——ずっと好きでした。もしよければ、私と付き合ってください。

 最後の一文まで読み終えた私は、ようやく自分の手がひどく湿っていることに気がついた。

「あっ……」

 そっと触れるように持っているだけの便箋が、私の動揺を吸収して少しふやけてしまっている。
 だけど、ドッドッと拍動が荒ぶっているのは、便箋を湿らせてしまったからではない。
 自分の元を離れてずいぶんと経つはずの言葉と、もう一度対峙することになるなんて思ってもみなかったからだ。

 高校一年生の十一月初旬。
 長らく居座り続けた熱気が薄れ、涼やかでもの寂しい空気が大地を落ち着かせていくなか、生徒たちも立て続けにあった大きな行事の余韻からようやく抜け出し、月末にある期末考査に向けて小さな焦りを覚え始めたばかりだ。
 そうは言っても考査期間中の独特の緊張感はまだなくて、運動部の声出しや吹奏楽部の音色が先に待つ試験の不安を振り払うように校舎の外で飛び交っている。
 だから今、階段の踊り場で立ち尽くす私に先を急かす人はいない。

「最近は思い出さない日も増えてきたのに……」

 なんて、震える声でこぼした不満を聞いている人もいない。
 そんな生徒の()けた放課後の校舎は決して森閑(しんかん)とは言えないのに、そこには確かな静寂が存在していて、ありがたいことに過去の苦みに浸る雰囲気が整ってしまっている。

 忘れもしない、中学二年生の三学期のこと。
 春休みに入る一週間前に、私は同じクラスの男の子にラブレターを渡した。
 異性が苦手な自分を変えたくて、だけど直接伝えられるほど十分な勇気は持てなかったから、初めての告白に手紙という手段を選んで公園に相手を呼び出したのだ。

『えっと、これ……よかったら読んで、もらえませんか』
『えっ……おれに?』
『返事は、後日でいいので……』

 確かそんなやり取りをして、私はその場を立ち去った気がする。
 目の前で手紙を読まれることも、その場で返事をもらうことも、相手の反応を目の当たりにすることのすべてが私にとっては怖くて仕方のないことだったから。
 せめて一晩くらい、心の準備をする時間が欲しい。
 よくない答えばかりが脳裏をかすめるから、彼の口からそれを聞く間だけでも毅然といられる自分を完成させておきたい。
 そんな決死の覚悟で臨んだ告白だったけれど、なにかしらの反応がもらえると思っていたこと自体間違っていたんだ。

 翌朝、昇降口でばったり会った彼の様子は昨日までと全く同じだった。
 私の名前を呼んで『おはよう』と挨拶をしてくれるのも、教室までのわずかな時間でたわい無い話をするのも普段通り。ただ、私がラブレターを渡したという事実だけが、ごっそり抜け落ちていた。
 柔らかい物腰と落ち着いた雰囲気から一見大人しそうに見えるけれど、実は人と接するのが好きで、いつも友達と楽しそうに笑っている人。男子を避けてばかりいた私が唯一打ち解けることのできた彼は、今日も変わらない温かさでそこにいる。
 傍から見れば、いつも通りの私たち。だけど、立ち入ることを許されない一線を目の前にはっきりと引かれたような、明確な心の距離を感じずにはいられなかった。
 手紙になにか失礼なことを書いてしまったのだろうか。
 それとも直接口で伝えてほしいタイプだったとか。
 せめて理由だけでも知りたくて何度も話題にしようとしたけれど、その気配を察知しては上手く躱される徹底ぶりで、結局終業式を迎えても返事をもらうことはできなかった。
 分かったことといえば、私の気持ちは受け入れられなかったということだけ。
 春休み直前に告白を実行したのは断られることを想定してのことだったから、始業式までに一通り落ち込みきることができたのは不幸中の幸いだった。神様が哀れに思ってくれたのか、三年生になってクラスが離れたのもありがたかった。
 こうして私の恋は実りを迎えることなく終わったはず、だったのに——
 その手紙が今、私の手元にある。
 渡してから、どう扱われたのかは分からない。だけど、

「捨てられたんだ……」

 そう思ってしまったのは、紙面全体に薄っすらと(しわ)が入っているからだ。こんなことを知らせるために、この手紙はわざわざ私の元へ舞い戻ったのだろうか。

「潔く、直接言えってことだったのかな……」

 メッセージアプリだと友達の前で何気なく開いてしまう可能性もあるし、通知が偶然家族の目に入ってしまう恐れだってある。だから、形として残ってしまうという欠点を差し置いてでも手紙を選んだのに。
 便箋から顔を上げて、意味もなく天井を仰いだ。
 瞳が潤むほどではないにしろ、全く込み上げるものがないと言えば嘘になる。
 
