その夜、私は月読家の月見台に呼ばれた。
回廊を歩きながら、胸が高鳴る。
皓様と二人きりで話すのは、やはり緊張してしまう。
彼は私を助けてくれた恩人。だけど、私は何も与えることができていない。その負い目もあるのかもしれない。
月見台は、屋敷の最も高い場所にあった。
四方が開け放たれ、帝都の夜景が一望できる。
満月ではないけれど、三日月が静かに夜空に浮かんでいた。
「来たか」
皓様は欄干にもたれて、月を見上げていた。
黒い着物姿が、夜の闇に溶け込むようで、それでいて月光を受けて美しい。
「はい。お呼びでしょうか」
「ああ。大切な話がある」
皓様が振り返る。
その表情は、いつもより真剣だった。
私は皓様の隣に立つ。
夜風が頬を撫でて、少し肌寒い。
「詩織。君の今後について、決めなければならない」
「……はい」
覚悟はしていた。
もう如月家には戻れない。これからどう生きていくのか、考えなければならない。
「君には二つの道がある」
皓様は夜空を見上げたまま言った。
「一つは、花札使いとして生きる道。桜花の力を受け継ぐ者として、札鬼と戦い、人々を守る」
「……はい」
「もう一つは、その力を封印し、普通の人間として生きる道だ」
私は驚いて皓様を見た。
「封印……できるんですか?」
「月読家には、その術がある。君が望むなら、花札の力を封じ、一般人として平穏に暮らすことも可能だ」
皓様の声は、感情を押し殺したように平坦だった。
(皓様は、どちらを望んでいるんだろう……?)
横顔を見つめるが、その表情からは何も読み取れない。
「ただし」
皓様が私を見た。
月光を映した紫色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。口元が軽く弧を描く。
「どちらを選んでも、君は私の花嫁だ」
「え……」
予想外の言葉に、心臓が跳ねる。
「そ、それは……どういう……」
「言葉通りの意味だ。花札使いとして生きようと、普通に生きようと、君は月読家に嫁ぐことになる。私の妻として」
皓様の声は、有無を言わせぬ響きがあった。
なんだかんだ、いつも通りの皓様だとも言える……。
「影沼の残党は、まだ君を狙っている。桜花の血を引く君を、放っておくはずがない」
「……」
「月読家の庇護があれば、誰も君に手出しはできない。そして、当主の妻となれば、その加護は絶対的なものになる」
確かに、理屈は分かる。
でも……。
「つまり、私を守るために結婚する、ということですか……?」
私の声が、少し寂しげになってしまった。
皓様はそれに気づいたのか、表情を和らげる。
「それだけではない」
「え?」
「君を初めて見た時から、決めていた」
皓様が一歩、私に近づく。
「美しく、清らかで、それでいて強い。自分を犠牲にしても他者を守ろうとする、稀有な心を持つ女性」
「そんな……私は……」
「君は自分を過小評価しすぎだ」
皓様の手が、私の頬に触れた。
冷たいはずの手が、今は温かい。
「君が私を拒むなら、形だけの婚姻でも構わない。君を縛るつもりはない」
「……」
「だが、もし君が望むなら……」
皓様の声が、少し掠れた。
「私の妻になってほしい」
その言葉に、胸が熱くなる。
(皓様のような方が、私を……)
月光の下で見つめ合う。
皓様の瞳に、確かな想いが宿っているのがわかった。
私は、深呼吸をした。
そして、しっかりと皓様を見つめ返す。
「私は、花札使いとして生きます」
「……そうか」
皓様の声に、少し落胆が混じったような気がした。
もしかして、普通の生活を選んでほしかったのだろうか。
「あ、あの。それだけじゃないんです。私は……」
私は慌てて続ける。顔が熱くなる。
でも、今言わなければ、きっと後悔する。
「私は、あなたの本当の花嫁になりたいんです」
