって大きな一歩だ。その一歩が踏み出せるように手を引いてくれた二人には、感謝してもしきれない。心からそう思っている。
だからといって、「今からありのままの自分でいきます」と言えるほど切り替えられたわけではない。そんなことができるのならここまで拗らせてはいないだろうし、お母さんの助言だってもっと素直に聞き入れていたはずだ。
せっかく二人が時間を割いて私のことを考えてくれたのに。そう思うと、やるせない申し訳なさに押し潰されそうになる。
「でもまあ、いきなり容姿を気にするなって言われても難しいよね。私だって命の危機に晒されて、やっと吹っ切れたんだもん」
そう言った紗良の口調はとても明るいものだった。
きっと傍目にも分かるほど、私は難しい顔をしていたのだろう。
「変えたいところがあって努力するのはいいことだよ。向上心がある証拠だと私は思う。ただ、望んだ通りに変われなくても自分を強く責めないでほしいな。縁葉ってあんまり悩んでるのが表に出ないじゃない? でも、いろいろ聞いちゃった以上、『今も苦しんでるのかな?』って心配になるし、お節介焼きたくなっちゃうから」
「だなー。特に容姿の悩みって外からじゃなにも手伝えないっしょ? 縁葉が悩んでるのは分かってんのに、手を拱いているしかできないとか不甲斐なさすぎて泣く」
二人の言葉に私はハッとした。
今からありのままの自分で——とは言えなくても、これからの私は「友達」に包み隠さず相談できるんだ。そのことに気づいた瞬間、目の前を覆っていた濃い霧が少しだけ晴れたように感じた。
「こ、これからはできる限り、二人に相談する! 小さいことも、深刻なことも、全部言うつもりだから! だから、覚悟してて!」
なんだか悪役の捨て台詞みたいになってしまったけれど、「そうそう、その調子!」「よっしゃ、受けて立つ」と返してくれた二人はとても嬉しそうだ。
「じゃあまずは、高石先輩だね」
「え?」
「このままじゃダメだって思ったから、私たちに相談してくれたんでしょ?」
私はゆっくり首肯した。
「なんて、結局なにも役に立つこと言えてないんだけど」
「そんなことないよ! 相談してよかったって、本当に思ってたところだから……」
正面からドリンクをストローで飲み終えるとき特有のズゴゴッという音が響いた。一果のレモンティーだ。
「私——」
二人がいてくれて本当によかった。それは高石先輩にどう向き合うか、その具体的な答えをもらうよりもずっと有益な気づきだと私は思う。
例えるなら、車のガソリンが満タンになったようなものだろうか。燃料は十分にある。あとはいつエンジンをかけて、どこを目指してどうハンドルを切るか。それを考えるのは私自身だ。
「——高石先輩にちゃんと謝る!」
「よし、一発かましてこい!」
「うん、うん。縁葉なら大丈夫だよ」
ぎゅっと握った拳に紗良が自分のものをコツンと当ててくれた。
スポーツ選手がチームの士気を高めるときにやる仕草と似ていて、単純ながら気持ちが昂っていくのが自分でも分かる。今すぐにでもあの公園に行って、先輩に謝りたい。許してもらえるとは思えないけれど、精一杯気持ちを伝えよう。
そう意気込んでいたのも束の間——
「でも、まずは期末テストだな」
「「あ」」
一果の放った一言で、私たちは一瞬にして現実に引き戻された。
