――昭和というこの時代は、古いものと新しいものが複雑に絡み合う、不思議な時代だった。

 帝都・『桜京』の街並みを見渡せば、江戸時代から続く老舗の暖簾と、西洋風の洋館や百貨店が隣り合って建っている。
 人々は着物を着ながら電話を使い、畳の部屋でラジオを聞く。
 女学生たちはセーラー服を着て自転車で通学し、家に帰れば家事手伝いとして家族に尽くすことを求められる。

 戦争の傷跡はまだ街のあちこちに残っているが、復興への希望と活気も満ちていた。
 そんな新旧入り混じった世界で、人々は懸命に生きている。

 ……だからこそ、札鬼や呪詛といった古き悪しき力も、まだ完全には消えることなく潜んでいるのかもしれない。

 私、如月詩織は、そんな時代の狭間で、自分の運命と向き合うことになった。



「ただいま戻りました」

 月読家の玄関で靴を脱ぎながら、私は大きく息を吐いた。
 学校での出来事が頭から離れない。
 紫色の蝶の話、行方不明になった先輩方、そして実際に操られかけた同級生のこと。

 これは間違いなく、呪詛花札に関わる事件だ。
 美津子様は逃亡中だが、まだ影沼の残党が暗躍しているということなのだろうか。

 一人で考えていても答えは出ない。やはり皓様に相談するしかない。

「お帰りなさいませ、詩織様」

 いつものように、使用人頭の方が出迎えてくれる。
 もうすっかり慣れたが、やはり「様」付けで呼ばれるのは照れくさい。

「皓様はいらっしゃいますか?」
「書斎にいらっしゃいます。お急ぎでしたら、お取り次ぎいたしましょうか」
「はい、お願いします。大切な報告があるので」

 使用人の方が頷いて奥へと向かう間、私は廊下で待った。

 月読家に来てもう一ヶ月以上経つが、この屋敷の静謐な美しさには未だに見惚れてしまう。
 磨き上げられた廊下、季節の花が活けられた床の間、全てが完璧に整えられている。

 如月家での生活とは、まるで別世界だ。
 ここでは誰も私を罵ったり、軽んじたりしない。
 皓様は私を大切にしてくれるし、使用人の方々も丁寧に接してくださる。
 毎日の食事も、修行も、全てが私のためを思ってのこと……。

(私なんかが、こんな……いいのかな)

 ハッ、と頭を振る。
 何度も口にしては皓様に叱られた言葉だ。あまり自分を軽んじるな、と……。

「詩織様、皓様がお呼びです」
「あ……ありがとうございます」

 案内されて書斎の前に立つ。軽く戸を叩いて襖を開ける。

「失礼します」
「おかえり、詩織」

 皓様は机に向かって何かの書類に目を通していたが、私の姿を見ると顔を上げて微笑んだ。

 その表情は、一ヶ月前よりもずっと柔らかい。
 最初はもっと冷たく威厳のある方だと思っていたが、今では私にだけ見せる優しい顔があることを知っている。

「学校はどうだった?」
「それが……皓様に報告したいことがあります」

 私は座布団に正座し、今日学校で聞いた話を順序立てて説明した。
 行方不明になった先輩方のこと、紫色の蝶の夢を見ていたという証言、そして実際に同級生が操られかけたところを私が助けたこと。

 皓様は私の話を黙って聞いていたが、「紫色の蝶」という言葉が出た瞬間、表情が鋭くなった。

「影沼の残党による犯行の可能性が高い。『牡丹に蝶』の呪詛花札だろうな」
「でも、『牡丹に蝶』は皓様が押収したはずでは……」
「呪詛花札は一組だけではない。如月撫子が持っていたものとは、また別の札だ」

 皓様は立ち上がり、書棚から古い書物を取り出した。
 頁をめくりながら、該当する箇所を探している。

「呪詛花札とは、普通の花札に何者かが呪詛を注いだもの。呪詛に明るいものならば、ある程度は量産が効くのさ」
「量産……ですか」
「そういった呪詛花札の拡散を防ぐのも、我々花札使いの責務だ」

 「花札使い」。
 私や皓様のような、異能使いの総称。
 呪詛花札はある程度誰でも扱えるのに対し、花札使いの能力は血によって受け継がれた特別なもの。
 花札などの媒介もなしに振るわれる力は、一般的な呪詛を遥かに凌駕する力を持つ――と、皓様は説明してくれた。

「『牡丹に蝶』の札は、人の理性を奪い、術者に魅了させる力を持つ。だが、それだけではない」
「他にも力があるのですか……?」
「撫子が私に使った時のように、目の前の相手を惑わすのが本来の力だ。しかし、応用すれば遠隔地の相手に幻覚を見せ、特定の場所に誘導することも可能になる」

 皓様が見せてくれた書物には、様々な花札の絵柄と、それに対応する呪術の説明が書かれていた。
 『牡丹に蝶』の項目を読むと、確かに「遠隔誘導術」という応用技法の記載がある。

「つまり、犯人は学校の生徒たちを蝶の幻覚で誘い出し、どこかに連れ去っている……ということですか?」
「その通りだ。おそらく、何らかの目的のために人を拐っているのだろう」

 背筋に冷たいものが走った。
 被害者が自ら歩いていく誘拐事件……。学生を誘拐して、何をしたいのだろう……?