皓様の目が、大きく見開かれた。
「本当の……?」
「あなたに助けられて、守られて……初めて、大切にされることの温かさを知りました」
震える声で、想いを紡ぐ。自分の手を握りしめる。
「形だけなんて……嫌です。それに、ただ与えられるだけなのも嫌なんです。
私は、あなたの隣で、この力を正しく使いたい。あなたと一緒に戦いたい。そして……きちんと、皓様のお役に立ちたい」
「……!」
予想外のことを言われた、かのように皓様は硬直している。
……私はこの数日とはいえ、皓様の気持ちは少しだけ理解できていた。
皓様の目的はきっと、私の血。
『桜に幕』という特殊な異能を囲い込むために、私を守ってくれている。
だけど、そんなものだけを評価されるのは嫌だ。
私は、私自身の価値を皓様に認めてほしい。
「花札使いは……危険だぞ」
「分かっています。でも……」
私は皓様の手に、自分の手を重ねた。
「私も、あなたを守れるくらい強くなりたいんです」
皓様はそれからしばらく固まっていたが、ふっと表情を緩める。
「私は軍人であり、帝都の守護者とも呼ばれている。この異能で陰に日向に、幾多の困難を解決してきた」
「…………」
「その私を、君が守ると?」
「はい。そのくらい、強くなってみせます」
覚悟を問うような、皮肉めいた質問。
その後で彼は今まで見たことのない、優しい笑顔を浮かべた。
「……分かった。では、共に歩もう」
「はい」
皓様が私の手を取り、そっと唇づける。
古風な仕草に、顔から火が出そうになる。
「そうと決まれば訓練が待っている。花札使いの道は険しいぞ」
「覚悟しています」
「途中で音を上げても、もう遅いぞ」
「大丈夫です。幼い頃から、剣道で鍛えてましたから!」
私の言葉に、皓様が小さく笑った。
「そうか。では、明日から始めようか。花嫁修業を」
「……花嫁修業じゃなくて、花札使いの修業ですよね……?」
皓様の悪戯っぽい笑顔に、私も釣られて笑ってしまう。
月見台に、二人の笑い声が響いた。
月が、祝福するように優しい光を投げかけている。
春の夜風が、桜の香りを運んでくる。
それは、新しい季節の始まりを告げているようだった。
■
詩織を見送った後、俺は一人月見台に残った。
欄干に寄りかかり、夜空を見上げる。
(「私も、あなたを守れるくらい強くなりたい」か……)
詩織の言葉が、まだ耳に残っている。
正直、予想外だった。
彼女は、桜花の血を引く者。失われたはずの「桜に幕」の力を持つ者。
月読家にとって有用な、生きた霊具だ。
妹を見捨てられない甘さ。力もなく札鬼に向かっていく無謀さ。
それを見て、おそらくこのままでは食い物にされ消えてしまうであろう灯火を、守ってやるべきだと思った。
だが――
(まさか、俺を守りたいなどと言う女が現れるとはな)
喉奥の笑いが漏れる。月読家の跡取りとして生まれた俺は、常に守る側だった。
帝都の守護者。軍人。魔を祓う者。人々を導く者。
それが当然で、疑問に思ったこともなかった。
女たちは俺の力と地位に憧れ、寵愛を求めてきた。
男たちは俺の実力を恐れ、あるいは利用しようとした。
誰も、俺自身を守ろうなどとは思わなかった。
それなのに、あの小さな少女は――
(「きちんと、皓様のお役に立ちたい」)
震える声で、しかし確かな決意を持って、そう言った。
血筋でも、力でもなく、俺自身の役に立ちたいと。
……馬鹿なことを言う。
俺の役に立つということは、危険と隣り合わせだということを理解しているのか。
札鬼との戦い、影沼の残党との抗争、そして十二家の複雑な関係。
全てに巻き込まれることになる。
だが同時に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(これは……なんだ?)