「鍵、お願いすればよかった……」

 今日の私は日直だった。
 いくつかある仕事をもう一人の当番と分担したときに、部活をしていないからと教室の施錠を申し出たのは私だ。
 四階にある一年二組の教室のすべての窓の鍵を確認して後ろ側の扉の鍵を中から閉めると、最後に黒板に近い前側の扉を出て外から施錠する。終わりのホームルームが長引いたことで、廊下にはもうほとんど人影はなかった。
 鍵と、ついでだからと申し出た日誌を持って、職員室のある一階まで階段で向かう。
 そして、三階から二階に続く階段の踊り場にさしかかったとき、ある物が目に入って私は足を止めたのだ。
 それは三階と踊り場をつなぐ階段の一番下の段と壁が作る角にひっそりと落ちていて、私の進行方向だと階段の陰に隠れてしまうからほとんど見えない。
 だから、その存在に気がついたのは本当にただの偶然だった。
 落ちていたのは生徒手帳。
 どうやら持ち主は二年生らしい。
 うちの高校の生徒手帳は在学証明書も兼ねていて入学時に支給されたものを卒業まで使うから、手帳自体に学年や所属クラスの記載はない。それでも学年が特定できたのは手帳カバーが紺色だからだ。
 一年生である私のカバーは臙脂色で三年生は深緑色。私はどちらかというと寒色系が好みだから紺色か深緑色がよかったけれど、そんなこと私の力ではどうにもならない。
 こうして落とし物に気づいてしまった以上、見て見ぬふりをするわけにもいかないとはいえ、『どうせ職員室に行くんだし先生に渡せばいっか』なんて思ってしまった自分が、今となっては本当に恨めしい。
 だって、拾い上げた拍子に生徒手帳の隙間から落ちた一枚の便箋によって、私は今、こうして地獄に突き落とされているのだから。

「それにしても、なんでこの手紙をこの学校の生徒が……」
 
 彼の進学先はここではない。それは自信を持って言える。
 受験当日の朝、この学校を受ける生徒の点呼場所に彼はいなかったし、入学後、他校に通っていることも偶然知ったから。
 むしろ、気になるのはこの生徒手帳の持ち主のほうだ。
 ラブレターに限らず手帳になにか挟むのなら、自分に関係のあるものにするのが一般的なはず。しわくちゃの手紙を忍ばせるメリットがこれっぽっちも思いつかない。

「学年だって、ちがうし……」

 自慢ではないけれど、他学年に顔見知りができるほど交友関係は広くない。むしろ、一般的な高校生に比べるとかなり狭いほうだとすら思う。
 告白の痕跡を極力残したくなくて宛名も自分の名前も書かなかったから、あのときのものではない可能性も一応考えた。だけど、便箋や筆跡が、そしてなによりその文面が、この手紙を(したた)めたのは私だと証明している。
 裏へ表へ生徒手帳を(ひるがえ)してみるけれど、何度やっても新しい情報は見つからない。どれだけ逃げ道を探しても、結局は自分のものだという答えに戻ってきてしまうのが嫌だったのに。

「はぁ……」
 
 左綴じの生徒手帳のカバー。
 校章と学校名が刻まれた表紙の堂々たる面構えに、ほんのりと苛立ちを覚えてしまった。

「生徒手帳だけ返して、手紙は持ち帰っちゃだめかな……」

 猛烈な恥ずかしさが勢いよく襲いかかってくる。
 あのときの私は断られる前提だなんて言いながら、その実しっかり成功を期待していた。
 目が合えば笑ってくれて、すれ違いざまに声をかけてくれる。私の名前の先に他の誰かを期待している素振りもなかった。そんな彼なら私でも受け入れてくれるのではないかと、在りもしない夢を見てしまったのだ。
 改めて振り返ると、盛大な勘違いに踊らされた自分が惨めで仕方がない。
 クラスが離れたというのに、卒業を迎えるその日まで『明日こそは』と思う気持ちを捨てられなかった。そんな未練がましい自分なんて、今すぐ記憶から消し去りたい。
 今ならちゃんと分かっているから。こんな私が男の子から好きになってもらえるなんて、ありえない話だったんだって。男の子の前に立っていい女の子じゃないって、今ならちゃんと弁えているから。だから許してください、神様。
 日誌と一緒に生徒手帳を脇に抱えると、便箋の端に両手の指をかけた。ほんの少し力を入れるだけで、こんなしわくちゃの紙なんて一瞬で破ることができる。このまま粉々にしてトイレに流してしまおう——

「……さすがに、ダメか……」
 
 いくら自分の書いた手紙とはいえ、ずいぶん前に人の手に渡ったもので今は生徒手帳の持ち主のものなのだ。
 万が一、この生徒手帳の持ち主が手紙を大切にしていたら、取り返しがつかないことになってしまう。好きな人からもらったラブレターを失くしてしまって、偶然見つけた私のものをそれだと思い込んでいることだってあり得ない話ではない。
 でも、こうして存在を知ってしまった以上、何事もなかったように過ごすなんて私には無理だ。このままだと変に恥ずかしい部分だけを思い出して、消化もできないまま一生を過ごす羽目になってしまう。
 とりあえず告白相手でもない人がどうしてこの手紙を手に入れたのか、それだけはなにを差し置いてでも訊かなくては。そして、叶うなら手紙を返してもらって、私の気の済むように処分させてもらいたい。

「手帳を返しに行くついでに、お願いできたりしないかな……」

 改めて生徒手帳に目を落とす。
 返しに行くためには持ち主を調べなくてはいけない。持ち主を調べるということは、つまり生徒手帳を開かないといけないということだ。
 手帳に書かれているのは教育理念や校則、校歌と学校の成り立ちにその他諸々。一応、メモができるように白紙のページがあるけれど、そこを使う機会なんてめったにない。
 学校の外で紛失した場合を考慮しているのか個人情報も最低限しか記載がないから、見たところで分かるのは持ち主の名前と性別に生年月日程度だということは分かっている。
 それなのに他人の家を覗くような行為に思えて、妙な後ろめたさを感じてしまう。ザラザラとした手触りのカバーを指で優しく擦るように触れてから、

「……——ごめんなさいっ!」

 と手帳の向こうの持ち主に断りを入れて、表紙をめくった勢いそのままに目当てのページまで駆け抜けた。

高石(たかいし)理世(あやせ)……」

 ただの文字列なのに、二年生だと思うとなぜか大人に見える。なんて、呑気なことを考えている場合ではなかった。

「性別……男…………」