「行方不明になった先輩方は、普通の生徒だと思うのですが……一体どうして……?」
「わからんな。何しろ犯人の正体もまるで絞り込めていない。金目当てか、あるいは……体目当てか」

 皓様は書物を閉じ、私を見つめた。その瞳には、心配と決意が宿っている。

「詩織、君に頼みがある」
「はい、何でしょうか」

 私は背筋を伸ばした。
 皓様から頼まれるということは、それだけ信頼していただいているということだ。
 一ヶ月の修行で、少しは成長を認めてもらえたのだろう。

「この事件の調査を、君に任せたい」
「え……私にですか?」

 予想外の言葉に、思わず声が上ずる。

「無論、危険になれば私が駆けつける。だが、学校内での調査は君の方が適しているだろう」
「それは……そうですね」
「君の力も、この一ヶ月でずいぶん安定してきた。実戦での経験も必要だ」

 皓様の言葉に、胸が高鳴る。
 信頼されているという嬉しさと、責任の重さへの不安が入り混じる。

「ただし」

 皓様の声が、少し厳しくなった。

「絶対に一人で深追いはするな。何かあれば、すぐに私に連絡するんだ」
「はい、分かりました」
「約束だ」

 皓様が私の手を取る。その手は冷たいが、確かな温かさも感じる。

「私の花嫁を危険な目には遭わせたくないからな」

 その言葉に、頬が熱くなる。
 一ヶ月前の私には想像もできなかった幸せだった。



 それから、私と皓様は中庭に向かった。

 この一ヶ月、毎日の修行が日課になっている。
 剣道部で培った基礎はあったものの、異能を組み合わせた実戦となると話は別だった。
 皓様には、まだまだ遠く及ばない。

「構えろ」

 皓様の声に、私は木刀を中段に構える。
 剣道部で何度も練習した、馴染みのある構え。

 対する皓様は、いつものように余裕の表情で木刀を軽く握っているだけ。
 にもかかわらず、その構えからは隙というものが全く感じられない。

「今日こそは、一本取ってみせます」
「ほう。自信があるようだな」

 皓様の口元に、僅かな笑みが浮かぶ。
 からかわれているのは分かっているが、それでも私は本気だった。
 この一ヶ月の成果を、皓様に認めてもらいたい……!

「はっ!」

 踏み込んで、面を狙う。
 剣道部で鍛えた足さばきと打ち込み。
 しかし皓様は軽く刀を受け流すだけで、私の一撃を無効化してしまう。

「あっ……」
「技は悪くない。だが、実戦はそれだけでは通用しないものだ」

 皓様の木刀が、私の胴を軽く叩いた。
 痛くないように手加減されているのが分かって、少し悔しい。

「もう一度です!」

 今度は小手を狙う。剣道の基本通りの攻撃。
 しかし皓様はそれを見切って、逆に私の木刀を弾き飛ばしてしまった。

「あっ……!」

 木刀が地面に転がる音が、やけに大きく聞こえた。

「剣道の技術は申し分ない。だが、君の力はそこにあるのではない」

 皓様が木刀を拾って、私に手渡してくれる。
 その手が一瞬私の手に触れて、頬が熱くなった。

「君の本当の武器は、桜花の異能だ。それを忘れるな」
「はい。わかりました……!」

 そう言われて、私は深呼吸をした。胸の奥に眠る、暖かな力の流れを感じ取る。
 髪に結んだリボンが、微かに光を放ち始めた。

「そうだ。その調子で」

 皓様の声に励まされて、私は再び木刀を構える。
 今度は、桜の力を木刀に込めることを意識した。淡い桃色の光が、刀身に宿っていく。

「やぁっ!」

 桜の光を纏った一撃を放つ。
 皓様は今度は真正面から受け止めてくれた。木刀と木刀がぶつかり合う音が響く。

「いいな。以前より安定している」

 私は鍔競り合いの状態のまま、さらに腕に力を入れる。
 一瞬押したかに見えたその刀。しかし皓様が力を込めると、あっさりと押し負けて、私は後ろによろめいてしまう。

「きゃっ……!」
「それは判断ミスだ。多くの札鬼がそうだが、体格に勝る相手への力押しはやめておけ」
「うう……はい……」

 確かに、その通りだった。一本取りたいという気持ちが強すぎて、冷静さを欠いていた。

「も、もう一度やりましょう! 今度こそ……」
「無理をするな。今日はここまでだ」

 皓様に止められて、私は形を落とす。
 まだ全然納得のいく一撃が出せていないのに……。

「私なら、まだやれますよ……?」
「君の体が心配だ。汗もかいているし、息も上がっている」

 言われてみれば、確かに額に汗が滲んでいた。
 午後の陽射しを受けての修行は、思った以上に体力を消耗する。
 剣道と違い、皓様との訓練はかなり激しく体を動かす必要がある……。気づいた頃には、いつもヘトヘトだった。

「風邪を引くといけない」

 皓様は自分の羽織を脱ぐと、私の肩に掛けてくれた。
 男性物の羽織は私には大きすぎて、まるで子供が大人の服を着ているようだ。

「あ、ありがとうございます……」

 羽織からは皓様の匂いがして、なんだかどきどきしてしまう。
 上品な香の匂いと、どこか凛とした冷たさのような香り。

 皓様が私の頭に、そっと手を置いた。その手は冷たいけれど、とても優しい。

「君の努力は見てきた。動きも異能も、少しずつ上達してきている。そう焦るな」
「……はい」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 認めてもらえている。皓様に、私の頑張りを見てもらえている。
 それだけで、今までの修行も報われたような気がした。