今まで感じたことのない感情。
守りたいという欲求とは違う、もっと深い何か。
詩織の顔を思い出す。
決意に満ちた瞳。小さく震える手。それでも真っ直ぐに俺を見つめる姿。
俺は小さく笑った。
(花嫁、か。最初はただの方便だったんだが)
その求婚は桜花の血を確実に手に入れ、守るための手段だった。
窮地にある彼女が、この月読という家に入る。それを拒めるはずがないと。
……だが今は違う。
(本当に、俺の妻にしたくなってきた)
我ながら欲深いことを考えるものだと自嘲する。
(明日から忙しくなるな)
俺は月を見上げながら、口元を緩めた。
花札使いとしての訓練。
基礎体力、霊力の制御、実戦技術。
全てを一から教えなければならない。
普通なら面倒だと思うところだ。
だが今は、不思議と楽しみだった。
詩織がどんな顔をして訓練に臨むのか。
どれだけ成長するのか。
そして、いつか本当に俺の隣に立てるようになるのか。
(待っていろ、詩織)
俺は踵を返し、月見台を後にした。
明日の訓練メニューを考えながら歩く。
厳しくしよう。甘やかしてはいけない。
彼女が望んだ道なのだから。
だが同時に、大切に育てよう。
愛を与えられなかった少女のために。
■
それから、一ヶ月後。
私は久しぶりに泰平高等學校に登校していた。
月読家での訓練は続いているけれど、学業も疎かにはできない。
ある程度の護身もできる今、学校に通うことを皓様も許可してくれた。
「詩織〜っ、おはよう!」
「きゃっ……お、おはよう美咲ちゃん」
同じ組の美咲ちゃんが、以前と同じく明るく挨拶してくれる。
彼女は、前から私を心配したりしながらもいつでも明るく接してくれていた。私の数少ない友達の一人だ。
「お茶会で変な騒ぎかあったって噂のあと、詩織が学校に来なくなるんだもん! 心配してたんだよ〜!」
「ご、ごめんね……ありがとう。ちょっと体調が悪かっただけだから……」
「詩織、武道やってる割に細いもんね。もっとちゃんと食べなよ!」
「あはは……」
確かに、以前は食事の量も足りなかったし細かったかもしれない。
……でも最近はむしろ、その……ちょっと太――いや、考えるのはやめておこう……。
(皓様があれもこれもと食べさせてくださるから……余計な肉がつかないようにしないと……)
ここ一ヶ月ほどの月読家での様子が頭の片隅によぎる。
そんなことより……。美咲は何か、周りをはばかるようにしてひそひそと話す。
「ところで、聞いた? 三年生の先輩がまた一人、登校してこないんだって」
「え?」
美咲の表情が曇った。なにか恐ろしいものを語るときの顔だ。
「もう三人目よ。みんな、ある日突然来なくなって……」
「体調不良とか、家の都合とか?」
「それが違うみたいなの。噂では、行方不明らしいって。家族も、どこに行ったか分からないみたい」
背筋に冷たいものが走った。
行方不明……それも、同じ學園の生徒が立て続けに?
「それだけじゃないの」
美咲は周りを見回してから、さらに声を小さくした。
「行方不明になった先輩たち、みんな同じ夢を見てたらしいの」
「夢?」
「蝶の夢。紫色の、綺麗な蝶がひらひらと舞う夢」
――紫色の、蝶。
その言葉に、私はなにか嫌なものを感じていた。
一ヶ月前、撫子が使ったという『牡丹に蝶』の呪詛花札。
あれも、蝶が描かれているもの……。
「それで、その夢を見た後、みんな変な行動をするようになったって」
「変な行動?」
「うわ言みたいに『綺麗……』とか『もっと近くで見たい』って呟いたり、夜中に出歩こうとしたり」
美咲の話を聞きながら、嫌な予感が膨らんでいく。
これはもしかすると……呪詛花札の事件、なのかもしれない。
とはいえ、撫子はあの一件以来花札は全て取り上げられたと聞いた。犯人は彼女ではないだろうけど……。
「詩織、どうしたの? 顔色悪いよ」
「あ、ううん。大丈夫」
私は無理に笑顔を作った。
でも、心臓は早鐘のように打っている。
――その時、廊下から悲鳴が聞こえた。
「きゃあああ!」
「どうしたの!? 何事ですか!」
数名の生徒たちが慌てて廊下に出ていく。その後を追うように、私と美咲もそろりと廊下を覗く。
そこには、二年生の女子生徒が一人、呆然と立ち尽くしていた。
「ど、どうしたの?」
美咲が声をかけるが、その生徒は虚ろな目でどこかを見つめている。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた。
「綺麗な蝶……私も、行かなきゃ……」
その瞬間、生徒の瞳に一瞬、紫色の光が宿ったような気がした。
「待って!」
私が彼女の手を掴むが、生徒はふらふらと歩き出す。
まるで、見えない何かに導かれるように。
(……仕方ない)
目を閉じ、私は内なる力の流れを探る。
すると、私と彼女の繋がれた手の中に、暖かな桜色の光が一瞬灯る……。
「……あれ? 私……」
すると女子生徒は気を取り戻したのか、辺りを見回す。
自分が何故ここにいるのかわからない様子だった。
私は重く息を吐く。
今のは私の力の一端。まだまだ制御は未熟だが、少しずつ使えるようになってきているようだ。
(でも、まずは皓様に報告しなければ……)
震える手を握りしめる。これは間違いなく、呪詛花札絡みの事件。
私一人で解決するのはまだ無理だ。少し歯がゆいが、皓様に手を貸していただかなければ……。
学校に、新たな脅威が迫っていた。
回廊を歩きながら、胸が高鳴る。
皓様と二人きりで話すのは、やはり緊張してしまう。
彼は私を助けてくれた恩人。だけど、私は何も与えることができていない。その負い目もあるのかもしれない。
月見台は、屋敷の最も高い場所にあった。
四方が開け放たれ、帝都の夜景が一望できる。
満月ではないけれど、三日月が静かに夜空に浮かんでいた。
「来たか」
皓様は欄干にもたれて、月を見上げていた。
黒い着物姿が、夜の闇に溶け込むようで、それでいて月光を受けて美しい。
「はい。お呼びでしょうか」
「ああ。大切な話がある」
皓様が振り返る。
その表情は、いつもより真剣だった。
私は皓様の隣に立つ。
夜風が頬を撫でて、少し肌寒い。
「詩織。君の今後について、決めなければならない」
「……はい」
覚悟はしていた。
もう如月家には戻れない。これからどう生きていくのか、考えなければならない。
「君には二つの道がある」
皓様は夜空を見上げたまま言った。
「一つは、花札使いとして生きる道。桜花の力を受け継ぐ者として、札鬼と戦い、人々を守る」
「……はい」
「もう一つは、その力を封印し、普通の人間として生きる道だ」
私は驚いて皓様を見た。
「封印……できるんですか?」
「月読家には、その術がある。君が望むなら、花札の力を封じ、一般人として平穏に暮らすことも可能だ」
皓様の声は、感情を押し殺したように平坦だった。
(皓様は、どちらを望んでいるんだろう……?)
横顔を見つめるが、その表情からは何も読み取れない。
「ただし」
皓様が私を見た。
月光を映した紫色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。口元が軽く弧を描く。
「どちらを選んでも、君は私の花嫁だ」
「え……」
予想外の言葉に、心臓が跳ねる。
「そ、それは……どういう……」
「言葉通りの意味だ。花札使いとして生きようと、普通に生きようと、君は月読家に嫁ぐことになる。私の妻として」
皓様の声は、有無を言わせぬ響きがあった。
なんだかんだ、いつも通りの皓様だとも言える……。
「影沼の残党は、まだ君を狙っている。桜花の血を引く君を、放っておくはずがない」
「……」
「月読家の庇護があれば、誰も君に手出しはできない。そして、当主の妻となれば、その加護は絶対的なものになる」
確かに、理屈は分かる。
でも……。
「つまり、私を守るために結婚する、ということですか……?」
私の声が、少し寂しげになってしまった。
皓様はそれに気づいたのか、表情を和らげる。
「それだけではない」
「え?」
「君を初めて見た時から、決めていた」
皓様が一歩、私に近づく。
「美しく、清らかで、それでいて強い。自分を犠牲にしても他者を守ろうとする、稀有な心を持つ女性」
「そんな……私は……」
「君は自分を過小評価しすぎだ」
皓様の手が、私の頬に触れた。
冷たいはずの手が、今は温かい。
「君が私を拒むなら、形だけの婚姻でも構わない。君を縛るつもりはない」
「……」
「だが、もし君が望むなら……」
皓様の声が、少し掠れた。
「私の妻になってほしい」
その言葉に、胸が熱くなる。
(皓様のような方が、私を……)
月光の下で見つめ合う。
皓様の瞳に、確かな想いが宿っているのがわかった。
私は、深呼吸をした。
そして、しっかりと皓様を見つめ返す。
「私は、花札使いとして生きます」
「……そうか」
皓様の声に、少し落胆が混じったような気がした。
もしかして、普通の生活を選んでほしかったのだろうか。
「あ、あの。それだけじゃないんです。私は……」
私は慌てて続ける。顔が熱くなる。
でも、今言わなければ、きっと後悔する。
「私は、あなたの本当の花嫁になりたいんです」
皓様の目が、大きく見開かれた。
「本当の……?」
「あなたに助けられて、守られて……初めて、大切にされることの温かさを知りました」
震える声で、想いを紡ぐ。自分の手を握りしめる。
「形だけなんて……嫌です。それに、ただ与えられるだけなのも嫌なんです。
私は、あなたの隣で、この力を正しく使いたい。あなたと一緒に戦いたい。そして……きちんと、皓様のお役に立ちたい」
「……!」
予想外のことを言われた、かのように皓様は硬直している。
……私はこの数日とはいえ、皓様の気持ちは少しだけ理解できていた。
皓様の目的はきっと、私の血。
『桜に幕』という特殊な異能を囲い込むために、私を守ってくれている。
だけど、そんなものだけを評価されるのは嫌だ。
私は、私自身の価値を皓様に認めてほしい。
「花札使いは……危険だぞ」
「分かっています。でも……」
私は皓様の手に、自分の手を重ねた。
「私も、あなたを守れるくらい強くなりたいんです」
皓様はそれからしばらく固まっていたが、ふっと表情を緩める。
「私は軍人であり、帝都の守護者とも呼ばれている。この異能で陰に日向に、幾多の困難を解決してきた」
「…………」
「その私を、君が守ると?」
「はい。そのくらい、強くなってみせます」
覚悟を問うような、皮肉めいた質問。
その後で彼は今まで見たことのない、優しい笑顔を浮かべた。
「……分かった。では、共に歩もう」
「はい」
皓様が私の手を取り、そっと唇づける。
古風な仕草に、顔から火が出そうになる。
「そうと決まれば訓練が待っている。花札使いの道は険しいぞ」
「覚悟しています」
「途中で音を上げても、もう遅いぞ」
「大丈夫です。幼い頃から、剣道で鍛えてましたから!」
私の言葉に、皓様が小さく笑った。
「そうか。では、明日から始めようか。花嫁修業を」
「……花嫁修業じゃなくて、花札使いの修業ですよね……?」
皓様の悪戯っぽい笑顔に、私も釣られて笑ってしまう。
月見台に、二人の笑い声が響いた。
月が、祝福するように優しい光を投げかけている。
春の夜風が、桜の香りを運んでくる。
それは、新しい季節の始まりを告げているようだった。
■
詩織を見送った後、俺は一人月見台に残った。
欄干に寄りかかり、夜空を見上げる。
(「私も、あなたを守れるくらい強くなりたい」か……)
詩織の言葉が、まだ耳に残っている。
正直、予想外だった。
彼女は、桜花の血を引く者。失われたはずの「桜に幕」の力を持つ者。
月読家にとって有用な、生きた霊具だ。
妹を見捨てられない甘さ。力もなく札鬼に向かっていく無謀さ。
それを見て、おそらくこのままでは食い物にされ消えてしまうであろう灯火を、守ってやるべきだと思った。
だが――
(まさか、俺を守りたいなどと言う女が現れるとはな)
喉奥の笑いが漏れる。月読家の跡取りとして生まれた俺は、常に守る側だった。
帝都の守護者。軍人。魔を祓う者。人々を導く者。
それが当然で、疑問に思ったこともなかった。
女たちは俺の力と地位に憧れ、寵愛を求めてきた。
男たちは俺の実力を恐れ、あるいは利用しようとした。
誰も、俺自身を守ろうなどとは思わなかった。
それなのに、あの小さな少女は――
(「きちんと、皓様のお役に立ちたい」)
震える声で、しかし確かな決意を持って、そう言った。
血筋でも、力でもなく、俺自身の役に立ちたいと。
……馬鹿なことを言う。
俺の役に立つということは、危険と隣り合わせだということを理解しているのか。
札鬼との戦い、影沼の残党との抗争、そして十二家の複雑な関係。
全てに巻き込まれることになる。
だが同時に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(これは……なんだ?)
今まで感じたことのない感情。
守りたいという欲求とは違う、もっと深い何か。
詩織の顔を思い出す。
決意に満ちた瞳。小さく震える手。それでも真っ直ぐに俺を見つめる姿。
俺は小さく笑った。
(花嫁、か。最初はただの方便だったんだが)
その求婚は桜花の血を確実に手に入れ、守るための手段だった。
窮地にある彼女が、この月読という家に入る。それを拒めるはずがないと。
……だが今は違う。
(本当に、俺の妻にしたくなってきた)
我ながら欲深いことを考えるものだと自嘲する。
(明日から忙しくなるな)
俺は月を見上げながら、口元を緩めた。
花札使いとしての訓練。
基礎体力、霊力の制御、実戦技術。
全てを一から教えなければならない。
普通なら面倒だと思うところだ。
だが今は、不思議と楽しみだった。
詩織がどんな顔をして訓練に臨むのか。
どれだけ成長するのか。
そして、いつか本当に俺の隣に立てるようになるのか。
(待っていろ、詩織)
俺は踵を返し、月見台を後にした。
明日の訓練メニューを考えながら歩く。
厳しくしよう。甘やかしてはいけない。
彼女が望んだ道なのだから。
だが同時に、大切に育てよう。
愛を与えられなかった少女のために。
■
それから、一ヶ月後。
私は久しぶりに泰平高等學校に登校していた。
月読家での訓練は続いているけれど、学業も疎かにはできない。
ある程度の護身もできる今、学校に通うことを皓様も許可してくれた。
「詩織〜っ、おはよう!」
「きゃっ……お、おはよう美咲ちゃん」
同じ組の美咲ちゃんが、以前と同じく明るく挨拶してくれる。
彼女は、前から私を心配したりしながらもいつでも明るく接してくれていた。私の数少ない友達の一人だ。
「お茶会で変な騒ぎかあったって噂のあと、詩織が学校に来なくなるんだもん! 心配してたんだよ〜!」
「ご、ごめんね……ありがとう。ちょっと体調が悪かっただけだから……」
「詩織、武道やってる割に細いもんね。もっとちゃんと食べなよ!」
「あはは……」
確かに、以前は食事の量も足りなかったし細かったかもしれない。
……でも最近はむしろ、その……ちょっと太――いや、考えるのはやめておこう……。
(皓様があれもこれもと食べさせてくださるから……余計な肉がつかないようにしないと……)
ここ一ヶ月ほどの月読家での様子が頭の片隅によぎる。
そんなことより……。美咲は何か、周りをはばかるようにしてひそひそと話す。
「ところで、聞いた? 三年生の先輩がまた一人、登校してこないんだって」
「え?」
美咲の表情が曇った。なにか恐ろしいものを語るときの顔だ。
「もう三人目よ。みんな、ある日突然来なくなって……」
「体調不良とか、家の都合とか?」
「それが違うみたいなの。噂では、行方不明らしいって。家族も、どこに行ったか分からないみたい」
背筋に冷たいものが走った。
行方不明……それも、同じ學園の生徒が立て続けに?
「それだけじゃないの」
美咲は周りを見回してから、さらに声を小さくした。
「行方不明になった先輩たち、みんな同じ夢を見てたらしいの」
「夢?」
「蝶の夢。紫色の、綺麗な蝶がひらひらと舞う夢」
――紫色の、蝶。
その言葉に、私はなにか嫌なものを感じていた。
一ヶ月前、撫子が使ったという『牡丹に蝶』の呪詛花札。
あれも、蝶が描かれているもの……。
「それで、その夢を見た後、みんな変な行動をするようになったって」
「変な行動?」
「うわ言みたいに『綺麗……』とか『もっと近くで見たい』って呟いたり、夜中に出歩こうとしたり」
美咲の話を聞きながら、嫌な予感が膨らんでいく。
これはもしかすると……呪詛花札の事件、なのかもしれない。
とはいえ、撫子はあの一件以来花札は全て取り上げられたと聞いた。犯人は彼女ではないだろうけど……。
「詩織、どうしたの? 顔色悪いよ」
「あ、ううん。大丈夫」
私は無理に笑顔を作った。
でも、心臓は早鐘のように打っている。
――その時、廊下から悲鳴が聞こえた。
「きゃあああ!」
「どうしたの!? 何事ですか!」
数名の生徒たちが慌てて廊下に出ていく。その後を追うように、私と美咲もそろりと廊下を覗く。
そこには、二年生の女子生徒が一人、呆然と立ち尽くしていた。
「ど、どうしたの?」
美咲が声をかけるが、その生徒は虚ろな目でどこかを見つめている。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた。
「綺麗な蝶……私も、行かなきゃ……」
その瞬間、生徒の瞳に一瞬、紫色の光が宿ったような気がした。
「待って!」
私が彼女の手を掴むが、生徒はふらふらと歩き出す。
まるで、見えない何かに導かれるように。
(……仕方ない)
目を閉じ、私は内なる力の流れを探る。
すると、私と彼女の繋がれた手の中に、暖かな桜色の光が一瞬灯る……。
「……あれ? 私……」
すると女子生徒は気を取り戻したのか、辺りを見回す。
自分が何故ここにいるのかわからない様子だった。
私は重く息を吐く。
今のは私の力の一端。まだまだ制御は未熟だが、少しずつ使えるようになってきているようだ。
(でも、まずは皓様に報告しなければ……)
震える手を握りしめる。これは間違いなく、呪詛花札絡みの事件。
私一人で解決するのはまだ無理だ。少し歯がゆいが、皓様に手を貸していただかなければ……。
学校に、新たな脅威が迫っていた。
